ロイヤルキャッツ
朝食の卓で、わたしは週刊紙を広げていた。
秋の日差しが窓から斜めに差し込んで、紙面の端を黄金色に照らしている。焼きたてのパンの匂いと紅茶の湯気が混ざった、いつもの朝だった。向かいではシリウスがパンを千切り、バターを塗っている。厚い指が器用に刃を動かすのを、紙面の端越しに見ていた。
社会面の片隅に、小さな見出しが躍っていた。
——神出鬼没の怪盗、今宵も闇に舞うか。
「……まあ」
思わず声が漏れた。
ヴェルナの美術館から、宝石が一つ消えたという。『海の涙』と呼ばれる青い石。夜のうちに、誰にも気取られぬまま消え、現場には一枚のカードだけが残されていた。洒落た仮面の意匠が刷られた、犯行声明。
「怪盗ですって。盗みに、名乗りのカードを添えるなんて——ずいぶんと芝居がかった泥棒ですこと」
くすりと笑みが浮かんだ。盗人なら、いくらでも見てきた。けれど、こんなふうに客席へ向かって盗んでみせる手合いは、初めてだった。
それに、消えた石も大した石ではない。昔、わたしが気まぐれでどこかの王に贈った宝玉の一つだ。魔力も込めていない、ただ光を美しく含むだけの石ころ。それを人間たちは美術館の硝子の中に収め、警備を並べ、名前をつけて崇めている。——面白いものだ。
シリウスにとっては、退屈な話だろうか。紙面から顔を上げると、彼はバターの塗り終わったパンを口に運ぶ途中で止まっていた。
「あなたは、どう思われます? この大胆不敵な泥棒紳士のこと」
シリウスがパンを置いた。
「怪盗か」
目が光った。バターのついた指を布巾で拭きもせず、にやりと口の端を持ち上げている。
「面白そうなことをしているな。俺が先に思いつきたかった」
「……はい?」
「競争だよ。そいつの次のターゲットは何だ? 先に横取りしてやろう」
紅茶のカップが、ソーサーの上で小さく鳴った。——わたしの手が、わずかに震えたからだ。驚いたのではない。この男の目の奥に灯った光が、暖炉の火よりも熱くて、胸の内側がすっと温かくなったのだ。退屈な記事だと思っていた。この男にかかると、退屈は一瞬で冒険に変わる。
「予告状が出ているようですわ」
わたしはもう一度紙面に目を落とし、続きを読んだ。
「——『三夜の後、気高き獅子の心臓を頂きに参上する』。芝居がかった言い回しですこと」
「獅子の心臓?」
「ヴェルナの歴史博物館に所蔵されている巨大なルビーのことだろうと、記事は推測しておりますわ。古代の王冠に嵌められていた石で、かなりの大きさだとか」
シリウスが椅子の背もたれに体を預け、天井を仰いだ。数秒。それから、視線をわたしに戻した。
「猫に化かされたように盗むってのはどうだろうな」
「猫……?」
「ああ。力づくはなしだ。誰も怪我はさせたくない。警備に当たっている連中だって、仕事でやってるだけだからな。責任を問われるのも気の毒だ」
——この男は。
宝石を盗もうと言いながら、警備の者の立場まで慮る。泥棒ごっこを企てながら、そこに流れる思いやりが、どうしようもなく温かい。
「……それで、猫というのは」
「さてな。絵は見えているが、まだ輪郭だけだ。——作戦は、地形を見てから固めるものさ」
「まあ……面白い方ですこと、あなたは」
声が少し甘くなったのを、自分で聞いた。
シリウスはそれを聞き逃さなかった。にやりと笑い、席から身を起こした。
「よし。善は急げだ。——いや、悪は急げか。形から入るのが大事だからな、衣装を仕立てよう。身体に合った、闇に溶けるようなやつを」
「衣装……。仕立て屋に、ですか」
「ああ。命を預ける装備は職人に任せる。戦場の鉄則だ」
遊びに、鉄則を持ち込む男だった。
「あてはあるか」
「……名刺なら、いただいておりますわ」
以前、仮面舞踏会のドレスを誂えた折に、店の者から一枚渡された。腕の確かな仕立て屋だと聞いていた。——だが、訪れたことはない。
「上等だ。なら、まずは下見からだな」
* * *
午後。城の中庭でシリウスの手を取り、転移の術でヴェルナへ飛んだ。
秋の街は赤銅と黄金の葉に彩られ、石畳の通りには焼き栗の甘い匂いが漂っていた。歴史博物館は街の中央広場に面した白壁の建物で、壮麗な円柱が正面を支えている。閉館の札は出ていない。むしろ、普段より人の流れが多かった。
「閉めていないとはまた潔い。それとも、騒ぎを商機と見たか。博物館も抜け目がないな」
シリウスが感心したように呟いた。わたしは彼の腕に自分の腕を絡めながら、流れ込む野次馬たちを眺めた。
「怖いもの見たさの人間と、騒ぎを金に換える人間。どちらも飽きない生き物ですわね」
腕を組んだまま、堂々と正面から入った。
特別展示室の中央、厳重な硝子の箱の中に、それはあった。深い紅に輝く巨大なルビー——『気高き獅子の心臓』。四隅に警備の者が立ち、硝子の周囲には赤い警戒線が張られている。
「……美しい石ですわ。けれど、窮屈そう」
「同感だ。石だって自由になりたいだろうよ」
シリウスの視線が硝子の箱から警備の配置へ、天井の構造へ、出入口の数へと移っていくのを、わたしは隣で見ていた。あの目は、将としてのものだ。地形を読む目。戦場を見る目。——それを宝石泥棒のために使っている。なんという贅沢な無駄遣い。
「少し周りを歩いてから、茶にしよう」
「ふふ。この場面でお茶ですの」
「作戦は落ち着いて練るものだ」
博物館の裏手まで歩き、警備の交代の間隔と、出入口の数を確かめた。それからシリウスの足は通りの向かいにあるカフェへ向かい、テラス席に腰を下ろした。博物館の正面が一望できる。——偶然ではない。
紅茶を注文し、わたしがカップを口に運ぼうとしたところで、シリウスが身を乗り出した。
「——固まったぞ。こうだ」
声を低めて、彼は作戦を語った。下見のあいだ、あの将の目が組み上げていたものの全容を。
——馬鹿げている。呆れるほど馬鹿げている。けれど、聞き終えたとき、わたしの唇はもう笑っていた。
「やれそうか」
「ええ。あの広さなら、術は建物ごと包めますわ」
「結構。なら、本番は予告の夜。——先行の泥棒がいるなら、そいつの騒ぎを前座に使わせてもらおう」
わたしはカップをソーサーに戻した。
この男の頭の中は、どうなっているのだろう。泥棒の計画を立てながら、その中に暴力がない。強いることがない。誰も傷つかず、誰も責められない——そういう形だけを、丁寧に選り分けている。
「……少し惜しいですわ」
「何がだ」
「こんな手間暇を、ただの遊びに使うのが」
シリウスが目を細めた。
「遊びだから、手を抜けないのさ」
——敵わない。
わたしはテラスの向こうに広がる秋の街並みを見た。赤い屋根と、黄色く色づいた並木。その上に、薄く秋の空が広がっている。
「わかりましたわ。腕によりをかけて差し上げます」
「頼んだ。——次は、仕立て屋だな」
* * *
カフェを出て、名刺を取り出した。マダム・ロザリンド。裏通りの住所が添えてある。通りを一本裏に折れると、看板のない古い木の扉に金の糸巻きが刻まれていた。知る者だけが訪れる、職人の工房。
扉を押すと、布と蜜蝋の匂いが鼻をくすぐった。壁一面に反物が掛けられ、作業台の上に裁ちばさみと糸巻きが整然と並んでいる。奥の作業台で、針を持つ手が止まった。
「あら」
店の主が、眼鏡の上からこちらを見た。それから、わたしの全身を——頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくりと見下ろし、見上げた。
「いらっしゃい。……ずいぶんと、姿のいい奥様ね。——何をお望みかしら」
奥様。——陛下でも、魔人でもなく。隣の男の連れ合いとして、そう呼ばれる。その響きは、思いのほか、悪くなかった。
白髪を高く結い上げた、小柄な老婦人。だが仕立て屋としての眼は鋭い。たった一瞥で肩の線、腰の括れ、脚の長さを計り取ったのがわかった。初めて会ったはずなのに、わたしの体を知っているかのような視線だった。
怪盗の衣装を——とは、言えない。嘘も、つきたくない。要るものだけを、並べることにした。
「夜に着るものを。闇に溶ける黒。身体の線に沿って、月の光を弾かないもの。——足音を、布が裏切らない仕立てで」
ロザリンドの眉が、片方だけ上がった。それから、唇の端が、ゆっくり持ち上がった。
何にお使いになるの。——当然の問いが来る、と身構えた。
来なかった。
「……お二人で?」
「ええ」
シリウスが隣で軽く手を上げた。ロザリンドの視線が彼の体格を一度測り、すぐにわたしへ戻った。——男の方は黒い外套一枚で済む体を持っている。布の仕事は、女の方にこそある。そういう目だった。
「奥様。あなたの身体は、ただの夜衣一枚で隠してしまうには惜しいの。ちゃんと覆って、ちゃんと見せる。それが仕立ての真骨頂よ」
採寸の手が伸びた。布巻尺が肩から腕へ渡り、胸の最も高いところを越え、腰骨の突端を一周する。他人の手で自分の身体の寸法を測られる。それだけのことが、少し、恥ずかしかった。
「それと、注文がもう一つある」
壁際のシリウスが口を開いた。
「前の合わせは、紐にしてくれ。——一本引けば、するりと解けるように」
……紐?
わたしは隣を見上げた。早着替えの仕掛けだろうか。それとも、いざというとき脱ぎ捨てて逃げるための? 彼は素知らぬ顔で、壁に寄りかかったままだった。
ロザリンドの手が止まった。
眼鏡の奥の目が、わたしを見る。それからシリウスを。もう一度、わたしを見た。
「……ふぅん」
——何かが、通じた。わたしの頭の上で。何が、なのかは、わからないままに。
「よろしい。三日後の夜までに仕上げましょう。——素肌に直に、着るのでしょう?」
「なっ——」
「布の内側の始末が変わるの。肌に触れる面は、縫い目一つで着心地が違う。職人として訊いているのよ」
熱は、頬まで上らせない。代わりに、目に力がこもった。シリウスがわたしの隣で、壁に肩をもたせかけたまま、口元だけで笑っている。——助けてくれる気はないらしい。
「……ええ。直に」
「了解。——たった今、あなたの身体は全部頭に入ったわ。任せなさい」
ロザリンドは作業台に向かい、黒い反物の端を指で撫でた。闇よりも深い色の布。月の光を吸い込むような織り。老練の指先がその質を確かめている。——もう、こちらを見てもいなかった。
帰りの通りで、シリウスが呟いた。
「何も訊かなかったな、あのマダム。——ああいう手合いが、一番信用できる」
「……それより、あなた。あの紐は、何の仕掛けですの」
「当夜の、お楽しみだ」
シリウスは前を向いたまま、口の端だけで笑っている。何か、深い考えがあるのだろう……か。作戦に関わるのなら、術者のわたしに伏せる理由はない。つまり、関わらない。ならば、何だ。考えを巡らせても、わからない。
ただ、あの仕立て屋の「ふぅん」だけが、妙に頭に残っていた。
* * *
三日後の夜。
月明かりが、博物館の白い壁を青白く照らしていた。
わたしは建物の影に立っていた。身に纏うのは、ロザリンドが仕立てた衣——月の光を吸い込む黒い布地が、身体の線にぴたりと沿う漆黒の装い。肩から腕、腰から脚まで、黒い布が肌に吸いつくように覆い、闇の中で輪郭が溶ける。
胸元から腹までを、細い紐が前合わせで結んでいた。
素肌の上に直に着ていた。布と肌のあいだに何もない。秋の夜気が、薄い布越しに、肌へ直に触れてくる。その感触を意識するたびに、頬に熱が上った。
隣に、同じ黒ずくめのシリウスがいた。こちらは術など使わなくとも、黒い外套を羽織り、暗い布で顔の下半分を覆っただけで、夜に溶けている。浅黒い肌に暗い髪。——この男は元々、闇が似合う。
「来たな」
博物館の窓に、赤い警告灯が明滅した。
けたたましい警報が夜の静寂を切り裂いた。硝子が割れる甲高い音、怒号、人の駆ける足音。先行の怪盗が仕掛けたのだ。建物の中が騒然とし、窓の向こうで影がいくつも走り回っているのが見えた。
「前座が済んだようだな」
シリウスがわたしの手を取った。力強い掌が、冷えた指を包んだ。
「名乗りを上げなきゃな。——行くぞ」
引かれるまま、博物館の正面に躍り出た。警報の赤い光が二人の姿を断続的に照らす。正面玄関から飛び出してきた警備の者たちが、足を止めた。黒ずくめの男と女が、月明かりの下に堂々と立っている。
シリウスが、片手を上げた。
「そこまでだ。——そのお宝は、俺たちロイヤルキャッツがいただく」
声が、夜の広場に響いた。
——ロイヤルキャッツ。
王家の猫。わたしを頭に立てた、二人の名前。——狼のくせに。その名前が耳に入った瞬間、胸で何かが弾けた。笑いだったのか、歓喜だったのか、自分でもわからない。ただ、隣に立つこの男が名づけた二人の名を、全身で誇らしいと感じた。
わたしは一歩前に出た。
「皆様、ごきげんよう」
扇はない。代わりに、指先を軽く持ち上げた。——女王が臣下に言葉を賜る仕草で。
「お仕事ご苦労さまですわ。さぞお疲れでしょう。ほんの少しの間だけ——気ままな猫になって、わたくしたちと遊んでいただけませんこと?」
目の奥で、淡い燐光が灯るのがわかった。
指先から魔法の力が流れ出す。目に見えない波紋のように、それは広場を渡り、玄関先の警備の者たちを順に包んでいった。悲鳴は上がらない。苦痛もない。ただ、足元から変質が始まる。——靴が消え、手袋が消え、制服が毛並みに変わっていく。
一人、また一人と、彼らの姿が縮み、丸くなり、四つ足で石畳に降り立った。
十数秒で、博物館の正面には猫しかいなくなっていた。
茶虎。黒。三毛。白。体格の良い警備の者たちが、それぞれの毛色の猫になって、きょとんとした目でお互いを見つめている。一匹がくしゃみをした。別の一匹が尻尾を追いかけ始めた。——人としての意識は残っているはずだが、猫の身体がもたらす衝動に、抗えていないらしい。
シリウスが、懐からまたたびの葉を一掴み取り出して、猫たちの足元にばらまいた。
「……どこで手に入れたのです、それ」
「下見のついでに薬草屋で買った」
用意がいい。猫たちはまたたびに鼻を近づけ、ごろりと石畳に転がり、喉を鳴らし始めた。警備の猫が、幸せそうに腹を見せている。——もはや、宝石のことなど忘れている。即席の、猫の楽園だった。
「さあ、いい子たちだから邪魔しないでくれよ」
猫たちに言い置いて、シリウスは博物館の中に足を踏み入れた。館内にいた数人の人間も、わたしの術の圏内にいたらしく、廊下を猫たちが右往左往している。先行の怪盗の姿はない。騒ぎだけ起こして逃げたか、それとも——どこかで猫になっているのか。
特別展示室。昼間見た硝子の箱が、非常灯の薄い光の中で佇んでいた。中の深紅のルビーが、暗がりでも仄かに光っている。
「お前、硝子は開けられるか」
「術で解けなくもないですが——いえ、こういうことは手のほうが早いですわね」
指を伸ばし、硝子の箱の鍵穴に触れた。魔法を使わずとも、この程度の錠前は指先で探れる。かちり、と小さな音がして、蓋が持ち上がった。
シリウスがルビーを取り上げた。大きな掌の中で、獅子の心臓が赤い光を放っている。
硝子の箱の中に、一枚のカードを置いた。——わたしが術で仕立てた小さな紙片。猫の足跡の意匠と、一行の文字。
——猫の手も借りたいと思いまして。ロイヤルキャッツ。
シリウスの犯行声明を、わたしが文字にした。
「さあ」
シリウスがルビーを懐に収め、わたしの腰に腕を回した。
「ずらかろう」
笑いが込み上げた。——ずらかろう。女王に向かって言う台詞ではない。だが今夜だけは、わたしは女王ではない。怪盗ロイヤルキャッツの片割れだ。この男の共犯者だ。
「ええ。——参りましょう」
シリウスの腰に腕を回し、魔力を練った。二人の足元から夜が渦を巻き、博物館の床が溶けるように遠ざかる。
次の瞬間、城のバルコニーの石床に、二人で降り立っていた。
* * *
夜風が、火照った肌を撫でた。
バルコニーから見上げた空には、秋の星が散っていた。空気が澄んでいるせいか、星の一つ一つが近い。シリウスの——天狼の名を持つ星が、南の空の低いところで、青白く瞬いている。
胸が、まだ速く打っていた。興奮が引かない。走ったわけでもないのに、全身が熱くて、指先が震えている。——こんなに胸が高鳴るのは、いつ以来だろう。戦場ではない。命を懸けた夜でもない。ただの遊びだ。ただの遊びが、こんなにも——楽しかった。
「計画通りにいったな」
シリウスが懐からルビーを取り出して、月明かりに翳した。深紅の光が、彼の顔を赤く染めた。
「窮屈な場所から解放してやって、少しは喜んでいるといいな、こいつも」
言うなり、ぽいと放ってよこした。両手で受け止める。掌の中で、獅子の心臓が温かかった。——シリウスの体温が、石に移っていた。
顔を上げると、シリウスがわたしの前に立っていた。月明かりが、彼の輪郭を縁取っている。
「だが——本当の狙いは、俺のハートだったんじゃないのか。怪盗ロイヤルキャッツのセクシー担当?」
声が低くなっていた。目が、笑っていない。笑っていないのに、温かい。
——ならば、今夜はわたくしの番だ。
ルビーを手摺りの上にそっと置いて、彼に向き直った。
「ふふ。……お気づきになっていらしたのね、名探偵さん」
一歩、踏み出す。怪盗の足取りで。
「ええ——その通りですわ。わたくしが今宵、本当に盗みたかったのは、あんな石ではありませんの。あなたの、そのハート——ただ、一つ」
指先で、彼の胸を押した。硬い胸板が、素直に一歩、退がる。もう一歩。——わざと退がっているのは、わかっている。それでも、狩りは狩りだ。
バルコニーの窓を抜け、寝室の闇へ。彼の膝裏が寝台の縁に当たって、大きな体が、どさりと腰を落とした。
見下ろす形になった。窓から差し込む月の四角が、シーツの上に落ちている。
「もう、逃げ場はありませんことよ」
彼の膝を跨いで、その瞳を覗き込む。
「観念なさいまし。あなたのハートは——怪盗ロイヤルキャッツが、いただきますわ」
彼は、両手を軽く上げた。降参の仕草。
——のはずだった。
その手が、伸びた。
胸元の紐に、指がかかった。
——当夜のお楽しみ、と彼は言った。これが。
「待っ——」
「待たない」
紐が引かれた。するすると、細い糸が解けていく。胸元から腹へ、合わせが開き、月の光が素肌に触れた。夜気が、露わになった肌を冷たく撫でる。——冷たいのに、肌が粟立ったのは寒さのせいではなかった。
「……っ」
シリウスの目が、わたしの胸元に落ちている。——あの目だ。宝石でも戦場でもなく、わたしだけを見る目。
大きな手が、開いた合わせの中へ滑り込んだ。腰の素肌を、硬い掌がゆっくりと撫で上げていく。布を一枚も挟まない、直の熱。背すじが、勝手にしなった。
「あ……」
恥ずかしいのに、逃げたくない。この男に見られている。触れられている。この男だけに。闇に溶ける衣装の下の、わたしだけの肌を。
次の瞬間、腰を抱かれ、視界が回る。気がつけば、背中がシーツに沈んでいた。——狩る側と狩られる側が、一瞬で入れ替わっていた。
「悪い猫を逮捕する」
衣は半ば解けて、肩から滑り落ちかけている。シリウスが覆いかぶさった。月光が彼の肩を越えて、わたしの鎖骨を照らした。
唇が、首筋に落ちた。鎖骨を辿り、その先へ。腰の奥で甘いものが疼いて、声が抑えられなかった。
「……ん……」
夜気に冷えた肌の上を、彼の熱だけが這っていく。布と肌のあいだに何もない一枚を、解いた男が、直に味わっている。
「……どうぞ。怪盗の罪を、残さず暴いてくださいまし」
自分から、残りの紐に手をかけた。最後の一本を解くと、闇の衣は花びらのようにシーツの上に散った。
月明かりの中に、わたしの身体だけが残った。
——秋の月がバルコニーの向こうへ沈むまで、解けた紐が、結び直されることはなかった。
* * *
翌朝。
シリウスの胸の上に頬を置いて、目を覚ました。
窓から差し込む朝の光が白い。秋の朝は空気が冷たいが、毛布の中は二人分の体温で温かかった。昨夜の汗が乾いた肌に、シーツの皺の跡がついている。シリウスの心臓の鼓動が、まだ少しだけ速い。——いや、わたしの耳が近すぎるだけかもしれない。
昨夜の黒い衣は、シーツの端に丸まっていた。ロザリンドの仕立てた布は、朝の光の中でもなお深い黒を保っている。一夜限りの衣装。——一夜限りの、怪盗。
食堂の卓に、見慣れぬ紙が置かれていた。ヴェルナの速報紙。普段は週刊紙しか届かないが、余程の大事件には号外が刷られるらしい。
一面の見出しが、朝の食堂に躍っていた。
——謎の怪盗団「ロイヤルキャッツ」現る。警備員、全員猫に変わる。
その下に、犯行カードの写しが大きく掲載されている。猫の足跡の意匠。そして——
——猫の手も借りたいと思いまして。
シリウスが隣からのぞき込んだ。
「一面か。大したものだ」
「あなたの犯行声明ですわ。わたくしは書き写しただけ」
記事の続きに、目を走らせた。博物館内で発見された猫たちは、夜明けとともに人の姿に戻り、全員無事だったという。被害は宝石一つのみ。怪我人なし。——シリウスの望んだ通りだ。
「……惜しいことが一つだけ」
シリウスが紙面から顔を上げた。
「お前の衣装が載っていない。あの姿は、一面に載せるべきだった」
「あの衣装は新聞に載るためのものではありません」
わたしはカップを口元に運んだ。
「あなただけに見せるために仕立てたものですわ」
シリウスが、一瞬だけ黙った。
それから——くしゃりと、表情が崩れた。
「世界で一番楽しい共犯者だ」
短い言葉だった。だがその声の中に、呆れと、感嘆と、どうしようもない愛情が、全部混ざっていた。
わたしは紅茶を一口飲んだ。少しだけ甘い。砂糖を入れすぎたのか、それとも——唇に、昨夜の余韻がまだ残っているのか。
卓の上に、獅子の心臓のルビーが置かれていた。朝の光を受けて、深い紅に輝いている。——昨夜、月明かりの下で、彼がわたしにくれたものだ。
わたしは、それをひとしきり眺めてから言った。
「いただいておいて、何ですけれど。——いつか、二人でお返しに参りませんこと? 猫の足跡のカードを、添えて」
「構わんぞ。もう飽きたか?」
「まさか。わたくしがいただいたのは、この石ではなくて——昨夜、ですもの。そちらは、誰にも返せませんわ」
シリウスが笑った。
「ならば、ロイヤルキャッツ最初の獲物として、返すその日まで俺たちの棚の賑やかしにするといい」
食堂の棚には、シリウスの手で書かれた小さな札がいくつも並んでいる。珈琲豆の種類、パンの焼き方、調味料の名前。そのあいだに、花祭りの硝子細工が一つ。——今日から、深紅のルビーが一つ、加わる。
秋の朝日が、棚の上の宝石と硝子細工を同じ光で照らしていた。
どちらも、二人で手に入れたものだ。
わたしは紅茶のカップを両手で包みながら、窓の外を見た。楢の葉が、風に鳴っている。
——世界が、また少し、広がった気がした。




