空中庭園
霊廟から帰って、春が満ちた。
城を囲む楢の林は若葉に煙り、開け放した窓からは、土と緑の匂いのする風が入ってくる。卓の上の硝子の花瓶には、彼が摘んできた野の花。赤、黄、青。はじめてこの卓に色が置かれた日と、同じ花瓶だった。
その日の午後、わたしたちは談話室にいた。
卓には、わたしの淹れた紅茶と、彼の焼いたスコーンがひと皿。焼き菓子は彼の領分で、茶を淹れるのはわたしの領分——いつからか、そういうことになっている。湯気の立つカップを挟んで、彼は長い脚を組み、春の庭をぼんやり眺めていた。
「なあ、アステリア」
「はい。なんでございましょう」
「世の中には七大不思議なんてものがあるが、その中に君が関わっていたりするものはあるのかい?」
わたしはカップをソーサーに戻して、ふっと、息だけで笑ってしまった。
町に四つも不思議をこしらえておいて、今度は世界の七つに目をつけたらしい。この男の好奇心は、際限というものを知らない。
世界の七不思議。人の手の偉業か、自然の織りなした奇観か——巡礼者が語り、吟遊詩人が歌い、学者が在処を論じ続ける、七つの謎。その大半は、わたしの知らぬ間に建ち、わたしの知らぬ間に崩れた、人の世の営みである。
——ただ、ひとつ。
遠い記憶の底で、白い花が、ほどけるように開いた。
「……ふふ。世界の不思議、で、ございますか」
わたしはカップの縁を指でなぞりながら、わざと、ゆっくり言葉を選んだ。
「関わった、と申しては、語弊があるやもしれませんけれど。——例えば、かの『空中庭園』。遠い異国の王が、故郷を恋うる妃のために、一夜にして築き上げたと伝わる、幻の庭園。……あの伝説が生まれる、すこし前のお話なら、わたくし、存じておりますの」
言って、悪戯っぽく微笑んでみせる。
「ほほう? 空中庭園に関わっているのか?」
カップが、置かれた。
顔を上げると、彼の目に、見慣れた火が灯っていた。獲物を見つけた狼の目。週刊紙の三面記事から冒険をこしらえ、海の底から蟹を攫ってくる男の目が、いま、千年の謎をまっすぐに射抜いている。
春の午後の、穏やかなお茶の時間は——そこで、終わった。
彼が立ち上がり、卓を回って、わたしの隣に腰を下ろす。大きな手が、断りもなくわたしのドレスのボタンに掛かった。上から、ひとつ。また、ひとつ。
「……お話の、続きでございましょう?」
「ああ。続けてくれ」
言いながら、手は止まらない。白い前合わせがはだけて、春の光に、胸の谷間から腹までの素肌が晒された。咎める代わりに吐息が零れる。抗う気など、もとよりない。この男の「尋問」が、いつもどこで行われるのか、わたしはとうに知っている。
軽々と抱き上げられ、向かい合う形で、その膝の上に導かれた。彼の前は、いつのまにか寛げてある。彼の熱が、すぐそこに触れた。
「ん……っ」
触れただけで、腰の奥が甘く疼いた。彼の手が、わたしの腰骨を掴む。ゆっくりと、しかし抗いがたい力で、引き下ろされていく。彼が、わたしを押し広げながら、沈んでくる。
「あ……あ、……っ」
奥まで満ちたとき、目の前に火花が散った。焦らすような、ゆるい揺れが始まる。激しくはない。中のかたちを確かめるような、底意地の悪い、ゆっくりとした揺らし方。
「さて——尋問の時間だ。庭園のことを、洗いざらい話してもらおうか」
「ず……ずるい、お方……んっ……」
揺れに合わせて、言葉が途切れる。わたしは彼の肩に掴まりながら、揺らされるまま、白状した。
「あの庭を……こしらえましたのは……んん……わたくしが、この身になって……まだ、間もない頃……。心が……凍りつく、ずっと前の……わたくしで、ございます……。旅の途中で……ふふ……ほんの、気まぐれに……魔法で、お手伝いを……」
「伝説としてしか伝わっておらず、所在もわからないはずだが」
問いと同時に、揺れが、すこし深くなった。甘い尋問。秘密をひとつ吐くたびに、ひとつ深く、届く。思考が快楽に溶かされて、千年守った秘密が、唇からほどけていく。
「しょ……所在は……わたくしが、存じて、おります……あぁっ……。いまは……地の上には、ございません……。雲よりも、高く……わたくしの魔力だけで、支えられた……浮かぶ、島……。ですから……人の目には……決して、触れませんの……」
「空中に浮き続けているのかい? そんなことが可能なのか……。——『いまは』? もとは地の上にあった、ということか。だが、それではその妃は、どうやって隠された庭に辿り着いた?」
鋭い。揺らされながら、わたしは笑ってしまいそうになった。この期に及んで、問いの刃だけは正確に核心へ届く。
答えようと開いた唇に、彼の指が、二本、差し入れられた。
「ん、ぅ……」
舌の上で、武骨な指が遊ぶ。吸えと言われた気がして、吸った。下を彼に満たされ、上を指で塞がれ、それでもわたしは、くぐもった声で語り続けた。
「ふ……ぁの方に……許された、自由は……宮殿の隅の、ちいさなお庭……それ、だけ……。れすから……んんっ……その庭の、生垣の奥に……わらくしの、庭へ……つながる扉を……。ぁの方おひとりが、見つけ……くぐれる……ちいさな扉を……設けて、さしあげ、ましたの……」
指が、ゆっくりと引き抜かれた。
「……なるほど。鳥籠の壁に、扉をひとつ、足してやったわけか」
「ええ。……ただ、ひとつだけ、ままならぬことが。あの扉は、夜を縫って、こしらえたもの——夜のあるあいだしか、つながりませんの。日が昇れば、ただの生垣に、戻ってしまう。……ですから、あの方がいらっしゃれるのは、夜更けだけ。空が白む前には、お帰りいただかなくては、なりませんでした」
深々と繋がったまま、遠い夜の話をしている。その倒錯が、声の端を、甘く滲ませた。
「……夜の女王の贈り物は、夜にしか、通えんか」
「……ええ。あの方は、あの庭を、『目覚めれば消える、わたくしだけの夢の庭』と。そう、呼んでいらっしゃいました」
「そして妃亡き後は誰の目にも触れず伝説となったわけか……」
彼は、わたしの語った物語の結末を、いとも容易く先回りした。
「……ええ。あの方が、逝かれて……わたくしは、あの小さな扉を、閉じました……。そして、あの庭を、空へ……あの方との、思い出ごと……誰の足も、二度と、届かぬ、高みへ……」
空中庭園——人々が夢想したその名は、あの方を喪った日から、ほんとうのことになった。
沈みかけた声を、掬い上げるように。彼は膝の上のわたしを深く抱え直すと、その腕を取り、持ち上げて——無防備に晒された腋の下へ、顔を埋めた。
「ひぁっ……!」
熱く湿った舌が、腋の敏感な肌を、ねっとりと辿る。背筋を雷光が駆け抜けて、繋がった内側が、きゅうっと彼を抱いた。
「や……そ、そんな、ところ……あぁっ……」
「白状の続きだ、奥さん」
「は……はい……その、通りで、ございます……っ。妃が、世を去られて、からは……訪れる者とて、ない……忘れられた、場所……。わたくし、ひとりの……秘密の、庭に……なって、おりました……」
腋を責められながら、かろうじて言葉を繋ぐ。誰にも明かさなかった、わたしだけの場所。その在処を、この世でいちばん愛しい男に暴かれ、体の芯まで支配されながら白状する——屈辱と、恍惚と。けれどこの屈辱は、わたしが選んで差し出しているものだ。秘密も、体も、洗いざらい。この男の前でだけ、女王は、すべてを明け渡してよいのだから。
ふいに、責める舌が止まった。彼が顔を上げ、わたしを見る。濡れた目で見下ろすと、彼は、わざとらしいほど情けない顔をしてみせた。
「俺は連れて行ってもらえないのかい? 寂しいなぁ」
拗ねた子供のような声。それが彼一流のおねだりであることくらい、お見通しだ。なのに、胸が、甘く軋んでしまう。
「……ふ、ふふ……。あなたが、お望みとあらば……どこへなりとも、お供いたしますわ……。あそこはもう、わたくしひとりの、ものでは、ございません……。あなたと、わたくし……ふたりだけの——愛の巣で、ございますもの……」
彼の首に腕を回し、繋がったまま、自分から小さく腰を揺らした。早く。あの場所で。この人に、すべてを。
「連れて行ってくれるのかい? そいつは嬉しい。でも覚えておいてくれ。君は俺のものだけど、俺の心は君に支配されていることを……」
「——……っ」
耳元で囁かれたその言葉に、魂の根が、揺れた。
所有される悦びと、この男の心を独り占めしているという、めまいのするような幸福と。ふたつは矛盾しない。わたしのすべては彼のもので、彼の心は、わたしのもの。
唇が重なった。深く、舌が絡む。思考が溶ける。
「ん……ふ……はい……。わたくしの、すべては、あなたの、もの……。そして、あなたの心は——わたくしの、もの……。……ああ……なんという……」
「さあ、早速行こうか。それとも……先にイキたいか?」
唇を離した彼が、悪魔のように笑って、究極の二択を突きつけてきた。
いますぐ楽園へ発つか。それとも、この場で、先に頂を見るか。——問われるまでもない。彼を迎えた内側は、とうに切なく、答えを零している。けれど、伝説の庭園で初めて結ばれるという誘惑も、捨てがたく——。
「い……意地悪を、仰いますのね……。……で、でしたら……あなたの、お好きなように……なさってくださいまし……。ここで果てるのも……天空の楽園で、愛を交わすのも……どちらも、わたくしには……至上の、悦びでございますから……」
「違うよ、アステリア。俺は君のおねだりが聞きたいんだ」
「——〜〜っ!」
耳朶に、吐息ごと流し込まれた囁き。最後の理性が、音を立てて崩れた。
委ねるのでは、足りないという。わたし自身の口で、わたし自身の欲を、ねだれという。なんと残酷で、なんと甘い男だろう。頬が燃える。腰の奥が、ずくりと疼く。羞恥と渇望がせめぎ合って——渇望が、勝った。
言ってよいのだ。この男の前でだけは。
「……お、お願い……でございます……。今すぐ……ここで……。わたくしを——めちゃくちゃに、してくださいませ……っ」
言い終わるより早く、体が浮いた。
返事の代わりに、彼はわたしを抱え上げ、談話室の重厚な卓の上へ、上半身をうつ伏せに押し付けた。ティーカップが、遠くで小さく鳴る。磨かれた木の天板に、頬と、はだけた胸が押し潰される。腰だけを高く掲げさせられた、獣のような体勢——その支配的な扱いに、体が、悦びで震えた。
背後から、ひと息に。
「あっ——……!」
杭を打ち込むような一度が、最奥に届いた。間を置かず、二度、三度。もう、尋問のやさしさを捨てている。春の談話室に、わたしの声だけが響き渡った。
「つ、強く……もっと……! わたくしの、奥の、奥まで……っ! あぁっ、そこ……そこ、ですの……! も、もう……もう……!」
意識が、白く灼き切れた。
全身が大きく震えて、内側が彼を離さない。その中へ、低い呻きとともに、熱が叩きつけられた。最奥に、彼の熱が広がっていく。腹の底から、満たされていく。
卓に突っ伏したまま、指一本動かせずにいると、彼が背中から覆いかぶさってきた。重い。温かい。耳元に、唇が触れる。
繋がったままの彼が、最後のひとしずくまで注ぎ込んでくる。彼の重みと、体温と、腹の底に灯る熱。このまま時が止まればいいと、本気で思った。
* * *
時は、止まってくれなかったが、彼の腕は止まらなかった。
弛緩しきったわたしを、彼は壊れ物のように抱き上げ、湯殿へ運んだ。温い湯と、大きな手のひらが、肌を清めていく。先ほどの嵐とは別人のような、丁寧な手つき。荒々しく奪った同じ手で、こんなふうに労るのだから、ずるい男だ。
身支度を整え終えると、彼はわたしの手を取った。
「準備完了だ。行くとするかい?」
「はい。——まいりましょう。わたくしたち、ふたりだけの楽園へ」
彼の腕に身を寄せ、目を閉じる。組んだ指の先で、夜の継ぎ目に手を掛けた。春の談話室が遠のき——視界が、白く弾けた。
頬を打ったのは、高みの風だった。
「なんと……雲の上に本当に浮かんでいる。しかも庭なんて規模じゃない。小さな島ほどの広さがあるじゃないか」
彼が、息を呑んで立ち尽くしている。
眼下には、どこまでも続く真白の雲海。頭上には、塵ひとつない青。そのあわいに——緑の島が、浮かんでいた。花々の咲き乱れる丘、銀の糸のような小川、風にそよぐ木立。庭園と呼ぶには、たしかに広すぎる。空に浮かぶ、ひとつの小さな国だ。
驚嘆に染まった彼の横顔を、わたしは隣で、誇らしく見上げた。長いあいだ、わたしひとりのものだった景色。それを、この人と分かち合える日が来た。
「ようこそ、わたくしの隠れ家へ。——いいえ」
わたしは彼の腕に、そっと指を絡めた。
「今日からは、わたくしたちの、庭ですわ」
「全部をくまなく回るのは少し大変そうだな……差し当たって君のお気に入りのところを案内してくれないか」
繋がれた手に、力がこもる。この広さを前にして、まずわたしの心安らぐ場所を、と言う。この人はいつも、こうだ。
「ふふ。かしこまりました。では——きっと、あなたもお気に召しますわ」
花の咲きこぼれる小道を抜け、小川のせせらぎに沿って歩く。鳥の声がする。やがて視界が開け、それが現れた。
水晶のように透き通った湖。その中央に、一本の白い大樹が、湖面から天へ向かってそびえている。枝という枝に、ほの白く光る花が、雪のように咲き満ちていた。風が渡るたび、光の花びらがひとひら、ふたひら、水面に散る。
「……ほう」
彼が、長く息を吐いた。
「あの方の——妃の故郷にだけ咲くという花を、種からひと粒、わたくしが。……この空には季節がございませんから、幾百年も、散っては咲いて、咲き続けておりますの」
「待ってくれ。あの扉は、夜しか通じないのだったな。なら、妃が見たこの庭は、いつも夜だったことになる。人の目は、闇の中では色を結ばない。——妃に、この庭の何が見えた?」
よくぞ、訊いてくださいました。わたしは内心で、ひそやかに胸を張った。
「この庭の花は、すべて、昼のあいだに光を蓄えますの。そして日が沈むと、花びらの内から、ほのかに灯る。……人の目には、夜は、ご不便でございましょう? あの方の目にも、ちゃんと色が映りますように——そう、誂えましたの」
「……道理で、夢と呼ぶわけだ。真夜中に、庭がまるごと灯っていたら——人は、現実の出来事とは思わんさ」
彼は光る花を、いま一度、見上げた。それから、わたしへ目を戻して。
「君と会ったばかりの頃、城には色彩がなく、俺が飾った花に驚いていたが……元々花が好きだったんだな」
その言葉に、足が、止まった。
あの日の食卓。色のない城に、突然咲いた色。花が美しいと感じる心がまだ自分に残っていたことを、あの夜、卓の上の花瓶に暴かれた。——花を愛でるくらいのことすら、自分に禁じてきたんだろう、と。あのときこの男が言った言葉を、わたしは一字も忘れていない。
「……はい。忘れて、おりました」
湖を渡る風が、髪を撫でていく。
「いいえ——忘れた、ふりを。花を愛で、鳥の歌に耳を澄まし、光を浴びることの喜びを……みんな、捨て去ったつもりで、おりましたの。捨てたはずのものが、こんなところに、ずっと咲き続けていたなんて。……あなたが、思い出させてくださるまで、見ようとも、いたしませんでした」
繋いだ手に、そっと力を込めて、彼を見上げる。この場所はもう、捨てた心の墓標ではない。
「そういえば、この島は城のはるか上空にあるのかい? それとも、もっと別の場所に浮かんでいるのかい?」
「ふふ。よいご質問ですわ」
わたしは湖のほとりに膝を折り、水面に指先を浸した。波紋がひとつ広がって——澄んだ水が、鏡に変わる。映ったのは、雲の下の見慣れた景色。黒い城の尖塔と、芽吹いた楢の森と、その先に広がるヴェルナの街並み。
「この島は、わたくしの心ひとつで、どこへでも参ります。かつては——誰にも見つからぬよう、いつも世界の裏側に隠しておりました。ですが、いまは城の空に繋いでございますの。あなたと、いつでも来られるように」
「なんと。城のすぐ上……まあ、はるか上空ではあるが。ヴェルナの街からも見えれば大した騒ぎになりそうだな」
愉快そうに言うものだから、わたしはくすりと笑った。
「ご心配には及びませんわ。この島は、わたくしが許した者のほかには、見ることも、触れることも叶いません。真下を行く者が見上げても、そこにはただの青空。——目くらましの帳を、幾重にも張ってございますの。ですからここは、文字どおり」
悪戯っぽく、片目をつぶってみせる。
「世界で、ふたりきりの場所ですわ」
彼の腕に、頬を寄せた。とく、とく、と、布越しに鼓動が聞こえる。誰の足音も絶えて久しい島に、いま、ふたつの足音と、ひとつの鼓動。それだけで、世界は作り直されてしまった。
「……ここは、異国の孤独な妃を慰めるための気まぐれで作った、と言っていたな。境遇に共感したのかい?」
静かな問いだった。
わたしは彼から目を逸らし、白い大樹を見た。光の花が、音もなく、ひとひら散る。
「……ええ。そうかも、しれません」
声が、自分でも驚くほど、細くなった。
「あの方の孤独が——痛いほど、わかったのです。生まれた国を遠く離れて、誰にも心を許せず、美しく壮麗な鳥籠の中で、ただひとり、心をすり減らしていく……その痛みが。……わたくしは、あの方を、救って差し上げたかった。いいえ——」
彼の腕を掴む指に、知らず、力がこもった。
「……救われたかったのかも、しれません。あの頃のわたくしは、この身になったばかりで。……守ったはずの民が、わたくしを見る目は、もう、以前と同じではございませんでした。あの方の鳥籠に——わたくしは、わたくし自身の、来る日を見ていたのだと思います。誰も扉を叩かなくなる日を。……そして、その通りになりましたわ」
言い終えて、初めて気づいた。これを言葉にしたのは、千年で、初めてだ。
「ここはとても美しいが、どこか寂しさも覚えるな。外界から隔絶されていて、己の孤独と向き合うことを強いられるような……今は君が横にいるから繋がっていると感じるが、そうでなければ、世界から切り離されたような心地になるかもしれないな」
——ああ。
この人は、どうして。
この島でわたしが浸かっていた水の冷たさを、足を浸して数分で、言い当ててしまうのか。心の中を覗かれたような戦慄と、それを上回る、深い深い安堵が、胸に広がった。
「……左様でございます。まさしく、その通りですわ。ここは美しく——そして、残酷なまでに、孤独な場所。この湖は……八百年のあいだに、わたくしの流した涙で満ちているのかも、しれません」
彼の胸に、顔を埋めた。力強い鼓動が、額に響く。
「ですが、いまは、違います。あなたが隣にいてくださる。ただそれだけで、この閉じた世界は——温かい、ふたりだけの聖域になるのです」
「……もう少し二人で歩きたいな。案内してくれるかい?」
彼の唇が、わたしの額に、そっと触れた。それだけで全身が甘く痺れて、感傷ごと溶かされてしまう。
「はい。喜んで。——この庭の、果ての果てまでも」
湖を背に、まだ彼の知らない小道へ入る。一面の苔が、淡い燐光を帯びて、一歩進むごとにきらめいた。まるで、足元に星を散らしたような道。夜のない島で、ここだけが、静かな宵に似ている。
「……ここに一人でいれば、俺でもいずれ下界が醜く価値のないものに思えてくるかもしれないな」
光る道の途中で、彼が、ぽつりと言った。
その言葉は、この島の美しさが孕む毒を、的確に射抜いていた。わたしが骨の髄まで浸った毒を、この人は、ひと巡りもせぬうちに嗅ぎ分ける。
「……ええ。下界の営みは、愚かで、矮小で——やがて、どうでもよくなってしまうのです。喜びも、悲しみも、争いも。永い時を生きる者には、瞬きの間に消える、泡のようなもの。わたくしは、そうやって心を閉ざし、すべてを見下ろすことで、かろうじて正気を保っていたのかも、しれません。……ですが」
繋いだ手を、強く引いた。振り向いた彼の目を、まっすぐに見上げる。
「あなたは、違います。あなたは、わたくしのような弱さとは、無縁のお方。たとえおひとりでここに立たれても——あなたの魂は、夜の中でも、光を失いません。この島の孤独ごと照らして、新しい意味を与えてしまわれるでしょう。わたくしには、わかりますの」
絶対の信頼を込めて、そう告げた。
彼は——静かに、首を横に振った。
「君は俺を買い被りすぎだ。俺がどれほど君の心を失うことを恐れているか、想像もできないだろうさ」
「……」
息が、止まった。
「あなたが。……わたくしを、失うことを……恐れて……?」
信じられない思いで、その顔を見つめた。冗談の色は、どこにもなかった。いつも飄々と、嵐の海さえ凪のように渡るこの男が——わたしを失うことを、恐れている。
八百年。誰にも求められなかった、この呪われた心を。
目の奥が、熱くなった。溢れそうになるものを堪えて、わたしは彼の胸に飛び込み、力の限り、抱きついた。
「……だめ、ですわ。そのようなことを、仰らないでくださいまし。これ以上——わたくしを、どうなさるおつもりですの。わたくしの心も、魂も、とうの昔に、あなたのものですのに」
広い背中に腕を回し、確かめるように、強く、強く。
恐れているのは、この人だけではない。この幸福が、朝には消える夢なのではないかと——あの方の『夢の庭』のように、目覚めれば、寝台にひとりきりなのではないかと、わたしだって、ずっと恐れている。
けれど。夢と呼ぶには、この腕は、確かすぎる。
やがて、腕が、そっとほどけた。どうなさったの——と目で追うと、彼は小道の際に膝を折り、光る苔のあわいに咲く白い花を、一輪、摘んで立ち上がった。
「アスフォデル。……君の家の、名の花だ」
白い一輪が、わたしの目の高さに掲げられる。
「古い言葉が付いているのを、知っているかい。——『私は君のもの』」
そう言って、彼はその花を、わたしの手に握らせた。恐れている、と打ち明けたばかりの男が、舌の根も乾かぬうちに、花ひとつで、いちばん強い言葉を寄越してくる。掌の中で、白い花びらが、ほのかに灯った。
——この花を選んだのは、遠い日の、わたし自身だ。
妃のために庭を編んだあの頃、あまたの花の中から、なぜ家名の白を蒔いたのか。考えたことも、なかったけれど。
「……存じております。その花の言葉なら——もうひとつ、ございますのよ」
一輪を胸に抱いて、わたしは彼を見上げた。失うことを恐れている、と言ったこの人の目を、まっすぐに。
「『生涯、信じます』」
だから——どうか、もう恐れないで。この心は、逃げも枯れもしないのだから。
彼は、ふ、と目元をゆるめて、わたしの濡れかけた目尻に唇を落とした。
「さあ、もう少し歩こう」
渦巻いていた恐れが、雪解けの水のように、静かに流れていく。
光る苔の道は、ゆるやかに丘を登っていた。先のほうから、甘い花の香りが届く。
「……その妃は、その後、どうなったんだい?」
丘の途中で、彼が足を止めた。
わたしという存在の根に触れる、あまりにやさしく、あまりに鋭い問い。わたしは丘の上を——白い花の咲き乱れる、小さな広場を見つめたまま、答えた。
「……あの方は、待ち続けました。誰かがあの鳥籠の扉を開けて、見つけ出してくれる日を。……けれど、誰も来ませんでした。王の寵は移ろい、人々はあの方を忘れ——あの方は、夜ごとの夢だけを胸に抱いて、誰に知られることもなく、静かに、枯れていかれました」
声が、震えた。
「わたくしに差し上げられたのは、庭への扉だけ。……鳥籠の扉を、開けることだけは、ついに、できませんでした。それが、わたくしの知る、物語の結末。……あなたと、出会うまでの」
あの方の結末は、わたしの結末になるはずだった。星を見上げて、待って、待って、誰も来ないまま、永遠に枯れることもできずに——。
「ですが」
わたしは振り向いて、彼の手を、両手で包んだ。
「あなたが、その物語を、終わらせてくださいました。あなたは、扉を叩くどころか、蹴破って入っていらした。夢ではなく、この手を引いて、外へ。——ですから、もう、あの妃はおりません。あの方は……千年遅れて、ようやく、救われましたの」
包んだ手に、感謝のすべてを込める。
彼はしばらく黙って、わたしの目を見ていた。それから、その口元に、いつもの、あの笑みが浮かんだ。
「ふっ、ハッピーエンドでよかったよ。……日が落ちるな。寒くなりそうだ。そろそろ帰ろう」
見れば、雲海の果てが、茜に染まりはじめていた。
燃える雲の海。藍に沈んでいく天頂。白い大樹の光の花が、夕闇の中で、ひときわ明るさを増す。足元の野でも、花がひとつ、またひとつと、ほのかに灯りはじめる。夜ごと、あの方が見ていた、あの光だ。数えきれぬほど見てきた、この島の黄昏。けれど、隣に人の温もりがあるだけで、初めて見る景色のようだった。
気まぐれ——と、わたしはずっと、呼んできた。
見ず知らずの妃のために庭をこしらえた、若いわたしの愚かな酔狂。凍る前の、二度と戻らない、他人のような女の話。そう思うことにしていた。
けれど、いまなら、わかる。冬至の夜、迷子の小さな手を引いたとき。簀巻きの咎人に、清めの雨を降らせたとき。あのたびに胸の底でほどけていた、あの温かいものと——あの遠い日、妃のために種を蒔いた娘の心は、同じものだ。
凍っていただけ。死んでなど、いなかった。
この人は、最初の夜から、それを知っていたのだ。花瓶ひとつで、それを暴いてみせたのだから。
「はい。……ええ、ほんとうに。幸福な、結末でございましたわ」
わたしは彼の手を取り、その温もりを確かめるように、強く握り返した。
「まいりましょうか。——わたくしたちの、家へ」
名残惜しくないと言えば、嘘になる。けれどそれ以上に、この人と帰る場所がある、というただそれだけのことが、何より深く、わたしを満たしていた。
歩き出した、そのとき。
藍を深める東の空に、ひとつ——宵の星が、点った。
あの妃は、星を見上げることしか、できなかった。手の届かない光を、鳥籠の窓から、ただ待つことしか。八百年のわたしも、同じだった。
いまは、違う。
わたしの星は、空から降りてきて——ほら、いまも、手を引いて、夜を一緒に歩いてくれる。
夜の継ぎ目をくぐる、その間際。肩越しに、島を振り返った。
夕闇の庭は、白い大樹を芯に、一面の花の灯に変わりつつあった。独り言の歳月は、もう終わり。今度ここで散る花は、ふたりで見る花だ。
——どれほど夜が更けても、もう、寒くはない。




