11話:後半
第10階層の巨大な黒鉄の扉を押し開いた先は、旧地下鉄の広大な留置線跡である。
天井には剥き出しの鉄骨と断線した高圧ケーブルが無数に垂れ下がり、四方から集まる赤錆びたレールが交差するドーム状の空間。その中央に、周囲の空気を圧迫するほどの巨躯が横たわっていた。
全身を岩盤のように分厚い褐色の筋肉と剛毛で覆った四足の重地獣――『ベヒモス』。
侵入者の気配を察知した怪獣が鈍重な唸り声を上げ、巨躯を揺らして立ち上がる。
響は意識を向け、【鑑定】を発動させた。網膜に余すところなく詳細な解析ウィンドウが瞬時に展開されていく。
【ベヒモス】
・種別:重地獣(第10階層・守護種 / 階層主)
・生体規模:全長8.4m / 体高4.2m / 推定総重量14.8t
・ステータス:
HP:3200 / 3200
MP:180 / 180
力:800
耐久:950
敏捷:65
魔力:30
・固有特性:
[剛体外殻(物理衝撃・刃撃40%カット)]
[超重量突進(最大時速105km / 衝突時運動量増幅)]
[地脈共鳴(四肢接地時に疲労回復および姿勢制御補正)]
・生体急所:
胸部第3・第4肋骨間、心臓直裏(核格納部位)
(総重量約15トン、突進速度100キロ超、力800、耐久950――なるほどな)
桐生のような正規防衛隊の精鋭前衛(筋力48)が10数人束になろうと、突進の余波を掠めただけで全員まとめて挽き肉に変えられる悪夢の数値である。装甲車すら紙屑のように圧壊させる、文字通りの歩く天災そのものだ。
響は思考の針を研ぎ澄まし、【鑑定】に問いを投げかける。
――殺さずに前足のどこを断てば、完全に機能を失ってバランスを崩す?
即座に脳内のウィンドウが更新され、ベヒモスの前肢骨格と筋組織が青い透過光となって立体展開された。特定の部位が赤く明滅し、精密な回答がテキストとなって網膜を走る。
【回答:前肢機能喪失部位の特定】
・推奨部位:左右前肢・腕関節裏「深屈腱」および外側「副橈骨神経束」
・作用:上記接合点を同時に断裂させた場合、14.8tの荷重を支える前肢の突っ張り機構が完全崩壊。自重と突進慣性を相殺できず、頭部から前方へ即座に転倒・滑走状態へ移行します。
「なるほど、腕関節裏の腱と神経束だな」
構造の理を完全に掌握した響の表情に、焦りは微塵もない。
ベヒモスが地下空洞全体を震わせる咆哮を轟かせ、床のバラスト石とレールを粉砕しながら突進を開始する。15トン近い超質量の塊が突風を伴って迫り来る。
「響さん、来ますっ!」
「殺すなよ。息の根を止めたら光の塵になって消えちまう。肉を残すために、生かしたまま四肢の自由を奪うぞ」
響は短く告げると、体内の魔導回路を一息に巡らせた。
[身体強化Lv.4]。
大気を歪めるほどの濃密な青白い魔力光が噴き上がり、レベル48のステータスに身体強化Lv.4が重なり合う。爆発的に上昇した響の力ステータスは1334へと到達した。
怪獣が誇る力800の突進を、明確にねじ伏せる規格外の出力である。
踏み込んだ足元の敷石が飴細工のように砕け散る。
正面から迫る巨獣の突進など、研ぎ澄まされた動体視力の前には止まって見えていた。
正面衝突の紙一重の刹那、響は音もなく身を滑らせてベヒモスの懐へ潜り込む。
【鑑定】が赤く指し示した右腕関節裏の深屈腱へ、解放された[剣術]の理が導くまま、漆黒の刃先が寸分の狂いもなく吸い込まれた。
ズバッ!
出力1334の乗った一閃は、剛体特性による40%の衝撃減衰すら強引に突き抜け、鋼鉄をも凌ぐ強靭な腱と神経束を、濡れた紙のように両断する。
右前肢の支えを完全に失ったベヒモスの巨体が、右前方へ大きく傾いた。
ほぼ同時に、逆サイドへ低空で滑り込んだ唯のミスリルガントレットが閃光を放ち、逆手に構えた大型コンバットナイフが左後脚の腱を的確に薙ぎ払う。
ザシュッ!
前後の推進軸を同時に奪われた14.8トンの巨躯は、慣性のまま頭から床へ激突した。ズザザザザと凄まじい摩擦音を立てて床面を削り砕きながら滑走して停止する。
「グガァッ……!?」
自重を支えることすらできず床に這いつくばる巨獣。荒い鼻息を吐き散らして暴れようとするが、立ち上がることは叶わない。命は完全に繋ぎ止められたまま、運動機能だけが奪い去られているのだ。
「よし、生きているな。心臓が動いているうちに抜くぞ」
響は刀を鞘へ滑らかに納めると、激しく上下するベヒモスの胸元へ飛び乗った。
黒革の手袋をはめた右腕へ高密度の魔力を集中させ、【鑑定】が示した『胸部第3・第4肋骨間』へ向けて躊躇なく手を突き立てる。
メキリ、ブチュッ!
まだ温かい生体組織を力任せに押し分け、胸腔の奥深く、激しく脈打つ生きた心臓の裏側へ指先を潜り込ませ、生々しい熱を帯びた核を捉えた。
「――フンッ!!」
響は一息に腕を引き抜く。
ブチブチと肉と血管が千切れる音が響き、血塗れの掌の中に引きずり出されたのは、拳骨大の赤黒く発光する極上の深層魔石であった。
核を肉体から完全に分離されたベヒモスは、短く痙攣した後に活動を停止する。
数秒、十数秒。
光の粒子となって大気へ還る気配は一切ない。生きているうちに核だけをえぐり取られたことで還元プロセスを踏むことなく、体長8m、15トン近い巨躯は、まだ湯気を立てる生々しい肉塊のまま冷たい切石の上に横たわり続けていた。
「……成功だな。死体として定着した」
響は手元の魔石についた血糊を払い、極上の肉の山を見下ろして不敵に口角を吊り上げる。
「こいつ、うまそうな牛肉だよな。どこ食いたい?」
響が血糊のついた手を軽く振りながら尋ねると、唯は恐縮したように両手を振った。
「いえいえ、響さんが倒したのだから、響さんが食べたいところでいいですよ」
「遠慮すんな。15トンもあるんだ、食いきれねえほど山ほど部位はある」
響は手袋についた血糊を布で無造作に拭うと、再び【鑑定】の視線を巨大な肉塊へと走らせる。
網膜上にベヒモスの全身骨格と筋肉構造が鮮明に浮かび上がり、各部位の肉質データが瞬時に展開された。
【ベヒモス・可食部位解析】
・鞍下肉(サーロイン相当部):融点36℃の極上不飽和脂肪酸を含有。筋繊維がきわめて細密。
・舌:重量45kg。根元部分に上質なサシが密集。
・ハラミ(横隔膜):筋力800を支えた赤身の極致。濃厚な旨味成分。
「……背中の鞍下、サーロインに相当する一番いいところだ。脂の融点が人間の体温より低く、口に入れた瞬間にとろける。お前の取り分として、まずここを切り落とすぞ」
響が黒鞘から刃を抜き放ち、巨大な背部へと刃先を向けたところで、唯は申し訳なさそうに訂正を促す。
「響さん、言っておきますけど、こいつ牛じゃないですからね」
「見た目がどうあれ、肉質データが和牛の上を行ってんだから牛肉みたいなもんだろ」
響は手元を止めずに言い放つが、唯は呆れたように肩をすくめ、手元の端末と倒れ伏した巨躯を交互に見比べた。
「あのですね……角の形状も骨格もどう見ても重地獣類ですよ。報告書に『牛肉を解体した』なんて書いたら、本部の検分班にどんな顔されるか分かってます?」
「食っちまえば胃袋の中だ。報告書には『階層主の素材回収』とだけ書いときゃいい」
「そういう問題じゃありませんっ」
ため息をつきつつも、唯の視線は響が切り開き始めた断面へと引き寄せられていく。
分厚い外皮の直下に現れたのは、淡い小豆色の赤身に細やかなサシが網目のように走る極上の肉質だった。空気に触れた端から、ほのかな体温で上質な脂が艶やかに光を反射し、野性味のある甘い香りが周囲に漂い始める。
「……でも、悔しいですけど、本当にものすごく美味しそうですね」
「だろ? ほら、講釈垂れてないでナイフ出せ。脂が固まる前に一番美味いとこを切り分けるぞ」
響は小さく笑うと、大理石のような断面へ滑らかに刃先を沈めた。
◇
熱せられた厚底スキレットの上で、2cm厚に切り分けられた大理石模様のサーロインが激しい音を立てて脂を弾く。
じゅうじゅうと立ち上る白い煙とともに、芳醇な獣肉の脂と香ばしい焦げ目が混ざり合った濃密な匂いが、地下10階層のひんやりとした空気を一気に満たしていった。
「ほら、焼けたくらいが一番美味い。冷めねえうちに食え」
響がナイフの先で器用にステーキの端を切り落とし、唯の差し出した小皿へと放り込む。
「あ、ありがとうございます……いただきます」
唯は湯気を立てる肉片を息でふうふうと冷まし、恐る恐る口へと運んだ。
咀嚼した瞬間、サシのきめ細やかな脂が体温でとろりと融解し、濃厚な旨味の肉汁が口いっぱいに広がる。
「……んんっ!? す、すごいです……! 牛より全然臭みがなくて、噛まなくてもほどけていきます……!」
感動に目を丸くしながら嚥下した唯だったが、胃袋に温かい熱が落ちた直後、視界の端に点滅した通知に気づいて目元をしばたたかせる。
端末のような透明なステータス画面を呼び出し、数値を凝視した唯は、首をかしげて響を見上げた。
「響さん、ステータスの上がり方がちょっと変なんですよ」
「あ? 変って何がだ」
響も大ぶりの肉塊を豪快に口へ放り込み、咀嚼しながら視線を向ける。唯は人差し指を立て、これまでの数値を指折り数えながら説明を始めた。
「キメラの時は、確か魔力が2増えました。その他の上昇値は1のみでしたよ。恐竜の時も耐久が2で、力は1でしたし……でも、今回のベヒモスは筋力が2上がるようです。耐久も1増えてますけど、明らかに力の上昇幅が大きいというか……」
「なるほどな」
響は口元の脂を指先で拭い、納得したように頷く。
「魔石と同じ理屈だ。魔導生命体だったキメラは魔力の塊、あの赤い恐竜は甲殻と骨格の化け物だった。そしてこいつは――」
響は足元に横たわる15トンの巨躯、筋力800の筋肉の塊を見下ろした。
「重戦車みてえな腕力で地中を掘り進む重地獣だ。肉に溶け込んでる魔力の性質そのものが筋力に特化してやがるんだろ。食った相手の『一番強い部分』が色濃く肉体に還元される仕様ってわけだ」
視界の端が淡い蒼光を帯び、ステータス画面が網膜上に展開される。
【鷹野 唯】
20代前半。小柄だが、迷彩服や防弾ベストの上からでも隠しきれない規格外の豊満な巨乳の持ち主。
内面・性格:
極度の小心者、引っ込み思案、おどおどした泣き虫。オバケや痛いものが大の苦手。
ただし、戦闘となると突然性格が180度反転し、粗暴な言葉使いとなる
HP:520
MP:140
筋力:79(初期76 + カルノタウルス1+ベヒモス2)
耐久:71(初期68 + カルノタウルス2+ベヒモス1)
敏捷:146(初期145 + キメラ1)※装備補正込み166
魔力:24(初期22 + キメラ2)
「おいおい……」
響は手元のスキレットを小刻みに揺すりながら、呆れたように鼻を鳴らした。
「まだベヒモスの肉が胃袋に落ちたばっかりで消化吸収の途上だな。数値上はカルノタウルスの後のまんまだが、血肉の循環が進めば、ここへ筋力+2、耐久+1が綺麗に乗っかる計算だ」
「そ、そうなんですね……! 自衛隊の適性検査だと、私は『これ以上の伸び代がない固定型覚醒者』って言われてたのに……」
唯は自分の手のひらをグーパーと握り締め、じんわりと内側から湧き上がる熱量を確かめている。
「固定型だろうが何だろうが関係ねえよ。階層主の極上肉を喰らい尽くして、筋力も耐久も魔力も底上げすりゃいい。ほら、冷める前に全部腹に詰め込め。筋力79、耐久71の『狂犬』の出来上がりだ」
響はそう言って、さらに香ばしく焼き上がった極厚のサーロインステーキを、唯の皿へ豪快に放り出す。
網膜上に浮かび上がったステータス画面をスクロールさせながら、響はスキレットの肉をつつき、軽口混じりに言葉を漏らした。
「へえ、お前20代前半なんだ」
「えっ、なんでわかるんですか!?」
唯は口元にフォークを運ぼうとした手を止め、丸く見開いた目で響を見つめ返す。身分証明書や隊員証を渡した覚えもなければ、実年齢を口にした記憶もない。
驚愕して身を引く唯に対し、響はフォークの先をひらひらと振ってニヤリと笑った。
「いやいや、これお前の性格から何から何まで筒抜けだよ」
「ええっ!? せ、性格まで……!?」
「ああ。『極度の小心者、引っ込み思案、おどおどした泣き虫。オバケや痛いものが大の苦手。ただし、戦闘となると突然性格が180度反転し、粗暴な言葉使いとなる』……って、一言一句そのまま書いてあんだよ」
「ひ、ひどいっ! なんですかその悪口の詰め合わせみたいな鑑定結果はっ!?」
「それだけじゃねえぞ。身体測定の項目まである」
響は宙に浮く不可視のウィンドウを指先でトントンと叩きながら、淡々と読み上げる。
「身長149cm。スリーサイズは上から98、56、86……ブラのサイズは推定I〜Jカップ以上。迷彩服の上からでも目立つとは思ってたが、お前、身長150cm切っててその胸は完全にバランス崩壊してんだろ。戦闘中に前屈みになったら重心狂わねえのか?」
「ぎゃあああああっ! み、見ないで! 勝手に人の身体測定の数字まで読み上げないでくださいよぉっ!」
唯は耳まで真っ赤に沸騰させ、両腕を交差させて自らの豊かな胸元を必死に押し隠す。防弾ベストの上からでも隠しきれない凶悪な質量が、激しい動揺のせいで激しく波打っていた。
「おい、別に減るもんじゃねえだろ。ただの客観的なデータだ」
「乙女のプライバシーが全部数字で丸裸にされてるじゃないですか! 同じ女だからって何見てもいいわけじゃないです! 今すぐその画面閉じてくださいっ!」
「無茶言うな。消せって言われても、仕様で視界の右隅に常駐してんだよ。ほら、喚いてないで肉食え。肉。食って筋力上げねえと、その無駄に重い胸を支えきれなくなるぞ」
「うぐぐ……っ、響さんのバカっ!」
唯は涙目で響を睨みつけつつも、皿の上に置かれた極上のサーロインステーキを乱暴にフォークで突き刺し、悔しさを紛らわせるように口いっぱいに頬張った。
「お前、ウエスト56cmで98ってことはMとかなんか?」
「なっ……! 声ちっちゃくしてリアルなサイズ割り出そうとするのやめてくださいぃっ!」
唯は羞恥のあまり首筋まで真っ赤に染め上げ、防弾ベストの襟元を両手で必死に掻き集めるようにして胸元を覆い隠した。
「市販品なんてとっくに全滅で、全部オーダーメイドか海外の特注品なんですよっ! ただでさえ官給品のベストが閉まらなくて補給班に嫌な顔されてるのに……!」
「いや、責めてるわけじゃねえよ。ただ純粋に、両胸だけで新生児1人分以上の重さがあんだろそれ。その小柄な体格でどうやって前転や跳躍のバランス取ってんだか不思議だっただけだ」
響が呆れたように肉を口へ放り込むと、唯は涙目で口を尖らせた。
「そ、それは……筋力と気合いでねじ伏せてるんです! ほら、もう身体測定の話はおしまいです! 鑑定画面、絶対消してくださいね!」
「はいはい、消した消した」
響は適当に手を振って不可視のウィンドウを視界から払い、鉄板の上で再びじゅうじゅうと音を立て始めた極厚のサーロインへと意識を戻した。




