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元勇者の帰還、術式失敗で(♀)になっていた。レベル1から現代のパンデミック迷宮都市を生き抜く  作者: 藤咲玲


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28/50

20話:清水町アパート

 第2整備格納庫のシャッターをくぐると、油と金属の匂いが立ち込めるフロアの中央に、1台のバイクがぽつんと置かれていた。


 つや消しの深緑色――陸自のオリーブドラブに塗られた、頑丈なガードパイプだらけの偵察用オートバイ、カワサキのKLX250だ。


 出迎えた整備班長が、自慢げにヘルメットを叩いて胸を張る。


「響殿、こちらが支給車両の偵察用オートバイです! がれきでも泥道でも転倒知らず、軽量でどんな悪路も走破できる現場の傑作機であります!」


 だが、響はその実用性全振りの泥臭い車体を一瞥するなり、盛大に眉をひそめた。


「……ダセぇ」


 容赦のない一言に、整備班長が目を見開いて硬直した。


「だ、ダサい……!? 実用性と堅牢性を極限まで突き詰めた、自衛隊の誇る制式車両ですぞ!?」


「泥んこ遊びするわけじゃねえんだよ。この無骨すぎるパイプまみれの緑色、まるっきり農道走るトラクターじゃねえか。却下だ、却下」


 手をひらひらと振ってKLXから背を向けると、格納庫の奥――隊員の私有車両や押収品が保管されている整備スペースへと勝手にズカズカ歩き出した。


 そして、埃よけのシートが半分めくれ上がっていた1台の大型車両の前でピタリと足を止める。


「おい、これにしろよ」


 響が指差したのは、鋭角的なフルカウルに身を包んだ、マットブラックの車体。

 低く構えた攻撃的なフロントマスクと、極太のマフラー、足回りを強化されたカワサキ・Ninja 650のカスタム車両だった。


「ひ、響さん、それは……! 避難民からの一時預かり品、というか基地外の放棄車両から回収してきた個人のカスタム車ですよ!?」


 慌てて追いかけてきた真鍋が声を上ずらせる。


「オンロード主体のスポーツツアラーですよ!? 車重もありますし、舗装が割れた悪路やダンジョン周辺の不整地を走るなら、絶対にさっきの偵察バイクのほうが適して――」


「細かい能書きはどうでもいいんだよ。乗るならこういうシャープで速そうなやつだろ。黒くて締まってるし、形も尖ってて悪くねえ」


 響はNinja 650のシートをポンと掌で叩き、口端を吊り上げた。


「足回りの車高を少し上げて、ブロックタイヤでも履かせりゃ多少のがれき道くらい走れんだろ。おい整備班、これ動くようにして俺のバイクとして登録しろ。異論は認めねえぞ」


 整備班長と真鍋は顔を見合わせ、規格外の怪物が放つ理不尽な拘りに、揃って深いため息をつくしかなかった。


 ◇


「なあ、葵」


 貴賓室の居間に置かれたローテーブルで、配給の書類を整理していた葵へ、響が唐突に声をかけた。


「お前の板橋のアパート……清水町のサンハイツだったか。あそこに何か取りに行きたいものはあるか? 下着とか着替えも足りてねえだろ」


「えっ……板橋の部屋、ですか? ……って、し、した……っ!? な、何をサラッと言ってるんですか響さんっ!?」


 葵は持っていたボールペンを取り落とし、両手でカッと熱くなった両頬を覆って耳まで真っ赤にした。


「下着って……そんなの、響さんに頼めるわけないじゃないですか! いくら同じ女性同士だからって、他人に自分のタンスの引き出しを開けさせるなんて、恥ずかしすぎて無理です!」


「あ? なに照れてんだよ。女同士なら減るもんでもねえだろ。細かいこと気にしてる場合か」


 平然と鼻を鳴らす響に、葵は顔から湯気が出そうなほど真っ赤になりながら、必死に両手を振った。


「ダメなものはダメです! いくら響さんでも、女の子の下着を人に頼むなんて恥ずかしすぎます! ……それに、それ以前の問題です!」


 ハッと我に返ったように表情を引き締め、真剣な眼差しで響を見つめる。


「板橋は今、自衛隊の人たちだって立ち入りを規制してるくらいの危険地帯なんですよ? 私の着替えや身の回り品なんかを取りに行かせるために、命の恩人である響さんにそんな危ない思いをさせるわけにはいきません!」


「危険も何も、相手はあの程度のゾンビと雑魚だぞ。バイクの慣らし運転のついでに蹴散らしてくるだけだ。……で、本当はどうなんだ? 自衛隊のゴワゴワした野戦用のシャツや下着で、ずっと我慢できるのか? 部屋に置いてきて困ってる物が山ほどあるんだろ」


 痛いところを突かれた葵は、「う……」と言葉を詰まらせた。

 自衛隊から支給された無骨でサイズの合わないインナーの着心地の悪さや、アパートに置き去りにしてきたスキンケア用品、どうしても手元に置いておきたい私物を思い出し、羞恥と切実な本音の狭間で視線を泳がせながら小さく身を縮こまらせる。


「はぁ……相変わらず無神経な人ですね、響さんは」


 冷たいお茶のペットボトルを片手に部屋へ入ってきた唯が、心底呆れ果てたようなジト目を響へ向けた。


「葵ちゃんの言う通りですよ。いくら同じ女同士だからって、年頃の女の子に『下着取ってきてやる』なんて真顔で言う奴がどこにいますか。デリカシーという概念を異世界……じゃなくて、どこかに置き忘れてきたんですか?」


「あ? 別に減るもんじゃねえし、生活必需品だろ。合理的な提案をしただけだ」


 響がポリポリと耳の裏を掻きながら悪びれもせずに言い返すと、唯は大きくため息をついて葵の隣に腰を下ろした。


「合理的だとしても、言い方ってもんがあるでしょうが。……でも葵ちゃん、悔しいけど響さんの言うことも一理あるのよね」


「え……唯さんまで?」


 目を白黒させる葵に、唯は肩をすくめてみせた。


「基地の支給品って、基本的に男物のOD色(オリーブドラブ)のシャツとか、ゴワゴワした綿の下着ばっかりだから。女性用のスキンケア用品なんて売店(PX)でも手に入らないし、ずっとこれで過ごすのは地味に肌もメンタルも削られるよ。響さんがバイクの慣らし運転で板橋方面に行くなら、ついでに部屋の荷物をまとめてきてもらうのは、実は一番安全で確実な手段なの」


「う……それは、そうなんですけど……」


 葵は耳まで赤くしたまま、膝の上のスカートをぎゅっと握りしめて押し黙った。


「ほら見ろ。唯だってそう言ってるじゃねえか。恥ずかしいなら鍵だけ寄越せ。箪笥の引き出しごと適当に引っ掴んで、目隠し用の袋に放り込んで持って帰ってきてやるよ」


「絶対に見ないって約束してくれますか……!?」


 涙目で睨みつけてくる葵の必死な訴えに、響はあっけらかんと鼻を鳴らした。


「見ねえよ、興味ねえし。それにアレだろ、唯のJカップだか何だか知らねえが、目ん玉ひん剥くような爆弾ブラじゃあるまいし、葵のなら普通のサイズだろ」


 響が平然と言い放った瞬間、唯の顔が耳の先まで一気に真っ赤に染まった。


「な、なんであの時の身体測定の数字を覚えてて、今ここで蒸し返すんですかッ!!」


「事実を言っただけだろ。身長149 cmでB98なんて爆弾、嫌でも頭に残るっつーの」


 響は耳の裏をポリポリと掻き、顔から湯気を出す唯の猛抗議をひらりと受け流した。


「ほら葵、鍵。余計なもん喋ってねえで、さっさと渡せ」


 ◇


 マットブラックのNinja 650カスタムが、低く鋭い排気音を整備格納庫のコンクリートに反響させた。


 足回りの車高をわずかに上げ、悪路用のブロックタイヤを履かせた車体は、無骨さと洗練された攻撃性が同居する独特の威容を放っている。シートに跨がった響は、葵から手渡された真鍮の合鍵と、走り書きされたメモ用紙をジャケットの内ポケットへと無造作にねじ込んだ。


「響さん、くれぐれも無茶はしないでくださいね……! 危険そうなら、荷物なんて放り出してすぐに戻ってきてください!」


 心配そうに眉を八の字にする葵の隣で、真鍋3佐が公用タブレットを提示してくる。


「響殿、板橋区一帯は現在も自衛隊の第1種警戒区域に指定されています。都県境の検問所を抜ける際、渋谷で作ったような現場の暫定カードでは、防衛省の照合システムに弾かれて足止めを食らいます。国道254号線――川越街道を南下する途中に、朝霞駐屯地の特設検問ゲートがあります。そこで公的なICチップ入りの『正規覚醒者証』へ切り替えてから向かってください」


「検問で引っかかるのは面倒だからな。了解した」


 響はフルフェイスのバイザーを下ろし、クラッチを繋いだ。

 唸りを上げたNinjaは滑走路の誘導路を一気に駆け抜け、入間基地の正門を抜けて国道254号線へと躍り出た。


 放棄された車両が路肩へ押しやられ、自衛隊の装輪装甲車が定期巡回する川越街道を、時速80 km巡航で軽快に南東へ飛ばす。やがて埼玉県と東京都の境に位置する広大な軍事拠点――陸上自衛隊・朝霞駐屯地の特設ゲートが見えてきた。


 ゲート周辺には厳重なバリケードが築かれ、鉄条網の内側にはプレハブの受付テントが立ち並んでいた。

 関東一円の覚醒者管理と能力測定を一手に担う本拠地だけあって、敷地内にはタクティカルベストや金属鎧を着込んだ民間クランの覚醒者たちが列を作っている。


「おい、次の測定枠だ! 筋力測定でCランク基準を叩き出せば、大手の『黎明』から声がかかるかもしれねえぞ!」

「実技試験でいいところ見せて、Bランクの固定給枠をもぎ取ってやる!」


 功名心と焦燥に満ちた熱気が渦巻く中、響はバイクを停め、ヘルメットを小脇に抱えて受付窓口へと歩み寄った。

 対応に当たっていた受付の自衛官が、響の差し出した渋谷の仮登録証と端末の画面を見比べ、ペンを走らせる。


「安藤響さんですね。渋谷の現場カードからの本登録切り替えです。それでは奥のグラウンドで総合筋力測定、および実技模擬戦の受託手続きを――」


「実技も詳細な能力測定も受けねえよ。時間の無駄だ」


 響は窓口のカウンターに手をつき、億劫そうに鼻を鳴らした。


「一番下の『Fランク』で構わねえ。検問を抜けるための正規ICカードをさっさと寄越せ」


「えっ……実技も測定も拒否ですか!? い、いえ、しかし規則上、一般人の立ち入り事故を防ぐため、覚醒者としての最低限のフィジカル基準を証明していただかなければ登録を却下することになります! せめて窓口備え付けの、こちらの簡易油圧握力計を握ってください。成人男性の一般平均――50 kg以上の数値が出なければ、Fランク証すら発行できません!」


 隊員がカウンターの上へ差し出してきたのは、ゴツいスチールフレームにデジタル表示板がついた業務用油圧測定器だった。

 魔獣の肉片やダンジョン内の瘴気によって筋力が異常発達した覚醒者と、非覚醒の民間人を線引きするための、最も手っ取り早い物理テスターだ。


「これ握りゃいいんだな」


 響は溜め息混じりに、黒いグローブを外して油圧計のグリップへ無造作に右手を添えた。


 [身体強化]のスキルは完全にオフ。現在の生身の筋力値は「力:78」――一般成人男性の基準を遥かに超えており、本気で握れば油圧シリンダーごと測定器を粉砕しかねない。指先の筋繊維にかかる力を慎重に間引き、普段の地力の3分の1程度にまで意図的にセーブして、グリップを軽く絞り込んだ。


 ピピッ――。


 電子音が鳴り、液晶画面に【68 kg】という数値が表示された。

 一般成人男性の平均(約45〜50 kg)を明確に上回り、女性としては規格外、覚醒者としては「前衛のCランク下位〜中堅アタッカー」に相当する、ほどよくまとまった実用的な数値だ。


「お……68 kg! 小柄な女性でこれだけの筋力があれば、十分前衛のCランク枠として通りますね! 実技や魔力測定を受ければ、さらに上位のランク手当が出ますが……本当にこのままでよろしいのですか?」


「要らねえよ。Fでいいから、早くカードを出せ」


「は、はい……!」


 有無を言わせぬ響の冷徹な眼光に気圧され、隊員は脂汗を流しながら端末のエンターキーを叩いた。


 周囲の探索者たちが、遠巻きにざわめき始める。


「おい、見たか……? あの華奢な体つきで片手68 kgかよ」

「女でそれなら、前衛のCランク連中とタメ張れるぞ」

「なのに実技も受けずにFランクで済ませるって、何者なんだあいつ……?」


 怪訝な視線とざわめきが背中に集まるが、響は意に介さず、機械から吐き出された薄いプラスチックカード――『Fランク覚醒者・安藤響』と印字された正規のICカードを受け取ると、ポケットへ放り込んで即座に背を向けた。


 嘲笑から畏怖へと変わりかけた男たちの視線を置き去りにし、再びNinja 650へと跨がる。


 セルモーターが一閃し、直列2気筒の重低音が朝霞の空気を震わせた。

 響は手に入れたばかりの正規Fランク証を胸ポケットの上から軽く叩き、検問ゲートの自衛官へ顎をしゃくった。


「通るぞ」


「は、はい! 通行コード確認、ゲート開きます!」


 開いた遮断桿の向こうへ、Ninjaはアクセル一閃で飛び出した。

 朝霞の検問を難なく抜けた響は、再び川越街道を東へ――かつて命からがら逃げ延びた危険地帯、東京都板橋区の封鎖エリアへと単身バイクを疾走させていった。


 ◇


 Ninja 650は川越街道を抜け、国道17号線(中山道)を板橋方面へと滑らかに駆け抜けていた。


 目指す清水町のアパートまであとわずかという位置、都営三田線・志村坂上駅の交差点に差し掛かったところで、響はスロットルを戻し、歩道脇へとバイクを滑り込ませた。


 駅の出入口階段の周囲には、無骨な仮設バリケードと鉄条網が張り巡らされ、厳重な検問ゲートが設置されている。

 地下へと続く薄暗い階段の奥からは、生ぬるい風とともに、濃密なダンジョン特有の瘴気と魔力の残滓が吹き上がってきていた。


 バリケードの前では、小銃を携行した自衛隊員数名が目を光らせている。周囲には「立ち入り禁止」「特定警戒指定区域:志村坂上迷宮」の看板が物々しく掲げられていた。


(……へえ、こんな駅の地下までダンジョン化してやがるのか)


 ヘルメットを脱いでシートの上に置いた響は、首を軽く鳴らしながらゲートへと歩み寄った。

 清水町で葵の私物を回収する前に、足回りの確認と手慣らしを兼ねて間引きをしておくには手頃な規模に見えた。


「すみません」


 歩哨に立っていた隊員が、単身近づいてきた小柄な女性に気づき、制止の手を掲げた。


「止まってください。ここから先は地下ダンジョンとして封鎖されています。一般の方の立ち入りはできません」


「一般人じゃない。覚醒者だ。さっき朝霞で正規の登録証を発行してもらったところだ」


 響はジャケットの内ポケットから、先ほど手に入れたばかりのプラスチックカードを取り出し、隊員へと提示した。


 隊員が端末にカードをかざし、ICチップを読み取らせる。

 ピピッ、と電子音が鳴り、液晶画面に照合結果が表示された。


【照合完了:安藤 響(Fランク覚醒者)】


 隊員は画面の「Fランク」の表示と、目の前に立つ響を交互に見比べ、困惑したように眉を寄せる。


「登録自体は正規のものですが……Fランクですね。ここは地下第1層からゴブリンや大型の変異蜂の群れが確認されている危険区域です。安全基準上、最低でもCランク以上の探索クラン、または自衛隊の同行支援がある場合のみ進入を許可する規定になっています。単独での進入はおすすめできません」


「規定は分かった。だが覚醒者証がある以上、自己責任での進入自体は法的に制限されていないはずだろ。ついでに中の魔獣を少し間引いて、安全マージンを作ってやるよ。余計な迷惑はかけない」


 響が落ち着いた口調で淡々と正論を告げると、隊員は押し黙り、隣の同僚と顔を見合わせた。

 取り乱す様子も功名心に逸る気配もなく、ただ事務的に任務をこなすような静かな眼差しに、ただならぬ練度を感じ取ったようだった。


「……分かりました。制度上、覚醒者本人の強い意志による単独進入を物理的に拘束して止める権限はありません。ただし、救助要請が出ても即応部隊は出せませんよ。完全に自己責任となります」


「了解した。手短に済ませて戻る」


 隊員が操作盤のキーを回すと、鉄骨の仮設ゲートが鈍い金属音を立てて開いた。


 地下へ続く階段の奥から、獲物の気配を察知したモンスターの微かな羽音と足音が反響してくる。


 響は腰の長刀の鯉口を親指でわずかに押し上げ、暗闇が口を開ける地下階段へと、躊躇なく足を踏み入れた。


 改札口を通り抜けた響は、薄暗い階段をゆっくりと下り、都営三田線の地下ホームへと降り立った。


 湿った冷気とともに、生温かい血と腐敗の臭いが鼻腔を突く。

 線路上には、発災時に運行を停止した都営6300形電車の6両編成が、青白い非常灯だけを明滅させて静かに佇んでいた。


 ガガガガッ――!

 甲高い小銃の連射音と、男たちの怒号が金属の車内に反響している。


 開け放たれた乗降扉の向こうでは、先遣の陸上自衛隊員三人と、タクティカルギアを身に纏った民間Cランククランの覚醒者四人が、背中を預け合って必死の防戦を繰り広げていた。

 天井の配管や網棚からは体長1 mを超える巨大な変異蜂――ヘインバッチが鋭い羽音を立てて急降下を繰り返し、通路の足元からは歪な短剣を握ったストレイ・ゴブリンの群れが雪崩れ込んでいる。


「弾幕を途切らせるな! 蜂の毒針を前に通すなッ!」

「くそっ、ゴブリンの数が多すぎる! ホームへ押し戻されるぞ!」


 覚醒者たちの魔力障壁はすでにひび割れ、隊員の小銃弾も残弾が尽きかけていた。前衛の盾役が膝をつき、壊滅の危機が迫る。


 そんな修羅場の真横を、響はポケットに片手を突っ込んだまま、退屈そうにホームの縁を歩いていた。


 ブンッ、と空気を切り裂く羽音とともに、1匹のヘインバッチが響の無防備な側頭部を目掛けて急降下してきた。鋼鉄すら貫く毒針が、眼前数センチメートルまで迫る。


 視線すら向けず、鬱陶しい蚊でも追い払うように、左手を無造作にパチンと横へ振り払った。


 ただの裏拳のような、脱力したスナップ。

 だが、その指背が外殻に触れた瞬間――。


 ドゴォッ!!


 爆発的な質量差による破壊音が轟いた。

 直撃を受けたヘインバッチの頭部と硬質甲殻が一瞬で粉微塵に破砕され、内臓と体液の飛沫を撒き散らしながらホームの柱へと叩きつけられた。


「ギギャッ!?」


 異様な炸裂音に反応したゴブリンの1匹が、血走った目を剥いてホームの縁から飛びかかってくる。錆びた短剣を振り上げるその顔面へ、歩みを一切止めることなく、鬱陶しそうに右手の甲を軽く振った。


 ボグゥッ――!!


 短剣ごと顔面を捉えた裏拳の衝撃は、音速を超えて頭骨を粉砕した。

 吹き飛んだゴブリンの身体は弾丸のような速度で真横のコンクリート壁へと激突し、骨肉の原形を留めぬまま、グチャリと無残な赤い染みとなって壁面へ塗り込められた。


「……あ?」


 車両のドア際で必死に引き金を引いていた自衛官の指が止まる。

 魔力障壁を構えていたCランク覚醒者の男が、顎が外れそうなほど口を開けて硬直した。


 ただ顔の前を手で払っただけだ。

 構えも気合も、魔力の予兆すら一切ない。まるでまとわりつく蝿を払うかのような横着な動作で、Cランクのフルパーティが苦戦していた魔獣が、2匹まとめて肉塊と壁の染みへと変換されていた。


 静寂が支配しかけたホームで、響は振り払った手の甲をパパッと払い、足元の線路へと静かに飛び降りた。

 6300形の開いたドアの前で呆然と立ち尽くしている覚醒者の男へ、ふと思い出したように顔を向ける。


「なあ、ここら辺でボスはどこにいるんだ?」


 散歩のついでに道を尋ねるような、あまりにも気の抜けた問いかけだった。

 顔面を蒼白にし、血の気の引いた手で大剣を握りしめていた男は、壁の染みと化したゴブリンの残骸と響の顔を交互に見比べ、引き攣った声を絞り出した。


「は……? ボス……? そ、そんなのここら辺にいるわけねえだろ! まだ第1層の駅構内だぞ! 階層主なんて、もっと線路の奥……志村三丁目か蓮根の深いとこまで潜らなきゃ――」


「ああ、なるほどな」


 響は男の言葉を途中で遮るように小さく頷き、薄暗いトンネルの先を一瞥した。

 奥から漂ってくる気配は、雑魚の蜂やゴブリンの群ればかりで、手応えのありそうな巨大な魔力反応は遥か遠く、何キロメートルも先にあるらしい。


「みんなこんな感じか。じゃあ俺帰るわ」


 あっさりとそう言い捨てると、何の未練もなく踵を返した。


「え……ちょ、帰るって、お前……!?」


 背後から上がる覚醒者たちの間抜けな制止の声など気にも留めず、響はひょいとホームの縁に手をかけて身軽に飛び上がった。

 粉砕したヘインバッチの体液を足元で器用に避けながら、改札口へと続く階段をトントンと軽快な足取りで上がっていく。


 改札口を抜けて地上へ戻ってきた響は、眩しそうに目を細めた。


 出入口のバリケード前では、小銃を構えた自衛隊員たちが緊張した面持ちで周囲を警戒していた。突入してから数分も経たずに戻ってきた小柄な女性の姿に、先ほどICカードを照合した隊員が目を丸くして駆け寄ってくる。


「あ、安藤さん!? もう戻られたんですか……!? やはり単独進入は危険すぎましたか、怪我はありませんか!?」


 響は首を軽く回して関節をコキリと鳴らし、ヘルメットを抱え上げながら歩哨の隊員たちへ向けて平然と言い放った。


「中に入ってんのは、四、五人の自衛官と民間覚醒者だろ。直近の危険は排除しといたから、たぶんもう大したことねえわ」


「え……? 四、五人って、先遣隊の小隊と『赤羽レギオン』の連中ですか!? 排除したって、あの大量の蜂とゴブリンを……!?」


 隊員たちが呆気にとられて口をあんぐりと開けるのを横目に、響は歩道脇に停めていたNinja 650へと歩み寄った。

 シートに腰を落とし、ヘルメットを被ってバイザーをパチンと下ろす。


 セルボタンを押すと、直列2気筒の低く唸るようなエキゾーストノートが再び中山道の交差点に響き渡った。


「じゃあな。回収班でも出してやれよ」


 クラッチを繋ぎ、スロットルを一気に捻る。


 ◇


 Ninja 650は中山道を外れ、静まり返った板橋区清水町の住宅街へと滑り込んだ。


 放棄された車両が散乱し、完全にゴーストタウンと化した通りを進み、目的の2階建てアパート「サンハイツ」の前へとバイクを寄せる。響は外階段を足音もなく駆け上がり、「202号室」のドアの前で葵から預かった真鍮のキーを鍵穴へと差し込んだ。


 カチリと解錠音が響き、金属製のドアを静かに押し開ける。


 扉を開けると、そこは一歩で靴を脱ぐような極めて手狭なタタキになっていた。

 上がってすぐの右手に古びた引き戸の押し入れがあり、その先は6畳一間の簡素な和室が広がっている。天井からは紐のついた昔ながらの丸型蛍光灯が1つポツンと吊り下がり、外に面した唯一の窓には、遮光性の低そうな薄手のカーテンが引かれていた。


 畳敷きの部屋には、一人暮らしには少々窮屈そうなシングルベッドと小さなローテーブルが強引に配置されている。

 室内には争った形跡も荒らされた様子もなく、あの日、いつも通りコンビニのシフトへ向けて出勤していった日常の空気のまま、静まり返っていた。


 響は内ポケットから葵の走り書きのメモを取り出し、手早く回収を行う。


 靴を脱いで上がると、まずすぐ右手にある押し入れの襖をガラリと引いた。

 中段に掛けられていた厚手のダウンジャケットやフリースなど、これからの冷え込みを凌ぐ防寒具を掴み取ってアイテムボックスへ収納する。

 下段に収められた透明なプラスチック衣装ケースを引き出し、普段着数着と、丸められた布切れをいくつか掴み、「まあ、多分これのことだろうな」と確認もせず機械的にまとめて放り込んだ。


 押し入れを閉めて畳の上へ進み、部屋の中央に置かれたローテーブルの前へ膝をつく。

 浅い引き出しを開けると、メモにあった通り、親から預けられていた地方銀行の通帳と届出印、そして茶封筒に入った数万円の非常用現金が綺麗に収まっていた。それらを手に取り、そのまま収納する。


 ローテーブルの脇からベッドの枕元に置かれた小さなラックへと視線を移す。

 そこには卓上鏡と、避難所では手に入らない葵愛用のボトル入り化粧水、乳液、チューブの洗顔料、ヘアブラシといった基礎化粧品が並んでいた。女性の生活に必要なスキンケア一式を手早く収め、ふとローテーブルの隅に置かれていた小さな木製の写真立てに目を留めた。


 旅行先だろうか、少し照れくさそうに笑う両親と、真ん中でピースサインを作る高校生時代の葵が写った1枚の写真。

 響はその写真立てを手に取り、薄く被っていた埃を指先でサッと払うと、丁寧にアイテムボックスへと収めた。


「念のためいっちょらの布団も持ってってやるか」


 ベッドの上に整えられていた掛け布団と毛布を見下ろし、響は呟いた。


 基地の無骨なパイプベッドや薄い毛布とは違う、使い慣れた羽毛布団の温もりは、避難生活において何物にも代えがたいはずだ。ボックスの容量にはまだ余裕がある。


 響は無造作に腕を伸ばし、ふんわりとした掛け布団をシーツごと丸め込むと、そのまま収納空間へと放り込んだ。がらんとしたベッドのマットレスを背に、部屋の扉へ向かう。


「よし、回収完了だな」


 部屋を出て鍵を確実に施錠し、外階段を一気に駆け下りる。

 Ninjaのエンジンを始動させると、響は一切の無駄な足止めを排してスロットルを捻り、入間基地への帰路へと車輪を滑らせた。

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