11話:前半 渋谷の鉄火場と、極上霜降りの測定不能(アンリミテッド)
新宿ダンジョンの地上口からストレッチャーで問答無用に運ばれた先は、新宿区立新宿競技場だった。
かつて数万人の大歓声が響いていた巨大スタジアムは、今や緑の人工芝を一面の医療用テントとパーテーションで埋め尽くされ、「新宿臨時越谷救援センター」という野戦病院同然の後方救護拠点へと変貌を遂げていた。
パイプで組まれた仮設の処置室の中、響と唯は並んだ簡易ベッドの上に座らされ、厳重な精密検査を受けていた。
「おい、血圧と脈拍はどうなってる!?」
「異常ありません! 上が118、下が72、脈拍65……至って正常です!」
「そんなバカなことがあるか! これだけの出血だぞ、即座にショック死していてもおかしくない血の量だ! 早くガーゼで血糊を拭き取って創部を特定しろ!」
緊迫した医療スタッフたちが、響の両腕に分厚くこびりついた赤黒い血をアルコール綿と精製水でガシガシと洗い落としていく。
だが、拭えば拭うほど、現れたのは傷1つない健康そのものの白い皮膚だった。
「……え?」
ガーゼを握りしめた医師の手がピタリと止まる。
「な、なんだこれは……? 傷口はどこだ? 動脈裂傷どころか、擦り傷の1つすらねえぞ……!?」
隣のベッドで同じようにアルコールで全身を拭かれていた唯のほうでも、女性看護師たちが目を白黒させていた。
「こ、こちらもです! 衣服は血まみれですが、ご本人の皮膚には切り傷すら見当たりません!」
処置室全体に、異様な静寂と困惑が広がっていく。
駆けずり回っていた救護班の全員が、血塗れのタオルを握りしめたまま、呆然と響と唯を見つめて固まっていた。
「……あのよ、さっきから何度も言ってるだろ」
響は綺麗に拭き取られた自分の両腕をぶらぶらと振り、うんざりした溜息を吐き出した。
「怪我人じゃねえんだよ。これ、全部返り血だ」
「か、返り血って……こんな致死量に近い血糊を浴びて無傷なんて、一体どんな化け物と戦えば……」
医師が引きつった表情で絶句し、処置室内がさらに重苦しい沈黙に包まれかけた、まさにその時だった。処置テントのビニールカーテンを乱暴に跳ね上げ、腕章を巻いたセンターの職員が血相を変えて駆け込んできた。
「おい、みんな聞いてくれ! たった今、前線本部から連絡が入ったぞ!」
肩で息を切らしながら叫ぶ職員の顔には、極度の緊張と、それを上回る歓喜の色が浮かんでいた。
「新宿ダンジョン、そして池袋ダンジョンだ! 両方のダンジョン内から、あれだけ溢れかえっていたモンスターの反応が綺麗さっぱり消えたって話だ!」
「……は? 消えたって、どういうことだ!?」
医師がカルテを握り直して問いただすと、職員は興奮を隠せない様子で大きく身振り手振りを交えた。
「偵察班の報告によると、中には全く何もねえらしい! 第1階層から最下層のボス部屋まで、もはやほぼ攻略された後だってよ! 奥で何が起きたのかは皆目見当もつかねえが、これ以上新たな犠牲者が担ぎ込まれてくる心配はなくなった!」
テント内にどよめきが走る。職員は並んだベッドの響たちを一瞥し、破顔して両手を掲げた。
「つまりだ! 今ここにいる患者たちを手当てし終えれば、我々もようやく一休みできるぞ! やったぁぁっ!!」
「「「うおおおおぉぉっ!!」」」
過酷な野戦医療で疲弊しきっていた医師や看護師たちから、地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こった。互いに肩を叩き合い、涙ぐみながら安堵の息を吐き出す医療スタッフたち。
その狂喜乱舞の輪の真ん中で、響は唯と顔を見合わせ、気まずそうにポリポリと頬を掻いた。
「……あー、なるほどな。ボスを間髪入れずに2体ともぶっ殺したから、ダンジョンの活動自体が一時停止しちまったのか」
「響さん、しーっ! 声が大きいですぅ! 今ここで『それ全部私たちが片付けました』なんて言ったら、一休みどころか事情聴取で一生ここから出られなくなりますよぉ……!」
唯がベッドの上で身を縮め、必死の形相で小声の忠告を囁いてきた。
◇
「もういい、私たちはもう行くぞ。唯、急いでついてこい。次は渋谷だ」
「えっ、ちょ、ちょっと響さん!?」
歓声と安堵に沸き返る医療スタッフたちの隙を突き、響は簡易ベッドから軽やかに飛び降りた。
「あ、おい! 待ちなさい君たち! まだ問診と経過観察が――」
医師が慌てて手を伸ばしたが、響はすでに[身体強化Lv.4]を脚部へ走らせていた。
「また305号線だな。急いで行くぞ!」
「ええぇぇっ!? またあの通りを全力ダッシュですかぁぁ!?」
響たちは救援センターと化した競技場を飛び出し、急いで渋谷へと向かって走り出した。
夕闇が急速に濃くなる都道305号線――明治通り。
割れたアスファルトを蹴り飛ばし、放置車両の列を縫うようにして、響は池袋からの道中を遥かに上回る猛烈な初速で南へと突っ走る。
[身体強化Lv.4]の恩恵は凄まじく、踏み込むたびに景色の流れるスピードが跳ね上がっていく。
「まっ、待ってくださぁぁい響さんっ! 今日だけで池袋、新宿、そして渋谷ってダンジョン3連戦ですよ!? アタシの胃袋も体力も完全にオーバーヒートですぅぅ!!」
「泣き言言ってねえで足を回せ! 渋谷のボスが生き残ってりゃ、今夜の最高のメインディッシュになるんだよ!」
背後で半泣きになりながら必死に追走する唯の悲鳴を置き去りにし、響はギラついた猛獣のような光を目に宿らせ、夜の闇に沈む渋谷の街へと一直線に疾走していった。
◇
明治通りを南下し、渋谷のスクランブル交差点付近へと滑り込んだ響たちは、目の前に広がる異様な光景に思わず足を緩めた。
新宿のような阿鼻叫喚の血生臭さや混乱はそこにはなく、代わりに熱気と活気に満ちた人だかりができていた。
かつて巨大ビジョンが並んでいた広場の中央には大型プレハブが立ち並び、「覚醒者登録所」や「渋谷ダンジョン入門受付」といった真新しい看板が掲げられ、武装した覚醒者たちの長蛇の列が整然と作られていたのだ。
「……一体どういうことだ?」
響が眉をひそめて呟くと、唯も息を整えながら目を丸くした。
大方、池袋と新宿の2大ダンジョンが突如として沈静化したことにより、自衛隊や行政に一定の余裕が生じたということだろう。
ダンジョンの未知の脅威に怯える段階を抜け、国と都は早くも資源確保のための管理体制を敷き始めたらしい。
自衛隊の主戦力はすでにダンジョン攻略の手を緩め、街中にあふれかえるゾンビや徘徊するはぐれ魔獣の対処、そしてライフラインの復旧や街の復興へと完全にシフトしているようだった。
周囲を見渡せば、民間警備会社のロゴが入ったタクティカルベストを着た警備員たちが要所に配置され、バリケードの警備強化や交通整理を精力的に実施している。
「なんか……一気に管理社会っぽくなってますね」
唯が列を眺めて呟いた。
「これ、勝手にダンジョンに入ってボスを狩ろうとしても、受付を通さなきゃ密猟扱いされる流れじゃねえか。……面倒なことになってやがるな」
響は受付の列を見据え、小さく舌打ちした。
人混みの中へ足を踏み入れると、四方八方から騒々しい呼び込みと怒号のような掛け声が響き渡っていた。
「へいらっしゃい! 魔石の鑑定・即日換金やってるよ! 初級・小粒は5,000円! 中粒なら1万5,000円で買い取るよ!」
「大粒の魔石は7万円だ! 今なら即金で全額キャッシュで払うぞ!」
「おいおい、そっちのケチな業者に買い叩かれるなよ! うちなら大粒に8万円出すぞ!」
「特大魔石は10万円で買い取るよ! キズなし純度高めならさらに上乗せだ、持ってきな!」
折りたたみ机の上にノギスや天秤、測定機器を並べた買取業者たちが、メガホン片手にダンジョンから生還した覚醒者たちを呼び止めている。命がけで持ち帰られた魔石が次々と査定され、サイズや魔力純度を測られてはその場で生々しい札束へと換えられていた。
さらに、違う方角からは拡声器を通した熱苦しい演説が飛んでくる。
「我らギルドはメンバーを募集している! 我がギルドの方針は助け合い、協調、そして成長を目指している! 日本一のギルドを目指して共に邁進していこうじゃないか!」
木箱の上に立ち、揃いのエンブレム旗を掲げて拳を突き上げる男。その周囲には、武器を抱えて不安そうに耳を傾ける駆け出しの覚醒者たちが集まっていた。
換金所の露骨な呼び込みと、熱気じみたギルドの勧誘が入り乱れるスクランブル交差点の真ん中で、響は呆れたように鼻を鳴らした。
「……小粒で5,000円、特大で10万円か。随分と景気のいい買い叩きっぷりだな」
「えぇ……特大の魔石でも10万円なんですか……?」
アイテムボックスに眠る3億8,000万円相当のカルノタウルスの核魔石を思い出したのか、唯は引きつった笑いを浮かべ、周囲の熱狂との落差に肩をすくめた。
「あの暴竜の魔石を見ちゃった後だと、なんだか駄菓子屋のお小遣い稼ぎに見えてきちゃいますぅ……」
「勘違いするなよ。特大といっても1cm以下だぞ。あそこのノギスを見ろよ。あれで特大を測ってるんだ」
「ええ、あんなもので」
唯は響の視線を追って人混みの先へ目を凝らし、机の上に置かれた金属製の計測具に息を呑んだ。
「ま、日銭を稼ぐ連中にとっちゃ十分な大金なんだろ。――さて、余計な勧誘に引っかかる前に受付の様子を見るぞ」
響はギルドの勧誘員を視線で避けながら、真新しい受付プレハブへと目を向けた。
◇
プレハブの前に設けられた受付口へ進むと、パイプ椅子の脇に立った係員が機械的な手つきで来訪者を捌いていた。
「覚醒者登録証をお見せいただけますか」
事務的な口調で手を差し伸べてくる係員に対し、響は眉一つ動かさずに言い放った。
「そんなものねえよ」
「登録はあちらでございます」
係員は表情を変えることもなく、手首を返して広場の端を指し示した。その案内された視線の先を追うと、長蛇の列がそこにある。
ざっと見渡すだけでも100人を超える人間が、埃まみれの雑居ビルの壁沿いに折り重なるように並んでいた。腰に鉈やバールを下げた荒くれ者から、不安そうに身を寄せ合う一般人までが、身動きも取れずに足踏みを続けている。最後尾を示す簡易コーンの遥か先、登録用の窓口から伸びる列の進みは鈍く、10分で数歩進むかどうかという遅滞ぶりだった。
「……うわぁ、あれに並ぶんですかぁ……」
唯が列の長さに圧倒され、引きつった声を漏らして響の背後に身を寄せた。
「日が暮れるどころか、明日の朝までかかりそうだな」
響は長蛇の列を冷徹に見据え、受付プレハブの周囲に配置された民間警備会社の監視カメラと、バリケードの配置を視線でなぞった。
ノロノロとしか進まない列に耐え、やっとのことで覚醒者登録受付へとたどり着いた。
プレハブの窓口の奥には、疲弊した表情の事務官が座っており、機械的な手つきで書類の束を整えていた。
「登録でございますね。まず最初はFランクからの登録となります。こちらに必要事項をご記入ください」
カウンター越しに差し出されたのは、氏名や緊急連絡先、保有スキルの記入欄が並んだ簡素な申請用紙と油性ボールペンだった。
響はペンを受け取りかけ、ふと思った。
覚醒者って能力固定だよな。なんでFランクからなんだ。
覚醒者のステータスやスキルは発現時点でほぼ決まっており、一般的なゲームのように筋力や魔力の数値が劇的に跳ね上がるわけではない。それなのに、なぜわざわざ底辺のFランクから刻む必要があるのか。
横から覗き込んだ唯が、響の疑問を察したように小声で呟いた。
「実績積まないとダメってことなんじゃないんですか」
能力の絶対値ではなく、社会や組織が管理するための信用度合い――どれだけの魔物を間引き、どれだけの魔石を納入したかという安全確認と実績の証明。野放図な覚醒者をランクという首輪で縛り、段階的に扱える獲物や立ち入り区域を制限するための管理システムなのだと合点がいった。
「なるほどな。お役所仕事の等級付けってわけだ」
響は小さく鼻を鳴らすと、手元の用紙にペン先を走らせ始めた。
だが、申請用紙の住所欄で黒々とした空欄を前にペンを止めた。響は視線を上げ、隣に立つ唯に向かって言った。
「お前んちの住所教えろよ」
「えっ」と唯は目を丸くして身を引いた。
「なんでですか」
響は何でもないことのように、平然と言い放った。
「俺、住所ねえもん」
「えぇ……住所不定なんですかぁ……?」
唯は呆気にとられたように口元を歪めた。崩壊した街を生き延びてきた響の、あまりにも生々しい生活実態を突きつけられ、思わず額を押さえる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。私の実家、まだ無事かどうかも分からないんですよ? 勝手に同居人扱いみたいな欄に書かれたら困りますぅ!」
「書類上の形式だろ。空欄で突き返されてまたあの列の最後尾に並び直す羽目になるぞ。手っ取り早く埋めさせろ」
「うぐっ……あ、あの地獄の列はもう嫌ですけどぉ……」
唯は後ろを振り返り、まだ蛇のようにとぐろを巻いている登録待ちの群衆を怯えた目で見やり、観念したように小さく息を吐き出した。
唯は響の手から用紙を奪い取ると、素早く代筆を開始した。
迷いのない手つきでボールペンを滑らせ、響の住所の欄に入間基地の住所を素早く書き込む。
「ちょっ、お前……そこ、基地だろ」
「いいんですぅ! 私の実家の住所なんて教えませんからね! 公的な連絡先がいるなら、自衛隊の基地を書いておけば文句言われません!」
唯は息を荒らげながら一気に都道府県から番地までを埋め立てると、インクの乾ききらない用紙を窓口のカウンターへ勢いよく滑り込ませた。
「はい、書けました! これで手続き進めてください!」
受付の係員は一瞬、住所欄に踊る「航空自衛隊入間基地」の文字に眉をピクリと動かしたが、後ろに控える膨大な待機列の圧に押されたのか、深く追及することなく事務的な動作で端末を叩き始めた。
発行機から吐き出されたラミネート加工のカードは、まだ機械の熱を帯びていた。
2人は真新しい覚醒者登録証を受け取ると、そこに輝くFランクの文字を眺め、なんだかなあという気持ちになりながらも、ダンジョン入門受付の方へと足を進める。
「……Fランク、ですかぁ。あんな化け物みたいな恐竜を倒して、3億8,000万円の核魔石を持ってるのに、一番下の底辺ランクなんですね」
唯は受け取ったばかりの登録証を指先で弾き、印刷された黒い文字を恨めしそうに見つめた。顔写真の代わりに簡易スキャンされた白黒の肖像と、大々的に刻まれた「Rank: F」の刻印。街を揺るがす死線を越えてきた自負とのギャップに、肩の力が抜けるのを抑えられないようだった。
響もまた、親指でカードの端を擦りながら自嘲気味に口元を歪めた。
「お役所の書類仕事なんざこんなもんだろ。カルノタウルスをぶち殺した実績なんて一言も書いてねえし、書いたところでホラ吹き扱いされて終わりだ」
「それはそうですけどぉ……なんか納得いかないというか、腑に落ちないというか……」
ため息交じりに零す唯を促し、響はプレハブの脇に伸びる鉄パイプの仕切り沿いに歩を進めた。
「管轄外の戦果なんざ誰も認めねえよ。とりあえずこの紙切れ1枚でダンジョンに入れるなら、今はそれで十分だ」
広場の中心、アスファルトを抉り取って剥き出しになった地下への巨大な裂け目――その手前の隙間を塞ぐように設置された「渋谷ダンジョン入門受付」の検問所が、2人の目の前に迫っていた。
◇
入門受付のプレハブ前には、頑丈な金属製バリケードと自動改札のようなゲートが設置されていた。
2人が真新しい登録証を差し出すと、受付の係員は小型のスキャナーでカード裏面のバーコードを読み取り、手元のモニターを素早く叩いた。
「はい、確認いたしました。登録IDと入門時刻を記録いたしますね。はい、どうぞ。記録が終わりましたので入ってくださって結構ですよ」
事務的な声とともに、ゲートのロックが機械音を立てて解除された。
「……記録、ですか。帰ってこなかったら死亡扱いとかになるんですかねぇ」
唯はゲートをくぐり抜けながら、身震いするように小声で響に耳打ちした。
「捜索隊を出すための親切心じゃねえよ。中でくたばった奴の身元確認と、遺品回収の権利関係を整理するための台帳だ」
響は冷ややかに言い捨て、崩落した地下街へと続く薄暗い階段の先を見据えた。地上から届く光はわずか数メートル先で途絶え、湿った冷気と、魔石独特の微かなオゾン臭が足元から吹き上がってきている。
薄暗い階段を下りきり、地下街のフロアへと足を踏み入れた2人の目に飛び込んできたのは、予想を完全に裏切る奇妙な光景だった。
ここの渋谷ダンジョンは、他のダンジョンと比べてとてもお行儀の良いダンジョン攻略者たちであふれかえっていた。
新宿や池袋のような、血で血を洗うような殺伐とした奪い合いはどこにもない。広大な地下通路の各所で魔物との交戦が繰り広げられていたが、そこには厳格なまでの暗黙のルールが敷き詰められていた。壁際に武器を構えたまま待機する複数のパーティーは、前方の獲物に決して手を出さず、腕を組んでじっと戦況を凝視している。
「……響さん、見てください。なんだかすごく整然としてるというか、みんな順番待ちしてますよ……?」
唯は通路の端に身を寄せ、息を潜めながら驚き混じりの小声を漏らした。
「あれはただの見学だな。どういう風に討伐するかを見ているだけだ。討伐なのに順番待ちってわけでもねえし、死んじまうのを待ってるわけでもねえだろ。俺たちはさっさと行くぞ」
響は壁際に群がる覚醒者たちの視線の色を冷ややかに見極め、足を止めることなく吐き捨てた。
取り囲む連中の手元には武器こそ握られているが、いつでも飛び出せるような踏み込みの体勢ではない。戦況の行方、魔物の挙動、前衛の受けるダメージの度合いや後衛が放つスキルの発動間隔を、まるで講義でも受けるかのように値踏みしている目つきだった。新宿のような殺気立った獲物の奪い合いではなく、これから潜る自分たちのための情報収集――先行するパーティーの戦い方を観察し、魔物の特性を測るための見学に過ぎないのだと響は見抜いていた。
「あっ、順番待ちじゃなくて見学なんですね……。確かに、誰も獲物を横取りしようっていう前のめりな殺気はないかもですぅ」
唯は納得したように小さく頷き、響の背中にぴたりとついて歩幅を合わせた。
見学者たちの群れは、通り過ぎようとする響たちに一瞥をくれたものの、駆け出しのFランク登録証をぶら下げた2人組と見てか、すぐに興味を失ったように前方の戦闘へと視線を戻した。
湿った地下の冷気の中、金属の打ち合う甲高い音と魔物の呻き声が背後へと遠ざかっていく。2人は立ち止まる見学者たちの脇を音もなくすり抜け、まだ誰も手をつけていない獲物が潜む、地下通路の深部へと躊躇なく足を踏み入れていった。
薄暗い地下街の通路を進むにつれ、周囲の様子は徐々に無様なものへと変わっていった。足元がおぼつかないまま錆びた鉄パイプを振り回す者、魔物の予備動作に怯えて腰が引け、仲間の盾の後ろに引きこもる者など、途中、危なっかしい連中も目につく。
「ひ、響さん、あの人たち……後ろから挟み撃ちにされそうですよ? 大丈夫なんでしょうか……」
唯が視界の端で繰り広げられる危なっかしい攻防に気を取られ、心配そうに眉を八の字にして呟いたが、響は歩行速度を一切落とさなかった。首筋をかすめる冷気の中、前方の闇だけを鋭く見据えて歩を進める。
「他人の心配なんざ、もっと安全な場所にいる余裕のある奴がやるもんだ。あいつらが死のうが生き残ろうが、俺たちの知ったこっちゃねえよ」
響の声には一片の同情も、余計な感傷も混じっていなかった。助けを求めて手を伸ばす間抜けがいようと、自分の身の丈に合わない場所へ足を踏み入れた時点で自己責任だ。生き残る覚悟のない連中に構う時間など1秒たりとも惜しい。
「うぅ……シビアですぅ。でも、確かに巻き込まれたらたまらないですよね……」
唯は響の背中にぴったりと張り付き、無駄な同情を振り落とすように小走りでついてくる。
背後から響く悲鳴じみた叫び声や金属の擦れ合う鈍い音を置き去りにしながら、響たちは周囲の雑音を一蹴し、さらに暗く静まり返った地下の奥深くへと迷いなく突き進んでいった。
上の階層で見られた見学者たちの姿は、下層へ向かうにつれて潮が引くように消え失せていた。互いの縄張りを侵さず、安全圏で日銭を稼ぐような連中にとって、リスクの跳ね上がる領域は最初から選択肢にない。第3階層へ続くゲートを越えた瞬間、人の気配は完全に途絶え、耳に届くのは天井の配管から落ちる冷たい水滴の音と、闇の奥で蠢く獣の息遣いだけになった。
「ふぅ……本当に、1人もついてこないですね。綺麗さっぱり誰もいませんよ」
唯が周囲の暗闇を伺いながら、警戒を解くどころか、獰猛な気配を孕んだ笑みを浮かべる。
「お行儀よく順番待ちする連中がいねえなら、こっちも遠慮のしようがねえな」
響は肩を回し、手に馴染んだ武器の切っ先を暗がりへと向けた。周囲に気兼ねする見学者も、横取りを警戒する鬱陶しい視線もここには届かない。
ここから先は、誰にも邪魔されない響と唯の独壇場だった。
◇
淀んだ大気の質感が肌を刺すように変質した。上層を覆っていた人間たちのざわめきは完全に遮断され、旧東急東横線の地下ホーム跡に広がるのは、冷え切ったコンクリートと鉄錆の臭気だけだった。
暗視が効く響の双眸が、線路の敷かれた闇の奥を捉える。枕木の隙間から四つ辻の死角を固めるプラット・ハウンドの群れが這い出し、筋繊維の剥き出しになった黒毛の獣4体が縦に裂けた顎を鳴らして跳躍した。
響は歩幅を乱すことすらなく、すれ違いざまに漆黒の刀をわずかに抜き放つ。
銀光が瞬いた刹那、前方の2体は跳躍の姿勢のまま首を切り飛ばされ、床へ激突する前に黒煙となって霧散した。ほぼ同時に、唯が手首のスナップだけで放った2本の投擲ダガーが、後続の眉間を狂いなく深々と貫く。断末魔を上げる暇もなく、獣の残骸から小粒の魔石が転がり落ちたが、唯は足を止めることなく回収袋へ放り込んだ。
「次だ。走るぞ」
「はいぃっ!」
減速すら挟まず、2人はシールドトンネルの奥へと疾走した。
第4階層へと至る傾斜に入ると、トンネルの円形断面を塞ぐように、全長4mを超えるアイアン・センチピードが突進してきた。廃棄レールを巻き込んだ鋼鉄の外骨格を軋ませ、側壁を削って火花を撒き散らしながら迫る。
一般の探索者なら退路を失って圧殺される巨躯。だが響は鼻で笑い、身体強化を乗せた掌底を正面から頭部の装甲へ叩き込んだ。
バァンッ!
乾いた破裂音が響き、鋼鉄を纏った巨大な百足の頭蓋が、まるで踏み潰された空き缶のように一撃で陥没した。前のめりにくの字に折れ曲がった巨体へ、唯が駆け抜けざまに大型コンバットナイフを逆手で突き刺し、レールごと胴体を真っ二つに引き裂く。
内側から破裂した百足は、もはや抵抗する間もなく泥のような体液を撒き散らして絶命した。大粒の魔石が露出するが、唯は目にも留まらぬ手つきで拾い上げ、響の背中をぴったりと追尾する。
そのまま一切の躊躇なく、2人は下層へと口を開ける大空洞の裂け目へ飛び降りた。
第5階層は、水没した地下鉄設備が巨大な地底湖と化した暗渠の空間だった。
着地と同時に、水底から圧壊車両と鉄骨を纏った全高6mのサブウェイ・ゴーレムが唸りを上げて立ち上がり、水面からは2体のアビス・ドロッセルが毒液を孕んだ顎を覗かせた。
地上で「深層の主」と恐れられる巨躯を前にしても、響の瞳には退屈な作業を片付ける冷淡さしかなかった。
「唯、トカゲを片付けろ」
「了解ですぅ!」
唯は水面を蹴ると、毒液のブレスを放とうとしたアビス・ドロッセル2体の間頭部へ、ミスリルガントレットを嵌めた両拳を同時に振り下ろした。ゴシャリと鈍い頭蓋の粉砕音が重なり、2匹の肉食爬虫類は水中に潜る隙すら与えられず、一瞬で絶命して水面に浮き上がる。
同時に響は、電車の前頭部を模したゴーレムの巨大な右腕が振り下ろされる軌道の内側へと、無造作に踏み込んでいた。
回避機動すら取らない。響は腰の刀を抜くことすら億劫そうに、身体強化を極限まで絞った右脚で、ゴーレムの軸足となっている鉄骨の結合部を真横から蹴り抜いた。
ドガァンッ!
重装甲車並みの質量を持つ結合部が飴細工のようにへし折れ、6mの巨躯がバランスを崩して横倒しに傾ぐ。落下してくるゴーレムの胸部へ、響は黒革の手袋をはめた右手を躊躇なく突き立てた。
メキリ、と分厚い鉄板とコンクリートを力任せに引き裂き、青黒く脈打つ特大の核魔石を鷲掴みにして一気に引きずり出す。
パリンッ、とガラスの割れるような乾いた音が響き、核を砕かれたゴーレムの巨体は瞬く間に光の粒子となって霧散した。
水しぶきが収まる中、水面には直径3cmを超える極上の特大魔石がプカリと浮かび上がっていた。
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