赤ずきん
晩秋の朝は、音が少ない。
楢の林はあらかた葉を落とし、裸の枝が白い空に細い線を引いている。窓硝子の下の方に、夜のうちに降りた霜が溶け残っていた。食堂の棚では、獅子の心臓のルビーが、花祭りの硝子細工の隣で鈍く赤い。
向かいの席で、シリウスが週刊紙を広げていた。
「ほう。——もうそんな時期か」
彼が紙面をこちらへ回した。大きな挿絵が載っている。歯を刻んだカボチャの提灯。その下で、奇妙な扮装の人々が踊っていた。——昨年の様子を描いた、祭りの到来を報せる特集らしい。
「ハロウィンですわね」
わたしは紅茶のカップを置いた。何度も見てきたはずの祭りだ。窓の外の遠い灯りとして、毎年、秋の終わりに街がざわめくのを知っていた。——それが今は、紙面の上で、近い。
「仮装をして、夜通し騒いで、お菓子をねだる……子供じみたお祭りですけれど。ふふ、興味がおありですの?」
「ある」
即答だった。
「それで、考えていたんだが——君に着てほしい衣装、というやつをな。舞踏会の赤いドレスも見たし、怪盗の闇の衣も見た。……こいつは存外、難問だぞ」
パンを千切る手を止めて、彼は本気で唸っている。
——覚えている。あの赤を選んだ夜のことも、紐の一本まで指定した衣のことも、この男は全部覚えていて、その上で次を考えている。わたしは視線を逃がした。その先で、棚の上のルビーが、妙に赤かった。
「……そんなことまで、覚えていてくださったのですね。——お望みなら、どんな姿にでもなりますわ。どれほど、恥ずかしい格好でも」
言ってしまってから、耳の先まで熱が走った。けれど、本心だった。
「頼もしい奥さんだ。それで、だ。仮装には流行りがあるのか」
「魔女、悪魔、狼男……古くから伝わる、恐ろしいものに扮するのが定番ですわ。それから——千年を生きる、女王様」
言ってから、喉の奥で笑いが鳴った。
「安っぽい黒衣を纏って、骨の杖を振り回して、女王気取りで練り歩くのです。滑稽ですわよね。——本物が、ここにいるというのに」
自嘲のつもりだった。だがシリウスは笑わなかった。
「だめだ」
「……はい?」
「偽物の女王なんぞ、君に着せるものか。連中の猿真似より、いつもの君の方が千倍いい」
真顔だった。わたしは言葉に詰まって、カップに口をつける。——湯気が、頬の熱を少しも隠してくれなかった。
「だから、こうしよう」
彼が紙面を畳んだ。
「俺は——赤ずきんの、狼でいい」
一拍、置いて。
意味が、染みてきた。
「……では、わたくしが」
「ああ。赤ずきんだ。——ただし、童話のままじゃない。街の誰も見たことのない、大人の赤ずきんだ。セクシー担当の本領発揮といこうじゃないか」
「まあ」
声が、勝手に甘くなった。狼に食べられに行く娘の役を、この男の隣で。想像しただけで、フードもないのに、頬を隠したくなる。
「ですが、狼さん。そんなにあっさり食べられて差し上げると思ったら、大間違いですわよ」
「望むところだ。狼はグルメでな。——食べごろになるまで、いくらでも待つ」
「あら。では、当日は我慢比べですわね」
「ああ。我慢比べだ」
二人して、しれっと紅茶を飲んだ。卓の下で、戦は始まっていた。
* * *
朝食の皿が下がって、食堂に静かな光だけが残った頃だった。
ふと視線を感じて顔を上げると、彼がこちらを見ていた。さっきまでの遊びの色が、目から引いている。
「……なあ、アステリア」
シリウスの声が、ふいに低くなった。
「たとえ君が、この美しさを持たない——ただの石ころだったとしても。俺は君に恋をしていたと思うよ。こんなに一途な奥さんは、何度生まれ変わっても、二度と見つからん」
息が、止まった。
石ころ。
——この男は、知っているのだ。この城が長いあいだ石の棺だったことを。その棺の中で、わたしの心が、冷たく凍って、石になっていたことを。美しさも、力も、永い歳月も関係なく、その石ころのままで、と。
目の縁が、熱い。
堪える間もなかった。雫が頬を伝い、卓の上にぽつりと落ちた。一粒。二粒。止まらなかった。
「——っ、すまん。泣かせるつもりは」
シリウスが腰を浮かせる。わたしは首を振った。振りながら、笑っていた。涙と笑いが、同じ場所から溢れてくる。
「……あなたが、仰ったでしょう」
声が震えた。
「嬉し涙以外は、流して欲しくないと。——これは、お許しの出ている涙ですわ」
彼が、息を呑む気配がした。あの霧の森の、泉のほとり。どんぐり一つでわたしを笑わせた男が、自分の言葉を思い出している。
立ち上がった彼の腕が、椅子からわたしを掬い上げた。気がつけば、彼の膝の上にいた。軽々と抱え込まれて、広い胸に頬が触れる。とくん、とくん、と心臓が鳴っている。
「八百年——」
わたしは、その鼓動に向かって囁いた。
「石のように凍てついていた、わたくしの心を。あなたの言葉だけが、溶かすのです」
「…………」
「わたくしは今、世界で一番幸せな、石ころでございますわ」
彼の掌が、わたしの頭をゆっくり撫でた。何も言わない。言葉の代わりに、腕の力が少しだけ強くなった。
その日は、結局、どこへも行かなかった。
衣装の相談も、街の話も、明日に置いた。暖炉の前で、彼の膝の上で、本も読まずに過ごした。彼の指が銀の髪を梳く。火が爆ぜる。それだけの一日だった。
夜は、熱を交わさなかった。ただ肌を合わせて、彼の寝息を聞く。何も起きない夜が、こんなにも満ちるものだとは、知らなかった。
* * *
翌日の昼、ヴェルナの裏通りに飛んだ。
看板のない木の扉に、金の糸巻き。押し開けると、布と蜜蝋の匂いがして、奥からロザリンドが眼鏡越しに顔を上げた。
「あら」
針を置いて、わたしと、後ろのシリウスを見比べる。
「今度は、何の物語かしら」
「赤ずきんを」
わたしが言うと、ロザリンドの眉が片方だけ上がった。
「赤ずきん。——狼に食われにいく娘の話ね」
一言で、本質に届いた。それから、唇の端がゆっくり持ち上がる。
「ハロウィンの夜に、大人の赤ずきん。……ふぅん」
それだけ言って、彼女はもう立ち上がっていた。引き受けるかどうかの返事は、ないらしい。——頭の中で、もう縫い始めている顔だった。
「寸法は——」
「要らない」
ロザリンドは自分のこめかみを、指でとん、と叩いた。
怪盗の衣の夜から、ひと月も経っていないのに。この職人の頭の中には、わたしの肩の線も腰の括れも、寸分違わず仕舞われているらしい。
「条件がある」
シリウスが壁から身を起こした。
「マダム。うちの素材は良すぎる。俺が城を出るまで我慢できる程度に、手加減を頼みたい」
「お断りよ」
即答だった。ロザリンドは艶やかに笑った。
「素材が至高であるほど、腕が鳴るの。——街では品位。扉の内では」
そこで、やめた。
「着れば、分かるわ」
手はもう、棚の反物へ伸びている。深い、深い赤。血よりも暗く、葡萄酒よりも重い赤。
「互いのためだけの一着。——そういうのが、一番業が深いのよ」
「細工の中身は、当日まで俺は見ない。驚きが減る」
「いい客になってきたわね」
ロザリンドは満足げに頷いて、それから、ふとわたしを見た。眼鏡の奥の目が、すっと細くなる。
「素肌に、直に着るのよ。今回は訊かないわ。——童話の娘に、余計な布は要らないもの」
「なっ……」
先回りで断定された。目の奥に、熱が集まる。隣でシリウスが、声を出さずに肩を揺らしていた。
「……ええ。直に」
「了解。三日後の夕方、取りにいらっしゃい」
糸切り鋏が、ちゃきり、と鳴った。それが商談成立の音だった。
* * *
三日後の、夜。
寝室の姿見の前で、わたしは自分を見ていた。
深紅のシルクが、肌の上を滑っている。胸元は黒いレースが縁取り、編み上げの紐が谷間を深く飾っていた。腰を細く締める仕立てが、体の線を残らず描き出す。裾は——膝にすら届かない。黒い絹の長靴下が腿の半ばまでを覆い、それを吊る飾り紐が、歩くたび、裾の影でちらりと覗く造りだった。
素肌の上に、直に。布と肌のあいだに、何もない。
「……これは、確かに」
頬が熱い。
「街の風紀が、乱れますわね……」
けれど——下品では、なかった。立っているかぎり、際どい場所はすべて深紅の影に落ち、動けば一瞬だけ、危うさが覗く。覆って、見せる。あの職人の言った通りの衣だった。
最後に、揃いの深紅のフードをそっと被った。顔の半分が影に落ち、銀灰の瞳だけが、鏡の中で光っている。
扉の向こうから、声がした。
「赤ずきんちゃん、支度はまだかい」
芝居がかった、低い声。わたしは喉の奥で笑って、扉を開けた。
廊下に、狼が立っていた。
黒ずくめの体に、灰色の毛皮の襟巻き。額の上に、木彫りの狼の半面を上げている。簡素な拵えだ。なのに——様になっていた。肩幅も、顎の線も、目の光も、扮装の方が男に追いついていない。
当然だ。天狼の名を持つ男が、狼のふりをしているのだから。なんという贅沢な冗談だろう。この男にとって、それは扮装ですらない。
その目が、わたしを上から下へ、ゆっくり辿った。
「……オオカミさんは、早くも我慢が難しくなってきたぞ」
「あら、狼さん」
わたしはフードの影で微笑み、その場でくるりと回ってみせた。短い裾がふわりと舞い、黒い長靴下の縁が一瞬だけ覗く。
「そんなに早く理性をなくしては、物語が始まりませんわ。——わたくし、これからおばあ様のお見舞いに参りますの。森の道は危ないと聞きましたわ。酒場街まで、護衛してくださいませんこと?」
「仰せのままに。——ただし、道中の安全は保証するが、君の貞操までは保証せん」
「まあ、物騒な護衛」
彼の腕を取った。転移の呪を編む。
子供たちの祭りの通りではなく——わたしたちが降りたのは、ヴェルナの北、酒場の連なる大人の盛り場だった。彼が、そう指定したのだ。この格好を、子供らの目に触れさせないように。その思慮の置きどころが、たまらなく、この男らしかった。
* * *
盛り場は、別の祭りだった。
軒先のカボチャ提灯。仮面の酔客。どこかの店から漏れる手風琴と、笑い声と、麦酒の匂い。魔女が騎士と腕を組み、骸骨が歌っている。
その雑踏が——わたしたちの一歩で、わずかに、揺れた。
視線が刺さる。深紅のフードの女と、狼の毛皮の大男。海賊の扮装の男が、ジョッキを取り落としかけて、連れの魔女に肘で小突かれた。
「見てくださいまし、狼さん。皆さま、この哀れな赤ずきんに夢中ですわ」
「だろうな。だが——」
彼の腕が、わたしの腰を引き寄せた。
「赤ずきんちゃんは、まだ食べごろじゃない。もう少し、熟れてもらわんとな。狼はグルメなんだ」
「では、せいぜい熟して差し上げますわ。……後悔なさいませんように」
戦場が、街へ移った。
通りを練り歩く。彼は焦らない。わたしも、急がない。すれ違う酔客が囃し、口笛が飛ぶ。やがて、人だかりの真ん中あたりで、シリウスが芝居がかった咳払いをひとつした。
「——時に、赤ずきんちゃん」
おばあ様の声色だった。低くて、しわがれていて、まるで似ていないのに、悔しいほど堂に入っている。
「お前のその、立派なお胸は——いったい、何のためについているんだい?」
周囲が、どっと沸いた。童話の問答だ。誰もが知っている形を、誰も知らない方向へねじ曲げている。
わたしはフードの影から、彼を見上げた。そして、彼の手を取り、自分の腕にそっと重ねる。布越しに、心臓の音が伝わる距離。
「それはね、おばあ様」
甘く、よく通る声で。
「あなたという、たった一匹の狼さんを——もっと深く、抱きしめるためですわ」
口笛と拍手。彼の喉が、ごくりと鳴ったのを、わたしは聞き逃さなかった。
「な、ならば——お前のその、形のいいお尻は、何のためにあるんだい」
声が、わずかに上ずっている。効いている。
わたしはくるりと背を向け、肩越しに振り返った。短い裾が、遅れて揺れる。
「これは——狼さんに追いつかれた夜、その腕の中に、ちょうどよく収まるためですの」
「…………」
「さあ、おばあ様。次のご質問は?」
返事の代わりに。
シリウスは懐に手を入れ——小さな、白い旗を取り出した。棒切れに端切れを結んだだけの、掌ほどの白旗。それを、無言で、ひらひらと振った。
わたしは、噴き出した。
「……っ、ふ、あはは……! な、何ですの、それ……!」
「白旗だ。見ての通り」
「いつの間に、そんなものを……!」
最初から、負ける支度をして来ていた。この男は。堪えようとするほど駄目だった。観客も釣られて笑っている。目の端の涙を指で払い、わたしは白旗を、戦利品のようにつまみ上げた。
それから、ひといきに姿勢を改め、見守る人々へ向かって、深く、優雅に、カーテシーをした。
「皆さま、ご観劇まことにありがとうございました。この哀れな赤ずきんは、これより狼さんに美味しくいただかれますので——これにて、お暇いたしますわ」
歓声と拍手。シリウスの腕が腰に回る。
「派手に消えてくれ。演出だと分かるようにな」
「仰せのままに」
指を鳴らした。二人の足元から夜の色をした渦が立ちのぼり、観客のどよめきを残して、世界が裏返った。
* * *
寝室の闇に、月の四角が落ちていた。
シリウスが、寝台の上に大の字に転がった。両手を上げ、腹を見せて。完全降伏の狼が、そこにいた。
「……アステリア。俺の負けだ。いや——どんな男にも、勝ち目はなかった」
「当然ですわ」
わたしは寝台に膝をつき、しなやかに、彼の上に這い上がった。四つ這いで跨ぎ、見下ろす。フードを、ゆっくり、後ろへ落とす。銀の髪が肩から流れて、月明かりを掬った。
「この赤ずきんは、最初から——あなたに食べられるためだけに、熟してきたのですもの」
編み上げの紐に、自分の指をかけた。
「さあ、狼さん。晩餐の時間ですわ。……どこから、召し上がります?」
次の瞬間、視界が回った。
手首を取られ、組み敷かれていた。狼の半面が寝台の下へ転がり落ち、素顔の目が、真上からわたしを射抜いている。飢えた、けれどどこまでも優しい、獣の目。
「最後の質問だ、赤ずきん」
低い声が、唇のすぐ上に落ちた。
「お前の一番大事なところは——どうして欲しい」
体の奥が、その一言で疼いた。三問目。街では訊けなかった、寝室のための問い。
わたしは、彼の首に腕を回した。
「あなたのすべてを——一滴残らず、受け止めたいのです」
声が、震えて、甘く崩れた。
「ですから、もう……我慢、なさらないで。この赤ずきんを、残さず——召し上がれ」
唇が、塞がれた。
編み上げの紐が解かれていく。一段、また一段。深紅の布は脱がされなかった。乱され、捲られ、半ば纏ったまま——街では品位、扉の内では。あの職人が言い残した半句の答えを、わたしは今、自分の肌で知っている。
彼の掌が、長靴下の縁を辿った。その先で、街を歩くあいだにこの身体がとうに出していた答えを、指先に見つけられる。
「これは……熟れすぎだな、赤ずきんちゃん」
「誰の、せいだと……っ」
狼の熱が、すぐそこにあった。布越しではない。この男も、いつしか。
「来い」
短く言って、彼はわたしを抱えた。
距離が、なくなった。
息が、深いところで詰まる。あの朝から続いていた我慢比べの、すべての焦れが、ひとつになった一点へ流れ込んでいった。焦らして、焦らされて、街の人々の前で笑いながら育ててきた熱が、遅れて追いついてくる。
行き着くところまで来て、彼が低く息を吐いた。
——その息に、隙があった。
わたしは彼の肩を押した。驚いた狼が、素直に仰向けへ返る。離れないまま、上下が入れ替わった。わたしは彼の上に身を起こし、乱れた深紅を纏ったまま、銀の髪を払った。
「狼さんは、白旗を上げたのでしょう?」
「——っ、く」
「降参した狼に、晩餐の主導権はございませんわ」
玉座の上から見下ろすことしか、知らなかった。上に立つとは、命じることだった。——今、この男の上にいて、わたしは何一つ命じていない。ただ、与えている。最初から負ける支度をして来た狼を、負けた通りに、食べ尽くしてやるために。
いつも余裕でわたしを翻弄する男の、その余裕が、月明かりの下で剥がれていく。
「アステリア……っ」
「ふふ……いい声、ですわ」
自分の声が跳ねるのが、分かる。けれど止めない。彼の手が縋るようにわたしを掴み、掴まれたまま、なお続ける。
「わたくしの……いえ」
言葉が、崩れた。女王の呼び名が、口の中でほどけて落ちる。この男の上でだけ、わたしは要らないものを持たずにいられる。
「わたしの、狼さん……。あなたの全部、——食べて、差し上げます」
降参したくせに、最後の牙だけは残している。打ち合わせたわけでもないのに、呼吸が重なった。互いの名前が、声にならない形で行き交う。
「く……、アステリア、もう——」
「ええ……っ、ええ、わたしも……一緒、に……!」
抑えていたものが、わたしの奥で、堰を切った。
一滴残らず、と言った。その言葉のとおりに受け止めながら、わたしの限界も同じ瞬間に切れた。視界が白む。背が反る。深紅の布が肩から滑り落ち、月光の中、わたしは声を散らしながら、彼の上で長く震えた。
崩れ落ちた先は、彼の胸の上だった。
二つの心臓が、布も隔てず、速いまま打ち合っている。彼の腕が、背中に回った。
「……完敗だ」
掠れた声で、狼が言った。
「赤ずきんに食われる狼の話なんぞ、聞いたことがない」
「今夜、できましたのよ」
わたしは彼の胸に頬を置いたまま、笑った。
やがて、彼の呼吸が深くなった。事が済むとあっさり眠る男が——今夜は、いつもより早く、いつもより深く、落ちていく。狩りに狩られた狼の寝顔だった。
わたしは身を起こし、彼の額の汗を指で拭った。乱れた髪を、そっと撫でつける。
「……お疲れさまでした、わたくしの狼さん」
唇を、その寝顔に寄せた。
「お腹は、いっぱいになりまして?」
返事の代わりに、寝息がひとつ。わたしは深紅の布を肩に引き上げ、彼の隣に体を収めた。窓の外で、秋の月が傾いていた。
* * *
数日後の昼下がり。
街へ降りていたシリウスが、土産話を抱えて帰ってきた。
「酒場という酒場で、お前の噂で持ちきりだ」
暖炉の前で、彼は可笑しくてたまらないという顔をしている。
「ハロウィンの夜に現れた、謎の赤ずきん。あれはどこぞの国の姫君だ、いや人を惑わすサキュバスに違いない——目撃した連中が、競って語っている。挙句、『狼の方が食われたに決まってる』『俺も食われたい』と来たもんだ。街の風紀は、予定どおり大いに乱れていたよ。——とんでもない女王様だよ、全く」
「まあ」
わたしは立ち上がり、彼の傍らへ歩み寄って、その肩に腕を回した。
「最高の褒め言葉ですわ。それで——サキュバス説は、あながち外れでもございませんわね。殿方の精気を吸い尽くす、という意味では」
「実体験として証言できるな、俺は」
「ふふ。けれど、ご安心なさいまし」
彼の頬に、軽く口づけを落とす。
「この赤ずきんを味わえるのは、世界でただ一匹——わたくしの、大事な大事な狼さんだけ。他の方々は、夢でも見ていればよろしいのですわ」
その夜、わたしは畳んだ深紅のフードを、寝室の小箱に仕舞った。
白い仮面と、萎れた赤い花と、二枚の切り抜きの、その隣に。
——ただの女だった夜の形見が、また一つ、増えた。




