25話:古代樹海とコールマン
ブライズ・ノートン空軍基地の第1格納庫。その奥に仮設された作戦会議室に招集されたのは、英軍と英政府の首脳陣だった。
内閣府の首席調整官が、ネクタイを緩めたまま硬い表情で口火を切った。
調整官が卓上に置かれた紙のファイルを押し開いた。そこに挟まれていたのは、ソールズベリー平原の白いチョーク丘陵を抉るように口を開けた、巨大な横穴の写真だった。
「これだ。ソールズベリー平原演習場の外縁部に突如現れた空洞――我々は『ソールズベリー・アノマリー』と呼称している」
低く唸るような声で言葉を引き継いだのは、陸軍総参謀長だった。胸元に階級章を着けた歴戦の将官だが、その眼窩は連日の徹夜で深く窪んでいる。
「穴の周囲に部隊を配置し、装甲車と土嚢バリケードで主要道を遮断している。ダンジョンの周辺から近隣集落へ広がる未知の因子――感染者を、検問と警戒線で力ずくで押し留めている状態だ。だが――」
総参謀長は拳でテーブルを叩いた。
「現場はとっくに肉体と精神の限界を超えている。密閉防護服を着けたまま泥濘の中で警戒を強いられ、倒れ込む兵が続出している。何より深刻なのは、射殺した感染者たちの死体処理だ。二次感染を防ぐために完全焼却しなければならないが、移動式焼却炉の処理能力を上回り、燃やしきれない汚染遺体が山積みになっている。ただこの封鎖を維持しているだけで1日50万ポンド(約1億円)の実費が消え、それ以上に現場の兵士がすり潰されている」
常設統合作戦本部のバーンズ中将が、腕を組んだまま重い声で補足を加えた。
「兵士たちの精神も限界だ。昨日まで同じ街で暮らしていた住民や、先に感染した仲間を撃ち殺し、その遺体を袋に詰める作業が延々と続いている。このままでは、予算が尽きる前に現場が壊れ、封鎖線が内側から自壊する。一刻も早く横穴の奥にある元凶を叩かねばならない」
「穴の中はどうなっているのですか?」
唯の問いかけに、白衣姿の女性――防衛科学技術研究所の最高科学責任者が、数枚の写真をテーブルの上へ滑らせる。粒子が荒くブレたその写真には、鬱蒼とした太古の巨木と、足元を覆う濃い霧が捉えられていた。
「最初に突入した小隊のうち、重傷を負って奇跡的に這い出してきた兵士1名の証言と、彼のカメラに残っていた記録です。内部は単なる地下洞窟ではなく、外の平原を飲み込んだかのような広大な古代原生林が広がっています。そして、空間を満たす正体不明の濃霧と、調査隊を汚染した未知の因子――」
科学責任者は険しい表情で言葉を濁し、息を詰めた。
調整官が身を乗り出し、響の目をまっすぐに見据える。
「出口のない泥沼の中で、兵士の命と精神をすり減らし、やがて防衛線が決壊して壊滅的なパンデミックが全土へ解き放たれるのを待つだけの状況だ」
総参謀長が深く息を吐き、静かに頭を下げた。
「大英帝国陸軍の威信など、平原の泥の中に捨て去った。我が軍が求めるのは面子ではない、確実な結果だ。諸君の特異な戦闘能力、環境への耐性、そして何よりその突破力に、この国の命運を預けたい。外縁の蓋は我が軍が死守する。諸君の手で穴の奥へ踏み込み、元凶を絶ち切ってほしい」
張り詰めた空気の中、響はテーブルの上の写真を見つめ、静かに頷いた
低く垂れ込めた灰色の雲を引き裂き、航空自衛隊のC-2輸送機がブライズ・ノートン空軍基地の主滑走路へと車輪を叩きつけた。
逆噴射の轟音とともに速度を落とし、雨煙を巻き上げながら誘導路へと滑り込んでいく。
機内後部のカーゴベイでシートベルトを解除した響は、軽く首を回して筋肉の強張りを解いた。傍らでは唯が長距離移動の疲労も見せず背嚢を引き寄せ、通訳兼連絡員として同行した葵も、書類用端末を収めたブリーフケースを手に立ち上がった。
油圧の鈍い作動音とともに、巨大な後部ランプドアがゆっくりと開き、英国特有の冷たく湿った秋雨の空気が機内へと流れ込んでくる。
タラップの真下には、ワイパーを激しく動かす数台の黒塗りの軍用四輪駆動車と、雨具を着込んだ英空軍の兵員たちが直立して待機していた。
響たちが泥混じりのアスファルトに足を下ろすと、出迎えた将校が即座に傘も差さずに直立し、鋭い敬礼を送ってきた。
「Welcome to the United Kingdom, Mr. Hibiki. Follow me, please.」
隣に立った葵が、傘を打つ雨音に声を張り上げて即座に耳打ちする。
「『英国へようこそ、響さん。こちらへどうぞ』と言っています。出迎えの儀礼はすべて省略し、作戦室へ直行するとのことです」
「分かった。案内してくれ」
響が短く返すと、将校は頷き、一行を先頭の車両へと促した。
車列は基地内の誘導路を水飛沫を上げて疾走し、巨大な第1格納庫の巨大なシャッター前で停車した。建物内部は整備用の照明が冷たく光り、奥にはローターを折りたたんだチヌーク大型輸送ヘリが数機、いつでも発進できる状態で燃料補給を受けている。
その格納庫の最奥、航空機の爆音を遮断するために分厚い仮設の吸音パーテーションで囲われた一角のドアを、将校が無言で押し開けた。
パーテーションの内側に設けられた作戦会議室に入ると、外の喧騒は一変して重苦しい静寂へと沈んだ。
部屋の中央に据えられた長テーブルの向こうで、平時の儀礼服ではなく、泥染みのついた実戦用防寒野戦服を着込んだ英軍と英政府の首脳陣が一斉に視線を向け、張り詰めた空気の中で立ち上がった。
長テーブルを挟んで向かい合った内閣府の首席調整官が、硬い表情のまま口火を切った。形式的な挨拶や歓迎の言葉を一切省き、卓上のファイルを押し開いてソールズベリー平原のチョーク丘陵に穿たれた巨大な横穴の写真を示す。
続いて陸軍総参謀長が、充血した目でテーブルを叩きながら窮状を訴え、防衛科学技術研究所の最高科学責任者が、唯一這い出してきた兵士の写真記録を提示した。
隣に立つ葵が、その早口で重苦しい英語を一言も漏らさず、的確に響の耳元へ伝えていく。
「――外縁の道路を装甲車と土嚢で塞ぎ、ダンジョンの周辺から近隣集落へ広がる未知の因子――感染者を、検問と警戒線で力ずくで押し留めている状態です。ですが密閉防護服での連続警戒で兵士の肉体も精神も限界を迎えています。射殺した感染者の死体処理が追いつかず、移動式焼却炉の能力を超えて遺体袋が山積みになっているとのことです。この封鎖維持だけで毎日50万ポンド(約1億円)が消え、現場の兵士がすり潰されています。そして穴の内部は広大な古代原生林で、未知の因子によってガスマスクの吸収缶は数時間しか持たず、強い磁気異常で無線もGPSも通じない……正規軍では手も足も出ない、と仰っています」
首脳陣の切迫した視線が一斉に響へと集まる中、葵の説明を聞き終えた響は、テーブルの上の写真を一瞥して平然と言い放った。
「葵、向こうに確認してくれ。そのガスマスクってのは、本当に絶対に必要なものなのか? 単刀直入に聞くが、マスクを着けずにあの穴の中に入ったやつはいるのか」
響の飾り気のない問いを、葵が即座に英語へと訳して首脳陣にぶつけた。
作戦会議室の空気が一瞬で凍りつき、首席調整官と総参謀長が呆然と目を見開いた。白衣の最高科学責任者に至っては、信じられないものを見るような目を向け、神経質に眼鏡のブリッジを押し上げた。
葵が科学責任者の早口な反論を聞き取り、困惑を滲ませながら響へ向き直る。
「『何を言っているのか。最初の突入班はCBRN(化学・生物・放射性物質・核)対応の標準規定に基づき、密閉防護服と全面型ガスマスクを着用して突入した。未知の胞子が漂うバイオハザード環境へ、生身の素顔で飛び込むような無謀な真似を軍が許可するはずがない』――と、強い口調で返されました」
「やっぱりそうか。誰も素顔で吸っちゃいないんだな」
響は肩をすくめ、テーブルの上の不鮮明な原生林の写真を指先で突いた。
「要するに、規定通りに全員ガスマスクを被せて突っ込ませたわけだ。視界は狭まる、息は上がる、足元も見えない。そんな状態で濃霧の原生林に入れば、奇襲を受けて全滅するのは当たり前だ」
響は写真を指先で弾き、首脳陣を見据えた。
「確認だが、中に入ったやつで、空気を吸った瞬間に即死したやつはいるのか? いないだろ。未知の穴だからとビビって、毒ガスだ、バイオハザードだと勝手に決めつけてマスクを被り、視野と機動力を自分から捨ててやられただけだ。ただの霧と土の匂いがするだけの森なら、ガスマスクなんて邪魔なゴミでしかない」
響は腕を組み、テーブルの向こうの首脳陣を一人ずつ見据えながら口を開いた。
「俺たちはこれまで、国内外問わず様々なダンジョンに潜ってきた。中にはここ以上に深い霧や、得体の知れない胞子が漂う階層もあったが、そんなものはただの環境だ」
そこで響は、隣に立つ唯を親指で無造作に指し示した。
「現にここにいる唯なんて、戦闘能力特化の変態だが、生身の人間だ。それでもガス中毒だの呼吸困難だので倒れたことなんざ一度もない。ガスマスクなんざ着けずに普通に吸って、普通に敵を叩き潰してきた」
突然の指名に、唯がぎょっとして目を剥いた。顔を真っ赤にして響の肘を小突く。
「な、何言ってるんですか響さん! こんな真面目な作戦会議の場で、そんな冗談は容赦してください! 誰が戦闘狂の変態ですか!」
二人の遠慮のないやり取りに英国側が呆気に取られる中、葵がひとつ咳払いを挟み、響の乱暴な表現を「実績に基づいた環境適応能力の証明」へと完璧に意訳して英国側へ伝えた。
それを聞いた最高科学責任者が、眉根を寄せて息を呑んだ。
「つまり――我々が恐れているあの霧は、防護服を義務付けるほどの毒性すら持たないと?」
葵が短くその問いを伝えると、響は首脳陣に向けて即座に切り捨てた。
「そうだ。毒でもない霧に怯えて手足を縛り、無駄なフィルターの寿命に怯えて自滅していただけだ。最初からガスマスクなんて要らない。身軽な装備で突っ込んで、元凶を直接叩き潰す。それだけで終わる話だ」
「ついでに葵、向こうに聞いてみてくれ。その部隊が使っていた吸収缶の型式は何だ?」
響がそう促すと、葵は小さく頷き、首脳陣へ向けて英語で問いかけた。
質問の意図を測りかねたように総参謀長が一瞬眉をひそめたが、すぐに防衛科学技術研究所の最高科学責任者が手元のバインダーをめくり、硬い声で答えた。
「英軍現行配備のGSRに装着するコンビネーションキャニスターだ。A2B2E2K2P3――有機ガス、無機ガス、亜硫酸ガス、アンモニアに対応する多機能吸収層に、P3の微粒子フィルターを重ねた複合型カートリッジだ。戦場を想定した標準的なCBRN装備として、これ以上の選択肢はない」
葵が科学責任者の回答を通訳し終えると、響は鼻で笑って切り捨てた。
「つまり、その吸収缶は既知の化学兵器や毒ガスを想定して作られたものに過ぎない。未知のウイルスや異界の胞子に特化した専用品ですらないってことだ」
科学責任者が反論しようと口を開きかけたが、響はそれを手で制して一刀両断にした。
「正体すら分かっていないものに、既存の規格品を適当に当てはめて『最高峰の防護』だと安心した気になっていただけだ。そんなもの、未知の病原体に対しては何の盾にもならない。無意味だ」
響が首脳陣をばっさりと切り捨てる横で、唯が身を寄せて小声で囁いた。
「響さん、なんか専門家ぶってすごくまともなことを言ってますけど……本当は適当なハッタリで誤魔化していませんか?」
「おい、人前でバラすな。勘と経験則だが、結果的に筋は通ってるだろ」
響が口元だけを動かして低く返すと、唯は「やっぱり……」と呆れたように半眼になった。
二人の小声のやり取りなど意に介さず、テーブルを挟んだ英国首脳陣は重苦しい沈黙を保ったまま。これ以上、外堀を埋めるような前置きを並べられても時間の浪費に過ぎない。
響は椅子に深く背を預け直すと、正面の総参謀長と調整官へ冷徹な視線を据えた。
「で、結局のところ俺たちには何をしてほしいという依頼なんだ」
直截な問いかけが、張り詰めた会議室の空気を真っ向から叩き割る。
総参謀長は膝の上で固く握りしめていた両手をわずかに緩め、深く息を吐き出した。繕うべき面子など最初から残されていない。
「横穴の最深部への単独突入、および感染症の発生源と目される元凶の完全殲滅だ」
重く絞り出された言葉に、傍らの調整官が痛ましい表情で視線を落とす。
「我が軍の部隊は、外縁の封鎖線を維持するだけで手一杯だ。穴の内部へ送り込んだ小隊は壊滅し、防護装備も通信も通じない地下原生林にこれ以上の通常兵力を投入すれば、ただ無為に死体を増やす結果にしかならん」
「つまり、正規軍では足を踏み入れることすらできない穴の底へ潜り、何が潜んでいるかも分からない化け物を叩き潰してこい、と」
響の端的な要約に、総参謀長は弁解の言葉を挟むことなく、ただ静かに頷いて見せた。
総参謀長の痛切な懇願にも、響の表情は微塵も揺るがない。テーブルに肘を突き、指を組んだまま冷淡な声音を投げつける。
「具体的に、俺にとってのメリットは何だ」
葵の通訳が落ちた瞬間、作戦会議室の空気が一段と凍りついた。
国家の存亡を懸けた場において、あまりに身も蓋もない現実的な問いかけ。調整官が息を呑み、言葉を失った様子を見届けて、響は一切の遠慮を捨てて畳みかける。
「日本と英国の関係が良好だから、仲良くタダ働きしてくれなんて甘い話じゃないはずだ。正規軍が手も足も出ず、装備も通信も通じない泥沼の穴へ突っ込めと命じる以上、相応の報酬と条件が用意されているんだろうな」
義理や友情で命を張る気など毛頭ないという冷ややかな眼差し。総参謀長は一瞬だけ苦い表情を浮かべたものの、すぐに覚悟を決めたように視線を戻し、机の上に置かれていた薄い黒革のファイルを響の前へ押し出した。
「当然だ。手ぶらでこの国を救ってくれなどと乞うほど、我が政府も恥知らずではない」
差し出された黒革のファイルに指先でパラパラと目を通した響は、鼻で嘲笑うようにそれを机へ放り出した。
「契約金以外はクソだな」
容赦のない酷評に、葵が一瞬だけ通訳を躊躇する素振りを見せたものの、響の横顔の冷徹さに気圧されてそのまま英語へ訳出する。調整官の顔色が一気に青ざめた。
「ダンジョンの中で手に入れたドロップ素材や採取物の完全私有? 命を張って穴に潜った探索者が戦利品を持ち帰る権利なんざ、今や国際社会の常識中の常識だ。わざわざ恩着せがましく紙に書いて譲歩面するような代物じゃない。交戦規定の免除も軍の物資提供も、死地に飛び込ませる前提条件として当たり前すぎる。見栄えのいい項目ばかり並べて実質をケチるあたり、ほんとクソだな」
吐き捨てるように言い放った響の視線は、英国首脳陣が最も突かれたくなかった「打算」を正確に射抜いていた。
机上のファイルを放り出して吐き捨てた響の脇腹へ、唯の肘が遠慮なくめり込んだ。
「ちょっと響さん、まさかとは思うけど……単にあんたの機嫌が悪いだけで噛みついてない?」
低く抑えつつもジト目を向けてくる相棒に、響は組んだ指を解き、不愉快さを隠そうともせず吐き捨てる。
「当たり前だろ。極東から呼びつけておいて出迎えの礼儀も儀仗も全部すっ飛ばし、埃っぽい密室に缶詰にして泥水へ飛び込めと書類を寄越す。こっちを安上がりの便利屋と舐め腐っている連中に、愛想を振りまいてやる義理がどこにある」
首脳陣の凍りついた視線を背に、響は長椅子から雑に腰を浮かせる。
呆然とする総参謀長や冷や汗を拭う調整官には目も向けず、床に転がした背嚢のストラップを無造作に片手で引き寄せた。
「燃料代くらいは働いてやるよ」
吐き捨てた言葉の真意を掴みかね、慌てて立ち上がろうとする首脳陣を片手で制し、響はそのまま踵を返す。
「ちょっと、響さん!」
唯が呆れと焦りの混ざった足取りで小走りに追い、青ざめた葵も端末を抱えて慌ただしく後に続く。
金属製の重い防音扉を乱暴に押し開けると、冷涼なブリテンの湿った風が廊下の奥から吹き抜けてきた。立ち止まることなく先頭を行く響の背中は、もはや国家の面子や形式的な手続きなど歯牙にもかけていない。
重い防音扉を抜け、灰色の冷気が漂う通路へ足を踏み出したところで、響は足を緩めることなく横の葵へ視線を投げた。
「葵、C-2の機長へ言伝を頼む」
突然の指示に、抱えていた端末を取り落としそうになりながら葵が小走りで並ぶ。
「は、はい! 何を伝えればよろしいですか?」
「『これからダンジョンに潜る。内部の階層構造や環境次第では、作戦期間が数か月に及ぶ可能性がある。その間の現地待機を頼む』――そう伝えておけ。燃料の補給と機体の整備を済ませ、いつでも飛べる状態で待たせておくんだ」
数か月という途方もない期間を平然と口にする響に、葵は息を呑んで目を丸くした。
「す、数か月ですか……!? しかし、それでは私の本国への定時連絡や、防衛省との調整業務が……」
動揺を隠せない連絡官を横目に、響は冷徹な眼差しを正面の通路へ戻す。
「調整なんぞ知るか。それと葵、お前も俺たちと一緒に来い」
「えっ……? わ、私もですか!?」
耳を疑うような命令に、葵の足が思わずもつれかける。後方で呆れ顔を浮かべていた唯も眉をひそめたが、響の判断に私情や冗談の色は微塵も含まれていなかった。
「当たり前だ。あんな腹に一物ある連中の真っ只中に、戦闘能力ゼロの連絡官を一人で残していけるか。裏でどんな政治的取引のダシにされるかも分からん。俺たちの背中に張り付いている方が、あいつらと机を並べているよりよっぽど安全だ」
非戦闘員を死地へ同伴させるという常識外れの提案。しかし、冷え切った英国首脳陣の視線を間近で浴びてきた葵には、響の言葉の裏にある冷徹な合理性が痛いほど理解できた。
響は背嚢のストラップを強く引き絞り、格納庫へと続く出口を見据える。
「手持ちの機材をまとめろ。準備が整い次第、直ちに出発するぞ」
◇
英軍が敷いた何重ものバリケードと装甲車の車列をすり抜け、厳重に閉鎖された立入禁止区域の最深部へと足を踏み入れる。
巨大な亀裂のように大地を引き裂くダンジョンの入り口。一歩足を踏み入れれば、外の冷涼な空気は断ち切られ、湿り気を帯びた生温かい気流が肌を撫でた。
削り出された岩肌が剥き出しの、ごくありふれた横穴構造。首脳陣が青ざめて語っていた「広大な古代原生林」の気配など、入り口付近には微塵も感じられない。
響は足元の砕石を踏み締め、暗がりが続く通路の先へ鋭い視線を送った。
「まずはダンジョンらしい構造の横穴といったところか。いきなりジャングルが広がるわけでもないな」
通路の傾斜と空気の流れから内部構造を推し量り、すぐさま思考を巡らせる。
「おそらく数階層先に原生林とやらが控えているんだろう」
重い防音扉を抜け、灰色の冷気が漂う通路を進みながら、唯が小走りに隣へ並んだ。
先ほどまでの呆れ顔を潜め、横目でちらりと響の表情を窺う。
「……響さん、本当のところどうなんですか。あれ、ただ機嫌が悪かっただけじゃないですよね」
「あるわけねえだろ」
響は前を向いたまま、鼻で笑うように即答した。
「どうせしばらく仕事らしい仕事もねえ。ついでに休暇だと思えば、ガスマスクの件も契約の件も、適当にくれてやる義理はねえってだけの話だ。葵を誘ったのもそのついでだよ」
「休暇って……数か月潜るつもりなんですよね!?」
「ああ。だがな、唯。このダンジョンが、数か月もかかるタマに見えるか?」
響は口の端だけを持ち上げ、通路の先――装甲車の列と土嚢の向こうに口を開けた巨大な亀裂を一瞥した。
「この程度の穴、普通にやりゃ数か月もかかるわけねえだろ」
唯が一瞬言葉を詰まらせ、ぽかんと響の横顔を見つめる。
「……は? じゃあ、さっきのC-2への『数か月待機』って指示は……」
「保険だよ。長引いた時に機体がさっさと帰っちまったら目も当てられねえからな」
言い捨てると、響は背嚢のストラップを引き絞り、足を止めることなく歩を進めた。
手前で侵入者を消耗させる定石のトラップ構造。響はすぐさま意識を集中させ、自らの【鑑定】スキルを横穴の深部へと走らせた。
「唯、周囲を警戒しろ。葵の警護に集中だ」
「了解」
唯は短く応じ、無駄のない動きで葵の半歩前へと滑り込む。腰の得物に指先を添え、視線だけを油断なく周囲の暗がりへ走らせた。背後で震える葵の肩に、わずかに落ち着きが戻る。
響の脳内には、【鑑定】スキルを通じたダンジョンの内部情報が瞬時にマッピングされていく。
青白い光のグリッドが網膜の裏で立体的な断面図を形成し、響の脳内へ立体映像となって一気に展開した。
縦横に走る無数の等高線と空間座標。第1層の岩盤坑道を抜けた直後、下層へと口を開ける巨大な縦孔から、すでに底一面を埋め尽くす古代原生林の広大な回廊に至るまで、進入経路の全貌が鮮明に浮かび上がる。
「……第2層以降が、まるごと原生林だな」
脳内に投影された立体構造を見据え、響は短く呟いた。
◇
第2層の地面へ滑り降りた瞬間、背後で垂直シャフトの冷たい風が途切れる。
眼前に広がっていたのは、地底の暗闇を侵食する圧倒的な古代原生林の威容。天を衝く巨木がねじれながら太い枝を張り巡らせ、頭上を深緑の天蓋となって覆い尽くしている。湿り気を帯びた腐植土の饐えた匂いと、嗅ぎ慣れぬシダ植物の青臭さが、重く淀んだ熱気となって肌に絡みついた。
響は首を鳴らし、鬱蒼と茂る樹海を悠然と見渡す。
「やれやれ、これであのうるさい連中ともお別れだ。ようやく骨休めができる」
唐突な言葉に、端末を抱えて息を呑んでいた葵の目が点になった。
「ほ、骨休めって……ここ、ダンジョンの中ですよ!? しかも未踏破の2層です!」
「だからこそ邪魔が入らない。今日の行程はここまで、ここで野営を張るぞ」
取り付く島もない響の宣告。
「承知! 直ちに露営陣地を構築します!」
唯だけは一切の疑問を差し挟まず、背嚢からスコップとパラコードを迷わず引き抜いた。立ち木の幹を基準点に定め、手頃な倒木の枝を鋭い手刀でへし折って骨組みを組んでいく。地面からの湿気を断つため下草をすばやく敷き詰め、低く構えた防水ポンチョを張り巡らせる動きに淀みはない。仕上げとばかりに周囲の泥とシダの葉を擦り付け、敵の視認を完全に遮断する自衛隊直伝のステルスシェルターが、まさに完成の域に達しようとした瞬間。
響がニヤリと笑い何もない空間へ、無造作に腕を差し入れた。
【ストレージ】の暗がりから引きずり出されたのは、ずっしりと重みのある無骨なコットン帆布と、分割式のアルミポール。アウトドア用品店で金さえ払えば誰でも買える、市販のミリタリー調パップテント一式。
「葵、こっちのが足伸ばして寝るし快適だよな……ふふ」
響は手際よくポールを立ち上げ、ガイロープにテンションをかけながら、振り返って口元を緩める。
「……」
傍らでは、泥と枯れ葉にまみれた唯が、スコップを握りしめたまま彫像のように停止していた。必死に掘り進めた排水溝と、這いつくばって潜り込む極限の自衛隊式シェルターを背に、一切の身動きを止めている。
「ほら、これは葵の分のコットと寝袋な。地面の湿気を吸わねえように高さがあるやつだ。そしてこれは私のコットと寝袋。……隣でいいかな?」
平然とした顔で折りたたみ式のハイコットを2台並べ、ふかふかのダウン寝袋を広げてポンと叩く響。
「……」
未踏破の古代原生林と、突如として組み上がった快適なレジャー空間を交互に見つめ、葵は言葉を失って立ち尽くす。
「……あの、響さん。ここで本当に、お休みになるつもりですか?」
「寝るに決まってるだろ。徹夜の移動で身体はバキバキだ。飯を食って寝なきゃ明日の探索に響く」
悪びれる様子もなく靴の紐を解き始める響。その背中へ向けて、ようやく唯がスコップを握ったまま、視線だけをゆっくりと動かした。
「……響さん」
「ん? どうした唯」
「私の分のコットは、そのストレージには」
「唯はほら、せっかく自衛隊仕込みの立派なタコツボを完成させたんだ。苦労して組み上げた自分の陣地の方が、周囲の警戒もしやすくて落ち着くだろ」
唯は力なく視線を落とし、自分が掘り上げた地面の穴を無言で見つめた。
「うわあああぁぁぁっ! ずるい! 絶対そっちがいいです!!」
唯は握りしめていたスコップを地面へ叩きつけ、絶叫とともに頭を抱え込んだ。
精魂込めて掘り進めた冷え切った土の溝と、目の前に広がる極上のふかふかベッド。泥だらけの顔を歪め、今にも泣き出しそうな目で猛然と食ってかかる。
「なんですかそれ! 最初から言ってくださいよ! 私が必死こいて立ち木へし折って、泥まみれで偽装ネット編んでたあの苦労は一体なんだったんですか!?」
「無駄じゃないぞ。万が一の退避壕としては満点だ。排水ラインの引き方なんざ本物の自衛官見たいだったぞ」
「自衛官ですけどッ!! れっきとした本物の2等空曹ですけどぉぉぉッ!? 褒めるとこそこじゃないですよぉぉぉ! 誤魔化さないでください、出してくださいよ私の分! 絶対まだその異次元ポケットに余ってるでしょコットぉぉぉ!」
唯は地面にスコップを突き刺し、半泣きになりながら響へ猛然と詰め寄った。
泥だらけの両手をぶんぶんと振り回し、今にも掴みかからんばかりの剣幕。自衛隊仕込みの規律も矜持もどこへやら、剥き出しの悲鳴が古代原生林の樹海に木霊していく。
「しょうがねえな」
響は耳をほじる手を止め、わざとらしくやれやれと首を振る。
何もない空間へ無造作に腕を突っ込むと、【ストレージ】の内奥から取り出したのは、先ほどのパップテントとは比較にもならない巨大な収納バッグ。そこには某有名アウトドアメーカー――誰もが知るコールマンの鮮やかなロゴが燦然と輝いていた。
「あ……」
唯の怒号がピタリと止まる。
響はジッパーを一気に引き裂くように開け放つと、ずっしりと重みのある巨大な幕体と極太のポール一式を地面へ豪快に広げた。
「おい唯、そっちの端を引っ張れ。どうせなら広々としたリビング付きの8人用大型テントに建て替えるぞ。コットも全員分並べて、テーブルも椅子も全部ぶち込んでやる」
「……響さん」
唯は両手に泥をつけたまま、信じられないものを見る目でその巨大なドームテントの骨組みを見つめた。
「持ってんじゃん……! あるなら最初からそれ出してくださいよぉぉぉ!」




