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元勇者の帰還、術式失敗で(♀)になっていた。レベル1から現代のパンデミック迷宮都市を生き抜く  作者: 藤咲玲


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16話:後半

「アイ・アイ・サー! 臨時ボーナス第2ラウンド、開始ですっ!」


 2つの影は減速することなく、巨大な腕を振り下ろす巨獣たちの間合いへと、正面から突撃した。


 振り下ろされた鉄骨の隙間を、響の刀身が白刃の閃光となってすり抜ける。抵抗すら感じさせず両断されたトロールの巨体が左右へ泣き別れ、その直下へ滑り込んだ唯のナイフが、背後のオーガの両アキレス腱を滑らかに切断した。


 巨獣がバランスを崩し、前のめりに膝を突いたその刹那――響の容赦のない手刀が、胸部の中央へ深く突き刺さる。強靭な胸骨と肋骨を易々と貫通した切っ先が、脈動する心臓と核たる魔石を同時に抉り抜いた。


 空気を破裂させる重低音とともに床面へ倒れ込んだ巨躯は、霧散することなく、生々しい質量と肉の塊を保ったまま物言わぬ屍骸となって横たわった。


 響は手元の血を払いながら、足元に転がる巨躯を冷ややかに見下ろした。


「唯、タンパク質と魔力の補給がいるなら、これでも捌くか?」


 唯はオーガの無骨な顔面をまじまじと見下ろし、心底うんざりしたように鼻に皺を寄せた。


「パスです。いくら強化のためとはいえ、二足歩行の人型を口にする趣味はありませんよ。せめて四つ足の獣にしてください」


 第20層の終点に位置する、魔力障壁で区切られた頑丈なセーフティエリアの防護区画の中へと滑り込んだ。


 堅牢な隔壁を閉ざし、周囲の禍々しい魔力反応が完全に遮断されたのを確認して、響は息を乱す様子もなく静かに刀を鞘へと納めた。


「セーフティエリアに到着した。唯、地上に向けて、我々はセーフティエリアで休息を取り、明日また攻略に向けて階層へ挑むと伝えてくれ」


「了解です。音声は通らないので、定型データ電文で地上に打ち込みますね」


 唯はビーコン端末を取り出すと、操作パネルのタッチキーを迷いなく叩いた。


【現在深度:第20層セーフティエリア】

【状況:両名健在・バイタル正常】

【予定:現地にて仮眠・夜間休息に移行。明朝、第21層以降の攻略を再開する】


 短文にまとめたテキストパルスを送信キューに入れ、エンターキーを押下する。

 設置されたビーコンが「ピ、ピ、ピ」と規則的な高周波を放ち、天井へと連なる中継網を伝って、地上部隊の受信端末へ向けて信号が送出された。


「送信完了! 地上のランプがグリーンに変わって、あっちは大騒ぎしながら胸を撫で下ろしてるはずですよ」


 響はストレージの空間を小さく開き、保存食のハードビスケットと、湯気を立てる金属ボトル入りのハーブティーを取り出した。


「選り好みするなら、これでも食っとけ」


 差し出されたビスケットと温かいボトルを受け取り、唯は受け取った手のひらに視線を落として小さく笑った。


「いただきます。ダンジョンの中で温かいお茶が飲めるだけでも、十分贅沢ですから」


 唯は固いビスケットをかじり、ハーブティーを含んで喉へと流し込んだ。


 ◇


 響と唯が第20層の頑強な防護区画で静かに休息を取っていたその頃、同じ地下深層、隔壁と崩落瓦礫を隔てた旧地下鉄の廃線路エリアでは、全く異なる絶望劇が極限を迎えていた。


 3日前の朝まで、ここは世界で最も過密で、退屈で、確固たる日常の象徴だった。


 冷え切ったステンレスの手すり、湿った地下風に乗って届く甘ったるいシナモンの匂い、レールがきしむ金属性の甲高い不協和音。午前8時14分、タイムズスクエアへ向かう満員の地下鉄車両がプラットホームへ滑り込んだその瞬間、世界の輪郭は唐突に、修復不能な断絶を迎えた。


 車内の奥で上がった短い悲鳴は、わずか数十秒で肉を裂き骨を砕く咀嚼音へと変貌した。喉笛を食い破られた男が、痙攣ののちに白濁した眼球を見開き、隣で腰を抜かしていた通勤客の肩口へ食らいつく。密閉された車両は瞬く間に汚濁に満ちた屠畜場と化し、解錠されたドアから溢れ出したのは、助けを求める群衆ではなく、人を喰らう死者の奔流だった。


 パニックは階段を駆け上がり、マンハッタンの目抜き通りへと吹き荒れた。警察の通信網は最初の3時間で飽和し、4時間後には指揮系統そのものが蒸発した。


 翌日――2日前には、法と秩序の残骸すら消滅していた。生き延びた者たちは食料と燃料を巡って奪い合い、銃撃戦が交差点ごとに発生し、略奪の黒煙が摩天楼のガラス窓を舐めた。無政府状態という名の地獄が完成したその極みにおいて、真の破局が訪れた。


 足元の地底深く、巨大な地鳴りとともに岩盤が破断した。近代都市の血管であった地下鉄網をそのまま呑み込む形で、底知れぬ魔力の裂け目――ダンジョンが地上へと口を開いた。異界の瘴気とともに湧き出した魔獣の群れが、地上に逃げ惑う人々を容赦なく蹂躙し、マンハッタンは外界から完全に切り離された閉鎖空間へと墜落した。


 だが、極限の殺戮と絶望の底で、沈黙していた人間の遺伝子に異変が生じていた。


 死の淵に立たされた一部の生存者たちの中で、突如として魔力経路が開通した。血管を灼くような激痛の果てに目覚めたのは、鋼鉄の鉄骨を素手で歪める膂力、銃弾の軌道すら知覚する動体視力、あるいは掌から微弱な光弾を撃ち出す異能――「覚醒」だった。


 天井を支えていた太い鉄骨がねじ曲がり、コンクリートの粉塵が立ち込める薄暗いプラットホーム。


 地上へ続く非常階段もエスカレーターも、3日前の崩落で巨大な瓦礫の山と化し、外への逃げ道は完全に遮断されていた。非常用バッテリーがかろうじて灯す数本の誘導灯が、脱線してくの字にひしゃげた地下鉄車両の銀色を鈍く照らし出している。


 車内の奥、割れた窓ガラスの内側には、女性や老人、怯えて口元を押さえる子どもたち17名が身を寄せ合っていた。水も食料も尽きかけ、漂う汚物の臭気と怪我人の呻き声が、密閉された空間の絶望を濃密に物語っている。


 彼らの命を繋ぎ止めているのは、もはや警察の拳銃でも近代兵器でもなかった。巡回警官が持っていた9ミリ拳銃の弾薬など、最初の半日で空の薬莢を床に転がして役目を終えている。


 唯一の境界線となっているのは、車両のドアの前に立ち塞がる、数名の若い覚醒者たちだった。


「――来たぞ! 下の線路から這い上がってくる!」


 スニーカーと破れたジーンズを身につけた若い男――デイビッドが、息を荒らげながら叫んだ。その両手には、脱線した車両の天井から力任せに引きちぎられた金属製の手すりパイプが握られている。


 暗がりの線路の敷石を踏み砕き、腐敗臭を放つ死者の群れと、四肢の筋肉を異常に発達させた獣がホームの縁へ爪をかける。


 男は恐怖を圧し殺すように咆哮し、パイプを振り下ろした。本来なら人間の腕力で破壊できるはずのない魔獣の頭骨が、覚醒によって異常膨張した男の膂力により、鉄パイプごと鈍い破裂音を立てて叩き潰される。


 そのすぐ隣、かつて地下鉄の巡回任務に就いていた若い警官のマーカスは、すでに腰のホルスターを捨て去っていた。彼の両の掌には、皮膚を突き破るようにして青白い放電現象が走っている。


「右の連結部を塞げ! 中に入らせるな!」


 警官が掌を突き出すと、鋭い破裂音とともに青白い電弧が迸り、飛びかかろうとした魔物の胸部を炭化させて線路へと弾き飛ばした。だが、放電を終えた警官の肩は激しく上下し、鼻腔からは疲労と魔力枯渇による鮮血が滴り落ちていた。


 覚醒したとはいえ、彼らは昨日まで満員電車でスマートフォンを眺めていた一般人であり、訓練を積んだ魔導士でも歴戦の戦士でもない。突如として体に宿った異能の使い方も定かではなく、ただ恐怖と、背後に蹲る家族や弱者を守らねばならないという切迫感だけで、限界を超えて力を絞り出しているに過ぎなかった。


 ホームの端では、同じく覚醒の兆候を見せた若い女性――クロエが、線路の敷石(バラスト)を素手で投げ続けていた。常識外れの初速を与えられた握り拳大の石が銃弾のような風切り音を立てて獣の眼球を射抜くが、次から次へと闇の奥から這い寄る影の数は減る気配がない。


「もう……腕が上がらなくて……」


「弱音を吐くな! 耐えるんだ、耐えるしかねえんだよ!」


 誰かが助けに来る保証などどこにもない。地上で何が起きているのかすら分からないまま、覚醒したばかりの不揃いな暴力と廃材を頼りに、若い生存者たちが繰り広げる血みどろの防衛戦。


 その荒い呼吸と魔力の火花が、閉ざされた地下鉄の暗闇の中で、消え入りそうな命の灯火として明滅していた。


 ◇


 線路の敷石を踏み鳴らす無数の足音が、闇の奥から波状攻撃となって押し寄せていた。


「グルルルァッ!」


 低い唸り声を上げ、廃線路の枕木の間から躍り出たのは、皮膚が裂けて筋繊維を剥き出しにした異形の獣群――マッド・ハウンドの群れだった。統率された軍隊のように互いの死角を埋め合い、ホームの縁を回り込んで防衛線の両翼を同時に狙い澄まして跳躍してくる。


「来んなッ!」


 デイビッドが血走った目で絶叫し、両手で構えた鉄パイプを薙ぎ払った。覚醒した筋力によって空気を裂いた一撃が、先頭の1匹の頭骨を叩き潰す。だが、その強烈なスイングの隙を別の2匹が見逃さなかった。左右から同時に交差した牙が、デイビッドの右太ももと脇腹へ深く突き刺さる。


「ぐ、あぁッ!?」


 肉を抉り取られる激痛に、デイビッドの巨躯が前のめりに膝を突いた。鉄パイプが手から滑り落ち、硬いホームの床へ甲高い音を立てて転がる。


「デイビッド!」


 背後で線路の砕石を投げ続けていたクロエが悲鳴を上げた。指先の皮はとっくに裂け、血に濡れた石を放つが、暗がりから湧き出る骨の異形――スケルトンたちの隙間だらけの肋骨をすり抜け、有効な打撃を与えられない。錆びた鉄パイプやナタを握りしめた骸骨の群れが、カチカチと顎を鳴らしながら防衛線の段差をよじ登ってくる。


 さらに、トンネルの天井と壁面を異常な速度で這い回る影があった。関節を異様に反り返らせ、四肢でコンクリートを掻きむしりながら滑空するように迫るハイウェイ・グール。その鉤爪が、床に倒れ伏したデイビッドの喉元を目掛けて振り下ろされようとしていた。


「下がれッ! 消し飛べェッ!」


 マーカスが前に割り込み、血の滲む両の掌をグールとマッド・ハウンドの群れへ突き出した。


 血管が焼き切れるような激痛とともに、彼が限界を超えて絞り出した青白い電弧。だが――パチッ、と小さく火花が爆ぜただけで、魔力の光は煙を上げて霧散した。


 完全な枯渇。


「嘘だろ……ッ!?」


 マーカスの絶望的な呟きを嘲笑うかのように、ハイウェイ・グールの獰猛な牙と、マッド・ハウンドの群れの爪が、一斉に3人の頭上へと影を落とした。後方のひしゃげた車両から、子どもたちの金切り声と母親たちの絶叫が上がる。


 すべてが終わる――誰もがそう確信した刹那だった。


 ドォォォンッ!


 プラットホームの側壁、地下深くの岩盤を支えていた分厚いコンクリートの壁面が、内側からの凄まじい衝撃によって爆砕された。


 飛散する粉塵と砕石の嵐を突き破り、黒い閃光がホームへ滑り込む。


 巻き起こる突風を孕み、夜の帳を織り上げたような濡れ羽色の黒髪が、優美かつ激しく宙を舞った。


 その風のただ中にあったのは、息を呑むほどに冷酷で整った美貌。陶器のように白い肌と、獲物の急所を瞬時に見透かす鋭い双眸が、薄暗い地下の構内で凍てつくような存在感を放っていた。


 白刃の軌道が、空中で滑らかな円を描く。


 音すらなかった。デイビッドの喉首を狙っていたハイウェイ・グールの胴体が、滞空した姿勢のまま上下真っ二つに泣き別れ、ドロリとした汚濁を撒き散らして床へ落ちる。着地と同時に身を翻した響の黒髪がふわりと肩口へ流れ落ち、反転した足先が、マーカスへ飛びかかろうとしていたマッド・ハウンドの頭部を正確に捉え、サッカーボールのように壁面へ叩きつけて頭蓋ごと粉砕した。


 粉塵の立ち込める中、抜き身の刀を提げた響が、瓦礫の山の上に平然と立っていた。


 その背後、破壊された壁の開口部から滑り込んできた唯が、手元のコンバットナイフを逆手に構え直す。壁面を立体的に駆け下りてこようとした別のハイウェイ・グールに対し、唯の投擲した刃が正確に眉間を貫通し、巨躯をコンクリートの床へと縫い止めた。


 響は刃に付着した脂を鋭い手の内の返しで払い落とすと、切っ先を下げ、群がるモンスターの死骸を一瞥すら披瀝せず、血に塗れてへたり込むマーカスたちと、奥の車両から震える目でこちらを見つめる避難民の姿を、冷徹な視線で見据えた。


「……何だ、ここは」


 響は鞘へと納めた刀の柄から手を離さず、薄暗いプラットホームの全方位へと静かに意識を研ぎ澄ませた。


 瞳の奥に淡い光彩が灯る。『鑑定』スキルの不可視の力場が、同心円状に波紋となって地下空間を走った。砕けたコンクリートの粉塵、ひしゃげた車両の床下、天井の配管の裏側、そして闇の奥へと続くレールの上――索敵網が半径50mの範囲を瞬時に走査し、熱源と魔力の反応を拾い上げる。


 生存する魔物の反応は、皆無。


 気配の途絶を確認した響は、ふっと短く息を吐き出して肩の力をわずかに抜いた。


 直後、響はストレージの空間を小さく展開させると、ガラス瓶に入った青色の治癒ポーションと、透き通った紫色の解毒薬を数本取り出した。足元に散乱する瓦礫を踏み越え、血だまりの中にへたり込む戦闘員たちの前へと歩み寄る。


「これを飲むといい」


 感情の起伏を感じさせない涼やかな声とともに、響は手にした薬瓶を彼らへと差し出した。


 マッド・ハウンドの牙に太ももと脇腹を抉られ、毒素の混じった黒ずんだ血を流していたデイビッドは、呆然としながらも震える手でそれを受け取った。言われるがままに解毒薬とポーションを喉へと流し込む。


 瞬く間に薬効が体内を駆け巡り、傷口から立ち上っていた腐敗熱が引いていく。肉を削ぎ落とされた傷面が音を立てて肉芽を盛り上げ、急速に皮膚を塞ぎ始めた。荒く途切れ途切れだったデイビッドの呼吸が整い、青白く死相を浮かべていた顔に急速に血色が戻る。


 致命傷を負い、死の淵へと片足を踏み入れていたデイビッドは、奇跡のように塞がった自らの身体を見つめ、信じられない面持ちで荒い息を吐き出した。九死に一生を得た若者の喉から、かすれた呻きが漏れ出していた。


 ◇


 響は、まだ混乱の渦中にある防衛部隊のメンバーの元へ、迷いなく歩を進めた。


 まずは、疲労困憊の体で立ち尽くす巡回警官、マーカスの前で足を止める。響は彼に、紫色に揺らめく液体が入った小瓶を差し出した。


「魔力炉を焼き切る気か。循環が干からびている。それを流し込めば、神経の軋みは収まる」


 マーカスは、信じられないものを見るような目で、響と瓶を交互に見た。警察官としてのプライド、そしてこの極限状態でのサバイバルが、突然現れた「強者」に対する複雑な感情を生んでいた。だが、彼は黙って瓶を受け取り、一気に中身を煽った。


 次に響は、線路の敷石を投げ続けていたクロエの前まで行くと、その場でしなやかにしゃがみ込んだ。


 響の黒髪がふわりと肩から流れ落ち、冷徹だったその顔が、クロエの瞳を真正面からじっと見つめる。


 至近距離で見る響の美貌は、クロエを圧倒した。陶器のような肌、そして何よりも、この地獄のような地下空間においても、一切の動揺を感じさせない、深く、澄んだその瞳。クロエは思わず、息を呑んだ。


「……大丈夫か?」


 響の声は、先ほどまでの冷たいものとは異なり、静かで、どこか落ち着かせるような響きを持っていた。クロエは、自分が血まみれの手でまだ石を握りしめていることに気づき、慌てて石を落とした。


「は、はい……たぶん」


 響は、クロエの手のひらに視線を落とすと、少しだけ、その鋭い目つきを和らげた。


「そうか。だが魔力の底が割れかけているな。……腕が上がらないというのなら、筋繊維の損耗も含めて直さなければならない」


 響はそう言うと、再びストレージから二つの小瓶を取り出した。一つは青色の治癒ポーション、もう一つは先ほどマーカスに渡したものと同じ、紫色の魔力回復薬だ。


「両方、一息に飲むといい」


 響は、クロエの手を優しく取り、その小さな手のひらに二つの瓶をそっと乗せた。


 そして、その瞬間。


 響の唇が、クロエに向かって、ふっと柔らかく、優しく微笑んだ。


 それは、この地下の暗闇の中で、クロエがこれまで見た、どのような光よりも、美しく、そして暖かかった。クロエの心臓が、恐怖とは違う理由で、大きく脈打った。


 響は立ち上がると、防衛線の面々、そして奥の車両から恐る恐る顔を覗かせる避難民たちへ視線を巡らせた。


「出口まで私が案内しよう。ついてきなさい」


 その簡潔な宣告に、マーカスやクロエ、息を吹き返したデイビッドの表情に驚愕と微かな希望が走る。


 響は瞳の奥に淡い光彩を宿し、再び『鑑定』を発動した。意識の網を構内の全方位へ浸透させ、崩落した瓦礫の隙間、亀裂の走るコンクリートの奥、そして地上へと連なる構造の歪みを深く探査する。


 鑑定の視界は、出入口へと通ずる通路や崩れかけた壁面に対し、まるで車載ナビゲーションのように光る矢印を次々と明滅させ、正確な方位角と進むべき針路を網膜上に指示した。


 視界に浮かび上がる幾何学的な光の誘導を見やり、響は口元をわずかに緩めた。


「まるでカーナビだな。迷いようがなくて助かる」


 響は歩みを止めると、崩落した線路脇のコンクリート壁に刻まれた、縦に走る深い断裂を指先で示した。


「このあたりだな。この亀裂の向こうが、そのままダンジョンの階層構造へと直結している。……巻き込まれないよう、少し下がっていろ」


 短く警告を発すると、響は体勢を沈め、右の拳に魔力を凝縮させた。鋭い呼気とともに放たれた一撃が、ひび割れた壁面へと叩き込まれる。


 轟音とともに分厚いコンクリートの隔壁が粉々に破砕され、もうもうと立ち込める白煙の向こうに、冷え切った異界の大気が渦を巻いて流れ込んできた。近代の地下鉄の景色はそこで途切れ、黒ずんだ岩肌と青白い燐光が漂う、広大な石造りの通路が口を開けている。


 響は散乱する破片の縁に立ち、不安げに佇んでいたクロエの細い指先をそっと取った。


「足元が荒れている。転ばないよう、気をつけて歩くんだ」


 穏やかな声に導かれ、クロエは固直していた呼吸を緩め、強く頷き返した。


 生き残った避難民は、全部で20名。前線で命を削って抗い続けたデイビッド、マーカス、クロエの3名の覚醒者と、奥の車両から救い出された老人、女性、子どもを含む17名の市民たちである。


 響と唯を先頭に、疲れ果てた生存者たちは互いの身体を支え合いながら、破壊された隔壁をくぐり抜けた。閉ざされた地下鉄の暗渠を抜け、一行は「地下鉄跡西ダンジョン」の第20層に相当する深部迷宮へと、生還のための足跡を踏み入れていった。


 冷え切った異界の大気が足元を這うように流れる中、響は開かれた通路の奥を見据えながら、隊列へ向けて迷いのない声で指示を飛ばした。


「デイビッド、マーカス。君たち2人は避難民を挟む形で、左右の側面に目を配ってくれ。ユイは殿だ。背後からの奇襲を絶対に許すな。――私が先頭を歩く」


「了解、任せて」


 後方に控えていた唯が短く応じ、逆手に握ったナイフの刃先を下げて背後の闇へと視線を固定する。


 ポーションによって傷口を塞ぎ、失われた血気を取り戻したデイビッドとマーカスも、響の無駄のない采配に無言で頷いた。先ほどまで死を覚悟していた2人の瞳には、明確な意志の光が蘇っている。2人はそれぞれ左右の壁際に寄り、17名の避難民たちを包み込むように護衛の布陣を敷いた。


「皆、中央に固まって。足を止めずに前の背中を追うんだ」


 マーカスが押し殺した低い声で生存者たちを促し、子どもを抱えた母親や足元のおぼつかない老人たちが、互いの服を掴み合いながら歩調を合わせる。


 青白い燐光が不気味に揺らめく第20層の迷宮。先頭に立つ響は、納刀した鞘に左手を添え、暗がりを貫く鋭い双眸で最初のカーブの先を捉えながら、静かに最初の一歩を踏み出した。


 歩行の合間、響は先頭を歩きながら背後へと鋭い視線を投げかけ、殿を警戒する唯へと声をかけた。


「ユイ、中継ビーコンの電波は拾えるか。地上本部へ連絡を入れてくれ。避難民20名を無事保護、現在出口へ向けて移動中だと」


「了解、試してみる」


 唯は背後への警戒を怠らず、腰のポーチから小型の通信端末を取り出して起動した。画面上には、自分たちがここまで進入してくる過程で要所の壁面へ打ち込んできた「中継ビーコン」のリンクアイコンが、微弱な明滅を繰り返している。


 ダンジョン特有の磁気嵐と厚い岩盤を貫くため、ビーコン同士を無線ホップさせて地上へとシグナルを中継する仕組みだ。唯はノイズの合間を縫い、指先で短く暗号コードを打ち込んだ。


「――こちらユイ。第20階層、地下鉄崩落エリアにて民間人17名および覚醒生存者3名を保護。響先輩の先導で現在、最短の地上連絡ルートへ移動を開始している。受け入れの準備と、出口付近の警戒態勢を整えて」


 送信ボタンを押すと、数秒のタイムラグを挟み、端末のインジケーターが赤から青へと切り替わった。直近のビーコンを経由し、地上まで信号が到達した証拠だった。


 唯は端末を収め、前方の響へ向けて顎をしゃくった。


「送信完了。最寄りのビーコンが地上本部までパケットを中継してくれたよ。受信確認のコードも返ってきた」


「よくやった。……皆、聞いた通りだ。出口の向こうには迎えがいる。足を止めるな、私に続いて来い」


 響の低く通る声が、暗く湿った迷宮の通路に響き渡った。デイビッドとマーカスが左右の側壁際から避難民へ小声で指示を飛ばし、クロエが子どもたちの背に手を添えて歩みを支える。20名の生存者たちの瞳に生還への確かな光が宿り、一行は青白い燐光の漂う第20層の闇を、地上へ向けて着実に踏み進めていった。


 第20層の迷宮を抜けた先、ダンジョンの亀裂と旧換気シャフトが交錯する縦坑を登り切ると、崩壊したニューヨークの冷たい外気が吹き込んできた。


 地上出口付近には、唯のビーコン通信を受けて急行した地上本部の救助部隊と医療班が、強固な防衛線を敷いて待ち構えていた。担架が次々と運び込まれ、脱水と疲労で倒れ込むようにして外へ出た17名の避難民と負傷者は、手厚いトリアージを受けて即座に後方拠点へと搬送されていく。


 前線で身体を張ったデイビッドとマーカス、そしてクロエもまた、現場の医療スタッフに誘導され、毛布と温かい補給物資を受け取った。


「――おい、あいつらは?」


 手当を受ける中、我に返ったマーカスが周囲を見回した時には、すでに響と唯の姿はどこにもなかった。任務を完了した2人は、市民や救助班からの感謝や歓声を受けることすらなく、冷たい風が吹き抜ける廃墟の街並みの闇へと、静かに姿を消していた。


 自分たちをあの絶望的な閉鎖空間から救い出してくれた、圧倒的な武威と息を呑むような美貌を併せ持つ黒髪の女性。彼女の素性――それが、数々の戦局を覆してきた規格外の存在、「響」であるという事実をクロエたちが耳にするのは、保護から数日後、統制本部の記録を照会された時のことだった。


 手の中に残されていた治癒ポーションと魔力回復薬の感触。そして、暗闇の中で自分に向けられた、あの静かで温かな微笑み。


 その光景を魂に刻み込んだクロエは、自らの内に目覚めた「投射加速」の異能を磨き上げ、やがて生存者の一人という枠を大きく踏み越えていく。


 崩壊し、混沌が渦巻く新たな秩序の只中で、クロエはやがてステラ・バレンタイン代表代行の元へと駆けつけ、その右腕として組織の中枢を支える重要人物としての頭角を現していくことになるのだった。

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