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元勇者の帰還、術式失敗で(♀)になっていた。レベル1から現代のパンデミック迷宮都市を生き抜く  作者: 藤咲玲


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22話 :前半 漆黒の狂宴、黒影零式

「ついでだしな。留守番してる連中にも、なんか適当に土産でも持ってってやるか」


 生中継のカメラを後にした響は、血煙と呻き声に満ちた52階を悠然と後にし、エレベーターシャフトの残骸を飛び降りて六本木ヒルズの低層商業エリア――ヒルサイドへと足を向けた。


 アヴァロンの支配下で荒らされかけていたものの、高感度なセレクトショップやデザイン雑貨店が並ぶフロアには、まだ手つかずのハイセンスな商品やユニークなアイテムが山のように残されていた。響は無人の店舗へ堂々と土足で踏み入り、気紛れに陳列棚を物色し始めた。


「まずは唯だな」


 目にとまったのは、リアルな焼き色のついた「骨付き極上肉」の食品サンプルキーホルダー。それだけでなく、レディースのランジェリーショップで見つけた手のひらサイズの清楚な「〇カップブラ」のセットを引っ張り出し、アイテムボックスに放り込む。


 雑貨コーナーのピルケース売り場へ向かった響は、文字が刻印できる重厚なメタルチャームを指先でつまみ上げた。カプセル型のチャームには、丁寧に『胃を大切に』と彫り込まれている。さらに近くの売店から、黄色いラベルのオロナミンCを1本掴み取った。


「真鍋用だな。毎日胃薬をガリガリ噛み砕いてる苦労人には、これに粉薬でも詰めて首から下げさせときゃちょうどいい」


 次は御子柴渚だ。デザイン文具のコーナーへ足を踏み入れた響は、白衣の胸ポケットに収まりそうな、精巧な作りの「ミニチュア書類バインダーと赤ペン」のキーホルダー、そして無駄に威圧感のある特大の『検閲済・却下』ラバースタンプを迷わずピックアップした。


 そして、入間基地の部屋を整えてくれた佐伯葵には。

 インテリアショップの棚で見つけたのは、手のひらに収まる「ふかふか羽毛布団型」のマイクロクッションキーホルダー。それに加え、メンズのハイブランドコーナーで見つけた上質なシルク混のボクサーパンツを数枚手に取った。


「葵のやつ、俺の身の回りの世話で忙しそうにしてたからな。快眠のお守りと、ついでに基地で穿く部屋着の替えでも持たせてやるか」


 最後に、地上支援と警戒を一手に引き受けている桐生、風間、篠原の3人組だが。

 トイストアのコーナーを覗くと、黄色と黒のストライプが鮮やかな「立ち入り禁止(KEEP OUT)」のミニチュアバリケードキーホルダーが、ちょうど3つ並んでぶら下がっていた。


「入り口の番犬どもにはこれだな。3人仲良くお揃いで腰にぶら下げとけってこった」


 選び終えた大量の土産物を無造作にアイテムストレージへ放り込むと、響は満足げに手をパンパンと叩いた。


「よし、買い出し終了。撤収すっか」


 破壊し尽くした森タワーの正面玄関へ戻り、待ち構えていた漆黒のNinja 650に跨がると、夜の六本木の闇を切り裂くようにスロットルを捻り、一路、入間基地へと走り去っていった。


 エンジンを切ってヘルメットを脱ぐと、ガラス張りのエントランスから明かりが漏れ、室内の面々が一斉に顔を上げた。


「響さん、ご無事でしたか!」


 葵が真っ先に駆け寄り、ガラスドアを開け放つ。

 事務所の中には、唯、真鍋、御子柴、そして桐生たち3名の全員が揃っていた。壁の大型モニターには、先ほど響が六本木ヒルズでぶち上げた「害虫駆除の生中継」の録画映像がリピート再生されており、ニュース速報のテロップが慌ただしく流れている。


「六本木のゴキブリ退治は終わったぜ。ついでにヒルズで土産も見繕ってきたから、テキトーに受け取れ」


 響は上着を脱ぎ捨てて応接ソファへ腰を下ろすと、空間ストレージを展開し、六本木から持ち帰った戦利品をテーブルの上へ次々と吐き出させた。


「唯、まずはこれだ」


「わっ、お肉のキーホルダー! すっごくリアルで美味しそう……! ありがとうございます響さん!」


 唯が目を輝かせて「骨付き極上肉」のサンプルを受け取った瞬間、響は間髪入れずに、もう1つの包みを放り投げた。


「あと、これもだ」


「きゃっ!? ……って、え? えええぇぇぇっ!? な、なんでAカップのブラジャーなんですかぁぁっ!?」


 手のひらに収まる慎ましいサイズの下着を両手で掲げ、唯の顔が一瞬で真っ赤に染まる。


「気にするな、そして俺にブラのサイズを語るな。よくわからんからなと嘯く」


「語るなってぇぇーっ! 私、Iカップ以上あるんですよ!? 入るわけないじゃないですか、これじゃ〇首すら隠れませんよぉーっ!!」


「ははっ、いいツッコミだ。次、真鍋さん」


 怒り狂う唯を後目に、響はカプセル型のメタルチャームとオロナミンCを真鍋の前へ滑らせた。チャームの側面には、くっきりと『胃を大切に』の刻印が刻まれている。


「……響さん、これは?」


 真鍋は眼鏡を押し上げ、刻印を凝視しながら深い溜息を吐き出した。


「あんた毎日胃薬をガリガリ噛み砕いてっからよ。それに粉薬でも詰めて、オロナミンCで流し込め。首から下げときゃ忘れないだろ」


「……ええ、ありがたく胃薬を3倍に増量して肌身離さず身につけますよ! 貴方が六本木を丸ごと粉砕して生中継で懸賞金をかけるような暴挙に出るから、私の胃壁がどれだけ削られたと思っているんですか!」


 額に青筋を立てながらも、真鍋は薬用チャームをしっかりと胸ポケットへねじ込んだ。


「渚、お前にはこれだ」


 響が無造作に放ったのは、精巧な「ミニチュア書類バインダーと赤ペン」、そしてずっしりと重い特大の『検閲済・却下』ラバースタンプだった。


 御子柴は白衣のポケットから手を出してそれを受け取ると、スタンプの印面をじっと検分し、口元にスッと冷徹な笑みを浮かべた。


「渚にはこれだ。真鍋の持ってくる面倒な書類を、これで全部突き返せって言やあ喜ぶだろ」


「了解しました、響さん。明日以降、真鍋3佐から回ってくる面倒な稟議や不要な調査要請は、すべてこの『却下』を無言で捺印してそのままシュレッダーへ回しますね」


「おい御子柴君!? 職務放棄を公認するんじゃない!」


 頭を抱える真鍋を無視し、響は葵を手招きした。


「葵、お前には快眠グッズだ」


 差し出された「ふかふか羽毛布団型」のマイクロクッションと、上質なシルク混のボクサーパンツを受け取り、葵は目を丸くしてパチパチと瞬かせた。


「葵は俺の身の回りの世話で忙しそうにしてたからな。快眠のお守りと、ついでに基地で穿く部屋着の替えも用意した。……いつものやつ小さいと思ってな。寝るとき窮屈だろう?」


「はっ……! パっ、パンツのサイズまで見てたんですか……!? うぅぅ……、恥ずかしいです……! でも、そんなところまで気遣ってくださるなんて……すっごく嬉しいです……!」


 満面の笑みで胸に抱きしめる葵の純真さに、フロアの空気がふっと和らぐ。


「最後、桐生、風間、篠原。お前ら3人はこれだ」


 テーブルの上にカランと置かれたのは、黄色と黒のストライプが鮮やかな「立ち入り禁止(KEEP OUT)」のミニチュアバリケードキーホルダーが3つ。


「入り口の番犬どもにはこれだな。3人仲良くお揃いで腰にぶら下げとけってこった」


 桐生たち3名は直立不動のままキーホルダーを手に取ると、一切の迷いなく自らのプレートキャリアの胸元へカチリと装着し、びしっと敬礼を返した。


「ハッ! 響さんの背後は、このバリケードの通り指一本触れさせません!」


「大真面目に付けるなよ……」と唯が呆れ果てる中、事務所の中にはこれまでにない一体感と笑い声が満ちていた。


 響は背もたれに深く体重を預け、満足そうに天井を仰いだ。


「よし、土産も配ったし、邪魔なアヴァロンも消えた。――葵、熱い風呂沸かしてくれ。今日は泥のように寝るぞ」


 ◇


 真鍋学はわざとらしく咳払いを1つ挟み、額に浮かんだ脂汗をハンカチで拭って居住まいを正した。


「……コホン。さて、茶番はこれくらいにして、現在の情勢について報告させてください」


 手元の公用タブレットを操作し、壁面の大型モニターへと最新の監視データと全国のクラン動向を投影する。


「まず、響さんが六本木ヒルズでぶち上げたあのテレビ中継の反響ですが……凄まじいことになっています。関東一円を牛耳っていた『アヴァロン』は、幹部フロアの壊滅とあなたの指名手配宣告を受け、各支部の構成員が雪崩を打って逃走。事実上、組織として完全に壊滅しました」


「だろうな。あんな腰抜けども、頭を潰せばそうなるわ」


 響はソファの背もたれに体重を預け、退屈そうに鼻を鳴らす。


「問題は周辺の動向です」


 真鍋は眼鏡のブリッジを押し上げ、険しい表情で画面を切り替えた。


「『アヴァロン』の電撃的な崩壊、そして我が『リゾナンス日本支部』の立ち上げを目の当たりにした他の大手メガクラン――『黎明コンソーシアム』をはじめとする国内の全組織が、完全に沈黙しました。表立った挑発や縄張り争いを仕掛けてくる気配は一切消え失せ、各社とも警戒度を最高レベルに引き上げてこちらの出方を窺っています。当拠点の安全は、ひとまず完全に確保されたと言っていいでしょう」


「上出来じゃねえか。これで余計なハエどもに邪魔されずに済む」


「ええ。ですが……副産物として、非常に頭の痛い尾ひれがついた噂が、覚醒者ギルドと政財界の裏ルートで急速に広まってしまっています」


 真鍋は胃のあたりを掌で押さえ、深く重いため息とともに画面に「1日30億円」の文字を映し出した。


「――『どんな絶望的な状況でも、1日30億円さえ積めば、入間の黒髪の怪物が単独で救出に来てくれる』。そんな規格外の“最後の保険”が存在するという噂です」


「……はあ? なんだそのふざけた保険は」


 響が眉をひそめると、唯が横から「あーっ!」と指を差した。


「響さん、さっき黎明の片岡って人に『毎日30億持ってくるなら枯渇するまで吸い上げてやる』って脅してたじゃないですか! あれが変な形で漏れたんですよ!」


「その通りです」


 真鍋は首を縦に振り、苦虫を噛み潰したような顔で言葉を継いだ。


「旧社会の富裕層やメガクランの上層部からすれば、金で命が買えるなら30億円など安い投資と考える連中も少なからずいます。公式な窓口にはまだ届いていませんが、すでに裏ルートを通じて『緊急時の専属救助契約を結びたい』という打診や問い合わせが、私の回線に殺到しかけている状態です」


「くだらねえ。そんな金積まれたところで、俺の気が乗らなきゃ一歩も動かねえよ」


 響が吐き捨てるように言い放つと、執務デスクの御子柴渚が手元の端末を素早く叩き、淀みない口調で補足を入れた。


「響さん、その件に関するトリアージ基準はすでに策定済みです。真鍋3佐のホットラインに届いた接触要請は全件こちらの秘書端末へ転送させ、発信元の資産背景、政治的リスク、および現場の深層データを一次精査します」


 渚は手帳に目を落とし、冷徹かつ的確に事実を整理していく。


「ただの金持ちの延命や利権絡みの我儘は、私が窓口の段階ですべて門前払いにします。ただし、響さんにとって実利のある特級魔石の回収が見込める案件、あるいは自衛隊の防衛ライン維持に直結する重要事案に限り、条件を精査した上で響さんのデスクへお通しします。響さんが余計な判断に煩わされる必要はありません」


 的確すぎる秘書のスクリーニング体制に、真鍋は感服したように息を吐き、響は満足そうに口端を吊り上げた。


「さすがだな、渚。話が早くて助かるぜ。全部お前の基準でふるい落としてくれ」


「承知いたしました。響さんが動くに値しない案件は、すべてこの『却下』で処理しておきますね」


 渚は受け取ったばかりのスタンプを軽く指先で回し、静かに頷いた。


 ◇


 太平洋を隔てた遥か彼方、アメリカ合衆国――。


 崩落した地下鉄の閉鎖空間から救い出され、いまや全米最大の覚醒者連盟【レゾナンス】の中枢幹部となったクロエは、マンハッタン本部ビルの最上階執務室へと足早に駆け込んでいた。


「ステラ代表代行! 極東の日本から緊急電文です!」


 手にした暗号端末には、入間基地の外周フェンス脇に急造された「レゾナンス日本支部」の登記情報、そして六本木ヒルズで決行されたあの凄惨な「公開解体ショー」の衛星傍受データが映し出されていた。


「――ヒビキ様が、極東でご自身の拠点を構えられました。ですが……組織の構造が不可解です。本部の最高指導者であられるあのお方が、なぜか『日本支部』の長という枠組みに自ら収まっています」


「投射加速」の異能を磨き上げ、冷徹な実力者となったクロエの双眸にも、明らかな困惑の色が浮かんでいた。かつて地下鉄の暗闇で、命を救われ、優しく微笑みかけられたあの絶対の存在が、なぜ末端の支部長のような肩書に甘んじているのか。


 だが、豪奢なデスクに座るステラ・ヴァレンタインは、プラチナブロンドの髪をかき上げ、陶酔に満ちた深い溜息を漏らした。


「ふふ……困惑することなど何もないわ、クロエ」


 ステラは立ち上がり、マンハッタンの摩天楼を見下ろしながら誇らしげに微笑んだ。


「あのお方にとって、権力の序列や組織図の上下など、路傍の小石ほどの意味も持たないのよ。マンハッタンの超高層ビルだろうと、極東の古びた宿舎だろうと、あのお方が腰を下ろされた場所こそが、世界の中心……真のリゾナンスの御座所(ぎょざしょ)なのよ!」


「なるほど……本部の下に支部があるのではなく、『ヒビキ様のいらっしゃる場所こそが世界のすべて』、というわけですね」


 クロエが深く納得したように頷いたその時、執務室の重厚な扉がノックもなしに勢いよく開け放たれた。


「ステラ! 噂は本当かい!? あの気高き英雄が、極東で牙城を築いたというのは!」


 飛び込んできたのは、アカデミー賞常連の世界的人気アクション俳優、ブラッド・ハミルトンだった。マンハッタンの赤レンガ倉庫街で孤立し、トラックほどもある甲殻種の怪異に叩き潰されかけた瞬間、音もなく舞い降りた黒髪の戦乙女に魂を奪われた男だ。


「ヒビキが日本で立ち上がったんだ! すぐに私の個人財団から100億ドル規模の支援物資を空輸させよう! 彼女の美しい黒髪と白皙の肌を損なわない最高級の防護シルク、特注の調度品、そして専属の警護班を今すぐ横田基地経由で――」


「落ち着きなさい、ブラッド。ヒビキ様が中身のない飾り付けを最も嫌われることは、あなたも知っているでしょう」


 ステラがピシャリと制したその瞬間、デスクの上に置かれた統合参謀本部(ペンタゴン)直通の暗号ホットラインが、耳障りな電子音を激しく鳴り響かせた。


 ステラが通話ボタンを押すと、スピーカーから漏れ出てきたのは、国家軍事指揮センター(NMCC)の最高幹部、ライアン少将の押し殺した焦燥の声だった。


『……ステラ代表代行、話は耳に入っているな?』


 かつてペンタゴンの特別室で、スティーブンス大将の傲慢な態度に激怒した響から「ご勝手に滅びなさい」と切り捨てられ、合衆国の威信をかなぐり捨てて平伏した記憶は、今なおライアンの脳裏に焼き付いて離れていなかった。


「ええ、ライアン少将。ヒビキ様が日本支部を設立された件ですね」


『我が軍の情報本部も、六本木ヒルズにおける“害虫駆除の生中継”をリアルタイムで傍受した。……相変わらずだ、あの怪物は。たった1人で関東最大の武装勢力を更地に変え、全国放送で「社会のゴミ」と笑ってみせた。大統領府も統合参謀本部も、完全に肝を冷やしている』


 受話器の向こうから、冷や汗を拭う気配が伝わってくる。


『問題は、日本の自衛隊だ。入間基地の真鍋という狡猾な男がヒビキを囲い込み、あまつさえ黎明コンソーシアムの兵糧攻めに対して「米軍ペンタゴンが後ろ盾にいる」とハッタリをかました。……だが大統領府の判断は一致している。あれをハッタリにしてはならん、とね』


「当然ですわね。ヒビキ様のお言葉を虚飾にするような真似をすれば、今度はホワイトハウスの上空から劣化ウラン弾が撃ち落とされますよ?」


『……冗談に聞こえんからやめろ。実際、合衆国にとって彼女とのパイプを失うことは、国家防衛網の完全な喪失を意味する。日本の防衛省や官邸にヒビキを独占されるわけにはいかんのだ。ステラ、リゾナンス本部として、直ちに日本支部への専属連絡官と支援物資を派遣しろ。米軍規格の最新式暗号通信機、衛星回線、防護車両……合衆国が提供できる最高峰の資材を、横田経由で入間の旧宿舎へ叩き込むんだ』


「言われずとも準備しています。ヒビキ様の不興を買うような無能な使者を送れば、首を刎ねられるのはこちらですから」


 通話を終えたステラは、鋭い眼光を取り戻してクロエへ向き直った。


「クロエ。本部の備蓄庫から最高純度のS級魔石を木箱で3つ。それと、ブラッドの申し出にあった最高級の生活物資の中から、真に実用的なものだけを厳選してコンテナに詰めなさい。宛名は――」


 ステラはかつて響が駆け抜けたニューヨークの空を見上げ、艶やかな笑みを浮かべた。


「『レゾナンス最高代表 安藤響様。全米のリゾナンスは、常に貴女の足元にあります』――これで通しなさい」


 遠く離れた極東の入間基地で、本人が「快適な寝床と美味い飯」のことしか頭にないとは夢にも思わず、アメリカ首脳陣の焦燥とレゾナンス本部の熱狂は、太平洋を飛び越えて入間基地の「旧宿舎」へと殺到しようとしていた。


 ◇


 太平洋を挟んだ合衆国と日本の狂乱を余所に、旧世界の秩序はユーラシア大陸全土、そして極北の地に至るまで、音を立てて崩壊の底へと滑り落ちていた。


 感染爆発(パンデミック)とダンジョンの多発侵食は、国境線の概念そのものを無効化していた。


 かつて14億の民を誇ったアジア大陸の中原では、黄河と長江の流域に穿たれた数百に及ぶ侵食孔から溢れ出た異形の群れが、主要都市の防衛線を次々と呑み込んでいた。正規軍による重砲撃とミサイル網は、地下から噴き上がる魔力の瘴気によって誘導を狂わされ、市街地ごと焦土と化してもなお、這い出てくる獣の波を押し留めることができない。


 冬の気配が迫る北欧・スカンディナヴィア半島でも事態は深刻を極めていた。フィヨルドの断崖を切り裂いて出現した凍結迷宮から冷気と巨獣が吹き荒れ、スウェーデン、ノルウェーの防衛インフラは寸断。地下鉄網がそのまま氷穴と化したストックホルムでは、わずか数日で数万人の市民が孤立し、厳冬の暗闇の中で救援を待ち望んで凍え返っていた。


 東欧の穀倉地帯、東南アジアのジャングル、中東の油田地帯――。

 世界中の国家元首たちが直面したのは、「近代兵器の弾薬をいくら撃ち尽くしても、空間の裂け目から湧き出る異界の軍勢には勝てない」という冷酷な現実だった。


 その破滅の瀬戸際において、世界各国が藁をも掴む思いで飛びついたのが、いわゆる『アメリカ・モデル』と呼ばれる緊急事態対処法であった。


「軍の指揮系統による覚醒者の強制徴募・兵器化の完全破棄」

「測定機器による客観的な身体・魔力能力のランク付け(S〜F)」

「民間覚醒者を主体とする自治組織『ギルド』の創設と、信賞必罰の魔石換金市場の保証」

「ギルド傘下における戦闘集団『クラン』の結成自由化と、防衛拠点の民間委託」


 かつてペンタゴンの地下で響がスティーブンス大将を切り捨て、ライアン少将に叩きつけたあの統制理論。大統領首席補佐官が日本政府から測定技術と運用ノウハウを緊急供与させ、合衆国全土の立て直しに成功したそのシステムは、国際舞台において「合衆国が確立した最新鋭の覚醒者統御ドクトリン」として瞬く間に世界中へ喧伝されていた。


 大元を辿れば、極東の島国で響という規格外の怪物を手綱に収めるために防衛省と自衛隊が編み出し、響自身がペンタゴンの将官どもに「そうしなければ自滅する」と突きつけた知恵に過ぎない。しかし、外聞を重んじる大国群にとって、それは「救国の合衆国モデル」という看板で輸入されるのが都合が良かった。


 各国の首都では、大統領令や緊急勅令が矢継ぎ早に乱れ飛んだ。


 ベルリン、パリ、ロンドン、ニューデリー――。

 軍の階級章を剥奪された覚醒者たちが「冒険者」「討伐員」としてギルドに登録され、油圧測定器と魔力感応紙によって即席のランク証を首から下げさせられる。命の値段が魔石の相場と直結し、旧社会の通貨ではなく現物の配給と特権を求めて、無数の民間クランが雨後の筍のように乱立していった。


 だが、制度の形だけをいくら真似たところで、決定的な「戦力」が追いつくはずもない。


 特に今、破滅の淵で最も悲鳴を上げていたのは――。


 ◇


 入間基地・稲荷山門脇に新設された「レゾナンス日本支部」の事務所。


 朝の冷え込んだ空気が残る執務室で、響は黒革のソファに浅く腰掛け、葵が淹れたばかりの湯呑みから立ち上る茶柱をぼんやりと眺めていた。


 デスクで端末を叩いていた真鍋3佐が、公用書類から顔を上げて眼鏡のブリッジを押し上げる。六本木ヒルズを更地に変えたあの生中継の余波、そして米軍横田基地から届き始めた支援物資の受領手続きで、真鍋の目の下には濃い隈が刻まれていた。


「……響さん。先ほどから何やら考え込んでいるようですが、何か入用ですか? 基地のPXで手に入る物なら、葵さんに言って調達させますが」


「いや、飯や日用品の話じゃねえよ」


 響は湯呑みをソーサーへ置くと、組んでいた足を組み替え、肘掛けに頬杖をついた。


「真鍋さん。一応刀でもいいんだけどな、ちょっと試したいことがあってさ。――拳銃を1丁、手配できねえか?」


「……拳銃、ですか?」


 真鍋の手がピタリと止まった。奥の救護デスクで薬品棚の整理をしていた御子柴渚の手も止まり、ソファの横でモップがけをしていた唯に至っては、目を丸くして振り返る。


「響さん、あなた素手でベヒモスの首を圧折り、パチンコ玉で小銃弾以上の威力を叩き出すのに……今さら拳銃なんて玩具、何に使うんですか? 刀じゃ不満なんですか?」


 唯の素朴な疑問に、響は小さく首を横に振った。


「一応、刀でもいいんだけどな。ただ、密閉された薬室からライフリングを通して火薬で撃ち出す弾丸に、魔力コーティングを乗せたらどうなるか……その挙動と火力をテストしてみたいんだよ」


 理路整然とした実験の動機を聞き、真鍋は「なるほど」と頷きながら、執務デスクの引き出しから1つの頑丈なガンケースを取り出した。


「拳銃の配備であれば、自衛隊が長年制式採用している信頼と実績の国産拳銃がありますよ。――ミネベア製の『9mm拳銃』です」


 真鍋はケースを開け、黒光りする無骨な拳銃を恭しく提示した。


「スイスのSIG P220をライセンス生産したもので、命中精度は折り紙付きです。自衛隊の幹部や警備隊が使い続けてきた伝統の1丁でしてね。操作系統もシンプルで、初学者が基礎を叩き込むにはこれ以上のものはありません。まずは我が国の制式品をおすすめします」


 さらに真鍋は、別のケースから大口径のリボルバーを取り出し、したり顔で能書きを並べ始めた。


「あるいは、威力を最優先されるならこちらです。横田基地の米軍支援物資に紛れ込んでいた、.357マグナム弾を使用するS&Wの大型回転式拳銃。対人用のオートマチックとは一線を画す破壊力で、モンスターの分厚い表皮や骨すら正面から粉砕できます。響さんの人外の膂力をもってすれば、マグナムの強烈な反動も完全に制御できるはずです」


 得意満面にプレゼンを繰り広げる真鍋に対し、響は眉をひそめ、2丁の銃を心底退屈そうに見下ろした。


「……真鍋さん」


「はい、どちらになさいますか?」


「自衛隊のその9ミリ拳銃、弾は何発入るんだ?」


「ええと……単列弾倉(シングルカラム)ですので、マガジンに9発です」


「はあ? たった9発かよ。少なすぎて話にならんわ。撃ち合いの最中に頻繁にマガジン抜き差しするなんざ、手間ばかり増えて面倒くさいだろ」


 響は吐き捨てるように自衛隊の制式銃を切り捨てると、次にマグナムリボルバーを指先でツンと小突いた。


「それに、このデカい回転式のやつ……なんだよこれ。シリンダーがボコッと横に突き出てて、全体のシルエットが絶望的に不格好じゃねえか。銃身ばかり長くてバランスも悪いし、何より見た目がダサい。装弾数も5、6発だろ? 論外だ」


 容赦のない酷評に、真鍋は額に青筋を立てて息を詰まらせた。


「だ、ダサいだなんて……! リボルバーの機能美とマグナムの浪漫が分からないのですか!? 9mm拳銃だって自衛隊の誇りですよ!」


「浪漫で飯は食えねえんだよ。実用的で、装弾数が多くて、腰に差しててサマになるやつを寄越せ。……あっちの米軍コンテナに積んであった、黒い小ぶりなやつはどうなんだ」


 響が顎でしゃくった先には、米軍規格のハードケースに収まった『SIG SAUER P229』があった。


 真鍋は眼鏡を押し上げ、渋々といった調子で解説を切り替えた。


「……あちらはSIG P229。アメリカのシークレットサービスや国土安全保障省が愛用しているプロ仕様のコンパクトピストルです。複列弾倉(ダブルカラム)仕様で、装弾数はマガジンに15発、薬室に1発で合計16発。削り出しのオール金属フレームで剛性も極めて高く、確かに現場での評価はトップクラスですが……」


「いいじゃねえか。装弾数16発なら文句ねえし、無駄な出っ張りがなくて形も引き締まってて格好いい。それに決めた」


「見た目の格好良さで選びましたね……」


 唯が横から呆れたように突っ込むが、響はどこ吹く風でP229のグリップを握り、重さとバランスを確かめるように手首を返した。手のひらにしっくりと馴染む金属の質感に、満足げな笑みを浮かべる。


「で、決まったはいいが、俺は実銃なんざ触ったこともねえぞ。引き金引けば弾が出る程度の知識しかねえ。誰に撃ち方を教わればいい? それと、どこで練習すりゃいいんだ」


 響が端的に尋ねると、真鍋はわざとらしく咳払いを1つ挟み、即座に2つの明確な手配を提示した。


「扱いを教わるなら、目の前に最適任がいます。――桐生1尉です」


 部屋の隅で直立不動を保っていた桐生が、名を呼ばれてビシッと背筋を伸ばした。


「桐生1尉は第1空挺団の幹部であり、陸自の特殊作戦群にも通じる近接戦闘(CQB)のエキスパートです。拳銃射撃の指導資格も保持しており、銃口管理(マズルコントロール)からマガジンチェンジ、ジャム(排莢不良)のクリアまで、即座に実戦レベルを叩き込めます」


「桐生か。腕は確かだし文句ねえな」


「お任せください、響さん! 構えの基礎からファストドロウまで、みっちり叩き込みます!」


 桐生が気迫を込めて敬礼を返すと、真鍋はタブレットのマップを操作しながら言葉を継いだ。


「そして練習場所ですが――入間基地には航空部隊の性質上、実弾射撃場がありません。通常、基地警備隊の実弾射撃訓練は近隣の陸上自衛隊・朝霞駐屯地や大宮駐屯地の屋内・覆道射撃場を借りて行っています。ですが、今回は米軍から供与された特務火器と、響さんの未知数な魔力弾頭テストです。防衛省や陸自の他部隊に余計な詮索をされるわけにはいきません」


 真鍋は眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。


「ですので、米軍横田基地へ飛びます。横田には米空軍の警備部隊(セキュリティ・フォース)が使用する最新鋭の完全密閉・防音屋内射撃場(CATM射撃訓練施設)があります。すでにライアン少将のホットラインを通じて、本日の午前枠をリゾナンス日本支部の『特別火器適合訓練』として貸し切りで押さえてあります。入間からヘリを出せば、わずか10分足らずで到着しますよ」


「なるほどな。米軍の息がかかった場所なら、誰にも邪魔されずにぶっ放せるってわけだ」


 響は口端を吊り上げ、P229をガンケースへと収めて立ち上がった。


「食えない男だな、真鍋さん。話が早くて助かるぜ。桐生、ヘリを回せ。横田へ行って、そのP229とやらを撃ち込んでみるか」


「了解! 直ちに飛行場地区へ連絡し、ヘリを手配します!」


 桐生が踵を返して駆け出し、響が後に続く。唯も「私も米軍の射撃場見学行きます!」と追いかけ、一行は横田基地の射撃訓練施設へと向かった。


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