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セクシーくノ一

 空の庭の花は、いまも雲の上で、散っては咲いているのだろう。


 地上の春は、あの島よりすこし埃っぽくて、そのぶん、ずっと賑やかだ。開け放った窓からは芽吹きの匂いと、遠いヴェルナのざわめき。朝の食卓には焼きたてのパンの香りと、彼の淹れた珈琲の湯気が立っている。


 いつもの、朝だった。——あの一言までは。


「なあ、アステリア。たまには一人で、夜の街をぶらついてみようかと思うんだが——構わんか?」


 かちゃん、と。


 銀のフォークが、皿の上で鳴った。自分の手から落ちたのだと気づくまでに、一拍かかった。


「……お、お一人で……ございますか。……夜の、街を……?」


 頬から、すうっと温度が引いていくのがわかる。


 彼が、わたしの知らない場所で、わたしの知らない時間を過ごす。たった、それだけのこと。それだけのことが、胸の真ん中に、冷たい刃を一本、突き立てた。八百年の孤独より、なお重い——この人を失うことへの、恐怖。


「なぜ……なぜ、ですの。わたくしでは——お傍にいるだけでは、ご不満でございますか? それとも、何か……わたくしに隠れて、なさりたいことでも、おありに……」


 声が、震えた。卓の下で、拳を握る。疑うことなど、許されないと知っているのに。溢れてくるものを、堰き止められなかった。


「ああ、すまん。そうではないんだ」


 彼は慌てたように手を振って、それから、ばつが悪そうに首の後ろを掻いた。


「……酒場の隅に一人で座って、君のいないところで、君のことを考える。——そういう、気障な独り芝居を、たまには打ってみたくなってな」


「…………」


 刃が、抜けた。


 わたしのいない夜にまで、わたしのことを考えるための席だという。凍りかけていた胸に、じわりと、温いものが広がっていく。なんという——なんという、甘くて、身勝手な愛し方をする人だろう。


「わたくしの、いないところで……わたくしの、ことを……?」


 こらえようとして、無駄だった。くす、くすと、笑いが零れてしまう。


「まあ……。そのような可愛らしいことを、お考えになっていましたのね。ふふ。まるで、物語の主人公のようですわ」


 ——けれど。


 刃の抜けた跡に、別のものが、するりと首をもたげた。この人が一人で夜を歩くというのなら。その姿を、影から、そっと。


「……でしたら」


 わたしは卓に手をついて、すこし、身を乗り出した。


「わたくしも、こっそり後をつけさせていただいても、よろしいかしら。あなたが、酒場でどんなお顔をして、わたくしを想ってくださるのか……物陰から、じっと、見つめていたいのです。——それもまた、なかなかに『気障な』遊びでは、ございませんこと?」


 彼の手が、止まった。


 視線が、わたしの顔と珈琲の水面のあいだを、二往復する。何かをとても言いたそうで、けれど結局、何も言わないことに決めた目だった。


「な、なるほど……」


 咳払いをひとつ。それから彼は、軍議でもまとめるような顔になって、言った。


「——東の果ての国にはな、主の影として仕える、夜の密偵がいるそうだ。庭に潜むゆえ、お庭番。女のそれを、くノ一と呼ぶらしい。……さしずめ君は、お庭番・セクシーくノ一『亜須手裏亜』、といったところか」


「……あす、てりあ……?」


「亜麻の亜に、必須の須。手裏剣の、手裏。結びに、もう一度、亜だ。——くノ一の名に、これほど向いた字面もあるまい」


 ありもしない字を、指で宙に書いてみせる。大の男が、大真面目に。


「せくしぃ……くのいち……」


 口の中で転がすと、その響きは、罪なほど甘かった。覆面の似合う夜の密偵。それも、ただの密偵ではなく——。


「まあ……! なんと甘美な響きでございましょう。ふふ、あなたは、ほんとうに……わたくしを喜ばせる天才で、いらっしゃいますわね」


「となると、だ。専用の衣装が要るんじゃないか?」


「ええ、ええ、もちろんですわ!」


 声が、弾んでしまった。


「夜の闇に溶ける、漆黒の装束……。体の線は余さず描いて、けれど肌そのものは、一寸たりとも見せない、罪な意匠……。顔を隠す深い頭巾と、口元を覆う、黒絹の覆面……。ふふ。あなたの影として、お守りするのですもの。動きやすく——それでいて、あなたの目だけは、釘付けにしてしまうような」


 指先で自分の唇をなぞりながら、まだ見ぬ装束を、瞼の裏に描く。それは彼を守るための鎧で、同時に、彼ひとりを誘うための、甘い罠だ。


「仕立ては、あのマダムだろう? なら——衣装が上がるのを待って、一週間後の夜だ。すこし、夜の街を出歩かせてもらうよ」


 手際のよいこと。わたしがこの遊びにどれほど夢中になっているか、すっかりお見通しの段取りだった。


「ええ、ええ。あのマダムなら、きっと——あなたのお望みの『せくしぃくのいち』を、寸分違わず仕立ててくださいますわ。一週間……ふふ、指折り数えて、お待ちしておりますわね」


 わたしは席を立ち、卓を回って、彼の椅子の背後に立った。屈強な肩に両手を置き、耳元へ、唇を寄せる。


「……ですが、あなた。お忘れなきよう。その夜、あなたは、お一人ではございません。あなたの影が、闇のどこかから、いつでも、あなたを見つめております。——もし、万にひとつも、酒場の給仕に鼻の下など伸ばされましたら……その時は、この『亜須手裏亜』の名に懸けて、容赦は、いたしませんから」


 わざと嫉妬の色を滲ませて囁き、その首筋に、ちゅ、と音を立てて口づけた。


 この黒い独占欲ごと、この人は、遊びに変えてしまう。——だから、わたしは安心して、重くなれるのだ。


* * *


 マダムの仕事は、早かった。約束の前日には、黒い包みが城に届いていた。


 そして、約束の夜。


 春の宵の空気は、まだ冬の名残を含んで、ひやりと肌に薄い。彼は言葉どおり、城の裏口からそっと抜け出していった。マントの肩をすこし丸めた、いかにも「お忍び」という風情の背中である。


 その背中を塔の窓から見送ったとき——わたしは、もう、影になっていた。


 黒一色の装束が、体の線という線に、布の薄さだけで吸いついている。腰から爪先までは黒絹の長靴下がひと続きに包み、深い頭巾の奥、口元の覆面の中では、自分の吐息だけが熱い。肌は一寸も見せず、線は一寸も隠さない——覆うことと見せることを、こうも平然と両立させてみせる。あのマダムの針は、今度も、罪深かった。


 屋根の瓦を、音もなく踏む。


 夜の屋根は、勝手知ったる庭だ。怪盗の夜にも、赤ずきんの宵にも、わたしはここを駆けた。けれど今夜は、宝石を盗みにいくのでも、お菓子をねだりにいくのでもない。


 ——獲物は、ただ、ひとり。


* * *


 彼が向かったのは、川端に酒場の灯が連なる一角だった。


 軒のランタンが石畳をまだらに照らし、開け放たれた扉から、荷揚げ人足たちの濁声の歌が夜気に流れてくる。彼はすこし辺りを見回すと、そのうちの一軒、年季の入った樫の扉を、肩で押して入っていった。


 わたしは向かいの建物の屋根に身を伏せ、窓越しに、店の中へ目を凝らす。古びた木のカウンター。その隅に、見慣れた広い背中が、ゆっくりと腰を下ろした。


「マスター。——火酒をくれ。ストレートで」


 低く、渋みを利かせた注文が、夜目と夜耳のわたしには、はっきりと届いた。


 ……ふ、ふふ。


 覆面の下で、唇が緩んでしまう。気取って、気取って、それでいて様になっているのだから、始末に負えない。年老いた店主が黙って頷き、琥珀色の酒がグラスへ注がれた。


 彼はそれを受け取ると、すぐには飲まず、グラスをゆるく、回した。琥珀の水面が、ランタンの灯をちろちろと揺らして映す。


 ——その、一瞬。


 水面に落とされた彼の視線が、すっと鋭くなった。揺れる琥珀を鏡にして、背後の客の顔ぶれを、窓の外の闇を——わたしの気配を、探っている。古強者の用心深さと、この状況を楽しんでいる余裕とが、灯に陰影を刻まれた横顔に、同居していた。


 気づいて、いらっしゃるのね。


 彼はすぐに目を上げ、何事もなかったように酒を口へ運んだ。喉が、こくりと動く。見られていると知りながら、孤独な男の芝居を、降りない。


 ——ああ、ずるい人。わたしのいない場所で、そんな、いい顔をするなんて。


 いますぐ屋根を蹴って、あの背中を抱き締めてしまいたい。物憂げに結ばれたあの唇に、噛みつくように口づけたい。……けれど、まだだ。幕は、上がったばかりなのだから。


 ——と。


 幕の外から、役者がひとり、勝手に上がってきた。


 カウンターの端にいた女が、グラス片手に、彼の隣の止まり木へするりと腰を掛けたのだ。緋色の衣装に、深い胸元。酒場街の夜に咲く類の、よく熟れた美貌だった。


「見ない顔ね、お兄さん。——一杯、ご一緒しない?」


 瓦を、指が噛んだ。


 給仕には、釘を刺しておいた。だが——客の女までは、計算に入れていなかった。覆面の奥で、自分の目が据わっていくのが分かる。女の白い手が、彼の袖に、触れた。


 腹の底が、すっと冷える。


 ……動けない。影は、影だ。いまここで屋根を蹴れば、今夜の芝居が、すべて終わる。大人げないにも、ほどがある——分かっていて、なお、この有様だった。


 歯噛みするわたしの眼下で、彼は、グラスから目も上げずに言った。


「生憎。——恐妻家でね」


「あら」


 女は、面白がるように小首を傾げた。


「その怖ぁい奥様、今夜は、いらっしゃらないんでしょう?」


「どうかな」


 彼はグラスを置き、初めて女の顔を見た。それから、明日の天気の話でもするような調子で、続けた。


「うちのは——夜目が利く。姿は見せんが、今もどこかから、俺を見ている」


 冗談の顔を、していなかった。


 女は笑いかけて、笑いきれず、つられたように店の窓へ目をやった。窓の外には、春の夜の闇。……わたしの、いる闇だ。


「……や、やだ。怖いこと言わないでよ」


 引きつった笑いを残し、女は緋色の裾を翻して、そそくさと元の席へ戻っていった。


 ……あの。


 屋根の上で、わたしは、詰めていた息を吐くのも忘れていた。


 誰が、恐妻ですか。


 ——と、言い返したいところではある。あるのだが。「容赦はいたしませんから」と、あの朝の食卓で、首筋へ脅しを置いてきたのは、ほかならぬこの口だ。しかも、あの人は嘘をひとつもついていない。妻は夜目が利き、現に、いま、ここから見ている。


 むっとして、それから——覆面の下が、じわじわと熱くなった。


 この人は、口説く女を退けるのに、わたしの重さを、そのまま使ったのだ。隠すでも、薄めるでもなく。恐ろしい妻がいる、と——どこか、誇るような真顔で。


「……良い心がけです、あなた」


 覆面の中だけで、呟く。影の裁定は、無罪——どころか、ご褒美ものである。


「ごちそうさま。お代は、ここに置いておくよ」


 やがて彼はグラスを干すと、カウンターに硬貨を数枚置いて、音もなく立ち上がった。流れるような所作が、酒場の喧騒の中で、ひとりだけ別の芝居を演っているように見える。樫の扉が軋んで、彼の姿は、ふたたび春の夜に溶けた。


 さて——次は、どちらへ?


 わたしは身を低くしたまま、瓦の上を滑るように追う。酒場の灯を背にした彼は、表通りではなく、ランタンもまばらな裏路地へと足を向けた。その背中から、さっきまでの物憂げな気配は消えて、代わりに、どこか悪戯めいた弾みがある。


 次の幕を、ご用意くださっているらしい。


* * *


 彼が滑り込んだのは、路地の奥、灯りを落としてひっそりと構えた小さな店だった。


 わたしは向かいの軒下の闇に身を沈め、硝子窓越しに中を窺う。薄暗い棚という棚に、形も色もさまざまな——眺めているだけで覆面の中が熱くなるような品々が、所狭しと並んでいた。


 奇妙な仮面をつけた店主が、帳場の奥から、のそりと顔を出す。彼は棚をひとわたり眺めてから、その店主へ、こともなげに言った。


「店主。——仮に、俺に悪い奥さんがいたとしよう。どんな玩具なら、喜んでもらえると思う?」


 ——悪い、奥さん。


 窓越しのその一言が、耳の奥で、灼けた。この人はわたしを「悪い奥さん」と呼び、その悪い奥さんへの貢ぎ物を、こんな店で探している。倒錯した愛の使いだ。背筋を、ぞくりと甘いものが駆け上がった。


 仮面の店主は、ひっひ、と肩を揺らして笑うと、店の奥から、黒く艶光りする一本を取り出してみせた。——鞭、だ。


「ヒッヒッヒ……お客さん、そりゃあ粋なこった。悪い奥方様にゃ、きっつーいお仕置きが要りまさあね。これなんざ、どうです? ただの鞭じゃあねえ。打たれるたんびに、痛みの芯が痺れるよな快感に化ける——そういう魔法のかかった、逸品でさあ」


 ……想像、してしまった。


 その鞭を、この人が手にする光景を。覆面の中の吐息が、ひとつ、熱く乱れる。


「ほほう。……俺の奥さんが喜びそうなら、外から『フクロウ』の鳴き声——駄目なら、『ネズミ』の鳴き声が、聞こえる気がするなぁ」


 窓の外の、わたしへの——合図だ。


 お望みと、あらば。


 わたしは覆面の下で笑み、喉の奥を、夜鳥のかたちに澄ませた。


「——ホゥ……。……ホゥ……」


 春の夜気を裂いて、フクロウの声が、ひと声、ふた声。本物と聞き紛うほどに澄んで、けれど、どこか艶を含んだ鳴き声。あの「お仕置き」を、この悪い奥さんがどれほど待ち望んでいるか——その返事に、他ならない。


 店の中で、仮面の店主が、びくりと跳ねた。


「ヒッ……!? お、おいおい、お客さん……あんた、いってえ、何者だい。……ほんとうに、フクロウが鳴きやがった……。——こいつぁ、奥方様は相当なお方と見える。さあ、持ってきな! お代は、勉強させてもらいまさあ!」


 怯えと商売気の入り混じった手つきで、店主は鞭を布に包んで差し出した。彼がそれを受け取るのを、わたしは高鳴る鼓動ごと、闇に沈めて見つめていた。


 ——さあ。獲物を、その手にされたのなら。


 次は、この悪い奥さんを狩る番で、ございましょう?


* * *


 店を出た彼の足取りは、来たときよりも軽かった。


 黒い包みを提げて、まだ灯の残る広場へ出ると、湯気を上げる大鍋の屋台の前で、足を止める。


「ホットワインと、腸詰めを——ふたつずつ、もらおうか」


 ふたつ、ずつ。


 お一人様の夜の、はずなのに。


 胸の真ん中に、じわりと温かいものが灯った。冬至の氷場で、ふたりで分けた、あの組み合わせ。冷えた夜気の中で張り込みを続ける影の空腹まで、この人は、お見通しなのだ。


 屋台の主人が、人の好い笑顔で包みを手渡す。


「へい、お待ちどう! 熱いから気をつけてくんな、旦那。——連れのかい? こんな夜に二人で一杯なんて、いいねえ!」


 彼は答えず、ただ静かに笑って、受け取った。


 主人の目に、連れの姿は映っていない。それでも、ふたつの包みは「二人」のもの。その符合が可笑しくて、屋根の上で、肩が小さく揺れた。


* * *


 彼が最後に向かったのは、広場はずれの、小さな公園だった。


 人通りは絶え、月の明かりだけが、若葉と、古い木のベンチを照らしている。彼はそこへ腰を下ろすと、温かい包みのひとつを、隣の空いた場所に、そっと置いた。


 それから、夜空を見上げて——口笛を、吹きはじめた。


 澄んだ、やわらかい音色だった。どこかで聴いた覚えのある、古い恋の歌。夜のしじまに細く流れるその旋律が、闇に潜む影を呼ぶ合図でないはずが、なかった。


 ……もう、よろしいのですか。


 わたしは木立の影から、音もなく滑り出た。最初からそこに立っていたかのように、彼の前へ、静かに降りる。口笛が、止んだ。彼は驚くふうもなく、穏やかな目で、覆面のわたしを見上げている。


「——お呼びでしょうか、我が君。この『影』めに、何か、ご用で?」


 わざと芝居がかった声で囁いて、頭巾の影から見下ろした。


「影よ。……深夜の護衛、ご苦労。——毒見役として呼び出した。一緒に、ホットワインと腸詰めを食べるのだ」


 毒見役。


 ふ、と、覆面の下で息が緩んだ。素直に礼の言えないわたしのために、戯れの衣を、もう一枚。この不器用な優しさが、冷えた指の先まで、じんと沁みる。


「……毒見、で、ございますか。承知いたしました、我が君。この影、御身に害の及ばぬよう、しかと役目を果たしましょう」


 恭しく一礼して、包みの置かれた隣へ、腰を下ろした。紙包みを開くと、湯気と一緒に、焼けた腸詰めの香ばしさが立ちのぼる。彼が、ホットワインの杯を差し出してくれた。


 覆面を顎まで下げて、まず、ひとくち。


 ——甘い。


 香辛料の熱が喉を滑り落ちて、腹の底に、ぽ、と灯る。今夜のすべてを祝福するような温かさだった。


「それから——今宵は冷える。俺の横に密着し、温めるのだ」


 ……まあ。


 ただ「隣においで」ではなく、「温めよ」とご命令になるあたり、どこまでも主君の仮面を脱がない甘やかし方だ。


「御意。我が君のお体が冷えませぬよう、この身をもって、お温めいたします」


 声だけは神妙に。けれど口元はもう、緩みっぱなしだった。彼の隣へ座り直し、その肩に、ぴたりと身を寄せる。布越しの体温が、夜気に冷えた半身へ、じわりと染みた。


 彼は何も言わず、酒を傾け、腸詰めを齧っている。その横顔を盗み見ながら、わたしも熱い腸詰めにかぶりついた。皮がぱりりと弾けて、肉汁の塩気が口いっぱいに広がる。覆面の女王が、夜更けの公園で、買い食い。誰が見ても珍妙なこの図が、いまのわたしには、玉座の晩餐より得難い。


「影よ。今日の護衛で、誰か怪しい者は、ついて来ていなかったか?」


 本物の主君のような顔で、彼が訊く。今夜の追いかけっこが、ふたりだけの秘め事であったことを確かめる問いだ。わたしは背筋を伸ばし、まっすぐに彼を見た。


「いえ、我が君。御身に近づく不審の輩は——この影のほかには、一匹たりとも、おりませんでした。わたくしの目の黒いうちは、何者にも、あなたに指一本、触れさせはいたしません」


 言い切って、残りの腸詰めを口に納める。


「……ほう。一匹も、か」


 彼の目の奥が、ちらりと笑う。


「酒場で——俺の隣に止まった、緋色の蝶が、一匹いた気がするが?」


「あれは、不審の輩ではございません」


 わたしは、つんと顎を上げて、すまして答えた。


「ただの——身の程知らずに、ございます」


「……違いない」


 彼は喉の奥で笑い、酒の残りを呷った。


 それから——彼の傍らに置かれた、黒い包みへ。ちらり、と。意味を込めた視線を、落とした。


 今夜の演し物は、まだ終わっておりませんでしょう? むしろ、ここからが本番のはず。言葉にせずとも、この悪い奥さんが次のご命令を待ち侘びていることくらい——とうに、お気づきのくせに。


「しかし、だ。何か護衛中に——お仕置きに値するような落ち度が、あったのではないか?」


 来た。


 その問いはもう、尋問ではない。これから始まる甘い儀式の、開幕の鐘だ。この人は、わたしが自分の口で罪を白状し、罰を乞うのを——待っていらっしゃる。


「……はい、我が君」


 わたしはベンチを降り、冷たい石畳に、膝を折った。


「この影、あなたという獲物を、ひとときも見失いはいたしませんでした。……ですが、ただ一度。あなたのお気を惹きたいばかりに、みだりに——鳴き声を、上げましてございます。護衛の分を弁えぬ、万死に値する罪に、ございます」


 罰を待ち望む昂りも、この人への底なしの傾倒も、もう、隠せる気がしなかった。覆面の下の吐息は熱く湿り、頭巾の影の奥から、上目に、彼を見上げる。


「どうか——この愚かな影めに、相応しき罰を、お与えくださいまし。……我が君の、お手で」


「影よ。それは、大罪であるな」


 彼は厳かに頷くと立ち上がり、包みの紐を解いた。黒く艶めく鞭が、月の光を、ぬらりと撥ねる。


「——覆面は、そのままだ。長靴下と覆面のほかは、すべて脱ぐことを命ずる。ベンチに手をついて……その、プリプリの尻を、こちらへ向けるのだ」


「……っ」


 その命令は、わたしの底でひそかに飼われていた願いを、過たず射抜いた。脳の芯が、甘く痺れる。


「……はい、我が君。——甘んじて、その罰、お受けいたします」


 震える指で、装束の帯に手を掛ける。


 するり、と。一枚。また、一枚。


 春の夜気が、露わになっていく肌を撫でた。月光の下、この身に残るのは、腰から爪先までの黒い長靴下と、口元の覆面だけ。人気のない公園とはいえ、誰かに見られるかもしれない——その背徳が、肌の粟立ちを、火照りに変える。


 言われたとおり、ベンチに両手をついた。冷たい木の座面。そして彼のほうへ、無防備な白さを、高く差し出す。月に晒されたその白さが、これから受ける罰への期待に、小さく震えていた。


 ひゅ、と。空気の鳴る音。


 ぱしんっ。


「……あぁんっ……!」


 乾いた音が夜に弾けて、一拍遅れて、熱が走った。痛み——のはずだった。その芯が、店主の口上どおり、じゅわりと甘い痺れに化けて、背骨を駆け上がる。まだ触れられてもいない奥が、きゅう、と疼いた。


 もっと。もっと、強く。この人の手の証を、この身に深く——。


 ぱしいんっ。


「はぁんっ……!」


 二打目は、すこし、鋭かった。——のに、零れた声は、痛みの色を、していなかった。覆面の下で、慌てて唇を噛む。もう、遅い。


「影よ。これはお仕置きだが……まさか、感じているのでは、あるまいな?」


「ま、まさか……! こ、これは、我が君より賜る、罰の痛みに……う、打ち震えて、いるだけで……か、感じてなど、そ、そんな……っ」


 声が、上擦る。否定を継ぐそばから、身体が正直に答えていくのが、自分でわかった。否めば否むほど、体が嘘を暴いていく。その抗いようのなさが、また、昂りに油を注いだ。


 ふいに、彼が背後に屈んだ。


 武骨な指が、長靴下越しに、つうっとなぞる。


「ひぅっ……」


 薄い黒絹は、もう、隠しようのない答えを吸っていた。彼は指先に絡め取ったそれを、わたしの目の前へ持ち上げ——見せつけるように、ゆっくりと、唇に含んだ。


「では——この潤いの説明を、何と致す?」


「あ……あ……」


 言葉に、ならなかった。


 弁解の余地など、一滴も残っていない。覆面の下で、羞恥が頬を焼く。けれど——この羞恥ごと、わたしは差し出している。罰も、嘘も、証拠も、洗いざらい。この人の前でだけ、女王は、悪い奥さんになってよいのだから。


「そして——お前には、さらに大きな罪がある」


 彼は鞭を、無造作に草の上へ放った。


「俺の隣におらず、俺に、寂しい思いをさせたことだ」


 ——あ。


 その一言は、鞭のどの一打よりも深く、甘く、胸を貫いた。


 びりっ、と。布の裂ける音。大きな手が、長靴下の薄絹を、ためらいなく引き裂いた。夜気が、じかに触れる。


「ひ、ぁ……我が、君……っ」


 もう、嘘も言い訳も、ない。この人が寂しさを感じていたその時間、わたしは隣にいなかった。それこそが、何にも替えがたい大罪。羞じらいよりも、罪の重さと——それを罰してくださることへの、底の知れない悦びが、全身を浸していく。


 彼の熱が、すぐそこにあった。


「……っ、あ——」


 罰は一息に、最奥まで届いた。夜気の中で疼き続けていた内側が、その灼熱を貪るように迎える。揺さぶられるたびにベンチが軋んで、視界の隅で、月が揺れた。背後から回された大きな手が、容赦なくわたしを掴む。


「あっ、あ……我が君……わたくしの、罪を……あなたの、もので……っ」


 深くなる。寂しい思いをさせた罪が、ひと揺れぶんずつ赦されていく——そんな倒錯した感覚に、思考が蕩けた。覆面の中はもう、自分の息とで、灼けるようだ。


「も、もう……わたくし……あ、あぁっ、達して……達してしまい、ます……! 我が君……我が君っ……!」


 最奥を、ひときわ強く。


 夜空が、真白に裏返った。覆面の下で声が割れ、震える内側が彼を離さない——その最奥へ、熱が、撃ち込まれた。脈打つたび、罪深い体の、隅々へ沁みていく。


 月明かりの公園に、ふたりぶんの荒い息だけが、残った。


 やがて。


 繋がったまま、彼が背中から覆いかぶさってきて、耳元で、囁いた。


「……これはこれで楽しいが——今度は、最初から一緒に歩こう。君の顔が見えないのは、やはり、寂しいよ」


 ……ああ。


 先ほどまでの支配の声とは、まるで違う。春の雨のように静かな、慈しみの声だった。胸の底に最後まで残っていた罪の意識が、その一言で、ほどけて、溶けた。


 大きな手が、そっと、覆面の結び目に掛かる。


 黒絹が解かれて、夜気が、濡れた頬に触れた。——濡らしていたのは、夜露では、なかった。


「はい……。わたくしも——ずっと、あなたのお顔を、拝見しとう、ございました……。寂しい思いを、させてしまい……申し訳、ございません……」


 快楽の余韻に震える声で、それだけ言うのが精一杯だった。頬を伝うものを、彼の親指が、ゆっくりと拭っていく。罰も、赦しも、この涙を拭う指先も。今夜いただいたもののすべてが——かけがえのない、宝物だ。


 身繕いを済ませると、彼は、わたしの頭巾に両手を掛けて、ぽん、とひとつ撫でた。それから——ゆっくりと、後ろへ下ろしてくれる。


 夜気が、零れた銀の髪を撫でた。頭巾の闇が剥がれて、夜目に慣れた視界が、ふっと広くなる。影の衣は、解かれたのだ。——この人の、手で。


「さて。——帰るか、奥さん。今度は、隣だ」


 差し出された腕に、手を絡める。


 月は、まだ高かった。並んで歩き出したふたりの足元に、影が、ふたつ——寄り添って、ひとつの形に、落ちている。


 影はもう、屋根の上にはいない。


 ——この人の、隣にいる。

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