麦酒祭
数日後の朝、シリウスが紙面を睨んで唸った。
「——『痴女ずきん』が街に降臨した影響で、風紀関連の記事が続くな」
「……今、何と仰いまして?」
「痴女ずきん。速報紙の命名だ。品がないにも程があるが」
彼が紙面をこちらへ向けた。三流の速報紙らしい煽り文句が躍っている。曰く、ハロウィンの夜以来、酒場街に深紅のフードの婦人が複数目撃され、紳士諸君の理性が危機に瀕している。曰く、風紀の番人たちは頭を抱えている——。
わたしは紅茶のカップをソーサーに戻し、くすりと笑った。
「まあ。わたくしの模倣犯が、そんなに」
「喜ぶところか、そこは」
「光栄ですわ。それだけ、わたくしの赤ずきんが衝撃的だったということでしょう」
悪びれる気は、毛頭なかった。むしろ誇らしい。わたしは席を立って彼の隣へ移り、その肩に、こてんと頭を預けた。紙面を一緒に覗き込む。深紅のフードを真似た婦人の挿絵は、本物には似ても似つかなかった。
「殿方たちが理性を失うのも、無理はございませんわ。本物の『ご馳走』がどのようなものか、垣間見てしまったのですもの。——けれど、本当にそれを味わえるのは、世界でただお一人」
「その一人は、毎朝この調子で胃もたれ気味だがな」
「あら。ご馳走に文句を仰る狼さんには、お預けという躾もございましてよ」
彼が紙面の陰で笑った。それから、ふと真顔になって、こちらを見る。
「しかし、考えてみればだ。——真紅のドレスの貴婦人と、怪盗ロイヤルキャッツと、謎の赤ずきん。この三人が全部同じ女だと、この街はいつ気づくんだろうな」
「ふふ」
わたしは肩に頭を預けたまま、目を細めた。仮面舞踏会の社交欄。怪盗の号外。そして今度の、品のない徒名。切り抜きと形見は、みんな同じ小箱と棚に収まっている。
「気づいたところで、誰も信じませんわ。——それに、たとえ街中が気づいたとして、何の不都合がございまして? 舞台の下の方々にできるのは、ため息をつくことだけ。そのすべてを独り占めなさっているのは、あなたただお一人ですのよ」
「……末恐ろしい奥さんだ」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
シリウスは紙面をめくり、催し物の欄で手を止めた。
「冬至の前には、連中の頭も火照った体も冷えるだろうさ。——だがその前に、もう一つ祭りがある。ほら、これだ。麦酒祭」
「ビアフェスト、ですわね」
「収穫を祝って、広場に樽と長卓を並べて、夜まで飲む。給仕の娘たちが、ああいう——胸元を紐で編み上げた祭り衣装で、馬鹿でかいジョッキを運ぶやつだ」
「…………」
「ん?」
「わたくしをこの距離に置いて、他の娘たちの衣装の話を、ずいぶんと楽しそうになさいますのね」
わざと唇を尖らせて、彼の腕を軽くつねった。彼は痛がるそぶりもせず、にやりと笑う。
「妬いたか」
「妬いてなどおりません。——ただ、試したくなったのではなくて? わたくしがあの衣装を着たら、どうなってしまうのか」
「そんなに下心が顔に出ていたか?」
即白状だった。呆れて笑うしかない。
「ところでだ、アステリア。前々から思っていたんだが——俺は、君が酔ったところを見たことがない」
「…………」
「葡萄酒も火酒も、涼しい顔で空ける。一度くらい、泥酔した君というものを拝んでみたいんだがな」
「あら」
わたしは身を起こし、胸を張った。
「このわたくしが、人間の造ったお酒くらいで、我を忘れるとお思い?」
「なら、確かめよう。今夜——いや、祭りは三日後か。当日は本気で飲もうじゃないか。言っておくが」
彼が指を一本、立てた。
「解毒の類の魔法は禁止だぞ。酔いを散らすのも、回りを遅くするのもなしだ。酔うために行くんだからな」
「まあ、念の入ったこと。よろしいですわ。——どちらが先に沈むか、勝負ですわね」
受けて立った。受けて立ってから、ほんの少しだけ、考えた。酔ったわたしが、どうなるのか。——実のところ、わたし自身も、知らないのだった。
* * *
衣装は、ロザリンドに頼んだ。
今度は、わたし一人で工房を訪ねた。彼には当日まで見せない。驚きが減る、というのは、あの男自身の言い分だ。
「あら」
ロザリンドは針を持つ手も止めずに、ちらりとこちらを見た。
「麦酒祭ね」
まだ、注文を口にしてもいない。
「……ええ。給仕の衣装を」
「ふぅん」
針が、布の上をすいと走る。
「主人は、当日まで見ないそうです」
「あらあら」
ロザリンドはそこで初めて手を止め、眼鏡の奥で愉快そうに目を細めた。
「飼い慣らしてきたわね、あの狼を」
「……どちらが、でしょうね」
「両方よ。それが一番上等なの」
寸法の話は、今度も出なかった。三日後の昼に取りに来い、とだけ言って、職人は赤い糸を針に通した。
* * *
祭りの当日、日が傾いた頃。
支度を終えて広間に降りると、暖炉の前でシリウスが待っていた。足音に振り返って——そのまま、止まった。
深い赤の胴着が、胸元で紐に編み上げられている。白いブラウスの袖はふくらみ、肩を浅く滑り落ちる仕立てだった。裾は膝の上で軽やかに揺れ、白いエプロンが腰の細さを際立たせる。銀の髪は、今夜は編んで片側に流した。祭りの娘の髪型だ。鏡の前で、自分でも見慣れなくて、少し笑ってしまった。
「……どうかしら」
「今夜は長い夜になりそうだ」
彼は額に手を当てて、天井を仰いだ。
「ロザリンドのやつ、ドスケベ衣装縫製罪でしょっ引かれんか心配だよ」
「あら。あの方はただ、依頼主の欲望を形にする芸術家ですわ。罪があるとすれば——」
わたしは彼に歩み寄り、乱れてもいない襟元を、指先でそっと直した。
「それを望み、着こなしてしまう、わたくしの方でしょう?」
「自首を勧める。俺が連行しよう」
「祭りの後で、いくらでも」
* * *
ヴェルナの中央広場は、麦酒の匂いがした。
長卓が何列も並び、樽が山と積まれ、魔灯と松明が混ざって揺れている。楽隊が陽気な曲を鳴らし、ジョッキのぶつかる音と笑い声が、晩秋の夜空へ立ちのぼっていた。
わたしたちが卓のあいだを進むと、近くの席から順に、会話が一拍ずつ遅れた。給仕の娘たちが振り返り、自分の衣装とわたしのそれを見比べて、悔しそうな顔をする。男たちはジョッキを持ったまま固まっている。
「『狼が来たぞ』と叫ぶ少年の話があったな」
シリウスが、わたしの腰に手を添えたまま、涼しい顔で言った。
「俺の場合は逆だ。——『赤ずきんが来たぞ』と叫んで回れば、この広場の麦酒が全部売れる」
「お静かに、狼さん。今夜のわたくしは、ただの給仕ですわ」
「給仕が客の腕にぶら下がるか」
「上客には、特別なのです」
空いた長卓の端に、向かい合って座った。給仕の青年がおそるおそる注文を取りに来る。わたしはにこやかに、一番大きなジョッキを二つ、指で示した。
運ばれてきたそれは、両手で持つほどの大きさだった。ずしりと重く、硝子の肌が冷たい。黄金色の中で、白い泡が静かに沈んでいく。
「念のため、もう一度言うぞ。魔法は——」
「使いませんわ。この身ひとつで、受けて立ちます」
ジョッキを持ち上げた。彼も持ち上げる。
「では、勝負ですわ。——どちらが先に、沈むか」
「乾杯」
硝子が、かちん、と高く鳴った。
一息に呷る。冷たい。苦い。喉の奥を、炭酸の粒が転がり落ちていく。——葡萄酒とは、まるで別の生き物だ。
「……悪くない、ですわね」
「だろう。祭りの夜は、これに限る」
卓には香ばしい腸詰めと、岩塩の利いた揚げ芋が並んだ。脂と塩と麦酒。野趣の極みのような取り合わせが、悔しいほどよく合う。楽隊の曲が変わるたび、どこかの卓で合唱が起こり、ジョッキが打ち鳴らされる。
二杯目が、空いた。
三杯目の途中で、頬が熱いことに気づいた。火照りが、耳の先まで及んでいる。視界の端が、ほんのり柔らかい。
「アステリア。無理は禁物だぞ。早めに負けを認めるのが潔さというものだ」
「あら……ご心配いただけるなんて」
舌が、ほんの少し、もつれた。慌てて姿勢を正す。
「随分と、見くびられたものですわね。潔さ? 存じませんわ、そんなもの。——あなたの前では、最後まで見苦しくあがく女でいたいのです」
「言うじゃないか」
彼のジョッキも、確かに空くのが遅くなっている。額にうっすら汗。いい気味だ。わたしは四杯目を呷った。
気づけば、周りの卓も騒がしい。給仕の身なりの女が大ジョッキを事もなげに空けていくのに当てられたのか、負けじと張り合う男たちが、あちこちで無謀な乾杯を繰り返していた。
その時、隣の卓から声が流れてきた。
「——だからよ、ありゃ絶対サキュバスだって。ハロウィンの赤いの」
「馬鹿、俺は姫君だと聞いたぜ。お忍びの」
「どっちでもいい、もう一度拝みてえなあ……」
わたしは、ジョッキの陰で笑いを噛み殺した。卓の向こうでシリウスと目が合う。彼は素知らぬ顔で腸詰めを齧り、それから、唇の形だけで言った——本人は隣の卓だぞ、と。肩が震えて、麦酒がこぼれそうになった。
五杯目が、卓に置かれた。
巨大な黄金色の壁を前に、シリウスが長く息を吐いた。それから、両手を軽く上げた。
「ぎ、ぎぶあっぷ。……いや、待て。お前ももう限界だろう。ここは引き分けとしようじゃないか。いやあ、よく頑張った。立派なもんだ」
「あら、あらあら……」
笑いが、勝手に零れた。完全な降参ではなく、わたしの体面まで抱き合わせた、引き分けのご提案。なんて愛らしい白旗だろう。
「とうとう音を上げなさったのね……ええ、ええ、よろしいでしょう。あなたがそこまで仰るのなら、この勝負——特別に、引き分けにして差し上げますわ」
女王らしく、鷹揚に、そう宣言して。
立ち上がった瞬間、世界が大きく傾いだ。
「……あら?」
石畳が斜めになる。慌てた彼の腕が伸びて、わたしの体は、まっすぐその胸へ倒れ込んだ。火照った頬に、硬い胸板。笑い声が、自分の口から、ふわふわと漏れていく。
「……本当は、ね。わたくしも、もう……限界、でしたの……」
「知ってた」
「ふふ……お優しいこと……」
* * *
帰りは、転移のはずだった。
彼の腕に支えられて広場の外れまで歩き、いつものように指を組んで、魔力を練る。——練ろうと、した。
「……あら」
「どうした」
「継ぎ目が……見つかりませんわ……」
夜の継ぎ目。いつもなら指先でこじ開けられるそれが、ふわふわと泳いで、どうしても掴めない。何度か指を鳴らしてみた。火花ひとつ、散らなかった。
シリウスが、堪えきれずに噴き出した。
「泥酔すると、魔法も使えんのか。こいつは計算外だ」
「け、計算外なのは……わたくしの方ですわ……」
「よし。なら歩いて帰るぞ。——ほら」
彼が、両腕を広げてみせた。一瞬迷って、それから、その広い胸に身を預けた。腕が背と膝の裏を掬い、世界が持ち上がる。
夜道を、彼は歩いた。
遠ざかる楽隊の音。魔灯の残り。晩秋の夜気が火照った頬に心地よくて、わたしは彼の肩口に顔を埋めた。歩調に合わせて、ゆらり、ゆらりと揺れる。揺り籠というのは、きっとこういうものだ。
途中、石畳の段差で、彼が一度よろけた。
「おっと」
「……落としましたら、一生、根に持ちますわよ……」
「肝に銘じる」
くすくすと、笑いが止まらない。何が可笑しいのかも、もう分からない。ただ、温かくて、揺れていて、麦酒と彼の匂いがして。
「……ねえ、あなた……」
「ん」
「まほうなんて……いりませんわ……」
呂律の溶けた舌で、それでも、それだけは言っておきたかった。
「あなたの腕の中が……いちばん……素敵な、まほう、ですもの……」
彼の足が、半歩だけ、止まった。
それから、何も言わずに、また歩き出した。——腕の力だけが、少し、強くなっていた。
城までの長い夜道を、わたしは世界で一番上等な揺り籠の中で、うとうとと運ばれていった。
* * *
翌朝は、日が高くなってから目が覚めた。
頭の芯に、鈍い重さが居座っている。これが二日酔いというものか。魔人の身には、初めての痛みだった。——悪くない、とは言わないが、嫌いでもなかった。隣ではシリウスが健やかな寝息を立てていて、その顔にも、ゆうべの酒がまだ少し残っている。
遅い朝食は、温かいスープにした。
焼き直したパンと、果物と、湯気の立つ皿。呷るのではなく、すするための食卓だ。シリウスはスープを一匙飲んで、心底うまそうに息をついた。
それから、畳んであった週刊紙を広げて——にやりとした。
「今年のビアフェストは、例年より泥酔者が多発したそうだ。その数、参加者のおよそ半分。……心当たりが、あるような、ないような」
「まあ。半分も」
わたしはスプーンを止めて、さも驚いたように目を丸くしてみせた。
「大変な賑わいでしたのね。わたくしどもは、少しばかりお酒の勝負を楽しんだだけですのに」
「その勝負の片割れを、俺は抱えて帰ったんだがな」
「あら。殿方の甲斐性というものですわ」
彼が紙面を畳んで、卓に頬杖をついた。目が、笑っている。
「俺だけでなく、会場の男どもまで巻き込んで酔わせるとは、悪い奥さんだ。——だが」
声が、少しだけ低くなった。
「泥酔して、隙だらけで、俺の腕の中で笑っていた君も——悪くなかった」
頬に、ゆうべとは別の熱が上った。
「……わたくしが隙を見せるのは、世界でただお一人、あなたの前だけですわ。それで——いかがでした? 何もかも預けてしまった、だらしのないわたくしは」
「定期的に拝みたい。次の祭りはいつだ」
「ふふ。お酒に頼らずとも——」
言いかけたところで、シリウスが、わざとらしく咳払いをした。
「ところで、一つ心残りがあってな」
「心残り?」
「ゆうべは君を運ぶので手一杯で——あの祭りの衣装に、ほつれや傷みがないか、点検する暇がなかった」
……点検。
わたしは、笑いを堪えるのに少しかかった。ナプキンで口元を押さえ、それから、静かに席を立つ。彼の椅子の傍らまで歩いて、その耳元に、唇を寄せた。
「ご安心くださいまし。衣装でしたら、昨夜のうちに綺麗にして、衣装チェストに仕舞ってございますわ」
「……そうか」
「——それとも」
指先を、彼の襟元へ滑らせる。
「点検なさりたいのは、本当に、衣装だけ?」
椅子が、鳴った。
遅い朝食は、すっかり冷めてしまった。——温め直す魔法を使う気には、どちらも、なれなかった。
窓の外では、楢の最後の一葉が、風に攫われていった。冬が、もうすぐそこまで来ている。けれど毛布の中も、この城も、当分のあいだ冷える心配はなさそうだった。




