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元勇者の帰還、術式失敗で(♀)になっていた。レベル1から現代のパンデミック迷宮都市を生き抜く  作者: 藤咲玲


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17話:『深淵の熊鍋と、海を越えた共鳴(リゾナンス)』

 第60層――マンハッタン全域を呑み込んだ巨大侵食孔の最奥部。


 地下鉄網の名残など完全に消滅し、崩落したビル群の基礎と巨大な片岩層が露出した、ドーム状の大空洞が広がっていた。空間全体がまるで巨大な心臓のように脈打っており、この迷宮を統べる「核」、すなわちニューヨーク侵食孔の頂点――最深部の階層主が潜む処刑場だった。


 乾燥した冷気が渦巻く中、地響きとともに暗がりから姿を現したのは、体高5メートル、体長8メートルを超える完全四足歩行の漆黒巨獣。

 第60層階層主、アビス・ヘルベア・ロード(深淵の暴食熊王)。


 全身を覆う剛毛は鋼線並みの硬度を誇り、踏みしめる前肢の一歩ごとに足元の岩盤が蜘蛛の巣状に砕け散る。放たれる魔力の重圧は、これまでに屠ってきた階層主たちをも凌駕し、肌を刺すような威圧となって空間を支配していた。


「グルルルルォォォォンッ!」


 空気を爆ぜさせる咆哮がフロア全体を揺らし、天井から粉塵が雨のように降り注ぐ。


 岩場に立つ響は、吹き荒れる突風を浴びても身じろぎ一つせず、冷徹な双眸でその巨躯を捉えていた。


「なるほど、この侵食孔の親玉か。……図体も魔力量も、道中の雑魚とは桁が違うな」


 背後で腰の鞘から、ペンタゴンを発つ際に米軍から支給された炭素鋼の大型軍用マチェットを引き抜いた唯が、その巨躯を見据えて油断なく切っ先を据えた。刃渡り45センチメートルの黒い刀身に魔力を通し、低く引き締まった声で告げる。


「……っ、あの前肢、掠っただけで私の身体なんて粉々になりますよ。――響さん、どう動きますか」


「下がるんだ。お前の現在の数値じゃ、余波の衝撃波だけで内臓が潰れる」


 響は振り返ることもなく、冷え切った声で短く命じた。

 抜身の刀の切っ先をわずかに下げ、45トンの質量を宿した漆黒の巨躯へと正対する。


「お前が死ねば、ここから先へ進む意味がなくなる。後方の瓦礫に身を隠し、退路の警戒に専念しろ」


「了解、無茶だけはしないでください!」


 唯は自衛官としての判断力で即座に状況を割り切り、握りしめたマチェットの切っ先を引くと、地を蹴って後方の崩落した岩盤の陰へと跳躍した。


 直後、アビス・ヘルベア・ロードの両前肢が地面を抉り、重戦車すら紙屑のように吹き飛ばす速度で、響の立つ一点へと突進を開始した。


 唯の気配が背後の岩陰へと完全に離脱した瞬間、響の視界の奥で冷徹な情報処理が起動した。


「鑑定、魔核の場所を示せ」


 響の意識下での指示に呼応し、鑑定による索敵情報が展開される。


 網膜上の視界に、猛烈な勢いで迫るアビス・ヘルベア・ロードの透過骨格と魔力流動が瞬時にマッピングされた。45トンの分厚い筋肉と剛毛、強固な頭骨と胸部骨格の奥深くに潜む、超高密度のエネルギー源――フロア全体を圧殺する威圧の源泉である「魔核」の三次元座標が、紅い光点となって正確に固定される。


 照準は完了。


 視界が紅の光点を捉える刹那、思考のすべてを置き去りにし、肉体は戦技の奔流へと昇華する。


 頭上から叩きつけられる右前肢。響はその風圧の直下へ滑り込むや否や床の片岩を爆ぜさせ、低空の螺旋を描いて跳躍。


 斜め下からの逆袈裟。遠心力を一点へ凝縮させた右足甲が、剛毛と分厚い表皮を横一文字に剪断。痛みを感じる間すら与えない。


 反転の回転力をそのまま連動させ、左足刀が残像を引いて真横から突き刺さる。露出した大胸筋の繊維を筋膜ごと一瞬で引き裂く。


 跳ね上がる上体を捻り、落下の重力加速度を乗せた右の踵が、肋骨に絡む深層の肉壁を骨ごと削ぎ落とす。


 左右の足が空中で交錯し、幾重もの残像が巨熊の胸元で球体を描いて咲き乱れる。


 三層の防壁を突破するまで、瞬き一つの間すらない。

 剥き出しの心臓の直下、紅の魔核が外気へと晒される。


 巨熊の肩が迎撃に動き出すその刹那。

 空中で体勢を保ったまま両足を引き絞り、右爪先を、核を繋ぎ留める太い魔力経路の根元へ槍のように突き通す。


 カァンッ――!!


 甲高い破砕音が、大空洞の岩盤を震わせる。

 根元を刈り取られた魔核が、弾丸のごとく胸腔から体外へ弾き出される。


 放物線を描き、床の片岩の上を転がっていく紅の結晶。

 粒子になって消える余地すらなく、動力を絶たれた45トンの巨躯が轟音とともに崩れ落ち、確かな質量のままその場に残った。


 ◇


 着地した響は軽く足首を鳴らし、転がった紅の魔核を拾い上げると、岩陰へ向けて無造作に手を振った。


「唯、もう大丈夫だ。出てこい」


 瓦礫の隙間から恐る恐る顔を覗かせた唯が、崩落したビル群の底に横たわる45トンの黒い山――粒子化することなく確固たる質量を留めた巨躯を目にし、目を白黒させながら駆け寄ってくる。


「……信じられない。本当に、刃物も使わずに足技だけで核だけ抜き取って……肉体を残しちゃったんですか……?」


「言っただろ、刃筋のブレで核を傷つけたら消えちまう。それより、鮮度が落ちる前に血抜きと解体だ」


 響はアイテムボックスから大型の解体刀を引き抜くと、胸腔の切開面から手際よく刃を滑らせ、分厚い皮下脂肪に包まれた極上のロース肉をブロック状に切り出し始めた。漂う脂の甘い芳香を嗅ぎつけ、響は満足げに口元を緩める。


「さて、今度はどんな調理方法がいいか」


 切り落とされたブロック肉の断面を覗き込み、唯が目を丸くして呟いた。


「響さん、こいつ……どう見ても熊ですよね?」


 切り分けられた巨大な肉塊を前に、唯がおずおずと顔を上げる。響は解体刀を器用に走らせ、分厚い白脂の乗った赤身を切り出しながら、事も無げに鼻を鳴らした。


「熊だな」


「であれば……熊鍋ですかね」


 どこか遠い目をして呟いた唯に、響は「話が早くて助かる」とばかりに口角を上げた。


「決まりだな。こんなニューヨークの最深部、第60層のボス部屋で食う熊鍋なんて、世界中どこを探してもここでしか味わえない最高のごちそうだろ」


「いや、私が言ったのはそういう意味じゃなくてですね!? 本当に今ここで煮て食う気満々なんですか!?」


 目を丸くして叫ぶ唯を完全に受け流し、響は両腕をまくってアイテムボックスの開口部を広げた。


「素材のポテンシャルを引き出すなら、脂の乗った肉を香味野菜と煮込むのが一番手っ取り早い。ちょっと待ってろ、今道具を出すからな」


 響はアイテムボックスの開口部を広げ、次々と物資を取り出し始めた。


 まずは大型のコンロと風防、そして大量の肉と具材を一度に煮込める大鍋。続けてポリタンクに入った清潔な水、下ごしらえ用のまな板と包丁、さらに味噌、醤油、みりん、酒といった調味料の瓶が手際よく岩盤の上に並べられていく。米軍の補給網やこれまでの遠征でアイテムボックスに溜め込んでいた、長ネギ、ゴボウ、キノコ類といった根菜や香味野菜も順次取り出された。


「唯、ネギとゴボウを笹掻きにしろ。肉は脂身ごと薄切りにする」


「は、はいっ!」


 唯が軍用マチェットを器用に使い分けて野菜を刻む傍らで、響は切り分けたばかりの熊肉を手際よくスライスし、湯通しして余分な血を落とす。鍋に張った清水に昆布出汁を利かせ、味噌と酒をベースにした濃いめの割り下を合わせると、立ち上る湯気が大空洞の冷え切った空気を一気に温めていく。


 煮え立つ鍋へ野菜と肉が投入され、深淵の暴食熊王の極上肉が、ぐつぐつと快い音を立てて煮込まれ始めた。


 ぐつぐつと煮え立つ大鍋から、甘辛い味噌と熊肉の濃厚な脂の香りが立ち上る。


 響と唯は携帯用の椀を手に、湯気を上げる肉と野菜を口いっぱいに頬張った。


「ん……っ、あふ、熱っ……! でも、なにこれ……全然臭みがないどころか、脂が甘くてすっごく美味しい!」


「ハフッ、ハフ……噛めば噛むほど出汁が出るな。第60層の階層主ともなると肉質が引き締まりすぎて硬いかと思ったが、煮込むと適度に繊維が解けて極上の食感になる」


 2人は額に薄っすらと汗を浮かべながら、夢中で箸を動かしていく。乾燥した冷気が渦巻く殺風景なドーム状の大空洞に、咀嚼音と息を吹きかける音だけが心地よく響いた。


 椀を空にして大きく息をついた唯が、満足そうに腹をさすりながら笑みをこぼす。


「ふーっ、ごちそうさまでした! 体中がポカポカして、なんだか奥底からエネルギーが湧いてきますね。これで力モリモリですよ」


「どれどれ」


 響は箸を置き、片目を細めて【鑑定】を発動させた。


 薄暗い空洞の中に淡い青色の光膜が広がり、唯の頭上に現在のステータス情報が展開される。


 名前:鷹野 唯


 称号:狂犬ハムスター


 所属:陸上自衛隊・第1空挺団(2等空曹/入間基地覚醒者枠出向)


 HP(生命力): 560(+40)


 MP(魔力): 140


 筋力(STR): 78(初期 76 + カルノタウルス 1 + アビス・ヘルベア・ロード 1)


 耐久(VIT): 72(初期 68 + カルノタウルス 2 + アビス・ヘルベア・ロード 2)


 敏捷(AGI): 146(初期 145 + キメラ 1)※装備補正込み 166


 魔力(INT/MAG): 24(初期 22 + キメラ 2)


【付加効果】


 暴食熊王の剛躯(永続): 第60層階層主アビス・ヘルベア・ロード肉の摂取により、筋力(+3)、耐久(+4)、最大HP(+40)が恒久的に底上げ。


 疲労完全回復: 魔力肉の急速吸収に伴い、肉体疲労および筋繊維の微細損傷が完全治癒。


 視界に浮かぶ青白い文字列を眺め、響は満足げに小さく頷いた。


「嘘八百じゃなかったな。一時的なバフどころか、基礎ステータスそのものが恒久的に底上げされている。筋力に+3、耐久に+4、最大HPも40跳ね上がったぞ」


「ふえぇ……!? ほ、本当に上がってるんですかぁ!? 筋肉ムキムキになっちゃったりしませんよねぇ……!? お、お嫁に行けなくなったらどうしよう……ひぃっ!」


「大丈夫だ、お前はその胸だけで引く手あまただろ」


 響は片眉を上げ、喉の奥を鳴らして笑い飛ばす。


「ふえぇっ!? ひ、響さん、さらっととんでもないこと言わないでくださいぃ! どこに誰への需要なんですか、それ完全にアウトなやつですよぉ……!」


 耳まで真っ赤にして涙目で両手をぶんぶん振る唯を綺麗に受け流し、響は立ち上がると、アイテムボックスから再び解体用の長刃を引き抜いた。


「食って身体が温まったら即座に解体だ。冷えて脂が白く固まる前に、残りの部位も全部ブロックに落としてアイテムボックスへ放り込むぞ。唯、両太もものナイフを抜け。お前は骨回りの太い筋を外せ」


「ひぃっ、ナイフ二刀流で熊の解体ですかぁ!? 引っ張った勢いで返り血とかぶしゃーって浴びたりしませんよねぇ……!? う、うぅ……私、頑張りますぅ……!」


 唯はおっかなびっくり両太もものレッグホルスターから特注の大型コンバットナイフを2本引き抜くと、へっぴり腰のまま湯気の残る巨大な黒い山へと足早に向き直った。


 ◇


 第60層の最深部に君臨していたアビス・ヘルベア・ロードを討伐・解体し、素材の隠蔽工作を済ませた響と唯は、ニューヨークの地下迷宮を脱出してペンタゴンへと直行した。


 地下深くの国家軍事指揮センター(NMCC)。その重厚な防爆扉が開かれた瞬間、部屋の中を支配していた張り詰めた空気は一変した。


 作戦室の大型モニターには、ニューヨーク全域を脅かしていた最深部・第60層の魔力反応が完全に消失したことを示す青いシグナルが灯っていた。


 足音を響かせて歩み寄る響と唯。その姿を視界に捉えるなり、円卓を囲んでいた米軍首脳部、そして大統領首席補佐官の表情が畏怖と驚愕に染まる。


「……無事に戻られたか、響殿」


 口火を切ったライアン少将が、背筋を極限まで伸ばして直立した。


 その動作に呼応するように、室内にいた統合参謀本部の将官、各軍の参謀たち、そして警備の将校に至るまで、その場にいるすべての米軍幹部が一斉に踵を打ち鳴らした。


 カチリ、と硬質な軍靴の音が重なり、居並ぶ全員の右手が揃って額の横へと掲げられる。


 国家の存亡を背負い、何万人もの将兵を投入しても食い止められなかった大陸全土の災厄を、わずか2人で根こそぎ鎮圧してみせた異国の覚醒者。その人外の武威と、合衆国を滅亡の淵から救い上げた戦果に対し、超大国の軍中枢が心からの敬意を込めた、一切の妥協のない最敬礼だった。


 響は敬礼を気負う風もなく見据え、手元の空間ストレージから拳大の赤い結晶――アビス・ヘルベア・ロードの深紅の魔核を取り出すと、強化ガラスの作戦卓の上へ静かに置いた。


「第60層の階層主、アビス・ヘルベア・ロードの排除を完了しました。これで依頼された東海岸および全米の侵食孔制圧任務はすべて終了です」


 卓上に置かれた魔核から放たれる濃密な魔力の残滓に、居並ぶ幹部たちが息を呑む。余計な言葉を一切挟まず、ただ結果のみを突きつける響の冷徹な佇まいに、ライアン少将は敬礼を解くと、険しい顔で深く頷いた。


「……見事な手腕だ、響殿。貴女方の尽力がなければ、我が国は今頃、地図の上から消滅していたかもしれない。合衆国軍を代表し、心より感謝申し上げる」


 深々と頭を下げるライアン少将の横から、大統領首席補佐官が極めて丁重な足取りで歩み出た。その手には、大統領直署のサインが記された公的文書のファイルが恭しく捧げ持たれていた。


「響殿、鷹野2曹。合衆国政府を代表し、言葉では言い尽くせぬ感謝を申し上げます。……そして、今回の国家規模の防衛協力に対する『謝礼』について、正式な取り決めをご説明させていただきたい」


 補佐官はファイルを卓上に広げ、記された破格の条項を指し示した。


「まずは、事前にお約束していた特別報酬です。連邦準備制度(FRB)を通じた非課税の現金支給に加え、我が国が保有する最高純度の魔石、ダンジョンから産出した特殊合金の優先譲渡枠を確保いたしました。また、日米防衛協定の特例枠として、極東への輸送を含め、貴女方が希望するあらゆる軍事物資の無償提供を約束いたします。これらは貴女が日本へ帰国された後も、生涯にわたり有効な合衆国からの謝礼の証です」


 国家予算の枠を軽々と踏み越えた桁外れの提示。唯が横で目を見張り、息を呑んで固まるのを横目に、響は冷淡に頷いた。


「分かりました。報酬に関しては後ほど日本側の口座および入間基地経由で引き渡しの手続きを進めてください。これでこちらの仕事は一段落ですね」


 肩の力を抜き、ようやく帰国の段取りへ意識を向けかけた響に対し、補佐官がすがるような面持ちで言葉を重ねた。


「……もう1点、どうしても貴女にお伺いせねばならぬ緊急の事案がございます。先ほどカンザスシティで救出されたステラ・ヴァレンタイン氏が、全米最大の覚醒者連盟【Lovely Echo】の設立を発表し、その初代最高指導者として貴女の名を挙げた件についてです」


「……ステラ?」


 響は眉をひそめた。


「そういえば、そういうのもあったか」


 呆気にとられたように呟いた響は、外套のポケットへ無造作に手を差し入れた。


 響は外套のポケットから、カンザスシティでステラから手渡されていた名刺を取り出した。


 指先で挟んだ紙の名刺に目を落とし、そこに印字された名前と個人用の電話番号をまじまじと確認する。


「そういえば、こういうのもありましたね」


 呟いた響は、作戦卓の向こうに立つライアン少将へ視線を向けた。


「すいません、ちょっと電話をお借りしてもいいですか?」


「えっ……? あ、ああ、構わないが……」


 国家の軍事中枢で飛び出したあまりに気安い頼みごとに、ライアン少将は虚を突かれたように目を丸くしながらも、卓上の通信端末を差し出した。


 響は受話器を取り上げ、名刺の数字と端末のボタンを交互に見比べながら、首を小さく傾げた。


「これ、どうやってかけるんですか?」


 ペンタゴンの最高幹部たちが息を呑んで見守る作戦室の中で、響はどこまでも呑気に呟きながら、名刺に書かれた番号を指先で押し始めた。


 受話器の向こうからプツリと接続音が響き、かすかな吐息とともに、どこか息を潜めたようなこそこそとした声が返ってきた。


『……ハ、ハイ……?』


「あ、ステラさん? 私、響ですけど」


 響が普段通りの落ち着いたトーンで名乗ると、受話器越しに「っ……!」と大きく息を吸い込む気配が伝わり、続いてふううっ、と全身の力を抜いて胸をなでおろすような長い吐息が漏れた。


『……響様……!? よ、よかったぁ……! びっくりした、知らない番号だったから、またマスコミか変な政治家かと思っちゃいました……!』


 安堵のあまり涙声になりかけているステラに対し、響はペンタゴンの作戦卓に肘をつき、どこまでも呑気な調子で言葉を継いだ。


「あのさ、ステラさんってテレビ局の人とお知り合いでもいるんですか?」


『……えっ?』


 突然の的外れな質問に、電話の向こうでステラがぽかんと固まる。その様子を気にする風もなく、響は受話器を耳に当てたまま、首をかしげて微笑んだ。


「ほら、さっきニュースを見たら、まるで芸能人みたいに堂々とテレビに出てたじゃないですか」


『う、うん……ちょっと、その……知り合いがいるっていうか……』


 全米中を騒がせる世界的ディーヴァとしての自負も、響の無邪気な一言の前には形無しのようで、ステラは語尾を濁しながらもじもじと言い繕った。ペンタゴンの作戦室という国家最高機密のど真ん中で交わされているとは誰も思わない、あまりに世間話じみたやり取りに、周囲の将官たちが困惑したように顔を見合わせている。


「へえ、顔が広いんですね。まあ、それはいいとして」


 響は深く詮索することもなくあっさりと話題を切り上げると、受話器を肩と耳で挟み直して、本題をさらりと切り出した。


「あのさ、ステラさん。なんか全米を巻き込むようなギルドを立ち上げたってニュースで見たんですけど。――詳しい事情を聞きたいので、直接そちらへ伺ってもいいですか? どこへ行けば会えます?」


「へえ、顔が広いんですね。まあ、それはいいとして」


 響は深く詮索することもなくあっさりと話題を切り上げると、受話器を肩と耳に挟んだまま、目の前で直立不動の姿勢を保っているライアン少将へと顔を向けた。


「あの、ライアンさん。この近くでお茶が飲めるような喫茶店って、どこかにあります?」


「き、喫茶店……!?」


 国家の最高軍事機密を扱う指揮官に投げかけられたあまりに呑気な問いに、ライアン少将は裏返りかけた声を慌てて咳払いで誤魔化した。作戦室に居並ぶ将官たちが目を白黒させる中、少将は引きつった笑みを浮かべ、極度の緊張を宿した面持ちのまま、真剣に記憶を探って答えた。


「え、ええと……ペンタゴンの敷地を出てすぐ、地下鉄の連絡通路を抜けた区画に、軍関係者も立ち寄るダイナー風のカフェが1軒あったはずだが……」


「あ、そこですね。ありがとうございます」


 響はライアン少将にぺこりと軽く会釈すると、何食わぬ顔で受話器へと口元を戻した。


「もしもし、ステラさん? 聞こえてました? そこのお店に来てもらえるかな。そこで話を聞きますよ」


 受話器の向こうから、ステラの悲鳴に近い絶叫が飛び出してきた。


『そ、そ、そこですかぁっ!? ペンタゴンの目と鼻の先じゃないですか……! わ、私、今外に出たら大変なことに……いえ、響様がお呼びなら、なんとしてでも行きます! 急いで向かいますねっ!』


 パタパタと慌ただしい足音と、洋服を引っ張り出すようなガサゴソとした摩擦音が受話器越しに響き渡る。深編笠のような巨大な帽子や大きなサングラスを掻き集め、パニック状態で必死に変装の準備を始めている気配がありありと伝わってきた。


 ◇


 指定されたダイナー風の喫茶店は、街角の気軽なカフェと呼ぶにはあまりに似つかわしくない、異常なまでの物々しい空気に包まれていた。


 建物の周囲には黒塗りの大型SUVが何台も車道を取り囲むように配置され、無線機に耳を当てたスーツ姿のシークレットサービスや、私服の憲兵たちが鋭い眼光で行き交う歩行者を舐め回している。店の出入り口には金属探知機が急遽運び込まれ、窓際のブラインドは外からの狙撃を防ぐようにすべて固く下ろされていた。およそ1階の喫茶店とは思えない、完全な要人警護の厳重警戒態勢である。


 そんな張り詰めた空気の中、店のボックス席に腰を下ろした響は、我関せずとばかりに白いマグカップを傾けていた。


「……ふう。ここのコーヒー、アメリカンにしては割と深煎りで悪くないですね」


 カップがソーサーに戻され、カチャリと小さな陶器の音が響く。すでに2杯目のお代わりだった。周囲で直立不動のまま冷や汗を流している店長や護衛たちの緊張をよそに、響は湯気の立つ黒い液体を眺めながら、実にゆったりとした時間を過ごしていた。


 カランコロン、とドアベルが控えめに鳴り、厳重な警備の隙間をすり抜けるようにして、1人の人物が慌てた足取りで店内へと駆け込んできた。


 その風貌はどう見ても、あの華やかな世界的歌姫の面影を留めていなかった。


 頭にはツバの広いキャスケットを眉の上まで深く被り、目元は顔の半分を覆うような漆黒の巨大なサングラス。鼻から顎にかけては分厚い立体マスクで完全に覆い尽くされ、さらには首元までハイネックを引っ張り上げている。露出している肌は耳たぶくらいのもので、顔のパーツのほとんどが完璧に隠されていた。


 不審者以外の何者でもない完全防備の怪人物は、店内の物々しい空気にびくびくと肩をすくめながらキョロキョロと見回し、のんびりとコーヒーを飲んでいる響の姿を捉えると、小走りでテーブルへと近寄ってきた。


「……あ、あの……ひ、響きさん……?」


 マスク越しに漏れ出た、くぐもったか細い声。


 その聞き覚えのある響きに、カップを置いてまじまじと見つめていた響は、ようやく合点がいったように目を丸くした。


「……あ、ステラさんですか。どうぞ、座ってください」


 響は向かいの席を手で示しながら、店内に響き渡るようなよく通る声で、屈託のない笑顔を向けた。


「ステラさん、ギルドを設立されたようですね。おめでとうございます!」


 自分には露ほども関係がないと言わんばかりの、純粋な祝福の言葉。


 そのあまりに無防備かつ無責任な挨拶に、ステラはサングラスの奥の目を丸くし、身を乗り出して慌てふためいた。


「い、いえっ、響様! 代表はあなた――」


「素晴らしい門出ですね」


 ステラの必死の言葉を遮るでもなく、響は全く意に介さない様子で、穏やかに微笑んで頷いた。他人事どころか、まるでどこかの遠い国のニュースでも褒め称えるようなその涼やかな態度に、ステラはマスクの下で言葉を詰まらせ、完全に気圧されてしまった。


「す、素晴らしい門出とか言ってる場合じゃないですぅ……!」


 ステラは震える手でバッグを漁ると、折りたたまれた公式の申請書類を引っぱり出し、テーブルの上へバサリと勢いよく広げた。


「これを見てくださいっ!」


 突きつけられた書類の最上段、合衆国政府および国際機関に提出されたギルド登録証の筆頭には、太く明瞭な英字でこう記されていた。


【Title: Supreme Representative(最高代表)】

【Name: HIBIKI】


 響は手元のコーヒーカップを持ったまま、書類に並んだ文字をまじまじと見つめた。数秒のタイムラグの後、ようやく事態の全貌を呑み込んだ響の目が、これ以上ないほどまん丸に見開かれる。


「……は? ちょ、待って……なんで俺の名前が入ってんの?」


 思わず地が出て素っ頓狂な声が漏れ、響はそのまま石のように固まった。


 店内の物々しい緊張感すらどこかへ吹き飛んだような、完全な沈黙が数秒間流れる。


 張り詰めた空気の中、ようやく我に返った響は、頭を抱えそうになるのを必死に堪えながら、書類の中央に燦然と刻まれたギルド名【Lovely Echo】のロゴを人差し指でツンツンと小突き、引きつった苦笑いを浮かべて言った。


「……ステラさん。突っ込みどころは山ほどありますけど、とりあえずこのギルド名、私のキャラじゃなさすぎて恥ずかし死にそうなんですけど」


「ええっ、恥ずかしいですか!? あ、でも響様がそう仰るなら、今すぐ名称変更の再申請を出しますっ!」


 ステラはサングラスを少しずらし、瞳を真剣に輝かせながら手元のメモ帳とペンを取り出した。


「実は他にもいくつか候補を考えてあったんです! たとえば、響様への永遠の愛と献身を誓う【スウィート・ヒビキ・エンジェルス】とか! あるいは、私たちの心のシンフォニーを奏でる【ピュアラブ・メロディ・ナイツ】! あ、それとも、響様の愛の光で全米を包み込む【トゥインクル・ラブ・ガーディアンズ】なんてどうでしょう!?」


 すらすらと、どこまでも澄み切った無邪気さで繰り出される候補の数々。


 どれもこれも乙女チックな熱量が臨界点を突破した、人前で口にするだけで顔から火が出そうな破壊力の名前ばかりだった。


 響は両手で顔を覆い、深々と重いため息を吐き出すと、指の隙間からステラをじと目で見つめた。


「……ステラさん。あなた、本当にネーミングセンスないですね」


「……はぁ、仕方ないですね」


 響は額に当てていた手を下ろし、諦め混じりに苦笑いを浮かべた。


「どうしても私の名前を入れたいなら、もうちょっとこう、公の場でも通りが良い名前にしてください。『覚醒者連盟リゾナンス』とでもしておけば、収まりもいいんじゃないですか?」


 響としては、あまりに気恥ずかしい候補を引っ込めさせるための、その場の単なる思いつきであり、何気ない代案の提示にすぎなかった。


 しかし、ステラの受け止め方はまるで違った。


「覚醒者連盟……リゾナンス……響き合う、共鳴……! す、素晴らしいです響様! それこそ私たちが目指すべき絆の象徴です……!」


 サングラスの下で目を見開いたステラは、響の言葉を「代表就任の正式な受諾」かつ「組織の理念たる命名」と完璧に解釈し、感極まった様子でメモ帳にその名を刻み込んだ。


 そして、そのやり取りは2人だけの空間に留まらなかった。


 店内の四隅に控え、インカム越しに会話を一言一句聞き漏らすまいと息を潜めていたシークレットサービスや国防総省の警備要員たちの背筋が、一斉にピンと伸びる。


(――対象、代表就任を正式に承諾!)

(――組織名が決定。『覚醒者連盟リゾナンス』だ!)


 マイク越しに即座に暗号通信が飛び交い、情報はペンタゴンの指揮所を経由して、合衆国大統領のデスク、さらには国連本部へと瞬く間に駆け巡った。


 響本人が「恥ずかしい名前を回避できた」と呑気に冷めたコーヒーを啜っている間に、超大国と国際社会を巻き込む巨大ギルドの最高代表就任が、既成事実として完全に成立してしまったのである。


「ステラさん、用事というのはこれだけですよね」


 響はコーヒーを飲み干してカップを置くと、椅子の背にかけていた上着を取り、すっきりと立ち上がった。


「じゃあ、私はちょっと急いでるんで、これで失礼しますね」


「えっ、あ、響様!? も、もう行かれちゃうんですか……!?」


 感極まって呆然としていたステラが慌てて身を乗り出したが、響は「はい、お疲れさまでした」と軽く手をひらひらと振って歩き出し、レジに紙幣を置いてそのままダイナーを後にした。


 店の重い扉を開けて外へ出ると、張り詰めた空気の中で待機していた護衛たちがさっと左右に分かれて直立し、歩道に横付けされていた黒塗りの専用車両のドアが音もなく開かれた。


 響は手慣れた様子でするりと後部座席に乗り込み、シートの背もたれに体を預ける。


「ペンタゴンへ戻ってください」


 短く運転手に声をかけると、滑らかな加速とともに大型車両が発進した。前後を厳重な警護車両に挟まれ、要人輸送の車列は何の滞りもなく、再び国防総省の堅牢な要塞へと引き返していった。


 ペンタゴンへ戻った響を待っていたのは、手配の手間すら感じさせない徹底した出国手続きだった。


 ライアン少将自らが先導し、ペンタゴンの敷地からそのまま軍用ヘリでメリーランド州のアンドルーズ空軍基地へ移動。滑走路には、合衆国政府が極秘裏に用意した長距離要人輸送機がすでにエンジンを唸らせて待機していた。一般の搭乗客はおろか、パスポートコントロールの列に並ぶことすらなく、響は特別機へと案内された。


 太平洋を跨ぐ10数時間の静かなフライト中、機内では手厚い補給と完全なプライベート空間が保たれ、響は持て余した時間をただのんびりと仮眠に費やした。


 ――そして、翌日。


 高度を下げた輸送機の窓から、見慣れた日本の街並みが雲の切れ間に広がった。


 機体が滑走路にタイヤを接地させ、重々しい逆噴射の轟音を響かせて停止したのは、東京都心からほど近い埼玉県・航空自衛隊入間基地であった。


 タラップが接続され、ハッチがプシューと音を立てて開く。湿り気を帯びた懐かしい日本の風が、機内へと吹き込んできた。


 響がタラップをゆっくりと降りると、エプロンにはすでに自衛隊の幹部や防衛省関係者、そして黒塗りの公用車が整然と並び、要人を迎える厳戒態勢を敷いていた。整列した自衛官たちが一斉に敬礼を捧げる中、響は軽く伸びをして、眩しそうに目を細めた。


「……ふう。やっと帰ってきたか」


 アメリカを揺るがす大騒動と巨大ギルドの設立劇を背後に残したまま、響は何食わぬ顔で日本の地へと足を踏み下ろした。



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