密漁
冬が、来た。
ある朝を境に城の窓という窓は白く曇り、中庭の楢は最後の一葉も手放して、夜には雪が音もなく積もるようになった。
その晩、談話室に入ってきたシリウスが、扉口で足を止めた。
「……なんだ、これは」
暖炉の前に、見慣れない卓が据えてある。低い天板に厚い布団がぐるりと掛かり、裾がわずかに熱気で膨らんでいる。わたしはひと足先にその中へ膝まで潜り込んで、湯気の立つ茶を啜っていた。
「お入りになってごらんなさいな」
彼は手負いの獣でも検分するような足取りで近づき、布団の端をめくって手を差し入れ——目を見開いた。それから黙って向かいへ回り、どっかりと脚を沈める。長い息が、漏れた。
「これは古代の遺物か何かか? 悪くないじゃないか」
「ふふ。『こたつ』と申しますの。東方の島国の、冬の道具ですわ。昔——まだ城に籠もる前、旅先で見かけたものを、魔法で再現してみました」
「ほう」
「悪くない、どころではございませんでしょう? 一度入ると二度と出たくなくなる——人を駄目にする魔法の家具、とまで言われているのですよ。あなたも、お気をつけになって」
言いながら、布団の中で彼の手を探り当てた。骨ばった指が、当然のように絡め返してくる。暖炉の火と、卓の熱と、繋いだ手。雪の夜というものが、こんなにも上等だったとは。
「世の中には不思議なものもあるものだなあ。——ところでアステリア、蟹は好きか?」
「……蟹、でございますか?」
唐突なお尋ねだった。けれどその声には、聞き覚えのある企みの匂いがする。わたしはカップを置いて、ゆっくりと微笑んだ。
「ええ、好きですわ。硬い殻の奥に隠された、繊細で甘い身——手間をかけて手に入れるものほど、美味しいものでございましょう?」
「いい答えだ。昔、旅の途中で港町に寄ってな。そこで食った冬の蟹が、どうにも忘れられん。——だが、ここしばらくの荒天続きだ。漁師は港から出られんらしい」
「まあ。では、今年の蟹は諦めるよりほかに——」
「俺たちで密漁しないかい」
わたしは、まばたきをした。
彼は大真面目な顔で、布団に顎まで埋まっている。瞳だけが、悪戯の光で輝いていた。
「……密漁」
「密漁だ」
「あらあら」
笑いが、こぼれた。怪盗の次は、密漁ときた。この男は、わたしを退屈させるということを知らない。
「なんと胸の躍るお誘いでしょう。よろしくてよ。あなたと共に犯す罪ならば、どんな美徳より甘いに決まっておりますもの」
「そうこなくっちゃ。お互い、暇を持て余していた身だしな。——しかし、だ」
彼は、わざとらしく腕を組んだ。
「冬の海は冷たい。おまけに蟹は海の底にいる。さて、どうしたものかな」
白々しいこと。その横目は、明らかにわたしの力を試している。わたしはくすりと喉を鳴らし、名残惜しい温もりからすっと立ち上がって、手を差し伸べた。
「意地悪な方。——ご案内いたしますわ、海の底まで。冬の海の冷たさも、深い海の闇も、わたくしがおります限り、あなたに指一本触れさせません。あなたはただ、わたくしの隣で、特別な夜の狩りをお楽しみになればよろしいのです」
「流石、俺のかわいい奥さんだ」
差し出した手に、大きな手が重なった。
「ええ。——あなただけの、ね」
「で、いつ発つんだ。支度というものが……」
「ふふ、わたくしの夜に、支度は要りませんのよ。——その手、離さないでくださいましね?」
「ああ。……ん? まさか、今すぐか」
「今すぐ、ですわ」
彼が何か言うより早く、わたしは組んだ指に力を込め、夜の継ぎ目に手を掛けた。暖炉の灯が遠のき——視界が、白く弾けた。
* * *
暖炉の熱が、消えた。
代わりに頬を打ったのは、刃物のような潮風。耳を塞ぐ波音。足の下には硬い岩。振り向けば断崖が黒々とそそり立ち、目の前には、雪に煙る冬の海がどこまでも横たわっている。
「心の準備が!? ——ええい、ままよ!」
隣で彼が一瞬たじろぎ、すぐに腹を括った声を出した。こういうところが、好きだ。どんな無体に放り込まれても、二拍で楽しむ側に回ってしまう。
それから彼は、自分の身体を見下ろして、眉を上げた。
「……ん? この、やたらと張りつく服は」
「お気づきになりまして」
こたつでくつろいでいた部屋着は消え、彼の身体は首から爪先まで、黒い装束に包まれていた。鞣した革とも織物ともつかない、肌に吸いつく薄い布。わたしも、揃いの黒を纏っている。濡れることを前提に、魔力で編んだ装いだ。
彼の視線が、わたしの上を一往復した。薄い布は、線という線を隠さない。胸のかたちも腰のくびれも夜目にすら明らかで——その視線の熱に、波音の中、肌がちりりとした。
「種明かしは、後ほど。——さあ、参りますわよ」
わたしは波打ち際に立ち、空いた手を荒れる海へ差し向けた。
周囲の夜が、一段、深くなる。
ごう、と海が鳴いた。漆黒の水面が震えながら左右へ割れていく。波の壁がせり上がり、その狭間に、海底へと降りていく青白い光の道が、ゆっくりと姿を現した。
「…………」
彼が、言葉を失っている。千年に及ぶ生の中でも、この男にこういう顔をさせられる瞬間は、そう多くない。わたしは上々の気分で、その手を引いた。
「秘密の宴の始まりですわ。海の底の宝は今宵、あなたとわたくしだけのもの」
* * *
光の道へ、一歩。
左右に立つ水の壁は、磨いた硝子のように静止していた。壁の向こうを銀の鱗の群れがゆうるりと横切り、もっと深いところを、大きな影が滑っていく。頭上では割れた海の縁が遠ざかり、雪の空が、井戸の口ほどに細くなっていった。
「まさか、こんな方法で海の底を歩けるとはな」
彼は感嘆の声を上げ、それから、ふと首を傾げた。
「……ん? なら、この服はなんのためだ。道があるなら、濡れる心配もなかろう」
「ふふ。良いところにお気づきですこと」
わたしは繋いだ手を引いて、先へと歩を進める。
「わたくしの魔法とて、万能ではございませんの。この道は、わたくしの集中で保たれております。万が一——わたくしがほんの一瞬でも、心を乱してしまえば」
ちらり、と水の壁を見やった。
「道は崩れ、冬の海が牙を剥きます。その服は、そんな万が一からあなたをお守りする保険——いわば、わたくしの愛のかたちですわ」
悪戯っぽく、片目をつぶってみせる。むろん、そんな事態を招くつもりは毛頭ない。張り詰めたこの糸の細さこそが、今宵の狩りの、最上の薬味なのだから。
——そう、思っていた。
「万が一、ね」
彼が妙に楽しげに繰り返した、その時だった。
「例えば——こんな感じか」
布越しに、脚の付け根を指がゆっくりとなぞり上げた。同時に、耳元へ熱い息。
「ひゃっ……!?」
膝が、跳ねた。途端、足元の光がぐらりと揺らぎ、硝子の壁が大きく波打つ。壁の向こうの魚群が、驚いて四方へ散った。
「な、にを……! こ、このような場所で……! 道が、崩れますわ……っ」
「ほう」
彼は感心したような声を出して、指を離さない。耳朶を、吐息がもう一度撫でる。背筋を甘い痺れが駆け上がって、わたしは彼の腕に縋りつくのがやっとだった。
「さすがアステリア、大した集中力だ。——普段なら、これだけで吊り上げたばかりの魚みたいに跳ねて、のけぞって、嬌声を上げながら淫水を撒き散らすのになあ」
「な……っ」
頬が、燃えた。
「な、なんてことを仰います……! わたくしが、いつ、そのようなはしたない真似を……!」
「いつも」
「……っ、それよりも! い、今は蟹が先でございますわ! 早く参りますわよ!」
手を引いて、足早に道を下る。足取りが覚束ないのは、道のせいではない。たった二言で、女王の余裕をただの恋する女に変えてしまう。その事実が悔しくて——悔しいのに、装束の下では、肌のぜんぶが歓んでいた。
道は、ゆるやかに下り続ける。光は深みへ深みへと延び、やがて、遥か先の海底に岩場がぼんやりと見え始めた。岩の隙間で、何かが——たくさんの、節くれだった脚が、もぞりと動く。
「見えましたわ。あれが——」
「アステリア。胸が苦しそうだな。手伝おう」
振り向く間もなく、胸元に彼の指が掛かっていた。びり、と薄い布が裂ける。
「あっ……!?」
冷たい外気が、素肌を撫でた。青白い魔法の光の中に、隠すもののない白さだけが、ぼうと浮かび上がった。
「な、なにをなさいます……っ」
「服を少し緩めただけだ。俺は気にしないから、安心しろ」
「気にするのはわたくしですわ……! み、皆が見ておりますのに……!」
「皆?」
彼が、水の壁の向こうを見た。散っていた魚群が戻ってきて、硝子の向こうに、まるい目をいくつも並べてこちらを覗いている。
「……魚か」
「魚でも、ですわ……!」
咄嗟に胸を隠そうとした腕は、難なく彼の手に搦め捕られた。深い海の底、二人きりの光の中で、晒されている。羞恥に目の縁が熱い。なのに、それ以上の何かが、腹の奥で煮えはじめている。
「ついでだ。尻のほうも苦しそうだから、緩めておくか」
「ま、待っ——」
びり。
止める間もなかった。腰の布が裂け、最後に残った砦が、冷気と彼の視線の前に開かれる。外気に撫でられただけで、自分の体がとうに答えを出しているのが、分かってしまう。
「ぁ……い、いや……そこは……だめ、でございます……っ」
足元の光の道が、明滅を始めていた。波の壁が、ぐらり、ぐらりと厚みを変える。崩れる。本当に、崩れてしまう。なのに腰には力が入らず、わたしは彼の腕に縋って、潤んだ目で見上げることしかできなかった。
「お願いでございます……もう……魔法が、本当に……っ」
「アステリア、落ち着け」
彼は、ひどく真面目な顔で頷いた。
「息を分けてやる」
「……え?」
分ける場所が、違った。
彼はその場に膝をついた。——熱が、わたしのいちばん脆いところに、触れた。
「あッ——……!」
雷だった。腰から脳天まで白い火が貫いて、思考も視界も、何もかもが飛ぶ。
——ぷつり。
張り詰めていた糸の、切れる音がした。
光の道が消え、左右の壁が轟音とともに崩れ落ちる。冬の海のぜんぶが、一息に、わたしたちへ雪崩れ込んできた。
渦に揉まれ、上下が消える。骨まで凍る冷たさの中で、確かなものは、わたしを抱き寄せる腕、ただひとつ。
——失いたくない。
その一念だけで、わたしの指は闇雲に夜の継ぎ目を引き裂いた。どこへ、とも定めぬまま。
そして、意識が落ちた。
* * *
……ぱち、ぱち、と火の爆ぜる音がする。
「——アステリア。おい、アステリア。大丈夫か。……くっ、なぜこんなことに……」
重い瞼を開けると、岩の天井があった。傍らで流木の焚き火が燃えていて、その向こうに、心底心配そうな——それでいて、どこか白々しい——彼の顔。
「…………」
わたしはその白々しさを、しばらく無言で見つめた。
「な、なぜとは、その、つまりだな」
「……お心当たりが、おありでしょうに……」
「気にするな。海底探索に、危険はつきものだ」
「その危険は、今、わたくしの目の前で焚き火に当たっておりますわ」
彼が観念したように肩を竦め、それから、安堵の息を長く吐いて、わたしを抱き寄せた。骨が軋むほどの、抱擁。濡れた髪に頬擦りされて、文句の続きは、どこかへ行ってしまった。
ここは、海底の洞窟らしかった。波の音は遠く、空気は冷たいのに乾いていて、岩壁のところどころで、淡い燐光を放つ苔が息づいている。
「飲まれた瞬間……身体が勝手に、継ぎ目を裂いたようですの。行き先も定めず、ただ近くの安全な場所へ。——失いたくないと。それだけで」
「……そうか」
彼の手が、わたしの濡れた髪を梳いた。それから、ゆっくりと洞窟を見回す。その目には、もう好奇心の色が灯りはじめていた。
「ほほう。人跡未踏、か。——竜宮、かもしれんな」
「竜宮……?」
「東の島国の言い伝えだ。海の底に竜宮という宮殿があって、流れ着いた船乗りを、乙姫という姫君がもてなすそうだ。昔、港の酒場で聞いた」
「まあ、それは奇遇ですこと。——こたつと、同じお国のお話ですわ」
「なに、そうなのか。……ふむ。こたつと竜宮の国か。いい国に違いない」
「ふふ。では、その乙姫様がいらっしゃるかもしれませんわね」
くすりと笑い、それから、自分の姿を見下ろした。裂かれた胸元。裂かれた腰。我ながら、ひどい有様だった。
「……ですけれど、このような格好では、乙姫様に笑われてしまいますわ」
「安心しろ。笑うより先に、嫉妬する」
言い返す前に、震えを見抜かれた。継ぎ目を闇雲に裂いた反動か、体温を調える余裕が残っていない。裂け目から覗く肌は、とうに冷え切っている。彼は何のためらいもなく自分の装束の上半身を脱ぎ捨てた。
「凍えているな、アステリア」
「あ……」
背中から、抱き込まれる。焚き火に炙られた厚い胸板が素肌にじかに重なって、その熱さに、声が漏れた。
「あなたが、風邪を……」
「俺は頑丈にできてる」
「……そもそも、保険を裂いた方が悪いのですわ」
「だから今、掛け金を体で払ってる」
ぐ、と腕の力が増した。広い胸の中で、強がりの続きが溶けていく。冷えていたのは肌だけではなかったらしい。骨の芯で凍えていたものまで、彼の鼓動に温められて、ゆっくりと解けていった。
どれほど、そうしていただろう。
「……少しは、震えも収まったか」
耳元で、低い声がした。
「今日はもう帰るか。蟹は、また後日でも逃げはせんだろう」
優しい申し出だった。この腕の中で頷いてしまえば、温かい城と、こたつと、乾いた夜着が待っている。
けれど。
わたしは身体の向きを変え、彼と正面から向き合った。裂かれた胸元も腰ももう隠さずに、その首へ腕を回す。
「——せっかくの、竜宮でございますもの。少しだけ、見て回りませんこと?」
「ほう?」
「あなたが守ってくださるのなら、わたくし、どこへでも参りますわ」
「うーむ、そうか? では、少しだけ見て回るか。広すぎるようなら、出直すからな」
口ぶりだけは渋々だった。けれどその目は、もう洞窟の奥の暗がりへ向いて、子供のように輝いている。本当は、誰よりも見て回りたかったくせに。
* * *
手を取り合って、奥へと歩き出した。
燐光の苔が、足元をぼんやりと照らしている。空気は冷たいのに不思議と澄んで、嫌な湿りがない。大きな手に引かれて暗がりを行くと、世界の果てまでこのまま歩いていけるような気がした。
「それにしても——急所だけ剥き出しの装束、か」
彼が、隣でしみじみと呟いた。
「誰かに遭遇したいような、したくないような」
「もうっ……! 仰らないでくださいまし……!」
頬が、また熱くなる。胸と、腰。裂かれたところから覗くものを燐光が薄青く照らしているのは、自分がいちばんよく知っている。もし誰かに見られたら。想像だけで肌が粟立って——その震えの底に、ぞくりと甘いものが混ざるのを、わたしはもう誤魔化せなかった。
だから、繋いだ手に力を込めて、彼を見上げた。
「……もし、本当に誰かに見られてしまったら——その時は、あなたが、お守りくださるのでしょう? わたくしを、他の誰にも、触れさせないと」
挑発であり、おねだりだった。答えなど、分かっているのに。
「当然だ」
即答だった。
「お前は俺だけのものだからな。誰にも見せてたまるもんか」
——ああ。
欲しかった言葉が、欲しかったとおりの強さで、降ってきた。背骨を甘い痺れが駆け抜けて、足が止まりそうになる。俺だけのもの。誰にも見せない。たったそれだけの言葉が、こんなにも。
「……はい」
声が、震えた。
「わたくしは、あなただけのもの。……ふふ。存外、欲深くていらっしゃるのね」
「海の底まで密漁に来る男だぞ。今更だ」
繋いだ手の甲に、唇を寄せた。歩きながら、笑いが止まらなかった。幸福というのは、時々、笑いと区別がつかない。
——そうして、しばらく。
「しかし、何もないな。肩透かしか」
代わり映えのしない岩壁に、彼が首を回した。
「蟹は諦めて、ぼちぼち帰るか」
「そうですわね——あら」
言いかけて、わたしは足を止めた。通路の先、闇の奥で、何かが淡く、青白く明滅している。
「あなた、あれを」
「光……? ここは確かに海底なんだよな。……面妖な」
彼の声に警戒が一拍だけ滲み、すぐに好奇心がそれを塗り潰した。繋ぐ手に力がこもり、彼が半歩、わたしの前へ出る。何が出ようと、まずは自分が受ける——そういう半歩だった。
* * *
光へ近づくにつれ、空気が変わっていった。冷たさはそのままに、ぴんと張り詰めて、清い。肌で分かるほど濃い、けれど少しも禍々しくない魔力が、満ちている。
通路が開け——わたしは、息を呑んだ。
巨大な、丸天井の広間だった。見渡す限り、天井は無数の光る結晶に覆われ、暗い水色の天蓋に星をちりばめたように瞬いている。中央には人の背丈の何倍もある水晶柱がそびえ、それ自体が、心臓のようにゆっくりと明滅していた。柱のまわりを、見たこともない色の魚たちが、夜空を泳ぐようにゆったりと舞っている。
海の底に、星空があった。
しばらく、二人とも、何も言えなかった。
やがて、わたしは隣を見た。水晶の光に照らされた彼の横顔が、まっすぐに天蓋を見上げている。——わたしの夜には、もっと近いところに星がひとつある。見上げなくても、手を伸ばせば届くところに。
「これは……」
彼が、低く唸った。
「人の手が入っているようにも見えるし、自然そのものにも見える。……あの言い伝えの原典は、存外、ここだったのかもしれんな。竜宮ってのは」
「ええ。これほどのものは、人の手だけでは、決して」
わたしは一歩、奥へ踏み出して——ふと、足を止めた。
知っている。この、清く張り詰めた空気。空間そのものが息をしているような、静かで巨きな魔力の脈。よく、知っている。
「……どうした」
「……いえ。——似ておりますの。わたくしの一族の、霊廟に」
「霊廟?」
「ええ。一族の始祖たちが眠る、古い古い場所が……遥か西の、森の奥深くに」
水晶柱の鼓動が、ひとつ、またひとつ、ゆっくりと明滅する。あの場所の祭壇も、こんなふうに光っていた。最後に訪れたのがいつだったか、もう思い出せない。一人では、最奥まで行けなかったことだけを、覚えている。
「……いずれ」
気づけば、口にしていた。
「いずれ、あなたを、お連れしたい場所がございますの」
彼は、すぐには答えなかった。ただ、繋いだ手を一度だけ、強く握り返した。
「楽しみにしておく」
それだけ言って、また天蓋を見上げる。それで、充分だった。問い詰めもせず、軽口にもせず、約束だけを受け取って仕舞う。この男のこういうところに、わたしは、何度でも負けるのだ。
太古の海の民が神々の力を借りて築いたのか。それとも海そのものが、永い時をかけて結晶させた夢なのか。答えてくれる者はいない。ただ星の天蓋の下、魚たちの舞いだけが、音もなく続いていた。
「蟹の密漁が、思わぬ大物に化けたな」
やがて彼が、満足げに息をついた。
「——しかし、そろそろこたつが恋しくなってきた」
「ふふっ、本当に。あなたとご一緒ですと、ただの蟹獲りも、こんな冒険になってしまうのですもの。——帰りましょうか。わたくしも、あなたと入るこたつが、恋しくなってしまいました」
組んだ指の先で、夜の継ぎ目に手を掛ける。今度は、静かに、確かに、開いた。
* * *
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「ただいま、と」
彼は勝手知ったる足取りでこたつへ直行し、布団の中へ脚を滑り込ませた。わたしも、その隣へ。継ぎ目を抜けるあいだに、裂けた装束は乾いた部屋着に替えてあった。卓の熱が、海の名残の冷えを爪先から溶かしていく。彼が二つの杯に温めた葡萄酒を注ぎ、片方をこちらへ寄越した。
「いや、大冒険だった」
杯を片手に、しみじみと総括が始まる。
「海底散歩に、忘れられた竜宮。——それから、あられもないお姿の女王様、か」
「……っ、もうっ……!」
杯を、危うく取り落とすところだった。頬に火がつく。あの夜気の冷たさと、視線の熱を、肌が勝手に思い出してしまう。
「あ、あれは……あなたが、なさったことではございませんかっ」
「俺は服を緩めただけだ」
「世間ではあれを、破く、と申しますの……!」
彼が、声を立てて笑った。憎らしい。憎らしいけれど——わたしは杯を置いて、布団の中で、そっと彼の腿に手を滑らせた。
「……ですけれど」
上目に、見上げる。
「あなたに見ていただけるのでしたら、わたくしは——いつでも」
杯を持つ彼の手が、止まった。
布団の下で、大きな手がわたしの手首をやんわりと捕まえる。引き寄せられて、肩が触れた。耳元に、低い声。
「——人を駄目にする魔法の家具、と言ったな」
「……ええ」
「なるほど。確かにこれは、当分出られそうにない」
「ふふ……あら。ご存じありませんの?」
布団の中で、彼の腕にそっと身を預ける。
「竜宮の言い伝えには、続きがございますのよ。——乙姫に気に入られた殿方は、二度と、陸へはお帰りになれないのですって」
「……そんな話だったか?」
「そういうお話に、いたしましたの」
囁きは、唇が触れるほどの近さで。
「——もう、お帰しいたしませんわ」
その夜、わたしたちは、人を駄目にする家具の本当の使い道を、布団の中でゆっくりと検分した。
窓の外では、雪が夜通し降り続いていた。
——冬の海の底で、蟹たちは、当分のあいだ安泰である。




