13話『十条の残骸と、ハズレ枠のリンチ劇』
イケ・サンパークから飛び立ったUH-2多用途ヘリは、夜間の管制を掻い潜りながら武蔵野の闇を一直線に抜け、埼玉県狭山市の上空へと侵入した。
滑走路の誘導灯が青白く光る航空自衛隊入間基地。ヘリパッドへ滑り込むように着陸した機体から降り立つと、響と唯は、最後まで文句を垂れ流す真鍋に案内され、基地の最奥に位置する一角へと向かった。
案内されたのは、一般の独身隊員が共同生活を送る営内隊舎ではなく、防衛省の高級幹部や他国の軍高官が来訪した際に使用される「特別来賓用宿舎」だった。
防音設計が施された鉄筋コンクリート造りの建物で、ホテルのスイートルーム並みの広さと専用バスルーム、独立したキッチンまで完備されている。
「……本来なら米軍の将官クラスを泊める施設だぞ。民間の居候をここに住まわせるなど前代未聞だ!」
胃を押さえながら鍵を乱暴に差し出す真鍋を無視し、響は靴を脱いでリビングの革張りソファへと無造作に身を投げ出した。
「悪くねえ広さだな。基地の中なら防衛体制も完璧だし、何より静かでいい」
「喜んでいる場合か! 伊達陸将の直々の決済がなければ叩き出しているところだぞ!」
喚き散らす真鍋の背後で、唯は羨望の眼差しを室内に巡らせていた。
「すごい……! 私の女子隊舎の狭い2段ベッド部屋とは大違いですぅ……。こんな豪華な個室、一生縁がないと思ってました」
へなへなと感嘆の声を漏らす唯を見上げ、響はソファに深く背中を預けたまま、事も無げに告げた。
「おい真鍋、もう1部屋だ」
「は……? もう1部屋だと!?」
「ダンジョン攻略の都合を考えりゃ、相棒の唯がいちいち遠くの隊舎から通ってくるのは効率が悪すぎる。突発的なリポップや緊急出撃に対応できねえだろ。この宿舎内に唯の部屋も用意しろ」
「な、何を馬鹿な……! 鷹野2曹は現役の自衛官だぞ! 営内居住の規定がある!」
「規定なんぞ伊達陸将の一筆で特命事項に書き換えさせろ。唯は俺の専属連絡員兼バディだろ。隣の部屋に置いとくのが一番話が早い」
正論でねじ伏せられた真鍋がぐうの音も出せずに硬直する中、響は目を丸くして固まっている唯へと視線を向けた。
「――なので、お前引っ越せよ」
「え……ええええええっ!? 私が、この来賓宿舎に引っ越しですかぁぁっ!?」
唯の甲高い悲鳴が入間基地の夜の静寂を派手に突き破った。
だが、その慌てふためく唯のリアクションを冷め切った目で睨みつけた真鍋は、こめかみの青筋をピキピキと震わせ、吐き捨てるように怒鳴り返した。
「馬鹿を言うな! そんなにポンポンと貴賓用の宿舎なんか用意できるか!!」
真鍋は腕組みをして、響と唯を交互に指差した。
「この特別宿舎を1室開放しただけでも、基地業務群や監理部からどれだけ嫌味を言われたと思っている! ただでさえ首都圏からの避難要人や本省の連絡官で部屋は逼迫しているんだ! 鷹野2曹のために別の貴賓室をもう1部屋空けるなど、物理的にも予算的にも絶対に不可能だ!」
息を荒らげて喚き立てる真鍋に、唯は胸を撫で下ろして引きつった笑みを浮かべた。
「で、ですよね真鍋3佐! 基地の規律もありますし、私は今まで通り女子隊舎のベッドで十分ですから――」
「唯、お前はこの部屋に一緒に住め」
「……は?」
真鍋から放たれたあまりにも無茶苦茶な宣告に、唯の思考が完全に停止した。
「い、今……なんとおっしゃいました……?」
「聞こえなかったのか? お前はこの部屋に一緒に住めと言ったんだ!」
真鍋は鬼のような形相のまま、早口でまくし立てた。
「響殿の言う通り、貴様は軍と覚醒者を繋ぐ専属の監視員兼連絡役だ! 貴様が女子隊舎でのんびり寝泊まりしている間に、響殿が基地を抜け出して勝手な暴走を始めたら誰が責任を取る!? リビングも寝室も無駄に広いスイート仕様だ、ベッドの1つや2つ増設すれば女2人、同居しても何の支障もないだろうが!」
「支障大ありですぅぅっ!! なんで私がこの規格外モンスターと同棲しなきゃいけないんですかぁぁっ!? 監視役ってレベルを超えてます!!」
「命令だ! 荷物を隊舎から今すぐ運んでこい! 嫌なら自衛隊を辞めろ!」
真鍋が容赦なく怒声を叩きつけると、革張りソファに深く腰掛けた響が、愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「決まりだな。ほら唯、さっさと着替え取ってこいよ。お前が淹れる茶のほうが美味いからな」
「響さんまで面白がらないでくださいぃぃっ!!」
頭を抱えて絶叫する唯を置き去りにし、真鍋は乱暴に扉を閉めて嵐のように去っていった。
◇
翌朝、特別来賓用宿舎のリビング。
昨夜の激闘の疲労を吹き飛ばすように、響はソファに深く腰掛け、唯が淹れた熱い緑茶をすすりながらくつろいでいた。唯は昨日無理やり運ばされた私物ダンボールを片付け終え、ジャージ姿で朝食のレーションを温めている。
そこへ、ノックもなしに非常用直通無線の警告音が鳴り響き、真鍋が鬼気迫る形相で扉を蹴破るように飛び込んできた。手には作戦指揮用の通信端末を握りしめている。
「響殿、緊急事態だ! 伊達陸将から直々にホットラインが入った!」
真鍋は額に脂汗を浮かべ、端末を机の上に叩きつけた。スピーカーからは、十条駐屯地の混乱した銃火器の破裂音と悲鳴、そして伊達陸将の切迫した怒号が混じり合って漏れ聞こえてくる。
『……真鍋3佐、聞こえるか! 十条駐屯地構内に発生したダンジョン地下第5階層で想定外の変異種が覚醒した! 突入した神崎2佐率いる普通科部隊が壊滅的打撃を受け、多数の重傷者が発生、現在地下坑道で孤立している! 付近で即応可能な戦力は入間基地詰めの部隊のみだ!』
「聞いた通りだ! 神崎の愚連隊がダンジョンで大ヘマをやらかして、重傷者を抱えたまま退路を断たれた! 現場の医療班では到底手が回らん、伊達陸将からも入間から即座に増援を投入しろと命令が下っている!」
真鍋はすがるような眼差しを響へ向け、頭を下げんばかりの勢いで詰め寄った。
「頼む、響殿! 貴様の機動力と戦闘力で、十条のダンジョンへ突入して重傷者の救出を援護してくれ! 入間からヘリを回せば15分で現場上空へ投下できる!」
通信機越しには、伊達陸将をはじめ、十条前線本部の通信手たちが息を呑んで響の返答を待つ緊迫した沈黙が広がっていた。ホットラインは完全に生きており、現場の司令部へ音声がリアルタイムで筒抜けになっている。
だが、響は手元の湯呑みをことりとローテーブルに置き、表情ひとつ動かさずに言い放った。
「神崎、あいつは俺嫌いだから行かねえよ」
響が吐き捨てたその一言は、十条駐屯地の前線本部と入間基地を結ぶスピーカーを完全に凍りつかせた。
『……な、何だと……!?』
通信機の向こうで、神崎2佐の引きつった上擦り声が響いた。日頃の尊大な威圧感は完全に消え失せ、今や死線に追い詰められた者の醜い動揺だけが丸出しになっている。
『き、貴様ッ! この期に及んで私怨を持ち出す気か! ここで部隊が全滅すれば十条の防衛線は崩壊するのだぞ! 自衛隊の命令に――』
『黙れ、神崎2佐!!』
伊達陸将の怒号が通信を切り裂いた。
『貴様の硬直した保身と前例主義が招いた結果だ! 貴重な戦略戦力を敵に回し、今また無謀な突入で部隊を壊滅の危機に瀕させておきながら、どの口で命令を口にするか! 貴様の現場指揮権を今この瞬間をもって剥奪する! 以後、後方待命! 査問委員会の招集を覚悟しておけ!』
通信の向こうで神崎が喉を詰まらせ、ガタガタと崩れ落ちる音が響いた。
だが、指揮権を剥奪したところで、坑道内に取り残された先行調査班の危機が去るわけではない。
真鍋が胃の痛みに顔を歪め、響にすがりつこうとしたその時――。
通信機のスピーカーから、痛みに耐え、掠れ切った若い女性の声がノイズ混じりに割り込んできた。
『……はぁ……はぁっ……! 衛生科の、御子柴……2曹です……!』
自衛隊中央病院から派遣され、地下5階層の孤立現場で唯一の治癒役を務める御子柴渚だった。
その呼吸は極めて浅く、声には立っていることすらままならない限界の疲労が滲み出ている。
『伊達陸将……真鍋3佐……私の魔力は、もう……完全に底を突きました……! 桐生隊長は右腕と肋骨を砕かれ、風間さんは極度のパニック、篠原さんも神経毒で左足が動かず……これ以上の後退は不可能です……!』
背後から響く、奇怪な甲殻モンスターの這いずる音と、岩壁を溶かす酸の飛沫音。
そして、御子柴は通信機のマイクを強く握り締め、震える声で響へと直接語りかけた。
『響さん……聞こえていますか……! 神崎2佐の失態は、私たちも現場で見ていました……! あなたが怒るのも当然です……見捨てられても、文句は言えません……!』
御子柴の声が涙声に震え、そして必死の懇願へと変わった。
『でも……でも、お願いです……! ここにいる桐生隊長も、民間から志願してくれた風間さんや篠原さんも……誰も死なせたくないんです! 救急キットも尽きて、私のヒールももう光りません……! お願いです、助けてください……! 私たちの命を、救ってください……っ!』
通信機の向こうで、御子柴が膝から崩れ落ちる鈍い音が響いた。
重い沈黙がリビングを満たす。
真鍋も唯も、息を呑んで響の横顔を見つめていた。
響はゆっくりと立ち上がると、ローテーブルの空の湯呑みを見下ろし、小さく息を吐き出した。
「……真鍋」
「は、はいっ!」
「ヘリは何分で飛べる」
真鍋の目がカッと見開かれた。
「整備班にはすでに暖機運転を命じてある! ヘリパッドまで走れば3分で離陸、十条駐屯地のヘリポートまで12分で直行できる!」
「唯、行くぞ。スナック菓子と炭酸飲料はアイテムボックスに突っ込んどけ」
「は、はいっ! 了解です!!」
唯が勢いよく立ち上がり、防弾ベストのベルクロを締め直した。
響は腰の黒鞘の位置を確かめ、通信機に向かって冷徹に言い放った。
「おい、御子柴。あと15分だ。それまで絶対に死ぬんじゃねえぞ」
通信機の向こうで、御子柴の泣きじゃくるような掠れた返答が返ってきた。
『……っ、はい……! 信じて……待ってます……!』
通信を切ると同時に、響は蹴破られた扉を抜け、入間基地の滑走路へ向かって一気に駆け出した。
◇
入間基地を緊急発進したUH-2多用途ヘリは、エンジンの限界出力を絞り出し、わずか12分で北区・十条駐屯地上空へと到達した。
高度300m。直下に見える駐屯地の補給倉庫群の奥、ダンジョン入口と化した地下坑道からは、黒煙と濃密なオゾン臭が吹き上がっている。坑道口の防護バリケードは内側から強烈な衝撃でひしゃげ、数匹の黒光りする巨大な影――3mを超える「変異酸サソリ」が、地上へと這い出ようと蠢いていた。
「響殿、十条上空だ! これより高度を下げてホバリング――」
スライドドアを開けた真鍋が怒鳴り終えるより早く、響は手すりを蹴り飛ばしてキャビンから身を乗り出した。
「チンタラ降りてられるかよ。唯、後から追いついてこい!」
「えっ、ちょ、響さん!? パラシュートなしで飛び降りる気ですかぁぁっ!?」
唯の悲鳴を置き去りにし、響は躊躇なく300mの上空から虚空へと身を投げ出した。
風切り音が鼓膜を叩き、地表の光景が猛烈な速度で迫る。
響は全身に魔力を巡らせて身体強化を発動し、落下のベクトルを調整すると、腰の黒鞘から柄を一気に引き抜いた。
ドォォォォンッ!!
坑道口のコンクリート床が爆心地のように粉砕され、強烈な衝撃波が周囲のサソリどもを吹き飛ばした。粉塵の中から立ち上がった響の双眸は、鋭く冷徹に獲物を捉えている。
目の前で、地上へ這い出ようと威嚇の軋み音を立てていた変異酸サソリの先頭個体。
分厚い甲殻の尾が鎌首をもたげ、先端に備わった巨大な注射針のような毒針――篠原の左脚を刺し貫き、神経毒を注入したまさにその凶器が、響の頭上めがけて振り下ろされた。
「――遅えよ」
響の姿が掻き消えた。
閃光一閃。
ザシュッ!!
鋭利な切断音とともに、変異酸サソリの尾の先端、毒腺を含んだ巨大な毒針の部位が、断面から緑色の体液を噴き散らしながら宙を舞い、地面へと転がり落ちた。
ギチチチチッ――!!
主たる武器を一瞬で奪われたサソリが狂乱の金切り声を上げ、残されたハサミを振り上げる。だが、響はすでにその巨躯の頭上を飛び越え、冷たく見下ろしながら刀身を逆手に構え直していた。
宙を舞った毒針の部位が地面に叩きつけられるのと同時に、響の姿は再び残像を残して掻き消えた。
坑道奥の壁際、瓦礫の陰に身を寄せ合っていた4名――骨折を押してメイスを構える桐生、膝を抱えて震える風間、麻痺で動けない篠原、そして限界を迎えてへたり込んでいた御子柴の目の前に、突風とともに響が着地した。
「ひ、響さん……っ!?」
涙と煤で顔を汚した御子柴が、信じられないものを見るように目を丸くして息を呑む。
響は一切立ち止まらず、アイテムボックスの空間を手のひらの先で無造作に開放した。
カラン、コロン、ジャラララッ――!
ガラス瓶がぶつかり合う乾いた音を立てて、透き通った緑色の【高級解毒ポーション】と、淡い青光を放つ【高機能治癒ポーション】の小瓶が、御子柴の膝元と地面へパラパラパラと惜しげもなくばら撒かれた。
「飲ませて手当てしろ。死ぬなっつったろ」
言葉はそれだけだった。
呆然と転がる薬瓶を見つめる御子柴と桐生に背を向け、響は足裏の魔力を爆発させて即座に反転。再び獲物の群れへと跳躍した。
「ギチチチッ!」
「シャアァァッ!」
毒針を切り落とされた個体を包囲するように、坑道の闇から新たに3匹の変異酸サソリが這い出し、強酸の溶解液をハサミから滴らせながら迫る。
だが、響の瞳にはもはやただの標的の数値しか映っていない。
黒鞘から抜き放たれた刃が暗がりを白銀に切り裂き、響は単身、怪物の群れの中央へと真っ向から突っ込んでいった。
遅れてヘリポートに着陸したUH-2から、小銃を構えた唯が砂煙を蹴立てて全力で駆け戻ってきた。
「響さんっ! 御子柴さんたち――って、うわぁぁっ!?」
現場へ飛び込んできた唯は、目にした光景に足を止め、両手で口を覆って絶句した。
わずか数分の間に、坑道口の周囲は惨劇の様相を呈していた。
切り飛ばされた無数の巨大な毒針、真っ二つに両断された頑強な甲殻、そして強烈な酸と緑色の体液を噴き出しながら転がる無数の変異酸サソリの残骸が、足の踏み場もないほど地面を埋め尽くしている。
その山のような死骸の真ん中で、響は刀身にこびりついた汚泥をひと振りで払い落とし、切先を無造作に収めていた。
だが、通常なら黒煙を上げて光の粒子となり消滅するはずの魔物の姿が、一向に消え去る気配を見せない。引き裂かれた甲殻も、ぶちまけられた内臓も、そのままの生々しい質量を保ったまま、不気味な骸を白日の下に晒し続けていた。
響は足元に転がるサソリの頭部を爪先で小突き、眉をひそめて呟いた。
「こいつら消滅しねえな。……ひょっとして、地上に出た奴らは消滅しねえのか」
「消滅するのはダンジョンの影響だということだな。もし生身が欲しければスタンピードを待つしかねえじゃねえかよ。そんなことやってらんねえだろって話だ」
響は吐き捨てるように言い放ち、血糊の付着したブーツの底で転がるサソリの甲殻を蹴飛ばした。
ダンジョン内であれば、倒した魔物は数秒で黒煙となり、魔石や一部のドロップ品だけを残して霧散する。だが、地上という「外界」へ踏み出した途端、魔物の肉体は現実の物理法則に縛られ、腐敗もすれば解体も可能な「本物の生物の死骸」として残り続ける。
防衛省や研究機関、兵器開発企業にとってみれば、未知の高硬度甲殻や強酸の分泌器官、神経毒のサンプルが丸ごと手に入る垂涎の宝の山だ。しかし、それを手に入れる条件が「地上の防衛線が突破され、壊滅的な被害を出すスタンピード」だというなら、戦略物資の回収手段としてはあまりにもリスクが高く、割に合わない。
息を切らして駆け寄ってきた唯が、足元に積み上がる巨大な死骸の山を恐る恐る見下ろしながら、青ざめた顔で頷いた。
「そ、そうですよね……! 生身の素材目当てでモンスターをわざわざ地上におびき出したり、スタンピードが起きるのを待つなんて、都市防衛の観点から見たら完全に本末転倒の自殺行為ですぅ……!」
「ああ。わざわざ街を火の海にしてまで拾い集める価値なんざねえよ。――おい、衛生兵」
響は視線を死骸の山から背後の瓦礫へと向けた。
そこでは、響が投げ渡した高機能治癒ポーションと解毒薬を呷った御子柴が、急速に回復した魔力で桐生や篠原の骨折・麻痺の処置をほぼ完了させていた。顔色はすっかり血色を取り戻し、4名全員が呆然と立ち尽くしている。
「……っ、はい!」
御子柴が弾かれたように背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を取った。
「動けるならさっさと重傷者を連れて後方のヘリへ運べ。ここはまだ穴が塞がっちゃいねえ。奥から第2陣が這い出てくる前にずらかるぞ」
「は、はいっ! ありがとうございます……本当に、ありがとうございました……!」
御子柴は深々と頭を下げ、桐生の巨体を肩で支えながら、風間と篠原を促して後方へと後退を開始した。
背後で隊員たちが撤退する足音を聞きながら、響は再び坑道口の暗がりへと向き直り、腰の刀の柄に手をかけた。地上に転がるサソリの生々しい死骸は、ダンジョンが現実世界を侵食し始めている明確な証拠だった。
後方支援と安全確保に回っていた十条駐屯地の守備隊員たちが、響の圧倒的な殲滅劇に度肝を抜かれながらも、慌てて担架と小銃を手に駆け寄ってきた。
「桐生さん、大丈夫だったか! 篠原も、風間君も大丈夫かい!」
駆け寄った守備隊員が矢継ぎ早に声をかけ、先行調査班の面々の肩を抱いた。
折れていた骨をポーションで緊急接合され、まだ脂汗の浮かぶ桐生が「ああ、なんとか生きてる」と呻き、左脚の麻痺が抜けたばかりの篠原が悔しげに視線を落とす中――声をかけられた風間だけは、守備隊員の声など一切耳に入っていない様子だった。
風間は地面に膝をついたまま、震える両手で、響から足元へ投げ渡された発光する回復薬の小瓶をぎゅっと抱きしめていた。
視線は、ただ一点――血刀を鞘へ滑り込ませ、悠然と立つ響の後ろ姿へと吸い付けられている。
数分前までの光景が、風間の頭の中で激しく明滅していた。
不可視の立体機動に索敵をすり抜けられ、仲間が次々と倒れ、自分も魔力を使い果たして死を覚悟した暗闇の底。
絶望の極限にいた自分たちの前へ、300mの上空から単身で飛び降り、化け物の毒針を一撃で切り飛ばして見せた圧倒的な強者。
そして、目の前へ突風のように現れ、目も合わさずに無造作に薬をばら撒いて立ち去ったあの瞬間――フードの影から一瞬だけ覗いた、冷徹な光を湛えた美しい横顔。
(あんな……あんなの……)
パニックで真っ白になっていた頭の芯が、カッと沸騰するように熱を帯びていく。
死の恐怖から解放された安堵と、至近距離で浴びた底知れない武威、そして息を呑むほど端正な素顔。あらゆる感情が一気に臨界点を突破し、風間の顔面は耳の付け根どころか首筋まで一気にポッと真っ赤に染め上がった。
「お、おい風間? 顔が真っ赤だぞ、どこか毒にやられたのか!?」
心配した守備隊員が慌てて顔を覗き込んできた瞬間、風間はびくりと肩を跳ね上がらせ、両手で薬瓶を胸元へ抱え込んだまま、上擦った声を上げた。
「あ……っ、い、いえ……! なんでも、なんでもないです……っ!」
心臓が早鐘のようにトクン、トクンと激しく脈打つ。
慌ててうつむき、手袋の甲で熱くなった頬を必死に冷まそうとするが、一度撃ち抜かれた胸の動揺は収まる気配がない。手元に残された小瓶のガラスの冷たさだけが、彼女が実在し、自分たちを救ってくれたのだという強烈な現実を掌に伝えていた。
その様子を横目でじっと見ていた唯が、防弾ベストの前で腕を組み、半眼のジト目を風間に向けながら小声でぼそりと呟いた。
「……あ、これ完全に吊り橋効果で惚れたパターンのやつですぅ……」
唯の呆れた呟きすら、今の風間の耳にはまるで届いていない。風間は熱でぼうっとした頭のまま、宝物のように薬瓶を抱きしめ、響の背中をただただ熱い視線で追うことしかできなかった。
響はその視線に気づきながらも、完全に歯牙にもかけず、足元のサソリの死骸を見下ろした。
「……おい唯、茶化してねえでさっさと片付けるぞ」
「は、はいぃ! でも響さん、このサソリの死骸、本当に全然消えませんよぉ」
唯がナイフの切先で甲殻を突っつき、刺激臭に顔をしかめる。
響は風間や御子柴が手当てを終えて立ち上がるのを確認し、桐生へと冷ややかに視線を向けた。
「動けるならさっさと重傷者を連れて後方へ下がれ。地上に出た獲物の片付けは終わったが、坑道の穴はまだ開きっぱなしだ。奥から第2陣が這い出てくる前に、巣穴の元を断ちに行くぞ」
◇
「これはスタンピードってやつだな。一旦10階層のボスを討伐しないと収まんねえやつだ。確かボーンなんちゃらって言ったか。唯、討伐しに行くぞ」
響は吐き捨てるように言い放ち、血刀の鯉口をカチャリと鳴らした。
地上へ溢れ出た変異酸サソリの死骸が消滅しない異常。それはダンジョンの許容量が限界を突破し、外界へと濁流のように魔力を吐き出し始めている決定的な証拠だった。地表の雑魚を何匹間引いたところで、元凶である階層の主――迷宮の核を束ねる階層ボスを叩き潰さない限り、第2陣、第3陣の怪異が地上へ這い出してくるのは時間の問題だ。
「ボ、ボーンなんちゃらって……十条の最奥にいるっていう、あの全身黒鋼の骸骨剣士『ボーン・センチネル』のことですかぁ!?」
唯は防弾ベストをぎゅっと抱え込み、目を丸くして叫んだ。
「ちょっと響さん! 私たち、入間からヘリで飛んできてまだ10分ちょっとしか経ってないんですよぉ!? 休む暇もなくそのまま第10階層まで突っ込む気ですかぁぁ!?」
「休んでる間に穴から魔物が溢れて駐屯地が丸焼けになったら、ヘリも飛ばせなくなって帰りの足が消えるだろ。手短に首をへし折って、さっさと入間のベッドに戻るぞ」
響は一切の躊躇なく、黒煙が吹き上がる地下坑道の入口へと歩みを進めた。
「ひ、響さん……っ!」
回復薬で立ち上がったばかりの御子柴が、心配そうに声を張り上げる。その後ろでは、胸元の薬瓶を握りしめた風間が、熱を帯びた瞳を激しく揺らしながら「あんな奥へ2人だけで……っ」と息を呑んでいた。
「御子柴、そこの赤ら顔の索敵野郎と重傷者を連れて、とっとと後方の防空シェルターへ引っ込んでろ。地上に残ってたら巻き添えでミンチになるぞ」
響は振り返りもせず、背中越しに冷徹な警告だけを投げかけた。
「うぅ……っ、また残業確定ですぅ! でも、お肉と魔石のためなら付き合いますからねぇぇッ!!」
唯は覚悟を決めたように三白眼を鋭く光らせ、腰の大型コンバットナイフを両手に引き抜くと、響の漆黒のコートの裾を追って駆け出した。
二人の足音が、冷気と酸の刺激臭が立ち込める十条ダンジョンの暗黒の坑道へと、迷いなく吸い込まれていった。
坑道の暗がりへ踏み込んだところで、響は神妙な面持ちで足をピタリと止めた。
漂う冷気と酸の刺激臭の中、響は深いため息をつき、隣の唯へと振り返った。
「唯、あいつ肉がねえぞ」
「……あ」
突撃態勢でナイフを握っていた唯の動きが、一瞬で固まった。
響の言葉の意図を即座に察した唯の表情が、見る見るうちに絶望と脱力で崩れていく。
「……あ、あいつ……ボーン・センチネルですもんね……」
「そうだ。骨だ」
響は心底忌々しそうに吐き捨て、腰の黒刀の鯉口をカチャリと弾いた。
池袋のキメラ、新宿の暴竜、そして渋谷のベヒモス。
心臓が動いているうちに魔石を抜き、極上の肉を喰らうことで、響のみならず覚醒値が固定されている唯のステータスすら着実に底上げしてきた。2人にとってボス討伐の真の旨味は、換金アイテムなどではなく「肉による恒久的なステータス強化」にある。
それが、今回は全身が黒鋼と白骨でできた骸骨剣士だ。
どれだけ完璧に心臓部をえぐり出して死骸を定着させようが、そこに喰える肉は1ミリも存在しない。
「キメラやベヒモスと違って、どれだけ綺麗にバラしたところで筋力も敏捷も1点たりとも上がらねえ。手に入るのは換金用の魔石と、出汁すら取れねえ鉄くずだけだ」
「うわぁぁ……! せっかく第10階層のボスなのに、完全なハズレ枠じゃないですかぁ……!」
唯は頭を抱え、露骨にテンションをダダ下げにした。
「スタンピード起こすくらいなら、もっとこう、脂の乗った牛型とか鳥型のボスにしてほしかったですぅ……! 骨なんて叩き割ってもアタシたちの身にならないじゃないですかぁ!」
「全くだ。食えねえボスなんざ、ただの硬い粗大ゴミだ」
響は唾を吐き捨てるように首を鳴らし、暗黒の坑道の奥を冷徹に睨み据えた。
「行くぞ唯。肉が出ねえ腹いせだ。ボコボコに八つ当たりして、1分で鉄くずに変えてやる」
「了解ですぅ! アタシたちの成長枠を奪った罪、骨の髄まで後悔させてやりますよぉぉッ!!」
肉がつかないと分かった瞬間、2人の殺気は「都市防衛」から「完全な八つ当たり」へと切り替わり、坑道の闇を切り裂いて一気に加速していった。
坑道の第10階層、最奥の大空洞。
スタンピードの核として不気味な魔力の波動を撒き散らし、黒鋼の大剣とタワーシールドを構えて君臨していた階層主――ボーン・センチネル。
かつて十条の先行調査班を絶望の淵へ叩き落とした威容は、いまやLv.48と[身体強化Lv.4]を誇る響と、魔肉の加護で身体能力を跳ね上げた唯にとって、ただの脆い案山子に過ぎなかった。
普通に刀をひと振りすれば、大盾ごと一刀両断にして1秒で消し炭にできる。
だが、今の2人にそんな慈悲をかける気遣いは微塵もなかった。
「――唯、一撃で殺すなよ」
「了解ですぅ! パーツごとにじっくりバラしてやりますよぉぉッ!!」
空気を置き去りにした響の超加速。
ボーン・センチネルが大剣を持ち上げる初動すら見せる前に、響の拳がその右腕の肘関節へ、威力をギリギリまで絞った寸止め気味の打撃でめり込んだ。
バキィッ!!
「ギ……ッ!?」
黒鋼の甲冑越しに肘の関節部だけが粉々に砕かれ、大剣を握っていた右前腕が虚しく床へ転がり落ちる。即座に左下から滑り込んできた唯が、ミスリルガントレットを纏ったナイフの切先で、左足の足首関節をピンポイントで抉り飛ばした。
ガギィィンッ!
「まずは左足首いただきぃぃッ!!」
バランスを崩して前のめりに倒れかける骸骨の巨躯。響はその頭上を軽やかに飛び越えながら、左肩の関節、右足の膝関節を、まるでプラモデルのパーツをピンセットで外すような精密さで次々と叩き折っていく。
バキバキッ! メキョッ! ガラガラガラッ!
手足の端から順序よく、丁寧に、かつ激痛を刻み込むように破壊されていく黒鋼の四肢。
反撃のタワーシールドを構える腕すら失い、あっという間に両手両足を綺麗さっぱりもぎ取られたボーン・センチネルは、床に無残な「胴体と頭だけの鉄塊」となって転がった。
兜の奥の紅い燐光が、意味の分からない暴力の前に激しく明滅して怯えの色を浮かべる。
だが、肉のないハズレ枠に対する2人の怒りは、ここからが本番だった。
「てめえが! 肉もついてねえ! スカスカの骨なんぞで! スタンピード起こしてんじゃねえよッ!!」
ドカァッ!! バゴォッ!!
響のシースルー黒タイツに包まれた爪先が、胴体の肋骨部分をボールのように正確無比に蹴り上げる。
「そうですよぉ! 牛でも豚でもなく骨って何なんですかぁ! アタシたちの筋力と耐久のボーナスを返せぇぇッ!!」
ボコッ! ガギィッ!! ドスンッ!!
唯のガントレットを嵌めた両拳が、顔面と兜の装甲へ目にも留まらぬ速度で乱打を叩き込む。
ボカスカ、ボカスカ、ドカドカドカッ!
大空洞に響き渡るのは、ダンジョンボスの厳かな戦闘音などではなく、路地裏のリンチ劇そのものの生々しい鈍痛の破砕音と金属音だった。
装甲はベコベコに凹み、肋骨のパーツが1本、また1本と弾け飛ぶ。
死なない程度に威力を絶妙にコントロールされた連打を全身に浴び続け、頭と胴体だけになった十条の階層主は、床の上をあちこちへ転がされながら、ただただ哀れな軋み声を上げ続けるしかなかった。
◇
地下坑道の奥から響いていた激しい破砕音と打撃音が途絶え、ダンジョン特有の重苦しい魔力の圧迫感が、潮が引くように急速に薄れていった。
坑道口の防護バリケード前。
神崎2佐が更迭・隔離された後、十条駐屯地の臨時指揮官として事後収拾の陣頭指揮を執っていた真鍋3佐は、小銃を構える守備隊員たちを背に、暗闇の奥を固唾を呑んで見つめていた。
静寂の中、コツ、コツと規則正しい2人分の足音が近づいてくる。
現れたのは、埃ひとつ被っていない漆黒の外套を羽織った響と、その斜め後ろでミスリルガントレットを外しながら肩を回す唯だった。突入からわずか十数分。散歩から戻ってきたかのような平然とした佇まいに、周囲の隊員たちが息を呑む。
響は立ち止まり、真正面で待ち構えていた真鍋と対峙した。
「討伐終了だ。第10階層の主、ボーン・センチネルは完全に叩き割った」
冷徹な響の声が、静まり返った坑道口に響き渡る。
「主を失った以上、ダンジョンの魔力循環はリセットされる。しばらくの間はスタンピードは起きねえよ。地下の雑魚も当分は地上へ這い上がってこねえはずだ」
「……あ、ああ……そうか。十条の危機を救ってくれたこと、現場の指揮官として心から礼を言う」
真鍋は胸の底から安堵の息を吐き出し、深く頭を下げた。神崎の暴走によって壊滅寸前まで追い込まれていた駐屯地が、たった2人の圧倒的な武威によって最悪の破滅を免れたのだ。
響は懐へ無造作に手を差し入れると、掌ほどの大きさがある深青色の結晶――ボーン・センチネルの胸部から抉り取った、中級上位の巨大な魔核を取り出した。
池袋や渋谷で巨額の買い取りを突きつけてきた響が、その貴重な魔石を、惜しむ素振りもなく真鍋の胸元へ放り投げた。
「おっと……っ!?」
慌てて両手で受け止めた真鍋は、掌にズシリと伝わる高密度の魔力に目を見張った。市場へ流せば数千万円は下らない、中級ボスの特大魔核。
「ひ、響殿……これは一体? いつもの買い取り請求はどうしたんだ」
困惑する真鍋に対し、響は冷淡に肩をすくめてみせた。
「こいつがボスから得た魔核だ。……そいつで、この基地の復興でもしてやってくれ」
「ふ、復興費用だと……?」
「壊された防護壁の補修に、破損した器材の補充、それに怪我した隊員共の手当てだ。十条の連中は、上の無能な指揮官のせいで散々な目に遭ったんだろ。そいつを換金すりゃ、現場の立て直し代くらいには十分お釣りがくる」
響はそう言い捨てると、漆黒の外套を優雅に翻した。
「神崎のバカのツケを現場の若いのに払わせるのは、俺の性分じゃねえんだよ。……おい唯、用は済んだ。入間へ帰るぞ」
「了解ですぅ! さっさとヘリに乗って帰りましょう!」
呆然と手元の青い魔核を見つめる真鍋と、敬意と畏怖の眼差しで立ち尽くす十条の隊員たちを残し、2人はヘリポートへ向けて迷いなく歩き出した。
面白ければ、ブックマーク、評価をお願いします。




