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元勇者の帰還、術式失敗で(♀)になっていた。レベル1から現代のパンデミック迷宮都市を生き抜く  作者: 藤咲玲


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24話「空挺の弾幕と紅蓮の鍋」

 ソウルの城南空軍基地で待機していた航空自衛隊のC-2輸送機は、現地での燃料給油を終えると、直ちに滑走路へ進入した。


 漢江の階層主討伐からわずか40分後、響、唯、葵を乗せた機体は、再び夜のソウル上空へ舞い上がり、東シナ海を南西へ一直線に巡航し、約2時間の飛行を経て、台湾の首都・台北松山空港の滑走路へ滑り込んだ。


 逆噴射の轟音が収まり、タキシングウェイへ進入したC-2のカーゴランプが開く。誘導路脇には台湾軍の警護車両列が待機しており、三人は将校に先導され、耐弾仕様の装甲車へ乗り移る一行。


 松山空港からは直結する地下連絡路を抜け、台北の防衛中枢――強固な岩盤の下に構築された国家最高指揮統制所へ入った。


 重厚な耐爆扉の先、巨大なメインスクリーンが青白く発光する作戦会議室は、数十名の幕僚たちの張り詰めた緊張感に包まれる。


 スクリーンに映っているのは、台南市新市区大洲のジャンクション。アスファルトの路面に、高さ約15メートルの黒い空間門が衝立のように直立しているダンジョンゲートだ。しかし、その周囲の街中の路上には、未知の病原菌によって変異し、理性を失って徘徊する無数の感染者――ゾンビの群れが蠢いている。周囲を封鎖する台湾軍の雲豹装輪装甲車と歩兵部隊が一定の距離を保ち、防護服の上から突撃銃や重機関銃を掃射して感染者の接近を阻んでいる。


 立体マップの前に立つ統合作戦指揮官の林振東陸軍中将が、響たちの足音に気づいて振り返った。


「状況は――」


「前置きはいい。要点だけ手短に頼む」


 響が短く言葉を遮ると、林中将は一瞬だけ眉を寄せたが、軍人の合理性で感情を呑み込み、レーザーポインターでスクリーンを指した。


「台南市新市区大洲のジャンクションだ。空間門からモンスターは出ていない。だが周囲を埋め尽くしているのは、門の周辺から急速に拡大した未知の病原菌による感染者――生ける屍の群れだ。各国機関の解析により、病原体の発生源は門の内部と断定された。路上でどれほど感染者を射殺しようと、門の奥を塞がない限り感染の拡大は止まらない。ジャンクションのすぐ北側には先端半導体工場群があり、さらに退避中の住民数十万人がいる。防衛線を食い破られれば台湾全土が終わる」


 林中将はポインターを卓上に置き、響を正面から見据えた。


「軍の火力で感染者を押し留め、突入路を開く。君たちリゾナンスは門へ飛び込み、最深部の階層主を撃破して門を消滅させろ。発生源を直接叩き潰す以外に、この菌を止める術はない」


 響はスクリーン上で蠢く無数の感染者と、その中心に屹立する黒い門を一瞥し、息を吐いた。


「要するにだ。ゾンビたちを駆逐する必要があって、その病原菌であるダンジョンを鎮静化させればいいってことなんだろう」


 吐き捨てるように言った響は、スクリーンから視線を外さぬまま、淡々と要求を突きつけた。


「ならまず、明日から24時間の完全な外出禁止令を敷け。軍法下の戒厳令だ。『不要不急の外出を控えて』なんて手温いお願いくらいで済ませるなよ。外を出歩いて撃ち殺されても文句は言えない、全部てめえの責任だ――そこまで厳格に徹底しろ」


 地下統制所の空気が一瞬で凍りついた。モニター監視員や周囲の幕僚たちが息を呑む中、響は平然と言葉を重ねる。


「それと、俺たち専用のヘリを1機回せ。いつ何時でも即座に飛べるよう、燃料は常に満タンでピストン補給できるように手配しておけ」


 林中将の眉根が険しく吊り上がった。軍事統制下の最高責任者としての困惑と緊張を滲ませ、低く問い質す。


「……一体、上空から何をする気だ」


 響は林中将を冷ややかに見据え、刃物のように鋭い声で切り捨てた。


「上から間引くに決まってんだろうが。外に出てる動く的を、片っ端から射殺するんだよ」


 ◇


 松山基地の駐機場には、ローターの回転風とタービンエンジンの轟音が渦巻いていた。


 大型輸送ヘリのキャビン後部、油圧で下がったランプドアの脇で、響は防音ヘッドセットを首に掛けたまま足を止めた。背後には、管制と護衛に徹する部隊の保護下に置かれた葵がいる。


「葵、お前はここで待機だ。外には一歩も出るなよ」


「……うん。響ちゃんも、気をつけてね」


 不安を押し殺して頷く葵の頭を無造作に撫でると、響は振り返り、迷いなく機内へ足を踏み入れた。


 キャビン内には、戦術装備を整えた唯がすでに乗り込み、両舷の開放ドア付近に据え付けられた射撃座席のベルトを締め直していた。床面には弾薬箱と予備バッテリーが整然と固定され、機内には作戦前特有の、油と緊張の混じった臭いが充満している。


「準備はいいか、唯」


「いつでも行けます。上空からの掃討支援、確実に合わせます」


「民間人を巻き込まずに数を減らすなら、空から頭蓋を撃ち抜いて回るのが一番手っ取り早い。下を綺麗に片付けたら、その足で門へ突っ込むぞ」


 響は機長席に向けて右腕を突き上げ、人差し指を円形に回してテイクオフの合図を送った。油圧の低い唸りとともに後部ランプドアが密閉され、双発ローターのピッチが変わる。浮遊感とともに重たい機体がアスファルトを離れ、戒厳令下の静寂と硝煙が混ざり合う台南の空へと機首を向けた。


 響はインターコムのマイクを引き寄せ、コックピットの操縦士へ端的な指示を飛ばした。


「直進するな。まずはこの街の上空を、大きく円を描くように旋回しろ」


 操縦桿が倒され、機体が緩やかに傾きながら台北市街の空を円周状に旋回し始める。外出禁止の戒厳令が敷かれた眼下の路面からは人影が消え失せ、信号機だけが無人の交差点で律儀に色を変え続けていた。


 誰もいない街というのは、これほどまでに音を失うものか。

 響はハッチの外、流れていく街並みを無言で見下ろしていた。唯も射撃座席で口を閉ざし、照準器の感度を黙々と調整している。機内に満ちるのは、ローターの一定した鼓動だけだった。


 旋回が、ちょうど街の中心を一周したところで、響は目を伏せた。


「――鑑定広域展開。地上にいるゾンビをすべてマーキングしろ」


 意識を解き放った瞬間、頭の中心から鈍い圧迫感が広がった。不可視の知覚が、ヘリの直下から台北の市街全域へと、根を張るように浸透していく。


 数秒の間、響の呼吸が止まる。

 膨大な量の「気配」が、一気に脳へ流れ込んでくる感覚。建造物の壁もコンクリートも素通りし、生者の温もりを持たない熱源だけが、ひとつ、またひとつと意識の底へ突き刺さるように灯っていった。


 ビル街の谷間。遮光されたアーケードの下。薄暗い路地裏の奥。

 生体反応を失い、異様な熱と狂気だけを宿して徘徊する感染者たちの輪郭が、鮮烈な赤い光点として次々と網膜へ焼き付いていく。


 ――数が、多い。


 一瞬、奥歯を噛みしめた響の視界が、赤い点の密度でわずかに歪んだ。三次元の座標として浮かび上がったそれは、もはや光点というより、街そのものに巣食う無数の病巣だった。


 響は小さく息を吐き、感覚の波を押さえ込むと、開放されたハッチ際で亜空間ストレージのインベントリを展開した。


 掌の前に裂けた空間の隙間から、銀色の光沢を放つ無数のパチンコ玉が、滝のように溢れ出す。響の手のひらを通過するたび、微細な魔力が一粒ずつ注ぎ込まれ、放たれた数千の鋼鉄球は重力を無視してヘリの側面にピタリと静止した。


 淡い燐光を纏う鋼の群れが、網膜に焼き付いた赤いマーキングと、一つずつ静かに同期していく。


 街が、何も知らずにそこにある。


「消し飛べ」


 囁くような一言と同時に、静止していた鋼鉄球が一斉に撃ち出された。


 音速を超えて空気を切り裂いた光条は、単なる自由落下ではない。高層ビルの間を縫い、直角に近い旋回を繰り返しながら、まるで意思を持った追尾ミサイルのように、地上の標的へと吸い込まれていく。


 パンッ、パンパンッ――。


 乾いた破裂音が、無人の市街に連鎖していった。花火よりも小さく、銃声よりも鋭いその音は、ひとつひとつが確実に何かを打ち抜いた証だった。路地裏で、アーケードの下で、ビルの谷間で、赤い光点がひとつ、またひとつと、何の前触れもなく消えていく。


 抵抗も、咆哮も、逃走もない。

 ただ、標的として定められた座標の上に、死だけが静かに降り積もっていった。


 数分と経たず、音は止んだ。


 響は網膜に残る光点の地図を確かめる。赤い輝きは、街のほぼ全域から拭い去られていた。


「……終わったか」


 唯が照準器から目を離し、感嘆とも畏怖ともつかない息を漏らす。

 響は答えず、ただ静まり返った台北の街並みを見下ろしていた。拍手も歓声もない、代わりに誰かが生き延びたという事実だけが、音のない街の底に残されている。


 ◇


 ヘリは台北の空を抜け、台湾本島を縦断する大動脈、国道1号線と台湾高速鉄道の走る西海岸沿いへと南下を始めた。


 台北から目的地の台南までは、直線距離にしておよそ250キロメートル。その途上には新竹、苗栗、台中、彰化、嘉義といった主要都市が連なっている。眼下を見下ろせば、戒厳令が敷かれているにもかかわらず、その幹線道路の結節点や避難所周辺の市街地には、すでに病原菌に侵された感染者の群れが黒い染みのように蠢いていた。北から南へ向かうにつれ、門に近づくほどその密度は目に見えて濃くなっていく。


 響はインターコム越しに機長へ指示を飛ばした。


「西海岸の都市部上空をなぞって南下しろ。高度は300を維持、速度は落とすな」


 機体が新竹、そして台中上空へと差し掛かるたび、響は機体側面のハッチから身を乗り出し、鑑定スキルの広域知覚を地上へ投網のように打ち据えた。網膜に無数の赤い光点が浮かび上がり、ストレージから引きずり出された鋼鉄球の群れが、機体の両舷を淡い燐光で埋め尽くしては地上へ降り注ぐ。


 パンッ、パン、パンッ――。


 新竹の工業地帯の路地で、苗栗の高架下で、台中の広大な交差点で。

 ヘリの通過とともに乾いた破裂音が地表を薙ぎ払い、網膜の光点が帯状に掻き消えていく。


 だが、台中の市街地上空を通過し、彰化へ差し掛かる頃、響の眉間にわずかな険しさが走った。


 ストレージの残量数値を視界の隅で確認する。台北を発つ前に用意していた数十万発に及ぶパチンコ玉のストックが、すでに底を突きかけていた。レベル52まで回復したステータスと3,660を誇る魔力総量をもってしても、これだけの広域に散らばる標的をミリ単位で必殺の頭蓋貫通へと誘導し、連続投射し続ければ弾数そのものの損耗は桁外れになる。魔力切れの懸念こそないものの、物理的な「弾の弾数」だけはどうにもならなかった。


 響はインベントリの残弾表示を消し、静かに機内を振り返った。


 通信機のヘッドセットを引き寄せ、統合作戦指揮所の回線へ直結させる。


「指揮所、聞こえているな」


『こちら指揮所、林だ。現状はどうなっている』


「台北から台南までのルート上の残敵は順調に間引いているが、物理的な弾が足りん。軍に命令を出せ。今すぐヘリの進行ルート上にある各都市――新竹、台中、嘉義の部隊を動かせ」


『部隊を動かして何をさせる気だ』


「街中にある遊技場――パチンコ店や電子遊戯場を片っ端から当たれ。店内の島や倉庫に眠っているパチンコ玉をありったけ掻き集めろ。金属の球なら規格は問わん。集めた玉はドラム缶やコンテナにまとめて、各都市の高速道路のジャンクションか開けたヘリポートに集積しておけ。ヘリを着陸させるから、その場で回収する」


 無線越しに一瞬の沈黙が流れた。現代兵器の常識とかけ離れた要求に指揮所の幕僚たちが困惑している気配が伝わってきたが、林中将が即座に割り込む。


『……了解した。新竹、台中、嘉義の各守備隊へ緊急命令を発達させる。通過時刻までに指定の幹線道路上へ集積させよう』


「頼んだぞ。補給が滞れば、その分だけ地上の連中を間引く手が止まる」


 通信を切った響は、ハッチの外へ視線を戻した。


 ヘリが新竹のジャンクション上空へ差し掛かると、軍用トラック数台がインターチェンジの広場に陣取っており、その周囲にはパチンコ玉を満載したコンテナやドラム缶が並べられていた。上空を旋回する大型ヘリを見上げ、防護服を着た台湾軍兵士たちが誘導スモークを焚いている。


「機長、着陸させろ。回収は一瞬で終わる」


 大型ヘリが粉塵を巻き上げながらアスファルト上へ接地し、機体後部のランプドアが開け放たれる。


 響は機内から素早く飛び降り、並べられたコンテナへと大股で歩み寄った。防護服姿の兵士たちが呆気にとられる中、響はドラム缶の縁やコンテナの金属フレームへ次々と直接手のひらを触れていく。


 その瞬間、ドラム缶の口から溢れんばかりに詰まっていた銀色の鋼鉄球が、触れた箇所からまとめてストレージの亜空間へと音もなく消え去っていった。コンテナ数箱、ドラム缶十数本に収められていた数十万発のパチンコ玉が、一瞬で空の容器と化す。


 インベントリの弾数カウンターが跳ね上がり、必要十分な数値を満たしたのを確認すると、響は身を翻してヘリのキャビンへと跳び乗った。


「補給完了だ。出せ」


「了解、離陸します!」


 再びローターが激しく風を切り、ヘリは地表を離れた。空中で体勢を整えると同時に、響は鑑定スキルの知覚を再展開し、補充された鋼鉄球を機外へ展開しながら、次なる街――台中、そして最終目標である台南の黒い門へ向けてヘリを加速させた。


 ◇


 台南市街地の上空。


 ヘリの眼下には、古都の街並みと近代的な商業施設が混在する広大な景色が広がっていた。空間門が鎮座するジャンクションへ向かう道中、響は新竹や台中で回収した無数のパチンコ玉を惜しみなく投射し続けていた。頭蓋を撃ち抜く乾いた破裂音の連鎖とともに、網膜に投影された赤い光点は次々と消滅し、都市を埋め尽くしていた感染者たちの蠢きは着実に鎮圧されつつあった。


 だが、巨大なショッピングモールの吹き抜け構造を捉えた瞬間、響の双眸がわずかに細められた。


 鑑定スキルの索敵網に引っかかり、赤く発光する無数の感染者たちの群れ。そのただ中にあって、赤くマーキングされていない人型の輪郭が一人、明確に知覚された。病原菌に侵されていない、生きた人間の反応だった。


 響はインターコムのマイクを掴み、操縦席へ鋭く命じた。


「急げ、降下だ」


「は、はい!? しかしこれ以上高度を落とすと――」


「四の五の言うな、さっさと落とせ!」


 急減速とともに機首が沈み、ローターが激しい風切り音を立てて高度を一気に落としていく。モールの立体駐車場やガラス張りの屋上ドームが急速に迫り、高度計の針が50メートルを指した。


「唯、上空から牽制を続けろ」


「了解!」


 指示を投げ終えるや否や、響は安全帯を外して開放ハッチの縁に立ち、躊躇なく何もない虚空へと身を投げ出した。


 高度50メートルからの自由落下。吹き上げる突風を全身に浴びながら、響は視線を地上の未感染者へと固定し、着地の瞬間を見据えた。


 高度50メートルからの落下速度は、時速約113キロメートルで激突する自動車相当の凄まじい衝撃を孕んでいた。


 叩きつけられる寸前に全身のバネを絞り、アスファルトの上ですかさず前方回転を打って運動エネルギーを受け流したものの、着地の凄まじい負荷が両脚の骨と筋肉を激しく軋ませ、足首から膝にかけて鈍い激痛が走った。


「……っ」


 響は声を喉の奥で押し殺し、膝をついた体勢のまま即座にストレージから乾燥薬草を掴み出すと、迷わず口内へ放り込んで噛み砕いた。苦味とともに有効成分が急速に血中へ浸透し、傷ついた筋繊維の熱と痛みがじわじわと引いていく。


 顔を上げて周囲を警戒すると、数十メートル先のモールの搬入口付近で、うめき声を上げながら距離を詰めるゾンビの群れに囲まれ、追い詰められている一人の少女の姿が視界に飛び込んできた。


 響は即座に立ち上がり、少女を取り囲むゾンビの群れへ鋭い視線を向けた。


「――鑑定、捕捉」


 思考の命じるまま、群がる感染者たちの頭部へ瞬時に赤いマーキングが次々と灯る。


 間髪を入れず、響はストレージから数十発の鋼鉄球を引きずり出して虚空へ解き放った。魔力を纏った銀色の球体は重力を無視して響の周囲に滞空し、まるで自律稼働するファンネルのようにその場で不気味に静止する。


「散れ」


 響の意識と同期した瞬間、滞空していた鋼鉄球が一斉に白光の軌跡を引いて射出された。


 空気を切り裂く鋭い風切り音とともに、球体は自律した意思を持つかのように複雑な曲線を描いて飛翔し、少女へ伸ばされたゾンビたちの手首、そして眉間をミリ単位の精度で次々と貫いていく。


 パンッ、パンパンパンッ――。


 乾いた破裂音が連続してアスファルトに木霊し、頭蓋を撃ち抜かれた感染者たちが糸の切れた人形のように崩れ落ちていった。


 地面に転がるゾンビの頭部を踏み越え、響は硬直して震える少女の襟首を軽く引き寄せ、抱え上げるようにして保護した。


「……さて。どう扱ったもんかね、このチビは」


 いつもの冷徹な目元をわずかに緩め、呆れたような薄い笑みを浮かべる。


 直後、頭上から叩きつけられた猛烈なローター風が、周囲の粉塵を円形に吹き飛ばした。大型ヘリがモールの搬入口前のアスファルトへ脚を接地させ、スライドドアから自動小銃を構えた唯が飛び出してくる。


 周囲の死骸と、響の腕の中に収まっている小さな人影を認めた唯は、目を丸くして駆け寄ってきた。


「響さん、その子は一体……?」


 響は怯える少女の頭を無造作にポンと叩き、何事もなかったかのように言い放った。


「外でひとりで突っ立ってた。それだけの話だ」


 響は少女の体を片脇に抱え直すと、唯に続いてヘリのキャビンへ跳び乗った。


 金属床の上に少女の足を下ろし、目線を合わせることなくキャビンの壁に背を預けさせる。


「お前は次の拠点で軍に引き渡す。それまではここで大人しくしてろ」


 端的に告げた響は、ストレージの隙間から銀紙に包まれた携帯食――干しイチジクとナッツの蜜漬けバーを1本抜き取ると、小刻みに震える少女の目の前へ無造作に差し出した。


「ほら、食うか」


 呆気にとられてそれを見つめる少女の横で、装備を整え直していた唯が顔をほころばせ、親しみを込めた声を上げた。


「あ、それ。私が合流したばかりの頃に響さんから貰ったやつだ。甘くてぎっしり詰まってて、すごく美味しいのよね」


 響は少女にバーを握らせると、懐かしむような声を上げた唯へ、からかうような視線を向けた。


「なんだ、狂犬ハムスター。お前もまた欲しいのか?」


 出会った当初、小柄な体躯で噛みつくように警戒心を剥き出しにしていた頃のあだ名を平然と言い放つ。


「ちょ、響さん! その呼び方、もうやめてくださいって言ったじゃないですか!」


 唯が耳まで赤くして抗議の声を上げるのを横目に、響はストレージの奥からもう1本同じ蜜漬けバーを取り出し、唯の胸元へ放ってよこした。


 響は少女の隣に腰を下ろすと、唯が受け取ったバーを指差し、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「おいチビ、よく見とけよ。このお姉ちゃん、出会った頃からこればっか齧ってたせいで、胸ばっかり無駄にデカくなっちまったんだからな」


 からかうように吹き出す響の言葉に、唯は顔を一気に真っ赤に染め上げ、抱え込んだ蜜漬けバーを胸元で抱きしめたまま立ち上がった。


「なっ……! ひ、響さん、何言ってるんですか! そんなわけないでしょ! 子供に嘘吹き込まないでください!」


 機関銃のように抗議を飛ばす唯の慌てぶりと、響の遠慮のない笑い声が、ローター音が鳴り響くキャビン内に響き渡る。呆然とバーを握りしめていた少女も、二人のやり取りに思わず毒気を抜かれたように、目を丸くしてその光景を見つめていた。


 高度50メートルから生身で飛び降り、自動車衝突レベルの速度で着地した直後に平然と立ち上がり、何十体もの怪異を鉄球で瞬殺して見せた規格外の化け物。


 その怪物が、機内では年相応の女同士のくだらない下ネタで爆笑している。


 ヘッドセット越しにそのやり取りを間近で聞かされていたパイロットは、背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、震える両手で操縦桿を握り直した。


 常軌を逸した実力と、日常の軽薄さのギャップが生み出す底知れなさに呑まれそうになりながらも、決して後ろを振り返ることはせず、ただ前方の計器類と台南へ続く航路だけに視線を固定してヘリを前進させ続けた。


 ◇


 台南の空間門前で救助した少女を台湾軍へ引き渡し、響と唯の二人はそのまま黒く渦巻くゲートの裂け目へと足を踏み入れた。


 境界を越えた先に広がっていたのは、湿った土と石造りの通路が延びる地下迷宮だった。徘徊していたのは、異世界ダンジョンでは見慣れた雑魚モンスターであるゴブリンやオークの群れ。空間門から外へ漏れ出すパンデミックの元凶を断つため、二人は歩みを一切緩めず、行く手を阻む魔物の頭部へパチンコ玉と精密射撃を撃ち込み、瞬く間に通路を血煙で染め上げていく。


 第1階層から第5階層までを一気に踏破し、二人は最深部である第6階層の巨大な石造りの扉を押し開けた。


 奥に広がっていたのは、ドーム状の天井を持つ広大な吹き抜けの謁見の間だった。崩れかけた石柱が立ち並ぶ広間の最奥、ひび割れた巨大な玉座の前に、赤黒い巨躯を横たえた階層主が佇んでいた。


 小型バスに匹敵する体躯を覆うのは、炎を凝縮させたような硬質で赤い剛毛。獰猛な巨躯には丸太のような四肢と凶暴な爪が生え揃い、呼吸のたびに鼻腔から熱気を含んだ白煙を噴き出している。


 響は足を止め、その巨影へ意識を集中させて鑑定スキルを発動した。


 種族:クリムゾン・ベア(紅蓮巨熊)


 状態:第6階層主(覚醒)


 レベル:48


 体力:3,850 / 3,850


 魔力:420 / 420


 力:1,420


 敏捷性:680


 持久力:1,550


 知力:95


 精神力:210


【特性・スキル】


 剛毛甲冑:外部からの物理衝撃および刃物による切断耐性を大幅に向上。


 猛進撃:直線加速時の質量突進および剛腕による薙ぎ払い。障害物破壊効果。


 熱源器官(可食部位除外要):体内に腐熱を蓄積・燃焼させる核。破壊・摘出により肉質の汚染を完全防止可能。


 特級食材部位:肩ロース、バラ肉、骨付き背肉、掌部(滋養強壮、スタミナ急速回復効果大)。


 網膜に展開されたステータス数値を一瞥した響の口元が、わずかに吊り上がった。


「レベル48。図体の割に敏捷はたいしたことないな」


 隣で自動小銃を構え直した唯へ、響は淡々と告げた。


「唯、突進の射線からだけ外れてろ。あそこの熱源器官さえ傷つけなきゃ、今夜は極上の熊肉パーティーだ」


 響の言葉が途切れると同時に、唯が地を蹴った。


 背の銃を捨て置き、左右の手に抜いたのは二振りの短刀。低い姿勢を保ったまま目にも留まらぬ速さで石畳を滑るように疾走し、クリムゾンベアの側面へと回り込む。巨熊が熱気を噴いて頭部を向けようとした瞬間、唯の身体が跳ね上がった。


 一閃、二閃。


 剛毛の隙間、腱が集中する前脚の関節部へ向けて、銀の刃が正確無比な連撃を刻み込む。分厚い肉を裂く手応えとともに鮮血が噴き上がり、巨熊が怒りの咆哮を上げて体勢を崩した。


 その隙に、響はストレージから取り出した青緑色のポーションの小瓶を煽り、一気に喉の奥へ流し込んだ。


 全身の細胞へ魔力と活力の濁流が行き渡る。50メートルの落下衝撃で軋んでいた膝の違和感も、消耗していたスタミナも瞬時に消え去り、ステータス数値が完全な全快状態へと跳ね上がった。


 空になったガラス瓶を足元に放り捨てると同時に、響の右手にはストレージから引き抜かれた抜き身の刀が握られていた。


「交代だ、唯!」


 響の踏み込みが石畳を粉砕する。レベル52の身体強化がもたらす爆発的な推進力で、響の輪郭は一瞬にしてブレ、一直線の疾風となってクリムゾンベアの懐へと肉薄した。


 反撃のいななきとともに振り下ろされかけた丸太のような巨腕に対し、響の刀が一筋の白光となって奔る。


 肉を断ち、腱を裂き、太い骨を両断する硬質な手応えの直後、クリムゾンベアの右前腕が鮮血の赤い筋を宙に引きながら、ドサリと石畳の上にこぼれ落ちた。


 断末魔に近い絶叫を上げて巨体が大きく傾ぐ中、響は血振りをひとつ行い、転がった巨大な腕を見下ろして呑気な声を漏らした。


「そういや、熊の手前腕あたりって煮込むと美味いんだっけか。ゼラチン質たっぷりでいけそうだな」


 唯は後方へ軽やかに跳んで血飛沫をかわすと、二振りの短刀を両手に持ったまま肩をすくめ、暢気に返答した。


「そいつは多分、蜂蜜とか食べてないので美味しくないと思いますよ。泥と変な雑魚しか齧ってなさそうですし」


 崩れ落ちかける巨熊の体勢を逃さず、響は低く滑り込むように踏み込み、逆袈裟に刀を跳ね上げた。


 硬質な剛毛と強靭な骨を断ち切る鋭い手応えとともに、残る左の前腕が宙を舞い、血飛沫をまき散らしながら石畳の上を無様に転がる。


 両の前肢を失い、断末魔の絶叫を上げるクリムゾンベアを見下ろし、響は刃先に付着した脂を軽くなめらかに振り払って呟いた。


「なんだ、ハズレか。なら無駄に荷物増やすこともねえな。ポイだ」


 響は崩れ落ちたクリムゾンベアの胸骨の隙間へ躊躇なく手を割り入れ、脈打つ熱源器官の根元から黒く光る魔石を力任せに引っこ抜いた。


 核を奪われた巨熊の体躯は維持を失い、石垣が崩壊するかのように土煙を上げて石畳へ崩落する。響はその巨大な肉の山を見下ろし、指先の血を払った。


「唯、この特大の熊肉ブロック、どう片付けるよ」


 短刀の刃を拭いながら歩み寄ってきた唯は、無造作に転がる巨躯と響を冷めた目で見比べ、やれやれと首を横に振った。


「戦闘の緊迫感が後半から見事に消え失せてますね。筆が急ぎ足すぎやしませんか」


 響は刀を鞘へ滑り込ませると、苦笑いを浮かべて顎をしゃくった。


「突っ込むな。向こうさんもこれ以上の肉弾戦を描き殴るのに飽きてきた頃合いなんだろ」


 ◇


 響はストレージから使い慣れた厚刃の解体用スキニングナイフを引き抜き、親指の腹で刃先の研ぎ具合を確かめた。


 冷え固まる前に血抜きと解体を終わらせるのが鉄則だ。響は巨躯の股関節の内側に刃を当て、肛門から胸骨の先端、下顎の付け根へかけて真っ直ぐに皮の正中線を切り裂いた。ジュッと皮下の脂が裂ける特有の音が響く。刃先を肉の筋膜へわずかに押し当て、刃を寝かせながら皮と脂の境目を小刻みに削ぐように剥離していく。


 剛毛の下に潜んでいたのは、分厚さ5センチメートルを超える純白の皮下脂肪層だった。家畜の脂のようなぶよぶよとした脂肪ではなく、極寒の環境と高密度の魔力を蓄え込んだ、弾力に富んだ冷涼なバターのような質感。空気に触れた端から、脂の融点が体温に近いせいか、響の指先の熱でじわりと透明な脂が溶け出して光沢を放ち始める。


 四肢の内側へY字の切れ込みを入れ、皮を丸ごと剥ぎ取ると、赤黒く艶めく巨大な赤身肉の筋膜が現れた。


「……いい肉質だな。筋繊維が異常に太い」


 響は筋膜の走る方向に沿ってナイフを差し込み、筋肉の束ごとに切り分けを始めた。


 まず手を付けたのは肩ロースだ。肩甲骨の内側からナイフを滑り込ませ、骨の湾曲に沿って刃を走らせて骨膜から肉を綺麗に外す。現れたのは、深紅の赤身の網目状にきめ細かなサシが走る極上の肉塊。繊維の一本一本が野性味に満ちた強い弾力を保ちながらも、指先で押すと吸い付くような柔らかさがある。血生臭さは驚くほど薄く、ナッツと針葉樹を煮詰めたような微かな甘い芳香が鼻腔をくすぐった。手頃な3キログラムほどの立方体のブロックに切り分けると、断面からは溢れ出た肉汁が玉になって滴り落ちる。


 続いて背肉――ロース芯へ取りかかる。脊椎の両脇に走る長大な筋肉の束に沿って刃先を入れ、肋骨の付け根を一本ずつなぞるようにして外していく。現れた肉塊は、赤身の密度が極めて高く、まるで熟成された上質な鹿肉や極上の馬肉を思わせる深い小豆色をしていた。それでいて背脂の層が綺麗に肉の表面を覆っており、直火で炙れば脂が溶けて赤身をコーティングし、極上の柔らかさを生み出すことが触感だけで伝わってくる。これを幅15センチメートル、厚み10センチメートルの整ったブロック状へと切り分けた。


 さらに腹側のバラ肉を切り出す。肋骨の間に刃を垂直に入れ、骨から肉を剥ぎ離す「骨外し」を進める。三枚肉の断面は、赤身と白脂が美しい層を成しており、赤身部分は繊維が細かく水分をたっぷりと抱え込み、脂身は触れたそばから体温で半透明に透き通っていく。これを煮込み用に扱いやすい直方体のブロックへと成形した。


 切り分けられた巨大な肉塊の山は、どれも断面から新鮮な脂の甘い匂いを立ち上らせ、石畳の上で鮮やかに光を反射していた。


 響は切り分けたばかりのツヤツヤとしたバラ肉のブロックを持ち上げ、感触を確かめるように軽く掌で弾ませた。


「通常、熊肉は中心部まで完全に火を通すのが鉄則だからな。ここは1つ、濃いめの味噌仕立てすき焼き風でいくとするか。煮込むほどに脂の甘みが引き立つし、筋も柔らかくなる」


 方針を決めた響は、ストレージの暗がりから無駄のない動作で調理器具と食材を次々と取り出し始めた。


 カセットコンロに、分厚い鉄製のすき焼き鍋。まな板、包丁、ボウル、そして調味料のボトル類が、ひんやりとしたダンジョンの石畳の上に手際よく並べられていく。調味料は合わせ味噌、濃口醤油、みりん、酒、たっぷりのザラメ、そして風味付けの生姜チューブ。さらに野菜類として、泥つきの極太ゴボウ、長ネギ、舞茸、焼き豆腐、結び白滝が木箱ごと取り出された。


「唯、そっちの野菜と具材の仕込みを頼む。ゴボウはささがきにして水にさらし、ネギは太めの斜め切り、舞茸は適当に手で割いといてくれ」


「了解です。まかせてください」


 唯は即座に腕まくりをし、ペティナイフを握ってゴボウの皮をこそげ落とし始めた。手慣れた包丁の音が、静まり返った謁見の間にリズミカルに響き渡る。


 響は手元のバラ肉ブロックをまな板に据えると、牛刀の刃先を慎重に滑らせ、厚さ2ミリメートルほどの均一なスライスへと切り分けていった。赤身の深紅と白脂の縞模様が、重ねられた断面から艶やかに光を放つ。


 カセットコンロの青い炎に火を点け、鉄鍋を熱すると、響はまず切り分けた脂身の端肉を鍋肌に押し当てた。ジュウという小気味よい音とともに、芳醇でナッツのような香ばしい脂が鍋全体へと溶け広がっていく。


 立ち上る濃密な湯気と香りに包まれながら、二人は魔獣討伐直後のダンジョン最深部で、極上の熊鍋作りに没頭していった。


 リズミカルに包丁を動かしていた唯の手が、ふと止まった。まな板の脇に並ぶ瑞々しい野菜や調味料のボトルを見つめ、首を傾げる。


「……前々から気になってたんですけど、この物資不足の世の中で、これだけ立派な長ネギやゴボウをどこで仕入れてきたんですか? 市場も流通も完全に死んでるのに、泥付きゴボウなんて料亭レベルじゃないですか」


 響はスライスした肉を大皿に並べ終え、調味料の配合比率を確かめながら淡々と言ってのけた。


「ん? 調味料なんざ最初の頃にコンビニから拝借したストックだよ。ただ、その野菜は別だ」


「別って……どこから?」


「あっちの異世界で直に引っこ抜いてきた」


「はぁっ!? や、野菜が異世界産!?」


 唯は素っ頓狂な声を上げ、持っていたペティナイフを取り落としそうになりながら飛び退いた。


 響は眉をひそめ、耳元を押さえながら露骨に呆れた視線を向ける。


「うるせえな、何を今更ビビってんだ。四次元ポケットみたいに武器やポーションを出し入れするストレージを見せられて、よく今まで普通の人間がやってると思ってたな。脳みその容量までハムスターサイズかよ」


「それは響さんの超常現象として脳内処理してたんです! まさかその辺の長ネギやゴボウの産地まで別次元だなんて、そんな斜め上の答え予想できるわけないでしょ!」

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