アスフォデル霊廟
海の底から帰って、冬が終わろうとしていた。
忘れていたわけではない。ただ——永く、閉ざしてきた扉である。把手に手を掛けるまで、少し、間が要った。それだけのこと。
その朝、窓の外には雪解けの水音があった。楢の林は根方に白を残しながら、枝先はもう、春の色を帯び始めている。シリウスは食後の一杯を傾けながら、その雪の痩せていく林を眺めていた。
その横顔へ、わたしは切り出した。
「あなた。——海の底で交わした約束を、覚えていらして?」
「ん?」
「いずれ、お連れしたい場所がある、と」
杯が、卓に置かれた。彼の目がこちらへ戻ってくる。
「忘れるものか。——例の、霊廟だな」
「ええ。わたくしの一族の始祖たちが眠る場所。遥か西の、森の奥深くに。——わたくし自身、永く、足を向けておりませんけれど」
わたしは窓の外、目覚めはじめた森のさらに向こうを見やった。
「強い結界に守られて、血族の者しか立ち入れません。ですから千年あまり、誰の手にも触れられずに眠っているはずですわ。——失われた古い魔法や、一族の秘密が、まだそこに」
「ほう。君の一族は、古くからこの地を治めていたんだな。ふむ……君の縄張りなら、盗掘しようなんて輩もおるまい」
彼が、杯を置いた手で膝を打った。
「——手付かずの古代の秘宝が、俺たちを待っているぞ!」
椅子を鳴らして立ち上がる。その瞳は、春先の光の中で少年のように輝いていた。これから始まる大冒険を前に胸を躍らせる、探検家の顔。あまりに無邪気で豪快な反応に、愛おしさが込み上げて、わたしはくすりと笑ってしまった。
「まあ。ふふ、まるで子供のようでいらっしゃること。——でも、そういう真っ直ぐなところが、わたくしはたまらなく好きなのでございますよ」
立ち上がって彼の胸元に手を添え、逸る気持ちを宥めるように見上げる。それから席へ戻るよう軽く押して、自分も向かいに腰を下ろした。
「それで? その秘宝とやらを、どのように手に入れたいとお望みですの。わたくしは、あなたの望むまま、どこへでもお供いたしますわ」
「アステリア、これは大冒険の予感がするぞ。結界に守られているとはいえ、中にどんなトラップが仕掛けられていてもおかしくはないからな。——壁から飛び出す、男性器型の穂先の槍。どこからともなく放たれる、男性器型の鏃をつけた矢。忍び寄る、男性器をぶら下げた旦那」
「…………」
わたしは、まばたきをした。一拍。二拍。
「……っ、ふ、あは、あはははっ!」
堪えきれなかった。声を上げて笑ってしまった。一族の霊廟である。始祖の眠る聖域である。そこに、男性器の槍。
「ご、ごめんあそばせ……っ、で、ですが、一体どこから、そのような愉快な想像が湧いてまいりますの……? 男性器の……槍、ですって……?」
笑いすぎて滲んだ涙を指で拭う。彼は大真面目な顔のままだった。それがまた、いけない。
「さすがはわたくしの旦那様。考えることが、常人の域を遥かに超えていらっしゃいますわ。——ですが、ご安心くださいませ。一族の神殿に仕掛けがあるとすれば、もっと神聖で美しいもののはず。星の運びに合わせた仕掛けや、古の知恵を問う謎かけのような」
それから、と。わたしは杯の縁越しに、悪戯な目をしてみせた。
「最後のひとつだけ、妙に具体的でございましたこと。——ようございますわ。その『忍び寄る旦那』に捕まって差し上げるのは、この世で、わたくしだけと決まっておりますもの」
「それはまだわからんぞ? 敵を騙すにはまず味方から、と言うからな。古代の叡智ではなく、古代のエッチなトラップが待ち受けているかもしれん。だから、こちらもそれ相応の準備をしないとな」
「……古代の、エッチなトラップ」
大真面目に頷く彼を、わたしはしばし、感心して見つめた。この男の発想は、一体どこまで飛躍するのだろう。
「ふふ、なるほど。あなたが仰るのでしたら、あるいは本当に——わたくしの一族は、とんでもない変態の集まりだったのかもしれませんわね」
席を立ち、彼の隣へ歩み寄って、その逞しい腕にしなだれかかる。
「それで? その『相応の準備』とは、どのようなものを。もしや……わたくしに、何か特別な衣装でもお召しになれと?」
「もうわかってるんだろう、俺の可愛い奥さん。君だけの、特別な探検服が必要なんじゃないかい?」
お見通しだった。耳の先に、ふっと熱が灯る。
「ええ。古代のエッチなトラップからあなたをお守りするには、わたくしにも、相応の覚悟と——特別な装いが、必要不可欠でございますもの」
「特別な物語を秘めたコスチュームを、また例のマダムと作るつもりなんだろう? 当日までのお楽しみにしておくよ」
詳細をひとつも問わず、彼は余裕の笑みでそう言った。その粋な仕舞い方に、胸が、ほんのりと熱くなる。
——ようございますわ。当日、その余裕ごと、奪って差し上げます。
* * *
三日後の朝。空は高く晴れて、城のどこにいても、雪解けの雫の音が聞こえていた。
城の玄関広間で、わたしは彼を待っていた。階段を降りてきた足音が、途中で、止まる。
「お待たせいたしました」
わたしは振り返り、その場でくるりと一回転してみせた。
黒革の編み上げ胴着が、胸のかたちを残らず描き出している。深く編まれた紐の谷間。腰には短い革の装いだけを巻き、その下は、腿の半ばまでを覆う編み上げの長靴。腰帯には飾りの鞭と短剣。歩けば、革と素肌の境目が、ちらりと覗く造りだった。
「いかがでしょう。あなたをお守りするに、相応しい姿でございましょうか?」
彼の視線が、上から下へ、ゆっくりと往復した。
「……今回のドスケベ衣装も似合ってるよ。しかし、マダムも君も、その衣装への執念には敬意を払う。——服を着ている方がエロいって、どういうことなんだ一体……」
「最高の褒め言葉ですわ」
夜を徹してマダムと知恵を絞った甲斐があったというものだ。わたしは勝ち誇って微笑み、彼の胸に人差し指を這わせた。
「この装いに込めた執念は、すべて、あなたお一人に向けたもの。——さ、これを羽織って、と」
黒い毛皮の外套を肩に掛ける。彼も旅装に剣を佩いて、すっかり探検の支度だった。差し出された大きな手に、わたしは指を絡める。
「西の森の、結界の門前まで飛びますわ。——その先は、夜の継ぎ目も通してはもらえませんの。一族の結界は、わたくしの夜より、ずっと古うございますから」
「望むところだ。遺跡は歩いて入るものと、相場が決まっている」
継ぎ目をこじ開ける。玄関の灯が遠のき——視界が、白く弾けた。
* * *
空気が、変わった。
降り立ったのは、太古の森の底だった。ここはまだ、冬の領分である。城のまわりではあれほど痩せていた雪が、深々と眠っている。見上げるほどの巨木が枝に白を抱き、静寂が、耳に痛い。その奥に——苔と雪をまとった石の門が、黒々と立っていた。
彼が門の前で足を止め、首筋のあたりを片手でさすった。
「結界か……魔法の素養のない俺でも、なんとなく感じるな。君はともかく、俺は中に入れるのかい?」
「お気づきになるのですね。やはり、あなたは」
誇らしさに口元がほころぶ。わたしは彼の手を取り、その甲にそっと唇を寄せた。
「この先は、血族以外のすべてを拒む結界。凡百の魔法使いが束になっても、傷ひとつ付けられません。——ですが、ご心配には及びませんわ。あなたは、もう他人ではございませんもの。わたくしの魂の伴侶。血よりも濃い絆で結ばれた——家族でございます。この結界が、あなたを拒むはずがありません」
手を、強く握り直す。
「さ。離さないでくださいましね」
一歩、門をくぐった。空気の膜を抜けるような、かすかな抵抗。隣で彼が、首をひとつ竦めた。
「少しうなじにチリリと来たが——第一関門突破かな。さあ、ズンズン進むぞ、アステリア」
「ふふ、ええ。あれほどの結界も、わたくしたちの絆の前では、形なしでございましたわね。チリリ、といたしましたのは——結界が、あなたという魂に触れて、敬意を払った証でしょう」
門の内側に、雪はなかった。
それどころか——寒くも、ないのだった。外套の襟元から忍び込んでいた冬が、門を境に、ふつりと消えている。寒くもなく、暖かくもない。温度というものが、ここでは死んでいる。
苔むした石畳の通路が、薄闇の奥へと続いていた。壁には古い彫刻。天井は高く、わたしたちの足音だけが、遥か昔の静寂を起こしては、また眠らせていく。
「ここは神殿と言ったな? 君たち一族が祀るのは、神かい? それとも祖霊かい?」
壁の彫刻に目をやりながら、彼が訊いた。鋭い問いだった。わたしは外套の前を開きながら、厳かな気持ちで口を開く。
「——そのどちらでもあり、どちらでもございませんわ。ここは神殿であり、同時に、巨大な墓所。一族の始祖たちが眠る、霊廟なのでございます」
壁には、歴代の王や女王の姿が彫られている。冠。杖。祈りの手。——その中に、ひとり。
わたしは、足を止めた。
ひときわ古い区画の壁に、女の像があった。長い髪を夜のように流し、目を伏せた、若い女。冠はない。ただその足元に、他のどの像よりも多くの献花の彫りが添えられている。
……よく、似ていた。鏡を覗いたかと思うほどに——けれど、鏡ではない。
その像の左右には、薄く色の残る壁画があった。
片方には、夜の河を隔てて、誰かへ手を伸ばす女。もう片方には、朝の光の中で、小さな命を抱く女。どちらの女の目元にも、一粒だけ、涙の跡が刻まれている。
壁画の下に、古い文字が残っていた。
——女神の涙は、二度夜に落ちる。
わたしは、その文字を指先でなぞった。意味は、分からない。けれど、なぜかその一文だけが、星あかりのように胸の底へ残った。
「わたくしたちの一族には、始まりに、ひとりの偉大な魔法の使い手がいたと伝えられております。夜と、夢と、死者の眠りを統べた方。その力は血に流れて、代々この地に繁栄をもたらしました。——ですが、強すぎる力は、同時に呪いでもあった。人々は我らを敬い、そして、畏れました。ここはその力を祀り、同時に……封じるための場所でもあったのです」
「なるほど……アステリアの力が強すぎるのも、素質がありすぎたせいなのかもしれないな……。で——その偉大なご先祖が仕掛けるエロトラップとやらがどんなものか、ますます興味が湧いてきたぞ」
「もうっ。ふふ……神聖な霊廟で、なんという仰りよう」
咎める声が、自分でも分かるほど甘かった。わたしは彼の腕に自分の腕を絡め、半歩後ろをついて歩く。
「ふむ。今のところ道なりだな。結界がある時点で、あまり罠を仕掛ける必要もなさそうだが……」
「鋭くていらっしゃること。仰る通り、この神殿の守りは、入り口の結界と——この、迷路のように入り組んだ構造そのもの。力ずくの侵入者は、通路で永遠に彷徨うことになりますわ」
ちょうど、前方に分かれ道が現れた。左右に、同じ顔をした通路が、同じ闇を湛えて延びている。
「ですが、一族には、少々意地の悪いところもございましてね。物理の罠より、人の心を惑わす仕掛けを好みました。——たとえば、この分かれ道。片方は正しい道へ。もう片方は……抗いがたい誘惑の待つ、快楽の間に繋がっているとしたら。あなたは、どちらをお選びになります?」
試すように、彼の瞳を覗き込む。
「誰かにお膳立てされた快楽に踊らされるなんて、つまらないじゃないか。——それよりも、正しい道を、己の力で快楽に染め上げてやる方が好みだな」
言葉と同時に、外套の合わせ目から滑り込んだ指が、革越しに、背骨をゆっくりと辿り下りた。
「んっ……」
ぞくり、と背筋が甘く粟立った。
——ああ、なんという答えだろう。仕掛けられた運命に踊るのではなく、道の方を従えてみせると言う。千年、敷かれた道しか知らなかったわたしが、魂の底から求めていた王の答えが、それだった。
「……あなたが、そうお望みなら。この道がわたくしたちの色に染まるのなら、それ以上の悦びはございませんわ。——正しい道は、右。さ、参りましょう」
* * *
通路は、ゆるやかに下りながら、奥へ奥へと続いた。
しばらく行ったところで、彼がふと、真顔になった。
「ふむ。ここからは少し警戒しながら進もう。——アステリアの急所は、俺がガードするからな」
「まあ、頼もし……ひゃっ!?」
背後から回された大きな手が、革の胴着ごと、わたしの胸をやわらかく包み込んだ。警戒も何もあったものではない。あまりに大胆な「ガード」に、喉から甘い息が漏れる。
「こ、ここが、わたくしの急所だと……? ふふ……確かに、こうされては、力が抜けて……戦えそうに、ございませんわ……」
革越しに、指がかたちを確かめるように動く。聖域の静寂の中、息だけが、乱れていく。
「これも……古代のトラップへの、予行演習で……? ん、ぅ……でしたら、もっと……」
「——どうしたアステリア? 息が上がっているぞ? 先を急ごう」
手が、ぱっと離れた。
「…………は?」
熱だけを残して、彼はもう、何食わぬ顔で歩き出している。灯りかけた火を置き去りにされた身体が、行き場をなくして、じんと疼いた。
「ひ、ひどいお方……っ。この状態で、進めと仰いますの……」
「探検には体力の配分が肝心だからな」
「あなたの配分が、いちばん肝心でなくってよ……!」
潤んだ目で睨んでも、まるで凄みが出ない。わたしは乱れた息を整え、それでも矜持だけは立て直して、つんと顎を上げた。
「……ようございます。この程度で、あなたの隣を歩く女がへこたれるとでも? 参りますわよ」
歩き出した一歩目が、われながら、少しだけ覚束なかった。
* * *
道は、下り続ける。
空気が、一段と澄んでいく。彫刻の祖たちの目が、闇の中から静かにこちらを見ている気がした。
「永く足を向けていない、と言っていたな。——最後に来たときは、最奥まで行ったのか?」
ふいの問いだった。覚えていてくれたのか。胸の底に仕舞っていた古い記憶が、静かに浮かび上がってくる。
「……最奥まで参りましたのは、後にも先にも、一度だけ。千年前——この身が、始まった夜に」
わたしは歩みを緩め、壁の古い文様を指先で撫でた。石の冷たさの中から、記憶の続きが、ゆっくりと滲んでくる。
「その後に、一度だけ……おのれの根を確かめに、戻ろうとしたことがございます。ですが、行けませんでした。ひとりきりの身に、この静寂は、あまりに重うございました。一歩ごとに、永すぎる生の虚しさばかりが積もって——途中で、引き返してしまったのです」
振り返って、微笑む。寂しい話のはずなのに、不思議と、声は凪いでいた。
「ですが、今は違います。あなたが隣にいてくださる。この先に何が待っていようと、もう、何も怖くありませんわ。——さ、今度こそ、最奥まで。わたくしたちの冒険は、まだ始まったばかりですもの」
今度はわたしから、彼の手を引いた。
やがて、空気の質が、また変わった。
「静かだな。生き物の気配が、薄くなってきた気がする。——外界から隔絶でもされているように、錯覚を覚えるな」
「錯覚では、ございませんのよ」
わたしは彼の腕に寄り添った。
「この深部は、時の流れからも、生命の営みからも、切り離された場所。死者の眠りを妨げぬよう、あらゆる『生』を拒む聖域でございます。——わたくしのような、生と死の狭間に在る者か。あるいは、あなたのように、死を前にしても揺らがぬ魂の持ち主でなければ……この静寂に、心を蝕まれてしまうでしょう」
「俺は頑丈にできてる」
「ふふ、存じております。——それに、ご安心を。この静寂は、わたくしたち二人だけの世界を守る、優しい守り人でもありますから」
「神殿の最奥がゴールとしたら——今は、このあたりかい」
言うが早いか、腰の革の隙間から指が忍び込み、布越しに、いちばん脆いところをなぞり上げた。
「ひゃんっ……!? こ、このような場所で……な、なにを……!」
「現在地の確認だ」
「地図に、何を見立てて……あっ、ん……」
指は、先ほどの続きから始めた。焦らされたままだった場所が、軽く辿られただけで、とうに答えを出しているのが分かる。膝が、笑った。
「……ほう。道のりは、だいぶ、ぬかるんでいるな」
「い、言わないでくださいまし……っ」
彼が指を引き——あろうことか、その指先を、見せつけるように、自分の唇に含んだ。
「な……っ」
全身の血が、沸いた。わたしという存在を、その舌で確かめている。あまりに官能的で、あまりに不遜な仕草に、立っていることさえ覚束なくなる。
「ふっ、では先に進もう。——足にきているようだから、ゴールまでは、このまま運ぶ。いいな?」
「え——きゃっ!?」
答えを待たずに、身体がふわりと浮いた。膝裏と背に、岩のような腕。気がつけば、彼の腕の中に横抱きに収まっていた。
「お、降ろしてくださいまし……! 歩けますわ、わたくしは……!」
「誰のせいで歩けなくなったか、考えると心が痛むのでな」
「その心当たりが、今わたくしを運んでおりますのよ……!」
抗議は、岩の腕にはまるで届かない。やがて、わたしは観念して、彼の首に腕を回した。広い肩に、頬を預ける。革越しに、力強い鼓動。
——あの日も、この道を、わたしはひとりで歩いた。一歩ごとに静寂が重くなり、足が、心が、動かなくなって、引き返した道。
その同じ道を、いま、運ばれていく。歩くことすら、明け渡して。それが敗北ではなく、こんなにも甘いものだとは——あの日のわたしに、教えてやりたい。
「空気がいよいよ研ぎ澄まされてきたな。アステリア、こっちで合っているかい?」
「ええ。……間違いございませんわ。もう、すぐそこ。——あなたを、どうしてもお連れしたかった場所。わたくしの始まりの場所であり……あなたと、新しい物語を始める場所でございます」
最後の通路を抜けた、その瞬間。
視界が、ひらけた。
* * *
——星空が、あった。
円形の、巨大な丸天井の霊廟だった。高い天井には無数の魔石が埋め込まれ、青白い瞬きを散らして、本物の夜空のように広がっている。その光に照らされて、中央には、人の背丈の何倍もある水晶の祭壇。周囲には歴代の始祖たちの石棺が、静かな円を描いて並んでいた。
彼が、わたしを抱いたまま、立ち尽くした。見上げた横顔が、星あかりに青く染まっている。
「……なるほど」
低い声が、落ちた。
「竜宮が、これに似ていたのか」
「ええ。——あちらが、写し絵。こちらが、本物ですわ」
彼はゆっくりと、わたしを床に降ろした。素足ではないのに、石の床の静けさが、靴底から伝わってくる気がした。
「ここが——一族の眠る霊廟。そして、わたくしが」
祭壇を、見上げる。
「わたくしが、人間であった最後の夜を、過ごした場所でございます」
あの夜。国を呑もうとする敵を前に、勝ち目のない玉座で、わたしはここへ来た。この祭壇の上で、伝えられるだけだった始まりの方に——祖霊に、力を乞うた。血と、覚悟と、絶望の夜。
その場所が、いま、こんなにも静かで、美しい。隣に、この男がいるというだけで。
「死者の眠る場所に、星空とはな」
彼が、天蓋を仰いだままで言った。
「……君のご先祖は、なぜ墓の上に星を架けたんだろうな」
「さあ。……ですが、今なら、分かる気がいたしますの」
わたしも、並んで見上げた。
「夜を統べた一族だからこそ——夜がどれほど深くても、見上げれば星がある、と。眠る者たちに、そう信じさせたかったのではないかしら。……夜の一番底にも、光は届くのだと」
彼は、何も言わなかった。ただ、繋いだ手に、ゆっくりと力がこもった。
——そうだ。わたしは知っている。八百年、窓から見上げるだけだった星が、いま、この手の中にある。夜の一番底まで、降りてきてくれた星が。
「しかし——霊廟か」
ややあって、彼が、わざとらしく咳払いをした。
「アステリアに相応しい旦那か、ご先祖様からチェックを受ける気分だなぁ」
「ふふ。チェックなど、必要ございませんわ。あなたは、わたくしが見つけ出した、唯一の——」
言いかけた、その時だった。
祭壇が——応えた。
* * *
水晶の奥で、光が、とくり、と脈打った。
一度。二度。心臓のように。霊廟を満たす星あかりが、すうっと、一段、深くなる。
「——ほほう」
声が、した。
わたしの声に、よく似た声。けれど、わたしのものではない声。低く、古く、面白がるような響きを湛えて、それは祭壇の方から聞こえた。
「言うてくれるのう。チェックは要らぬ、とな」
祭壇の前の宙に、光の糸が集まっていく。輪郭が、結ばれていく。
長い、夜のような黒髪。伏し目がちの、白い面。——壁の彫刻で見た、あの女だった。わたしによく似て、わたしではない。そして、薄く開かれたその瞳は——鬼火色に、燃えていた。
わたしの全身が、芯から、それを識った。
知っている。この気配を、知っている。ずっと、腹の底で身じろぎをしてきた、あの——
「……あなた、は」
「妾はメリノエ」
女は、ゆるりと首を傾げた。
「——と、名乗るまでもないかえ。お前が、誰よりよう知っておろう。千年前、この祭壇でお前と契った者。それからずっと、お前の腹の底で添い寝をしてきた者じゃ」
息が、できなかった。
気配だけだった。声のない、名のない、得体の知れない衝動だった。それが、いま——輪郭を持って、わたしの前に立っている。
シリウスが、音もなく、半歩前へ出た。わたしを背に庇う、戦士の半歩。
メリノエの鬼火色の目が、その動きを、面白そうに追った。
「案ずるな、男。喰えぬことは、もう知っておる。——それより」
目が、すっと細くなる。
「これが、お前の星かえ、アステリア」
心臓を、素手で掴まれた気がした。
——知られている。当然だ。この方は、ずっと、わたしの内にいた。わたしが何を見て、何を想い、誰を、どう呼んできたか。すべて。
「夜の底まで、星を連れ込みおったか。……ふ。待った甲斐があったというものよ。どれ——」
空気が、変わった。
張り詰めた静寂の底から、冷たいものが、すうっと持ち上がる。飢えだ。わたしのよく知る、わたしのものでない飢えが、糸のように細く、彼へ向かって伸びた。
「いけませ——」
「動くでない」
一瞬だった。
飢えの糸は彼に触れ——そのまま、何も起こらず、ほどけて消えた。メリノエが、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「……ふん。肝の据わった男じゃ。妾に覗かれて、瞬きひとつせぬとは」
「初対面の挨拶が品定めとは、ご先祖様も気が早い」
シリウスが、肩を竦めた。
「で——合格か。出禁か」
「ほ。妾に軽口を叩きおるわ」
メリノエは、喉の奥で、からからと笑った。古い鈴を転がすような笑い声だった。
「気に入った、ということにしておこうかの。婿殿」
鬼火色の目が、わたしへ戻ってくる。
「久しいの。……いや、片時も離れておらなんだか。ともあれ、こうして口を利くのは、千年ぶりよ」
「……なぜ。なぜ、今、姿を」
「ここが妾の骨の上じゃからよ」
メリノエは、祭壇の水晶に、白い指先を滑らせた。
「契りの祭壇の上でだけ、妾はこうして、輪郭を借りられる。——永らく、誰も来なんだがの。お前が、ようやく戻った。しかも、客連れで」
わたしは、一歩、前へ出た。膝が、震えている。恐怖なのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からないまま——けれど、訊かねばならないことが、あった。八百年、闇に向かって問い続けて、答えのなかったことが。
「……教えてくださいまし」
声が、掠れた。
「なぜ、わたくしは、この力を御せないのです。なぜ——欲するだけで、奪ってしまうのです」
メリノエは、すぐには答えなかった。
鬼火色の目が、わたしを、じっと見た。値踏みでも、嘲りでもなく——遠いものを懐かしむような、奇妙に静かな目だった。
「御せぬ、とな」
やがて、ぽつりと。
「……ふ。逆しまよ、アステリア。お前は——御しすぎたのじゃ」
「…………え?」
「ようお聞き」
メリノエは、祭壇に腰を預けた。千年の祖霊が、まるで井戸端の媼のような気安さで。
「妾は飢えじゃ。じゃが、妾に手はない。妾の飢えは、お前の『欲しい』を通ってしか、外へは出られぬ。お前が誰かを欲した——その同じ口から、妾も手を伸ばす。欲と飢えは、一本の川を流れる、二色の水よ」
一本の、川。
「じゃからお前は、川ごと堰き止めた。何も欲しがらぬ。誰にも触れぬ、と。——八百年。見上げた根性じゃ。おかげで妾は、退屈で千度は死んだわ。死ねぬがの」
「では……では、あの夜は」
訊いてしまった。声が、震えた。
城のすべての命が、一夜で涸れた、あの夜のこと。
メリノエの目から、笑いの色が、すっと引いた。
「——堰が、破れただけのことよ」
静かな声だった。
「八百年前。お前は、溢れるほど欲しがっておった。皆に好かれたい。誰も失いたくない。よい女王でありたい、と。……健気なものよ。じゃが、欲を殺せば殺すほど、堰の裏の水嵩は増す。溜まって、溜まって——ある夜、破れた。それだけのことじゃ」
「それ、だけ……」
「お前が悪鬼に堕ちたのでもない。妾が、お前を乗っ取ったのでもない。罪があるとすれば——川が、一本しかなかったこと。それだけよ」
膝から、力が抜けそうになった。
八百年。
わたしは、自分を呪って生きてきた。わたしが化け物だから。わたしの欲が穢れているから、皆を殺したのだと。欲しがることそのものが、わたしの罪なのだと。
——違った。
欲は、罪ではなかった。ただの、構造。堰と、水嵩の話だった。誰のせいでもない、と——わたしの飢えそのものが、そう言っている。
目の縁が、熱い。けれど、こぼさなかった。こぼす代わりに、息を、ひとつ、深く吸った。
「……では」
声が、戻ってきた。
「どうすれば、よいのです。堰き止めても破れるのなら——わたくしは、どうすれば」
「知らぬ」
即答だった。
「妾は飢えの側じゃ。満ちた腹の心地など、生まれてこの方、知らぬ。……ただ——」
鬼火色の目が、ふ、と細くなった。
「八百年、断って封じた。ならば——逆は、試したかえ」
「……逆」
「さあのう。妾の口から言えるのは、ここまでよ」
メリノエは、嗤った。それから、つと視線を流して——シリウスを、見た。
「もっとも。——近頃の妾は、妙に腹が静かでのう。なぜかのう? なあ、婿殿」
「さあな」
彼は、涼しい顔で答えた。
「うちの飯が、美味いんだろう」
「ぬかしおるわ」
メリノエが、声を立てて笑った。それから、わたしへ、ちらりと流し目をくれる。
「飯、とな。……まあ、そういうことにしておいてやろう。注がれる端から満ちておっては、妾の出る幕もない、ということよ。——お前の閨の声なら、誰より聞いておるでな」
「なっ……!?」
顔が、爆ぜた。
そうだ。この方は——ずっと、内にいたのだ。あの夜も。あの夜も。全部。
「き、聞いて……お、おやめくださいまし、そういうお話は……!」
「添い寝してきた仲ぞ。いまさら何を恥じることがある」
「あ、ありますわ……!」
羞恥に身を縮めるわたしの隣で、彼が、肩を震わせて笑いを噛み殺していた。後で覚えていらっしゃい。
「……ふ。よう笑うようになったの、お前は」
ぽつりと、メリノエが言った。
からかいの響きでは、なかった。わたしが顔を上げると、祖霊の輪郭は、もう端のほうから、光の糸へとほどけ始めていた。
「久方ぶりに口を利いた。……存外、悪うないの。妾と話したくなったら、ここへ来や。あるいは——」
ほどけながら、鬼火色の目だけが、悪戯に瞬いた。
「お前が眠っておる隙に、その男と差し向かいで一献、というのも一興かの」
「妾の器じゃ、婿殿。——せいぜい、飽きさせるでないぞ」
「善処する」
彼が短く答えると、メリノエは満足げに、ふ、と笑い——
光の糸が、ほどけて、星あかりの中へ散った。
祭壇の脈動が、静かに、もとの眠りへ還っていく。
あとには、もとの静寂と、わたしたち二人だけが、残された。
* * *
しばらく、どちらも、口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは、彼だった。
「……えらく、口の達者なご先祖だな」
「…………ふ、ふふっ」
張り詰めていたものが、その一言で、ほどけた。わたしは額を彼の肩に預けて、肩を震わせた。笑いながら、息を整える。胸の中で、何かが、ゆっくりと場所を変えていくのが分かった。
「……八百年」
彼の肩に額を置いたまま、わたしは言った。
「八百年、得体の知れないものに、怯えて生きてまいりました。名前も、顔もない、わたしの中の何かに。——それが今、顔を見ました。声を、聞きました」
顔を上げる。星あかりの天蓋の下、彼の目が、まっすぐにわたしを見ていた。
「敵だと思っていたものは、敵ではなく……ただの、同居人でございました。口の悪い、千年来の」
「同居人か」
彼が、ふっと笑った。
「なら、家賃を取り立ててやれ。八百年分、利子をつけて」
「ふふっ……取り立てたら、何で払うつもりかしら、あの方」
笑い合って、それから、ふたり同時に、天蓋を見上げた。魔石の星々が、変わらず瞬いている。問いの答えは、まだ、手の中にない。断つのではない道がある、とだけ——飢えそのものが、教えていった。
けれど。
その問いは、もう、ひとりで抱える問いではなかった。
「——君にとっては、色々な意味がある場所なのだな、ここは」
彼の手が、わたしの手を、包んだ。
「連れてきてくれて、ありがとう。——俺の可愛い奥さん」
「……奥さん」
絶望と血の匂いの中で契りを結んだ、この場所で。わたしはいま、愛する男の、妻として立っている。
目の奥が熱くなった。けれど、わたしは——笑っていた。
「ええ。わたくしは、あなたの奥さんでございます。……この言葉を、この場所で聞ける日が来るなんて、千年前のわたくしに教えたら、どんな顔をしたかしら」
「祭壇の上で気絶してただろうな」
「あら、ひどい。……否定は、できませんけれど」
彼の胸に、こつんと額を当てる。大きな手が、わたしの後頭部を、ゆっくりと撫でた。星あかりの下、死者たちの静かな円の真ん中で、わたしたちは、しばらくそうしていた。
やがて、彼が、耳元に唇を寄せた。
「では帰ろうか。——家に帰って、冒険服を寝台で脱がされるまでが冒険だ。気を抜くなよ」
「〜〜っ、あ、あなたという方は……! ご先祖様の御前で、な、何を仰いますの……!」
「ご先祖様なら、聞き慣れてるそうだぞ」
「忘れてくださいまし、今すぐに……!」
ばしばしと胸板を叩くわたしを、彼は声を立てて笑いながら、軽々と抱き寄せた。霊廟に眠る始祖たちも、この豪放な男の物言いには、呆れながら笑っておられるに違いない。
——もう、存じております。ただでは帰していただけないことくらい。
観念の吐息をひとつ。わたしは彼の腕の中で、夜の継ぎ目に手を掛けた。
* * *
寝室の暖炉に、火を入れた。
外套を脱がせ合って、わたしが振り向くより早く——彼は、吟遊詩人のように、芝居がかった声で語り始めた。
「『——大冒険だった。しかし、本当の冒険はこれからだぞ』。そう言うと、教授は、遺跡の最奥で見つけた隠し扉を、そっと開いた」
「きょ、教授……?」
大真面目な顔で、彼の指が、わたしの胴着の編み紐に掛かる。紐が、一段、解かれた。隠し扉、とはこれのことらしい。
「ふ、ふふ……っ。では、その扉の奥には、どのような財宝が眠っているのでございますか? 教授」
乗って差し上げることにした。物語の続きをねだる声が、自分でも分かるほど、甘く湿る。紐が、また一段、解かれていく。革の合わせ目が緩み、素肌に、暖炉の熱と彼の視線が、じかに触れた。
「教授がその先で見つけたのは——美しい女神像だった。女神像の唇は、真珠で飾られており」
唇が、塞がれた。
深く、吸いつくような口づけ。熱い舌が歯列を割って、口腔をゆっくりと探っていく。膝から力が抜けて、わたしは彼の襟に縋った。軽く、下唇を食まれる。甘い痺れが、背骨を伝って落ちていった。
「ん……ふ、ぅ……」
唇が離れる。吐息の触れる距離で、わたしは囁いた。
「……女神などでは、ございませんわ。あなたの前では、わたくしは——あなただけの、ただの女でございます」
「異論は、学会で受け付ける」
胴着が、肩から滑り落ちた。
「——女神像の胸からは、神々の霊酒が、とうとうと湧いていた」
露わになった肌へ、熱い唇が落ちた。
「あっ……!」
稲妻のような疼きが、背筋を駆け抜ける。触れられるたび、腰の奥で熱が渦を巻いた。霊酒などではない。これは、ただ——この男に求められて、歓んでいる、女の身体だ。
「は、ぁ……教授、は……ずいぶんと、熱心に……」
「研究には、犠牲がつきものだ」
「どちらが、犠牲ですの……っ」
寝台に、沈められた。長靴の編み紐が解かれ、腰の革が取り去られて——星も魔石もない、暖炉の火あかりだけが、わたしの素肌を照らした。彼の目が、隅々まで、ゆっくりと辿っていく。探検の終わりに、いちばんの財宝を検分する目だった。
「そして——女神像の脚の間には、遺跡で見つけた聖剣を納めるための、細い鞘があることを、教授は発見したのだった」
彼の熱が、すぐそこにあった。
それだけで、内側が、はしたなく戦慄く。霊廟の道中、二度も灯されて、二度も置き去りにされた火が——もう、限界だった。
「……っ、教授……お願い、ですから……」
わたしは、自ら膝を開いた。羞恥ごと、差し出すように。
「その剣を……わたくしの中に、お納めくださいまし……。この鞘は、千年——あなたの剣だけを、待っておりましたの……」
「——教授が聖剣を納めると」
ひと息に、いちばん奥まで。
「あ——……!」
待ち焦がれたものに、身体が、歓喜のままに応えた。火花の散った視界の端で、彼が、低く息を詰めるのが聞こえた。
「——大量の水が噴き出して、遺跡の床を水没させる罠が、発動したのです」
「な、なにを……あっ、待っ……いま、動かれたら、わたくし……!」
容赦が、なかった。
焦らされ続けた身体は、もろかった。せり上がる波が、あっという間に、頂を越える。
「だめ……っ、あ、もう……出て、しまいます……っ、あなた、あなたぁっ……!」
「いいぞ。——水没させてみろ」
耳元の低い声が、最後の堰を、切った。
「あ——……っ!」
目の前が、白く灼けた。
罠は、教授の予言どおりに、発動した。羞恥する間もなく、彼はなお、深く、深く、わたしを揺さぶってくる。
「ひ、ぁ……っ、いま、いま……ですから……っ!」
「知ってる」
絶頂の波が引かないまま、次の波が重なって押し寄せた。シーツを掴んだ指が、白くなる。彼の動きが、速く、重くなっていく。
「アステリア——」
「ええ……っ、ええ、来て……わたしの、いちばん奥に……!」
最奥で、彼が、爆ぜた。
熱が、注ぎ込まれる。満ちていく。指の先まで。八百年、空っぽだった場所まで。
わたしは彼の背に腕を回し、その重みを、全部、受け止めた。
* * *
長い波が、ようやく引いた。
火あかりの中、重なったまま、二つの鼓動が、ゆっくりと歩調を揃えていく。
彼が、肘をついて身を起こし——火照ったわたしの額に、そっと、唇を寄せた。
「見つけたよ、本当のお宝」
その一言が、どんな宝石より深く、胸に沈んだ。
千年。誰の手も触れなかった霊廟の、その奥の奥で、この男が見つけ出したと言うもの。それが、わたし。
——かつてのわたしなら、泣いていただろう。ガラクタを拾った酔狂だと、自分を嗤いながら。
けれど、いまのわたしは。
「……ふふ」
微笑んで、汗の貼りついた彼の前髪を、指でそっと、払ってあげた。
「お宝なら——とうに、見つけていらしたでしょうに」
「ん?」
「何を今さら、と申し上げているのです」
彼が、一瞬、目を丸くした。それから、堪えきれないというように、声を立てて笑った。
「——違いない」
「ええ。わたくしは、とうの昔から、あなたのもの。……ですけれど」
わたしは彼の首に腕を回し、その耳元に、唇を寄せた。
「今宵は、わたくしも、見つけましたのよ。八百年、顔も知らずに怯えていた相手の——顔と、名前を」
「……そうだな」
彼の声が、静かになった。大きな掌が、わたしの濡れた銀の髪を、ゆっくりと梳く。
「で、どうだった。例の同居人は」
「口が悪くて、意地が悪くて、趣味も悪うございますわ」
即答してから、わたしは、彼の胸に頬を置いた。とくり、とくり、と、生きている音がする。
「……それから、少しだけ。ほんの少しだけ——寂しい方なのだと、思いました。誰も訪ねてこない祭壇で、永いあいだ、わたしの目を借りて、世界を見ているしかなかったのですもの」
「ほう」
「次にあの方と話すときは——あなたも、ご一緒してくださいまし。差し向かいで一献、と仰っていましたでしょう。……二人がかりなら、あの口の悪さにも、負けない気がいたしますの」
「請け負った。——酒の強いご先祖でないことを祈るがな」
くすくすと笑い合ううちに、瞼が、重くなってきた。
断つのではない道。その答えを、わたしはまだ知らない。けれど、急ぐことはないのだと思えた。一本しかなかった川のほとりに、いまは、この男がいてくれる。
彼の腕の中で、目を閉じる、その間際。
カーテンの隙間に、春まだ浅い夜空が見えた。
冬の星が、ひとつ——季節が移っても、夜の一番深いところに残って、ひときわ強く、瞬いていた。




