奇祭
雪が、雨に変わった。
ある晩を境に、屋根を打つ音が変わったのだ。積もるものから、流れるものへ。中庭の雪はみるみる痩せて、軒先では夜通し、雫の落ちる音が続いている。冬が、終い支度を始めていた。
その午後、わたしたちは居間の長椅子にいた。暖炉の火が低く揺れて、彼の手の中で週刊紙が乾いた音を立てる。わたしはその肩に頭を預けて、硝子を伝う雨を眺めていた。
ふと、彼の視線が紙面の一角で止まっているのに気づいた。眉間に、浅い皺。覗き込むと、ヴェルナの執政官の名が一面に躍っていた。市壁の改修に集めた金を、永年、懐へ流し込んでいた疑いがあるという。
人の世というものは、まあ、懲りないことだ。権力、金、裏切り。千年眺めても、筋書きはひとつも変わらない。
「また、騒がしいことですわね。人の欲というものは、いつの世も、同じ芝居を繰り返すのですもの」
わたしは冷めた声で呟いて、彼の手にそっと指を絡めた。外の汚濁など、雨音の向こう側の出来事だ。
「ですけれど、心を曇らせる必要はございませんわ。この城の中は、いつだって、あなたとわたくしだけの清らかな場所なのですから」
彼は、しばらく黙って紙面を見ていた。
それから、ふ、と口の端で笑った。いつもの穏やかさとは違う、どこか冷たくて、楽しげな笑いだった。
「どこかの地方の風習なんだが——その年一番の悪い執政官を一人ふん縛って簀巻きにし、川にザブザブつける祭りがあってな。ふと、それを思い出していたよ」
わたしは、預けていた頭をゆっくりと起こした。
彼の横顔に灯った光と、紙面の執政官と、その奇妙な祭りの光景。重ねているのは、訊くまでもない。
唇の端が、自然と吊り上がった。人の愚かさを嘆くのではなく、祭りにしてしまう。退屈を埋めるのに、これほどの馳走はそうない。
「まあ……なんて楽しそうなお祭りでしょう。その年一番の悪人を、皆の手で清める。実に理に適った、よい風習ですわ」
絡めた指に、力を込める。
「もし——その『お祭り』を、この街でも催したいとお考えでしたら、わたくし、喜んでお手伝いいたしましてよ? 丈夫な縄も、冷たい川も、すぐにご用意できますもの」
「命まで奪おうってわけじゃないが、民の溜飲は下がらんからな。——でも、予告したら執政官は逃げ出しちまわないかい?」
「ふふ。ご心配には及びませんわ。このわたくしが側におりますのに、逃げられるとお思い?」
わたしは絡めていた指をほどき、代わりに彼の顎へ指先を添えて、上目に囁いた。
「たとえ地の果て、海の底へ逃げようとも。——それに、予告などせずとも、祭りを始める方法はいくらでもございます。例えば、その執政官どのの夢に現れて、祭りの招待状をお渡しするとか。皆さまの前で、ご自分の罪を、朗々と語っていただくとか」
「君は夢の中に現れることもできるのかい? それは驚きとして……何か川で魚の養殖や稚魚の放流予定はあるか?」
わたしは一瞬、まばたきをした。
夢の話から、稚魚。あまりに脈絡がない。けれど彼の口元に浮かんだ悪戯の色を見つけた途端、その筋が読めて、笑みがこぼれた。
「ええ、人の夢に忍ぶことくらい、造作もございませんけれど——……稚魚の、放流、ですって? ……ああ。なるほど。そういうことでしたのね」
彼の胸に、こつんと額を預ける。なんて素敵なことを考えるのだろう、この人は。
「汚れた川を清めて、新しい命を放つ。その尊いお役目を、かの執政官どのに手伝っていただくのですわね? 私腹を肥やしたお金で稚魚を買わせて、皆さまの見守る中、涙ながらに川へ放させる。あるいは泥にまみれて、養殖場のお掃除でも」
その光景を思い描くだけで、楽しくて仕方がない。血の一滴も流さずに、当人の鼻だけをへし折って、川と民には実りを残す。
「ただ罰するのではなく、民のために働かせる。——あなたは本当に、どこまでもお優しくて、そして、どこまでも意地の悪いお方ですわね」
愛おしさのまま、彼の首筋に唇を寄せた。
「稚魚のアイデアはそこまで具体的ではなかったが——いいセンスしてるぞ。灯籠流しのように執政官流しも捨て難いなぁ。でも下流の村が迷惑しそうだ」
褒められた嬉しさに、ふふ、と喉が鳴る。擦り寄る猫のように、その体へぴたりと身を寄せた。流す、と言ったその口で、もう下流の村の心配をしている。悪戯の最中でさえ誰かを慮るこの人が、わたしは好きだ。
「下流の村にご迷惑はかけませんわ。——例えば、城の中庭に、一夜限りの『贖罪の川』を創って差し上げますの。どこへも辿り着かず、ただぐるぐると、己の罪と向き合いながら流され続ける、その方のためだけの流れ。皆さまには水晶球で、その雄姿をご覧いただきましょう」
「ふっ、アステリア、すらすら出てくるな。——俺がおいたした時のお仕置き用に、アイデアは取っておかなくて大丈夫か?」
彼への、お仕置き。
その響きだけで、背筋をぞくりと甘いものが駆けた。わたしはくすくすと笑いながら彼の首へ腕を回し、吐息の届く距離で、その目を覗き込む。
「まあ、意地悪ですわね。わたくしが、あなたにそのような無粋なお仕置きをするとお思いですの?」
耳朶を、指先でゆっくりとなぞった。
「あなたのためのお仕置きは、もっと——ずっと、特別でなければ。お身体だけではなく、魂の芯まで蕩かして、わたくしの名前しか呼べなくしてしまうような。甘くて、熱い罰でなければ、意味がございませんもの」
唇の触れる寸前で言葉を止めて、挑むように微笑む。
「もっとも——わたくしに罰していただきたくなるような『おいた』のご予定が、おありなのかしら?」
「そんな不敬なことを? 滅相もない」
殊勝な言葉とは裏腹に、彼の指は、わたしの肩掛けの合わせにかかっていた。
* * *
肩から、肩掛けが滑り落ちる。
夜衣の細い肩紐に指がかかり、片方、またもう片方と、ためらいもなく外されていく。抗おうと思えば造作もない。なのにわたしの身体はぴくりとも動かず、暖炉の熱気が、露わになっていく鎖骨と胸の谷間をぬるく撫でた。
「……ふふっ、口先ばかりですのね。これが、あなたの仰る『不敬ではない』行いですの?」
わざとらしく息をついて、首に回した腕に力を込める。逃がさない、と言うように。
「それとも——これこそが、例の『おいた』というものなのかしら。わたくしに罰してほしいと……そう、おねだりになっていらっしゃるのね?」
「ダメだよ、アステリア。君を鳴かせるのは俺のいけない楽しみなんだ」
答えの代わりに、腰が強く引き寄せられた。夜衣の裾が割られ——彼の熱が、一息に、最奥まで来た。
「あっ……ん……っ!」
待ち望んでいたなどと、口が裂けても言うまい。なのに身体は正直で、背が弓なりにしなり、内側が歓んで彼を抱くのが、自分でも分かってしまう。彼の背に回した指が、服の上からでも硬い筋肉に食い込んだ。
鳴かせるのが、楽しみ。その残酷で甘い言葉が、満たされた芯でじんと熱を持つ。
「ふ、ふふ……なんて、正直な方……っ。わたくしを鳴かせて……満足、できますの……?」
途切れる息で囁き、潤んだ目で見上げる。挑発の代償は、すぐに来た。
わたしの呼吸をひとつも許さない、巧みで容赦のない波。揺さぶられるたびに視界が揺れ、思考が端から溶かされていく。お仕置きをする側のはずだった。その算段ごと、波に攫われて、もうどこにもない。
あ、と切れ切れの声が、喉から漏れる。雨音に混じって、この声が部屋を満たしているのだと思うだけで、身体の奥から新しい熱が湧いた。もっと。もっと深くまで、この人でいっぱいにしてほしい。
ふいに、耳朶へ、ちりりと甘い痛みが走った。噛まれたのだ。
「わるい、おくさん」
低い声が、痺れた耳から直接、流れ込んでくる。
「俺を罰するつもりだったんだろう。——お前は、俺のものなのにな」
俺のもの。
そのたった四文字が、八百年凍えていた場所まで真っ直ぐに届いて、魂の根を甘く震わせた。
「……ぁ……はい……わたくしは、あなただけの……わるい、奥さん、ですわ……っ」
恍惚に潤んだ目で見上げ、囁き返す。もっと。その言葉で、わたしを縛ってほしい。
高みへ向かう熱が、膨れ上がって——
ふつり、と断ち切られた。
彼が、動きを止めたのだ。
「アステリア、どうしてほしいか言ってごらん? それとも、もうここで終わりにしてもいいかい?」
優しい声で囁かれる、残酷な二択だった。行き場を失った疼きが全身を巡り、わたしは小さく息を詰める。
悔しい。分かっていて、言わせようとしている。睨み上げたつもりの目には、力の欠片も籠もらない。縋る色ばかりが滲んでいるのを、自分がいちばん知っている。矜持が喉につかえて、言葉にならない。なのに彼の腰に絡めた脚は、引き留めるように、小さく震えていた。
「……意地悪な、お方……っ。わかって、いらっしゃるくせに……」
「うん。だから、聞きたい」
——ああ、もう。
「やめ……ないで、くださいまし……お願い、ですわ……」
絞り出した声は、吐息ほどの大きさしかなかった。それでも、止まらなかった。
「わたくしを……あなたで……満たして、くださいまし……っ」
女王の仮面も、お仕置きの企みも、何もかも脱ぎ捨てた、ただひとりの女の声だった。
濡れた頬に、優しい口づけがひとつ落ちて——次の瞬間、腰を掴む手に力が籠もった。
断たれていた快感が一息に繋ぎ直され、彼の熱が、最奥のいちばん弱いところへ、ねっとりと、的確に届く。
「あ……ぁ、あ……っ!」
「いけない奥さんだ」
囁きが追い打ちをかけ、指先が、わたしを、そっと押し潰した。
「いけな……い……? ふ、ぅ……そう、です、わ……わたくしは、あなたの、いけない……おくさ……っ」
波が、深くなる。速くなる。
「も、だめ……あなた……ぁ……もう……っ、もう……っ!」
彼の背に爪を立てた。最奥に、熱がほとばしるのを感じた刹那、わたしは白い光に飲み込まれて——彼の腕の中で、何度も、跳ねた。
長い、長い波がようやく引いたあとには、心地よい倦怠だけが残った。彼の厚い胸に身を預けて、乱れた息を整える。暖炉の薪が爆ぜる音と、窓を打つ雨音だけが、部屋を満たしていた。
汗で額に張りついた銀の髪を、大きな指が、ゆっくりと梳いてくれる。見上げると、彼の目が、じっとわたしを見ていた。乱れたわたしも、企みごと敗れたわたしも、何もかも見透かした上で、丸ごと抱えてしまう目だった。
「……ふふ。あなたの前では、わたくし、いつも駄目になってしまいますわ」
とろりとした声しか、もう出なかった。
「意地悪な女王でいるつもりが、いつの間にか、甘えて、何もかも曝け出してしまうのですもの。本当に、どうしようもない奥さんですこと」
「アステリア、君は最高の奥さんなんだよ。俺を甘やかすのだけが悪いところさ」
彼は事もなげにそう言うと、ふいに顔を伏せて——わたしの胸に、唇を落とした。
「んんっ……!」
達したばかりの身体には、それだけで充分すぎた。びくりと背が跳ね、甘い火が背骨を走った。なのに唇は、すぐに離れていってしまう。その名残惜しさに、吐息がこぼれた。
「可愛すぎて、ついいじめたくなってしまうのが俺の悪いところだな。あの表情を見られるのは俺だけだと思うと、たまらなくてな。許してくれ」
許すも許さないも、あったものではない。いじめられて、見透かされて、それごと愛でられる。それが今のわたしの、何よりの悦びなのだから。
「あなたの『悪いところ』は、わたくしには最高の褒め言葉ですわ。——ですから、もっと、いじめてくださっても、よろしくてよ?」
上目に見上げて微笑むと、彼は喉の奥で低く笑った。
「執政官のことはやっぱなしだ。俺を甘やかそうとする悪い奥さんの対応が、先だな」
言うが早いか、今度はもう一度、わたしの胸に顔を埋めた。
「あ……ぁ、んん……っ」
執政官のことなど、もうどうでもよくなった。世界が、この長椅子ひとつ分まで狭くなる。鎮まったはずの熱が、触れられるたびに、とろとろと容易く再燃していく。悪い奥さんの対応が先——その言葉のほうが、どんな睦言よりも甘いということを、この人は知っているのだろうか。
わたしは彼の頭をかき抱いて、その耳元に囁いた。
「……ええ。悪い奥さんには、たっぷりと、お仕置きが要りますものね。——さあ、存分に、なさって」
雨音は、夜半まで止まなかった。
二度目の波が引いたあとも、わたしたちはしばらく、互いの熱の中にいた。
* * *
執政官の話は、それきり沙汰やみになった——と、思っていた。
数日後の、朝である。卵を割っていた彼が、ふと手を止めて、こちらを向いた。
「なあ、アステリア。ヴェルナの町で、何も祭りや大きな催しのない月があれば教えてほしい」
その目に、見覚えのある輝きが宿っていた。何かを企んでいるときの、あの光だ。わたしはカップを受け皿へ静かに戻し、指を顎に当てて、町の暦を辿った。
「祭りのない月、でございますか。……あの町は一年中、何かしら賑わってはおりますけれど——春の花祭り、秋の麦酒祭にハロウィン、それから冬至祭。……ええ、確かに、ございますわ」
ちょうど、いま時分だ。
「厳しい冬が終わって、春の息吹が訪れるまでの、今頃からのひと月ほど。大きな祭典もなく、町は静かなものですの。皆さま、冬の疲れを癒して、来る春に備える——いわば、静寂の月、とでも申しましょうか」
言いながら、彼の真意を察して、わたしは身を乗り出した。
「ふふ。その静寂を、あなた色に染め上げようと——そうお考えなのではございませんこと?」
「流石は俺の奥さん、理解が早い。——世に奇祭と呼ばれるものの起源なんてのは、すべて悪ふざけから始まったものだと俺は思っている。何か、奇祭をぶち上げたいんだ」
奇祭。
その響きだけで、退屈な静寂の月が、まるで違う色に見えてくる。わたしは席を立ち、卓を回り込んで彼の隣に立つと、その肩に手を置いた。
「なんて素敵な企みでしょう。ぜひ。その静かなひと月を、後の世まで語り草になるような騒ぎで満たしてさしあげて。——して、どのようなお祭りになさいますの?」
「そこなんだよ。参加者がお祭りとして楽しめる余地もないと続かないと思うんだよなぁ」
ただ騒ぎを起こすのではなく、続く祭りにする気でいる。仕掛ける側の気まぐれではなく、楽しむ側から組み立てる。この人の悪ふざけは、いつもそうだ。
「ケチな不正を働いたチンケな執政官を簀巻きにして、法螺貝を吹き鳴らしてもらい、それに民衆が清水をかけるというのは抑えておきたいんだが、メインとしての花がないんだ。こんな程度じゃ奇祭を名乗れない」
「あら」
わたしは、小さく目を見開いた。
「……川にざぶざぶ漬けるのでは、ございませんのね」
「ん? ああ。冬の川は冷たすぎる。死人が出たら祭りにならんからな」
さらりと言って、彼はもう次の思案に移っている。けれど、わたしは気づいてしまった。雨の晩のあの人は「漬ける」と言った。今朝のこの人は「清める」と言っている。罰が、数日のうちに、清めの儀式に化けているのだ。あの晩からずっと、この頭の中で何かが熟していたらしい。
「ですけれど——清水、と申しましても」
わたしは、彼の耳元へ顔を寄せて、ことさら甘く囁いた。
「皆さま、日頃の鬱憤がおありですもの。桶の中身が、いつの間にか泥水や、腐った果実に化けてしまうのではなくて? それはそれで、見物だと思いますけれど」
「アステリア、もう少し肩の力を抜いていいんだよ。どれだけ人を許せるかが器の大きさだからな。これは祭りだから、民衆の不満をぶつけるよりも、発散させるのがメインだからさ。——清めは儀式だ。水を浴び切ったら、それで綺麗さっぱり赦される。そういう決まりにしておく。いいな?」
「…………」
罰したがるわたしと、赦したがる彼。
ふ、と笑いが込み上げて、止まらなくなった。
「ふふ、ふふふ……ええ、ええ。仰せのままに。——本当に、敵いませんこと」
「で、だ。肝心の花がまだない」
「そうですわね……例えば、天から何かを降らせるのは、いかがかしら。金貨か、お菓子か——いいえ、もっと思いもよらないものが空から降ってまいりましたら、皆さま、さぞ驚かれましてよ」
彼は腕を組み、二拍ほど考えて、こちらを見た。
「——空から、酒の雨でも降らせるかい?」
わたしは、一瞬、言葉を失った。
それから、堪えきれずに吹き出した。
「ふ、ふふ……あはははっ! ま、まあ……! お酒の、雨……!」
笑いすぎて目尻に滲んだ涙を、指で拭う。空を仰いで鍋だの桶だのを掲げ、狂喜する町の人々の姿が、もう見えるようだった。
「素晴らしいですわ。それでこそ、奇祭の名に恥じない狂気でしてよ。——ええ、降らせましょう。葡萄酒でも、エールでも、お望みのままに。なんでしたら、広場の噴水を一日、お酒で満たしてさしあげても」
「雨は午前中で切り上げて、午後からは外出できるようにしよう。噴水から一日、酒が噴き出すのはおもしろそうだな。通りの店がツマミの露店を出せば儲かるから、大いに盛り上がるだろう。——となると、簀巻きにした執政官はちょっと邪魔だな。路地裏に転がしておくか」
雨は午前まで。噴水は終日。露店で町が潤って、祭りの主役のはずの咎人は、路地裏行き。将が戦場を捌くような淀みのなさで、祭りが組み上がっていく。その采配の見事さと、簀巻きの扱いの軽さに、わたしは痺れて、笑った。
「結構ですわ。路地裏なら、酔っ払いの皆さまが、退屈はさせないでしょうし。——骨組みは決まりましたわね。あとは、この前代未聞のお祭りに、名前を」
彼は卓に頬杖をつき、少しだけ目を細めた。
「『腐敗のカクテルナイト』とし——締めに路地裏の執政官を引っ張り出して、清めて、赦してやる。どうだろう」
「腐敗の、カクテルナイト……」
口の中で転がすと、退廃と皮肉の香りが、舌の上にじわりと広がった。腐った権力者の上に、天から美酒が降りそそぐ夜。
「ぞくぞくいたしますわ。あなたという方の発想は、いつもわたくしの一歩先を行きますのね」
「簀巻きにされる執政官は、いわば神輿だ。人々の罪を代わりに背負わされた生贄、と見立てることもできよう。まあ、実際に罪を犯した奴ではあるんだが。それを許すことで、新たな再生が約束される。——という風に、何年かしたら後付でそれらしくなるだろう」
「まあ」
ただの悪ふざけが、この人の手にかかると、魂の浄化の儀式になってしまう。
「しかし、その始まりは単なる悪ふざけの思いつきなのであるという皮肉よ。——さて、あとは町への周知だな。誰がどう知らせる」
「ふふ。後の世の歴史家たちが真相を知ったら、どんなお顔をなさるかしら。——周知は、お任せくださいまし」
わたしは彼の頬に、指先をそっと添えた。
「先日の、夢の招待状。——あれを、町中に配って差し上げますの。一晩で、ヴェルナ中の枕元に、お告げを差し入れますわ。祭りの名と、日取りと、決まりごと。差出人は、なし。誰が始めたのかは、誰も知らない。——奇祭とは、そういうものでございましょう?」
「夢のお告げで始まる祭りか。縁起としては上等すぎるな」
「それから、かの執政官どのには——少しばかり、念入りな招待状を」
わたしは、にこりと笑った。
「『お前の罪は皆が知っている。当日、広場へ出でて清められよ』と。毎晩、毎晩、観念してご自分の足でいらっしゃるまで。——夢の中でなら、わたくし、いくらでも怖いお顔ができますのよ」
「お手柔らかにな。祭りの前に枯れ果てられても困る」
言葉とは裏腹に、彼の口元は、楽しみで仕方がないという形をしていた。
* * *
その日は、夜明けから、雨だった。
ただし、降っているのは水ではない。
城の露台から見下ろすヴェルナの空は薄く琥珀がかって煙り、雨脚が朝日を弾くたびに、町全体が淡い金色に光った。葡萄酒の雨である。仕込みは、昨夜のうちに済ませておいた。雲のひとつ手前に、目に見えない酒甕を浮かべるようなもの——種を明かせば他愛もないが、見上げる側には、天の気まぐれとしか映るまい。
風に乗って、歓声が届く。鍋を、桶を、両手の器を掲げて表へ駆け出していく人々の影が、屋根の谷間で豆粒のように躍っていた。
昨夜のうちに動いたのは、町の側も同じだった。連夜の夢責めに観念した執政官は、未明、青い顔で広場に現れて——お告げどおり待ち構えていた若い衆の手で——それはもう嬉々とした手際で——簀巻きにされたという。今ごろは手筈どおり、路地裏で出番を待っているはずだ。
もうひとつ、妙な報せがある。市壁の金は、同じ夜のうちに、執政官の蔵から市庁舎の階段へそっくり積み上げられていたという。お告げの主の仕業か、観念した本人の仕業か——町では、誰も知らない。あいにく、そこまでは命じていない。
彼は露台の手すりに肘を置き、眼下の騒ぎを満足げに眺めていた。
「つつがなく執政官をあぶり出し、つつがなく路地裏に転がし、つつがなく空から酒が降っている。——何もかも予定どおりだな」
「ええ。すべて、あなたの絵図のとおりに」
わたしはその隣に並んで、肩を寄せた。町ぜんたいが、彼の描いた一枚の舞台で、見事に役を演じている。
「午後には、雨を上げますわ。——わたくしたちも、降りてみませんこと? お客として」
「言われずとも。自分の祭りを見物しない仕掛け人があるか」
* * *
午後のヴェルナは、酒の匂いがした。
夜の継ぎ目を抜けて路地裏から大通りへ出た途端、湿った石畳から、甘い葡萄酒の香りが立ちのぼってくる。雨は約束どおり昼前に上がり、空は晴れて、軒先の雫だけがまだ琥珀色に光っていた。
広場は、人で煮えていた。
中央の噴水が、黄金色のエールを噴き上げている。泡の柱が日を弾き、その縁にずらりと並んだ人々が、器を構えて順番を待つ。脇には早くも露店が連なって、腸詰めを焼く煙と、塩漬け肉と、揚げ菓子の匂い。給仕の娘が盆を掲げて人波を縫い、どこかで誰かが歌い出し、別の誰かがそれに被せて音を外す。
「——『腐敗のカクテルナイト』にようこそ、ってな」
彼が、露店で買った腸詰めを片手に、上機嫌で囁いた。祭りの名は、もう町のものになっていた。すれ違う誰もが、まるで十年も前からそう呼んでいたような顔で、その名を口にしている。
噴水の縁では、赤ら顔の男たちが、早くも由来を論じ合っていた。
「なあ、この祭り、いつからあるんだ」
「知らねえのか。爺様の代からだよ」
「嘘つけ。夢のお告げだろうが」
「だから、そのお告げってのが、ご先祖様の声なんだとよ。罪を清めて春を呼ぶ、ありがたーい祭りなんだ」
わたしは思わず、隣を見上げた。彼も同じものを聞いていて、視線が合うなり、にやりと笑う。
何年かしたら後付でそれらしくなる——どころの話ではなかった。神話は、初日の昼下がりから、勝手に育ち始めている。
「歴史家の出る幕も、なさそうですわね」
「ああ。酔っ払いの仕事が早すぎる」
日が傾き、広場のあちこちに篝火が入るころ、人波が中央の高台へと寄り始めた。
いよいよ、締めの儀式である。
路地裏から、簀巻きがひとつ、若い衆の肩に担がれて運ばれてくる。蓑虫よろしく胴をぐるぐる巻きにされた執政官は、半日の路地裏暮らしですっかり観念したのか、暴れもせず、青白い顔で台の上へ据えられた。
広場が、しんと静まる。
執政官は群衆を見渡し、何度か口をぱくつかせて、ようやく、絞り出すように白状した。
「……し、市壁の金は……わたしが、この手で……。も、申し訳、ございませんでした……!」
どよめき。それから、誰かが叫んだ。
「法螺貝だ! 決まりどおり、吹かせろ!」
簀巻きのままの執政官の口元に、大ぶりの法螺貝があてがわれる。執政官は涙目で息を吸い込み——
ぶおおお、と。
世にも間の抜けた音が、広場の隅々まで響き渡った。
どっと、笑いが弾けた。怒号ではない。石も飛ばない。腹を抱えた笑い声だけが、夕暮れの広場を満たしていく。
「清めだ! 清めの水だぞ!」
手桶が、次々と運ばれてくる。雪解けの、よく冷えた清水である。最初のひと桶が頭から浴びせられた瞬間、執政官は「ひぃっ」と情けない声を上げ、二桶目で身をよじり、三桶目あたりからは——濡れ鼠のまま、なぜだか、どこか吹っ切れたような顔になっていった。
飛んでくるのは、水だけだった。泥も、腐った果実も、ひとつも交ざらない。お告げの決まりは、守られている。かける側が笑っているからだ。憎しみを叩きつける手つきではなく、悪友を川に放り込む手つきで、皆、桶を傾けていた。
やがて、最後の桶が空になると、誰からともなく声が上がった。
「——清まったぞ!」
「赦された! 赦されたぞ!」
縄が解かれる。執政官はずぶ濡れのまま、ふらつく足で立ち上がり——その手に、見物の婆さまが、湯気の立つ温葡萄酒の器を、ぐいと押しつけた。
「ほれ、飲みな。今日から、やり直しだよ」
広場ぜんたいが、沸いた。
……不思議な、眺めだった。
千年。人の世の筋書きは、ひとつも変わらないと思っていた。権力、金、裏切り、断罪。同じ芝居の、同じ幕引き。雨音の向こう側の、見飽きた喜劇。
けれど、いま目の前にあるのは、わたしの知らない幕引きだった。咎人が水を浴びて、笑われて、赦されて、温かい酒を持たされている。誰も血を流さず、誰の溜飲も下がって、明日にはもう町の語り草だ。罰したがったわたしの筋書きより、よほど——よほど、面白い。
隣を見上げた。
彼は群衆の頭越しにずぶ濡れの執政官を眺めて、悪戯の成った子供の顔で、笑っていた。
この男の隣では、千年見飽きたはずの人の世が、初めて見る顔をする。
「……人の世も、捨てたものではございませんわね」
「ん?」
「いいえ。——独り言ですわ」
* * *
夜が更けても、町は灯を落とさなかった。
噴水の酒は夜半に尽きる手筈だが、それまでは祭りの続きだ。広場の喧騒を背に、わたしたちは人気の絶えた裏通りを、ゆっくりと歩いていた。彼の外套の片側に半分くるまれて、酒の匂いの夜風が、火照った頬に心地よい。
「来年も、このお祭りはあるのかしら」
「さあな。——だが、あいつらの口ぶりだと、百年前からあったことになりそうだ」
「ふふ。では、仕掛け人のことも、百年も経てば、神様か何かに」
「名無しのままさ」
彼は、こともなげに言った。
「真紅の貴婦人と、怪盗ロイヤルキャッツと、赤ずきんと——それから、酒の雨。この町の不思議は、ぜんぶ出どころが同じだ。知っているのは、世界で二人きり」
「ええ。——二人きりの、秘密ですわ」
繋いだ手に、力がこもる。それだけで、充分だった。
静寂の月は、もう静寂ではない。来年からは、この月が巡るたび、町は今夜を思い出すのだろう。琥珀色の雨と、酒を噴く泉と、間の抜けた法螺貝と、赦されてやり直した咎人のことを。
そして——誰が夜にそれを運んだのかは、誰も、知らないままだ。




