10話:後半
作業を終えた頃には、丸々1時間が経過していた。
手首や肩を回して軽く息を吐いた響は、綺麗に切り分けられた無数の肉のブロックを見下ろし、苦笑いを浮かべた。
「ふう……慣れない作業だと、まあこんなもんか」
「ですぅ……! ウロコが岩みたいに硬くて、ナイフの刃が欠けるかと思いましたよぉ。でも、見てください響さん! こんなに大量の極上肉が山積みです!」
額の汗を拭った唯も、血まみれになりながら満面のホクホク顔を浮かべている。
目の前には、丁寧にウロコを剥がされ、部位ごとに美しく切り分けられたテール、極厚のヒレ、リブアイ、ロースといった巨大な深紅のブロック肉が整然と並んでいた。
響は満足そうに口角を吊り上げると、アイテムボックスの虚空を開き、その大半の肉塊を1瞬で亜空間へと収納した。
「よし、傷む前に即キープだな。……で、問題はこれだ」
手元に残したのは、切り落としたテールの中心部から切り出した、大人の頭ほどもある分厚い極上テールの輪切りブロック。そして、きめ細やかなサシがこれでもかと入った背筋のヒレ肉の塊だった。
響は腕を組み、分厚い肉塊をじっと見つめて真剣に悩み始めた。
「さて、今食うべき部位はどうやって食うかな……。テールはじっくり煮込んでスープにするのが本筋だが、今はそんな時間かけてらんねえしな。かといって、この極上ヒレをさっきと同じ塩コショウのステーキにするだけじゃ、芸がねえよな」
「えぇっ!? さっきの塩コショウステーキでも昇天するくらい美味しかったのに、もっと美味しくしちゃうんですかぁ!?」
食いしん坊の目を爛々と輝かせる唯を横目に、響はアイテムボックスの中にある調味料のストックを思い浮かべながら、最高の調理法を模索し始めた。
「結局はステーキかよ!」
唯の遠慮のないツッコミが響く中、スキレットの上で強火で1気に表面を焼き固められた分厚いヒレ肉から、ジュウジュウと暴力的なまでに香ばしい肉汁の匂いが立ち上った。
「時間をかけずにこの肉質を1番味わえるのは、結局これなんだよ」
響はテールの輪切りブロックを1度アイテムボックスへとしまい込み、焼き上がったヒレステーキをナイフで大ぶりに切り分けると、まずは熱々の肉片を躊躇なく口へ放り込んだ。
「あふっ、もぐ……っ! ……うめえ。キメラの時より肉の弾力が段違いだ。噛んだ瞬間に繊維から溢れる脂の旨味が、舌の上で全部溶けやがる」
「あ、アタシもいただきますぅっ!!」
唯もフォークで肉塊を突き刺して口いっぱいに頬張り、両目を白黒させながら至福の呻き声を漏らした。
2人が夢中で肉を咀嚼する中、響は片手でアイテムボックスの虚空を開き、2つの巨大な魔石をゴトリと石畳の上に並べ置いた。
片方は、先ほどクリムゾン・カルノタウルスの胸腔から引きずり出したばかりの、バスケットボールの2倍はある深紅に脈打つ巨大な魔石。
そしてもう片方は、池袋のキメラからえぐり取った、赤黒く禍々しい光を放つバスケットボール大の魔石だった。
響はフォークの肉を飲み込み、並んだ2つの結晶を指差した。
「今こいつから取り出した魔石がこっち。池袋で取り出した魔石がこっちだ。……俺はこいつをとりあえず食わねえと、レベルが上がんねえしな」
巨大な結晶を前に、響はまるで飴玉でも眺めるかのように平然と言い放った。
「まず、キメラの方からいただくとしよう」
響は池袋で手に入れた赤黒い魔石を手元に引き寄せ、じっとその大きさを測るように見つめた。
バスケットボールほどもある硬質な結晶の塊を前に、苦笑いを浮かべて顎を小突く。
「ただ、このままだと顎が外れてしまうので、1旦かち割るしかねえな」
響は魔石を床に置くと、刀の柄頭を魔力で強化し、結晶の継ぎ目を目がけてコン、と鋭く叩き込んだ。
パキィッ! カランッ!
乾いた破裂音とともに、巨大な魔石は手頃な1口大の結晶片へと細かく砕け散った。
赤黒い燐光を放つ破片の山を前に、響は屈み込んで1つを摘まみ上げると、まるで氷砂糖でも口に放り込むかのように迷いなく放り込んだ。
ボリッ、ボリボリッ……!
常人であれば歯が粉々に砕け散るはずの魔力結晶を、響は強靭な顎と魔力で容赦なく噛み砕いていく。
奥歯ですり潰すたびに、高密度の魔力が喉の奥を滑り落ち、胃袋から全身の経絡へと暴力的な熱量となって浸透していく。
「ふぅ……相変わらず喉越しが重ぇな」
響は手際よく破片を掴んでは口へ運び、ボリボリ、ガリガリと豪快に咀嚼しながら、無造作に魔力を全身へ巡らせていった。
最後の破片をゴクリと飲み干した瞬間、響の脳内に無機質なシステム音声が立て続けに響き渡った。
『――警告。獲得経験値が規定をオーバーしました』
『対象器の修復フェーズが移行――レベル36に到達しました』
『レベル35到達に伴い、スキル[身体強化Lv.2]の封印を解除』
『固有機能[アイテムボックス]の封印を1部解除』
ズォッ……! と響の全身から目に見えるほどの濃密な青白い魔力光が噴き上がり、地下の空洞を眩く照らし出した。
細胞の隅々まで行き渡る圧倒的な筋力と俊敏性の向上。さらに、これまで容量や取り出し速度に制限がかかっていたアイテムボックスの認識領域が、1気に数倍の規模へと拡張された感覚が響の意識に直接流れ込んでくる。
「……ッ、はは、1気にレベル36まで跳ね上がったか。ようやくまともな身体強化が戻ってきやがったな」
響は握り締めた両拳を眺め、口元を獰猛に歪めた。
隣でヒレ肉をモグモグと噛んでいた唯は、響の全身から立ち上る異様なプレッシャーに目を丸くし、フォークを止めてポカンと口を開けていた。
響は拡張されたステータス画面とシステムログをじっくりとスクロールし、眉をピクリと動かした。
「……あ? なんだこれ」
思わず漏れ出た声に、ステーキを咀嚼していた唯が首を傾げる。
「どうしたんですか、響さん?」
「いや……システムの仕様をよく確認したら、魔石って丸ごと全部をボリボリ食う必要はねえらしいわ。獲得した魔石の1部、1かけらだけでも体内に取り込めば、討伐の経験値判定は全部満たされるようになってやがる」
響は手元に残っていたクリムゾン・カルノタウルスの巨大な深紅の魔石を見下ろし、呆れたように鼻を鳴らした。
「ってことはだ。わざわざ顎が外れそうになりながら全部噛み砕かなくても、魔石を獲得するたびに1部分だけコリッと小さく齧って食べて、残りはポイッと捨てちまえばいいわけだ。……無駄に腹を魔石でタプタプに膨らませずに済むな」
「捨てちゃうんですかぁぁぁッ!?」
唯はステーキを喉に詰まらせそうになりながら絶叫した。
「そんなバスケットボール2個分もあるボスの特大魔石なんて、外の換金所に持っていったら億単位……ヘタしたらビルが1棟買えちゃうレベルの国宝級アイテムですよ!? それを1口かじってゴミ箱行きとか、贅沢すぎてバチが当たりますぅぅ!!」
「億だろうが金なんざ後からいくらでも稼げるだろ。俺にとってはレベルを上げるためのトリガーでしかねえんだよ」
響は苦笑しながらナイフの先で深紅の魔石の角をパキッと親指大に削り取ると、ためらいなく口の中へ放り込み、コリッと軽やかな音を立てて噛み砕いた。
「残りはもらいますよ! 絶対にもらいますからね、アタシのボーナスとして!!」
唯はフォークを放り出す勢いで飛びつくと、角を1口分だけ欠かれた深紅の巨大魔石を、全身全霊で抱え込んだ。
両腕で抱えきれないほどの結晶に頬をすり寄せ、渡すものかと血走った目で響を睨みつける。
「捨てるなんて狂気の沙汰ですぅ! 国家予算レベルのお宝ですよ!? アタシが命がけで前足切り落として、胸の肉をザクザク切り開いたんですから、これくらいの手当が出ないと割に合いません! 絶対に、何が何でもアタシの取り分ですからねっ!!」
必死の形相で魔石を死守しようとする唯の剣幕に、響は口の端に溜まった肉汁を手の甲で拭いながら、呆れたように肩をすくめた。
「へいへい、好きにしろよ。持って帰って換金するなり、枕にするなりお前の自由だ。重くて持ち歩けねえなら、俺のアイテムボックスに入れておいてやるから言え」
「あ、それはお願いしますぅ! 響さんのアイテムボックス、時間経過ゼロで盗まれる心配もない最高の金庫ですからね!」
ちゃっかりと前言を撤回して満面の笑みを浮かべる唯に、響は苦笑混じりの息を吐き出すと、残ったステーキの最後の1切れを口へ放り込んだ。
深紅のカルノタウルスの魔石を1口齧ったことで、響の脳内には再びレベルアップのログが静かに流れ始めていた。
キメラの時を遥かに上回る凄まじい熱量が、響の喉奥から胃袋、そして全身の毛細血管へと1気に爆発的に広がった。
『――対象器の修復フェーズが急激に進行』
『獲得経験値が規定値を連続オーバー――レベル48に到達しました』
『レベル40到達に伴い、スキル【鑑定】の封印を解除』
『レベル45到達に伴い、スキル[剣術]の封印を解除』
『レベル45到達に伴い、[身体強化Lv.4]へ上昇』
『全ステータスが大幅に上方修正されました』
立て続けに流れる無機質なシステム音とともに、響の足元から深紅と蒼白が入り混じった濃密な魔力の奔流が噴き上がった。
吹き荒れる風圧に、傍らで魔石を抱え込んでいた唯が「きゃあっ!?」と悲鳴を上げて顔を覆う。
肉体の骨格が、筋肉が、経絡のすべてが急速に再構築されていく確かな手応え。
視界のピントは信じられないほど鮮明に研ぎ澄まされていく。
響の網膜に焼き付くように流れた最後のログが、静かに消え去っていった。
全身の細胞が沸騰するような熱狂の余韻の中、響は無造作に左手で腰の刀の柄へ触れた。
ただ触れただけだというのに、指先から伝わる重心、刃渡り、空気抵抗、そして筋肉の初動から切断に至るまでの軌道が、寸分の狂いもなく脳内でシミュレーションできてしまう。
[身体強化Lv.4]によって爆発的に底上げされた筋力と瞬発力。
そして、その過剰な破壊力を完璧に御するための[剣術]の技術体系。
2つの力が噛み合った瞬間、かつて前世で振るっていた刀の感覚が、何1つ濁ることなく手元へと蘇っていた。
「……ふっ、悪くねえな。ようやく身体と技術が噛み合ってきた」
響は小さく呟き、視線を足元で震えている唯へと落とした。
唯は床にへたり込み、両腕で大事そうに抱え込んだ深紅の魔石の陰から、おそるおそる響を見上げていた。
「な、なんですか今の光景……! レベルが1気に上がったのはアタシでも気配で分かりますけど……響さん、なんか立ち姿の雰囲気がガラリと変わりすぎてません!? さっきまでは『バカ力でぶった斬る怪力男』だったのが、今は……触れただけで指ごと持っていかれそうな、研ぎ澄まされた名刀そのものになってますぅ……!」
「バカ力とは人聞きが悪いな。こっちが本来の俺の感覚なんだよ」
響は軽く首を鳴らすと、唯が必死に抱え込んでいる巨大な魔石へと視線を向けた。
意識を軽く向けるだけで、新たに解放された【鑑定】のウィンドウが、淡い光を帯びて網膜にポップアップする。
【深紅の暴竜の核魔石】
・品質:最上位(第15階層・階層主)
・状態:1部欠損(98%残存)
・魔力含有量:極めて高密度
・金銭価値評価:特級指定品。地上オークションにおける市場予想価格――約3億8,000万円。
「おい唯」
「な、なんですかっ!? 絶対にあげませんよ! これはアタシのボーナスなんですからね!」
警戒度マックスで魔石を抱え直す唯に対し、響は肩をすくめてニヤリと笑った。
「その抱えてる塊、3億8,000万円相当らしいぞ」
「さ、さ、さ、さ、さ、さんおく……はちせん……まんえん……!?」
唯の目が点になり、抱え込んでいた腕の力が完全に抜けて、巨大な魔石がゴロンと石畳の上に転がった。
響は転がった魔石を拾い上げ、唯の代わりに自分のアイテムボックスへと放り込むと、広々とした第15階層のボス部屋をぐるりと見渡した。
暴竜を解体したあとの血の匂いは充満しているものの、主を失った部屋は静まり返っており、頑丈な岩壁と鉄骨に囲まれた空間は風雨を凌ぐには十分すぎる。
「どうする? ここで1晩泊まってくか、それともこのまま帰るか」
響がごく自然な調子で尋ねると、唯は正気に戻ったように激しく首を横に振った。
「こんなところで泊まるなんてごめんですっ! いくらボスを倒したからって、血生臭いし床は冷たいし、いつ別の魔物が迷い込んでくるかも分からないじゃないですかぁ! アタシはふかふかのベッドとお風呂がある地上に帰りますぅぅ!!」
「そうかよ。せっかく美味い肉を焼きながら引きこもれると思ったのにな」
響は肩をすくめて苦笑すると、名残惜しそうに広間をあとにし、仕方なく出口へ向かって歩き始めた。
[身体強化Lv.4]と[剣術]を取り戻した響の足取りは驚くほど軽く、背後をついてくる唯の疲労感を気遣いながらも、2人は第15階層の冷え切った地下道を地上へ向けて悠々と登り返していった。
第1階層の長い階段を登りきり、新宿ダンジョンの地上ゲートを塞ぐ重厚な隔壁をくぐり抜けた瞬間、夕暮れの冷たい外気が響と唯の肌を撫でた。
久しぶりの外の空気に「ふぅ、やっと生きて戻れたぁ……」と唯が安堵の息を漏らした直後のことだった。
ゲート前の救護待機所で待機していた救急隊員の1人が2人の姿を目撃するや否や、目を見開いて顔面を蒼白にし、トランシーバーを掴んで金切声を張り上げた。
「大変だッ! 重傷患者が2名出たぞッ!! ストレッチャーと止血帯を至急回せ!!」
「コードレッド! 担架急げッ!」
待機していた別の隊員たちや防護服姿の医療スタッフが、慌ただしい怒号とともにストレッチャーをガラガラと押し出しながら猛ダッシュで突っ込んでくる。
「……あ? なんだあいつら、誰が重傷なんだ?」
響は何のことかさっぱり分からず、怪訝そうに眉をひそめて首を傾げた。唯も「え、どこか別のパーティーで大怪我した人がいるんですか?」とキョロキョロと周囲を見回している。
だが、救急隊員たちからしてみれば、それは完全に地獄から這い出てきた瀕死の重傷者にしか見えていなかった。
唯の全身には暴竜の前脚を力任せに抉り落とした際の生々しい返り血がびっしりと飛び散り、響に至っては暴竜の胸腔をこじ開けて心臓の裏から魔石を力づくで引っこ抜いたため、黒革の手袋から両腕の肘のあたりまで赤黒い血糊がべっとりと分厚くこびりついていたからだ。
「おい、しっかりしろ! 意識はあるか!?」
「両腕の出血が酷すぎる、動脈が損傷してるぞ! すぐに横にさせろ!」
ものすごい形相で駆け寄ってきた隊員たちが、響の両腕を強引に押さえにかかり、現場は大混乱の様相を呈し始めた。




