ご禁制の豆
秋が、城に戻ってきていた。
春の花祭りから、季節がひとつ過ぎた。夏のあいだに蔦は石壁を濃く覆い、庭の草は何度も伸び、そのたびにシリウスが鎌を担いで出ていった。わたしが指を鳴らせば一瞬で済むことを、彼はわざわざ汗をかいて片づける。その背中を窓から眺めているうちに、蝉の声はいつの間にか細り、森の梢は赤銅色を含みはじめていた。
城は、以前より少し賑やかになっていた。
食堂の棚には彼の手で書かれた小さな札が増え、談話室の卓にはヴェルナの週刊紙が積まれ、寝室の窓辺には花祭りで買った小さな硝子細工が置かれている。朝になれば窓を開け、夜になれば同じ寝台に入る。食事を作り、茶を淹れ、くだらないことで言い合い、気づけば笑っている。
それが、日常になっていた。
「我」と名乗っていた口が、わたくし、と言う。お前、ではなく、あなた、と呼ぶ。
まだ少し、胸をくすぐる。だが、もうそれに驚くことはなくなった。驚きではなく、幸福の形として、そこにある。
* * *
その日の午後、談話室の暖炉には小さく火が入っていた。
まだ本格的な冬ではない。けれど、石の城は秋の湿り気をよく抱え込む。焚べた薪が低く爆ぜ、橙の光が壁に揺れていた。窓の外では、楢の葉が風に鳴っている。
わたしは暖炉の前のソファに腰を下ろし、淹れたばかりの珈琲を二つのカップに注いでいた。湯気が立ち上り、豆の香りが石の部屋に広がる。いつもの香りより、少しだけ鋭い。香辛料に似た、鼻の奥をくすぐるような清々しさがあった。
シリウスが隣で受け取ったカップを傾け、一口含んだ。
——そして、わずかに眉を動かした。
「豆を変えたか?」
カップを持つ手が止まった。
——気づいた。
「……まあ。おわかりになりますのね」
シリウスはもう一口飲んで、カップの中を覗き込んだ。
「スパイスのような鮮烈さがある。美味いな。希少な豆か? たまたま手に入ったのかい」
「『幻の雫』と呼ばれる豆ですわ。北の山脈でわずかしか採れぬ代物で、市場にはほとんど出回りません。この城の主であるからこそ融通させた品ですの。——手に入れるのに、少々骨が折れました」
少し勿体ぶるように言った。黙って淹れて、試してみたのだ。予想通り、この男は、些細な変化に気づいた。
わたしはカップを口元に運んで、視線を暖炉に向けた。得意げに見えたくはない。だが口角が勝手に上がるのを、カップで隠すのが精一杯だった。
暖炉の火が弾けた。橙の光が揺れて、シリウスの横顔を照らした。珈琲の湯気の向こうに、この男の満足そうな顔が見える。それだけで、骨を折った甲斐があった。
「……実は」
わたしはカップをソーサーに戻し、少し声を落とした。
「この豆を超える品がある、と古い記録にありましたの」
「ほう」
「『究極の豆』と呼ばれるものが、どこかに存在すると。どのような味わいかは定かではありません。ただ、飲んだ者の心を根底から揺さぶると。——あなた、退屈していらっしゃるでしょう。探しに行くのも、悪くありませんわ」
シリウスの顔を覗き込むように言った。新しい冒険の話をする時、この男の目に火が灯るのを知っている。船旅でも、森でも、花祭りの朝でもそうだった。未知の土地の話をすると、あの無骨な顔に少年のような光が差す。
だがシリウスは、珈琲カップを置いて、こちらを見た。
——その目に灯ったのは、冒険への期待とは違う色だった。
「究極の豆? それはこれとは別か?」
シリウスの指が、わたしの胸元に伸びた。
黒い長衣の上から、胸の頂を、まるで豆をつまむように軽く摘まんだ。
「——っ!」
息が止まった。
「な……何をなさいますの。そこは豆ではございません」
「そうかな。形状といい、効能といい、豆と呼んでも差し支えない気がするが」
「差し支えます」
言い返したのに、声に力がなかった。彼の指先はまだ触れている。布越しに、摘ままれた先端が小さく硬くなっていくのが、自分でもわかった。秋の空気のせいだ。それ以外の理由ではない。
「……あなたにとっては、それが究極の豆なのですか。安い味覚ですこと」
「とんでもない。この豆は覚醒作用が桁違いだ。さっきの珈琲とも比較にならん」
「覚醒——」
「おまけに依存性が極めて強い。これは禁制品として、俺の管理下に置かせてもらっている」
シリウスの声は、至って真剣だった。真剣な顔で、わたしの胸を指先に挟んだまま話している。
——禁制品。管理下。
体の奥が、じわりと熱くなった。この男の言葉は、いつもこうだ。馬鹿なことを言っているはずなのに、体が先に反応する。
「……勝手に禁制品扱いしないでくださいまし」
声が掠れた。
「ですが——」
わたしは、自分の口が動くのを止められなかった。
「——わたくしのものを、他の誰かに触れさせたことはありません。それは事実ですわ」
シリウスの目が、ほんの一瞬、真剣になった。
すぐにいつもの顔に戻ったが、その一瞬を、わたしは見逃さなかった。
「そこのセクシーな奥さん。その怪しげな膨らみを、あらためさせてもらうぞ?」
「……奥さん、ですって」
「嫌かい」
「嫌とは申し上げておりません」
むしろ、その響きに胸が柔らかくなるのが悔しかった。
シリウスの指が動いた。長衣の合わせに手をかけ、留め具を外していく。一つ、二つ。暖炉の灯りの中で、黒い布が肩からわずかに滑った。白い鎖骨が露わになり、胸元の布が緩む。乳房の上の斜面が、暖炉の橙色に染まった。
「調べが済むまで動くなよ」
言い返す前に、布の内側へ手が入った。
温かい掌が、直接肌に触れる。乳房の柔らかい重みを下から掬い上げるように包まれ、親指の腹が頂をゆっくりと撫でた。
「っ……」
声が漏れた。暖炉の火が爆ぜる音で掻き消されたか、どうか。
「……こんな綺麗な色で、感度のよさそうなものが、一般に流通しているはずがない。やはりこれはご禁制の豆では」
シリウスの目が、わたしの胸を見下ろしていた。薄い桃色の先端が、彼の指に挟まれて硬く尖っている。暖炉の光が白い肌を橙に染め、影が谷間に落ちている。——この男の目にわたしの体がどう映っているのか。その視線の熱さだけで、下腹が疼いた。
「これはどうやって手に入れた? 答えろ」
尋問するような声だった。だが指は優しい。有無を言わさぬ力で先端を転がしながら、決して痛くはしない。その矛盾が、思考を溶かす。
「……あなたのために——」
声が震えた。言うつもりのなかった言葉が、指先の快感に押し出されるように唇から零れた。
「——永い時をかけて、この身で……育てたのです。あなたにだけ、味わっていただくために。他の誰にも、触れさせておりません」
シリウスの手が、一瞬だけ止まった。
「……けしからん豆だ」
掠れた声だった。
「だが結論を出すのはまだ早い。少し味見させてもらうぞ?」
唇が降りてきた。
胸の頂を、口に含まれた。
「あ——っ」
背がソファの背もたれに押しつけられた。舌先が敏感な先端をねっとりと撫で、吸い上げられる。暖炉の熱とは比べものにならない湿った熱が、胸から腹の奥へ一直線に降りた。
指が銀の髪を掴んだ。押し退けるつもりだったのか引き寄せるつもりだったのか、自分でもわからなかった。シリウスの舌が乳首の周りを丹念に舐め回し、先端を歯で軽く挟んだ時、腰が跳ねた。
「やめ——っ、溶けて……しまいます……!」
「なんという味わいと依存性。間違いなく禁制品だ」
吸いながら喋っている。器用さに呆れる余裕もない。舌の動きが止まらない。吸われるたびに体の奥が締まり、思考が白く霞んでいく。
「これで旦那をどうするつもりだった? 答えろ」
「……っ、吸いながら……訊かないで……卑怯です……!」
目の端が潤んでいた。声がもう「わたくし」の形を保てない。シリウスの舌が与える快感が、言葉を砕いていく。
「——あなたを……骨の髄まで、わたしに溺れさせて——」
——わたし、と言った。「わたくし」ではなく。
「——もう……わたしなしでは生きられぬ体にして……ずっと、この城に、閉じ込めてしまおうと——」
言ってしまった。歪んだ独占欲。この体を使って、この男を繋ぎ止めたいという、どうしようもなく切実な願い。恥ずかしさよりも、言葉にしてしまった安堵の方が大きかった。
シリウスが顔を上げた。唇が濡れている。——わたしの胸の形に、少し紅くなった唇が。
「——なんと素晴らしい」
一瞬、本音が漏れた。
「——もとい、天をも恐れぬ企みだ」
すぐに表情を引き締めたが、遅い。わたしは見た。この男の目の奥に灯った、抑えきれない熱を。
「しかしその企みもここまでだ。余罪がないか、寝室で徹底的に取り調べてやる。——さあ、観念しろ」
腕が伸びて、わたしの体を掬い上げた。軽々と。ソファから抱え上げられ、暖炉の明かりが遠ざかる。廊下の冷たい空気が肌を撫でたが、シリウスの胸の熱で寒さは感じなかった。
「……下ろしてくださいまし。自分で歩けます」
「容疑者の逃亡を防ぐ措置だ」
「逃げません」
——逃げるものか。
寝室の扉が開いた。薄暗い部屋の中、秋の午後の光がシーツの上に斜めに落ちている。
寝台に降ろされた。シリウスが覆いかぶさる。その影がわたしの体を覆い、窓の光を遮った。
「……取り調べというのなら、心ゆくまでなさるといいですわ」
わたしは自分から腕を上げ、頭の上に揃えた。——降伏の姿勢だった。
「この身に刻まれた罪を、残さず暴いてみせてください」
シリウスの目が、暗がりの中で光った。
——そこから先は、秋の陽が窓の四角を移し終えるまで、長かった。
* * *
乱れたシーツの海の中で、シリウスが天井を仰いでいた。
「しまった。また流されてしまった。——希少な珈琲豆の話をしていたのに、どうしてこんなことに……」
芝居がかった嘆きだった。だが体はまだ息が荒い。わたしの体の上に残った汗と、彼の汗が混ざって、シーツに染みている。
わたしはシリウスの胸に頬を寄せた。心臓の鼓動が、まだ速い。
「……あなたが悪いのです」
「俺が?」
「珈琲の話をしておりましたのに、人の胸を摘まんだのはどこのどなたですか」
「あれは調査だ。職務だ」
「何の職務ですの」
「禁制品の取り締まりは国家の責務だろう」
「ここは城です」
「城内治安も重要だ」
ふざけた男だ。——だが、そのふざけた言い訳が、妙に心地よかった。唇の端が緩む。
「……あなたは知らないでしょうけれど、この禁制品の依存性は、あなたの想像を遥かに超えておりますわ」
わたしはシリウスの首筋に唇を寄せた。汗の匂いがする。
「わたくしの企みどおり——もう、あなたはこの味を忘れられない体になってしまいました」
「……うう」
「逃れられませんわ。朝も、昼も、夜も——あなたが求めるままに、味わわせて差し上げます」
「これがご禁制たる所以か……なんたる依存性。このままではおっぱいのことしか考えられないおっぱい廃人にされてしまう……うう……」
おっぱい廃人。
——何だそれは。
わたしは、こらえきれずに笑った。声を殺したつもりだったが、肩が震えて隠しきれなかった。おっぱい廃人。この男は時々、どこからそんな言葉を見つけてくるのか。
シリウスは身を起こし、シーツの端を引いて体を拭き始めた。着替えようとしている。——逃げる気だ。
「……どちらへ?」
「あらがわないと。依存を断ち切らなければ、俺はおっぱい廃人に——」
「断ち切れるとお思いですか」
わたしはシーツの上に身を起こした。長衣は談話室に置いてきた。夜衣は腰のあたりまで落ちて、上半身は何も纏っていない。秋の窓から差す光が白い肌に落ち、先ほどまでシリウスの唇が吸いついていた場所が、まだ微かに赤い。
シリウスが振り返って、目が合った。——彼の手が、掴みかけた上着を、ゆっくりと離した。
「……ほら」
わたしは口角を上げた。勝者の笑みだった。
「口ではそう仰りながら、体は正直ですわね」
「…………」
「あらがってください。好きなだけ。——あなたの理性がこの禁制品に屈する瞬間を、じっくりと見せていただきます」
シリウスの目が、わたしの胸元から離れなかった。暖炉の火がない分、秋の冷たい光だけがわたしの肌を照らしている。——その光の中で、わたしは自分の体がこの男を引き寄せる力を持っていることを、はっきりと知っていた。
「おっぱい廃人、ですか。——あなたを、わたくしだけの廃人にして差し上げますわ」
シリウスは上着を放り投げた。——あらがう気は、最初からなかったのだ。
二度目は、一度目より長かった。
* * *
窓の外が暗くなっていた。
いつの間にか日が落ちている。寝室の暖炉には火が入っていない。戻る間も惜しんだせいだ。だがシリウスの体温で、毛布の中は十分に温かかった。
わたしはシリウスの腕の中で、彼の胸に頬を寄せていた。心臓の拍動が、さっきよりずっと穏やかになっている。この音を聴くのが好きだ。規則正しく、力強く、ただ生きている者の鼓動。
「……アステリア」
「はい」
「珈琲の話だが」
「……まだ仰いますの」
「あの『幻の雫』は美味かった。——だが究極の豆の方が美味い」
耳が熱くなった。
「……あなたは本当に——」
「なんだい」
「——自由な方ですわ」
シリウスが喉の奥で笑った。
天衣無縫そのものだ。珈琲の豆と、わたしの胸の豆を並べて論じる男が、この世のどこにいる。
だが。
わたしの指先が、シリウスの胸の上で、小さな円を描いた。
この男に味わわれることが、手間をかけて選んだ豆よりも、ずっと温かかった。それは認めてやってもいい。——声には出さないが。
暗い寝室の中で、暖炉のない冷気がシーツの外を満たしている。だが毛布の内側は、二人分の体温で、初秋の夜を忘れるほどだった。
「……明日、もう一杯淹れて差し上げます」
「珈琲の方か?」
「当たり前です。——何を期待していらっしゃるの」
「いや、確認しただけだ」
確認などしなくていい。
——どちらも、この男のものだ。
わたしは目を閉じた。シリウスの鼓動を数えながら、眠りに落ちていった。
北の山脈に幻の豆を探しに行く夢を見た。——隣に、この男がいた。




