漆黒の妖棒
春が終わり、城に初夏が来ていた。
窓を開け放すと、生温い風が石の部屋を吹き抜けていく。庭の緑は濃さを増し、蔓薔薇の白い花が石壁を這い上がっている。陽が長くなった分だけ、城の中に光が差す時間も伸びた。暗がりに慣れた目には少し眩しいくらいで——それを不快だとは、もう思わなくなっていた。
その日、わたしたちは城の大掃除をしていた。
シリウスの発案である。冬のあいだに溜まった埃を払い、使わない部屋の空気を入れ替えるのだと彼は言い、朝から腕まくりをして動き回っている。わたしが指を鳴らせば済むことを、この男はまた、わざわざ雑巾を絞って始めるのだ。
「魔法で片づけた部屋は、どうも匂いが残らんのだよな。風を通した石の匂いがいい」
玄関広間の窓を一枚ずつ押し開けながら、彼はそう言った。
——匂い。石の匂い。そういうものに、この人は頓着する。わたしには何百年と変わらない城の空気が、この人にとっては一日ごとに違うものらしい。それが少し面白くて、少し眩しかった。
午前中は、わたしも手伝って居間と談話室の埃を払い、午後からは寝室に取りかかった。長椅子を動かし、絨毯を巻き上げ、窓掛けを替える。そして最後に、彼が、寝台の下を覗き込んだ。
「……ん?」
彼の腕が、寝台の暗がりから、埃を被ったものを引きずり出した。
黒檀の蓋に金の金具が嵌められた、造りの良い木箱。蓋の裏に、消えかかった銘が彫られている——アスフォデルの家紋と、古い文字。
——心臓が、止まった。
「これは立派だな。何が入って——」
蓋を開けた彼の手が、止まった。
箱の中に、藁と布に包まれて収まっていたのは——形状が、どう見ても、男の一物を模した魔導具だった。黒曜石のように艶やかな表面。長さは手のひらに余り、先端は丸く滑らかに磨かれている。台座には精緻な魔法陣が刻まれ、微かに残光を帯びていた。
一本ではなかった。大小さまざまな形のものが、丁寧に布で仕切られて、五本。
——静寂が、落ちた。
シリウスの顔を、見ることができなかった。頭の中は白く、耳の奥で、自分の鼓動だけが鳴っている。寝台の、下。よりにもよって、寝台の下。
考えるより先に、口が動いていた。
「……先々代の、祭祀用の呪具ですわ」
声が、少し上ずった。
「祭祀用」
彼が繰り返した。声に色はない。ただ、視線が箱の中身と、わたしの顔とを、一往復した。
「……ええ。アスフォデルの歴代の女当主が、修練に用いた——古い魔法の道具です。術の制御に関わる……その……」
説明をしようとして、言葉が詰まった。術の制御に、この形状が、なぜ必要なのか。わたしにも説明がつかない。いや、つくのだが——口に出せるようなものではなかった。
シリウスは一本を手に取り、ためつすがめつ眺めた。台座の魔法陣を指でなぞり、表面の質感を確かめ、重さを量るように手の中で転がす。鑑定士のような目つきだった。
「……なるほど。よく出来ている。——先々代の、ねえ」
「存在は知っておりましたけれど——わたくしが使ったことは」
「聞いてないぞ」
穏やかに遮られた。
その穏やかさが、かえって心臓に悪かった。
彼はもう一本を手に取った。先のものより一回り大きく、表面に蔦の意匠が浮き彫りにされている。魔法陣の発光は、こちらのほうが強い。長年にわたって注がれた魔力が、石の奥にまで染みこんでいるのだろう。
「魔力の残滓が濃いな。代々の持ち主が、相当——」
「あなた」
「——熱心に修練されたのだろう」
真顔だった。わたしを見もせず、品物を光に透かしている。
「処分いたしますわ。すぐに」
「待ってくれ」
シリウスは五本すべてを箱に戻し、蓋を閉じた。それからようやくわたしに向き直り、いつもの穏やかな顔で——ただし目だけは、妙に据わっていた。
「アステリア。お前の身体に触れていいのは、俺の聖剣だけだ。先々代の遺品だろうが、何代前だろうが、こいつらの出番はもうない。——処分は、俺がやる。いいな?」
聖剣。——この人は今、真顔で、自分の一物を聖剣と呼んだ。呪具の箱を前にして、眉ひとつ動かさず、独占を宣言している。
反論のしようがなかった。恥ずかしさと、馬鹿馬鹿しさと、それから——言葉にしたくない類の、甘い熱が、一度に込み上げてきた。
「……ご随意に」
それだけ言って、わたしは寝室を出た。背後で、彼が箱を抱え上げる音がした。
* * *
その晩、シリウスは城の裏手の窯で呪具を焼いた。魔法の炉に放り込み、灰になるまで火にかけた——はずだった。
窯の火を落とした彼が、寝室に戻りがけにぽつりと呟いたのを、わたしは半ば眠りかけの耳で聞いていた。
「——まあ、古い祭具に染みついた魔力が、妙な形で残る例は聞かんでもないが。あれだけ焼けば、大丈夫だろう」
大丈夫だろう。——その一言の危うさに、寝ぼけた頭は、引っかかりすらしなかった。
* * *
翌朝。
食堂の卓に、ヴェルナの週刊紙が広げられていた。シリウスが朝食の支度をしながら持ち込んだものだ。最近は街から定期的に届くようになっていて、わたしも目を通す習慣がついていた。
一面の見出しが、目に飛び込んだ。
——『漆黒の妖棒 ヴェルナに出没! 夜の路地で淑女を襲う謎の怪物 市は夜間外出の自粛を呼びかけ』
「……あなた」
「見た」
シリウスの声は、平坦だった。フライパンを火にかけたまま、背中をこちらに向けている。
「昨夜、ちゃんと燃やされたのでしょうね?」
「五本とも灰にした。——はずだ」
はず。その一語が、食堂の空気を冷やした。
記事を読み進める。目撃証言によれば、「黒光りする棒状の怪物が、暗がりから飛び出して女性に纏わりつく」のだという。形状は——記述するのも憚られるが——男の一物を思わせる細長い棒体で、先端が丸い。被害者に怪我はないが、恐怖のあまり気を失った女性が数名。
わたしは週刊紙を閉じた。
「……先々代の呪具に蓄積した魔力が、炉の火では焼ききれなかった。残滓が形をなして動き出したのでしょう」
「まあ、何かの間違いか、悪戯という線もある。今日は様子を見よう」
シリウスは卵を皿に移しながら、努めて冷静な顔をしていた。
* * *
翌日。届いた号外の一面。
——『漆黒の妖棒 異常増殖! 路地を覆う黒い群体 巨大な個体を中心にした巣を川端に形成か 市は討伐隊の編成を検討』
わたしは週刊紙を卓に叩きつけた。
「様子を見ている場合では、ございませんでしたわね」
「……だな」
シリウスは珈琲を一口飲み、カップを置いた。
「退治に行く。武器を用意してくれるか——封印の呪符を。仕掛けは、俺が考える」
「当然ですわ。——これは、わたくしの一族の始末です」
わたしは立ち上がった。恥ずかしさも憤りも、この際どうでもよかった。あの遺物が街の女性を怯えさせているのだ。アスフォデルの名に懸けて、始末をつけなければならない。
* * *
街へ下りたのは、まだ陽の高いうちだった。
彼が所望したのは、封印の呪符——武器だけだった。けれど、それだけで済ませないのが、わたしの流儀だ。戦装束まで、対で誂えた。
彼のものは、黒。東方の術士が纏うという狩衣を思わせる裁ちに、甲冑めいた芯を入れた、退魔の装束。金糸の紋様が袖と裾を走り、札を扱う手元だけは、きりりと引き締めてある。わたしのものは、白。彼の黒と対をなす、純白の狩衣。同じ金糸で対の紋様を刺し、緋色の帯を一筋、灯のように締めた。
封印の呪符は、彼の指定した箇所へ、一枚、縫い込んである。純白の狩衣の、ちょうど中心——場所の注文だけは妙に細かかったけれど、仕掛けの中身は、聞かされていない。仕掛けは、俺が考える。そう言った男の注文だ。従うほかない。
黒と白のふたりが大通りを行けば、道行く人々が振り返る。
「しかし、なんだな」
隣を歩く彼が、わたしの装束を、あらためて眺めた。
「武器を頼んだら、装束一式まで出てくるとは。さすが俺の奥さん、仕事が早い。呪符の位置も、注文どおりだ。——それにしても今回は、過度な露出のない、正統派じゃないか。たまには、いいな」
「……ひとこと余計ですわ」
過度な露出のない。——それはつまり、これまでの衣装への論評だ。頬が熱くなったが、否定の材料が、悔しいことに、ひとつもなかった。
彼はまるで人目を意に介さず、まっすぐに向かったのは——川端でも路地でもなく、食料品店だった。
そして、蒟蒻を、買った。
ひとつやふたつではない。棚にあるだけ、袋が膨れ上がるほど。店の親爺が目を白黒させるのにも構わず、彼は勘定を済ませ、袋を担いで店を出た。
「……あの。お伺いしても、よろしくて」
「罠だ」
彼は当然のように言った。
「連中の活動は夜。今のうちに仕掛ける」
川端の路地に着くと、彼は袋から蒟蒻を取り出し、短刀で、一本一本に、丁寧な切れ込みを入れはじめた。真剣な横顔だった。戦の前の武人の顔で、蒟蒻に、切れ込みを入れている。それを鼠取りに似た仕掛けに組み込み、路地の暗がりへ、ひとつ、またひとつと据えていく。
その意図を察した瞬間、わたしは袖で口元を覆った。——あの怪物どもを、これで、釣るというのか。
「あなた。わたくし——」
肩が、震えた。
「これほど心が沸き立つ戦は、千年、初めてでございます」
「そうか。光栄だな」
仕掛け終えると、彼は満足げに手を払った。あとは、日暮れを待つだけだ。
* * *
日が落ちた。
ヴェルナの街は、普段と比べてひっそりとしていた。夜間外出の自粛が効いているのだろう。通りには人影が少なく、店の灯も控えめだ。
川端に近づくにつれて、空気が変わった。生温い夜気の中に、魔力の残滓を感じる。古い——とても古い魔力の匂い。わたしの一族の、しかしわたし自身のものとは少し異なる、枯れた色の気配。
「いるな」
シリウスが剣の柄に手をかけた。「気をつけろ。——連中は、お前の弱いところを、知り尽くしている気がする。あくまで、予感だが」
弱いところ。その一言が、妙に、肌に残った。
路地の奥、崩れかけた壁と壁のあいだの暗がりに、何かが——蠢いている。
黒い。細長い。数は——十、二十ではきかない。路地の石畳を覆うように、黒光りする棒状の影が、ぬるぬると這い回っていた。
その中心に、一際大きな個体がいた。人の腕ほどもある巨体。表面には見覚えのある蔦の意匠が浮かび上がっている——あの木箱の中にあった、二番目に大きな呪具。いや、呪具だったもの。炉の火で砕かれた残骸が、蓄積された魔力を核にして、自律して動き出したのだ。
群体が、こちらに気づいた。一斉に先端がこちらを向く。——嫌な光景だった。
路地の暗がりで、ぱちん、ぱちんと乾いた音が続いた。小さな影が、切れ込みを入れた蒟蒻に食いついては、鼠取りの顎に挟まれて動かなくなる。ひとつ、ふたつ——十を数える頃には、石畳を埋めていた黒がだいぶ薄くなっていた。
けれど、蔦の浮き彫りの巨体だけは、蒟蒻に見向きもしなかった。
「雑魚は、まがい物で釣れる。——本命は、本物にしか来ん」
シリウスが、剣の柄に手をかけたまま言った。本物。その一語が、何を指しているのか。訊くまでもなく、頬が熱くなった。
「下がっていろ。まず俺が行く」
シリウスが剣を抜いた。月光を弾く白刃が、路地に一筋の光を走らせる。
斬撃。——弾かれた。
黒曜石の表面は、魔力で硬化していた。刃が通らない。巨体の個体がぐるりと身をうねらせ、シリウスに向かって突進した。彼は横に跳んで躱し、もう一太刀。今度は斜めに切り上げたが、やはり弾き返される。
「……硬いな。くっ——俺たちは、ある意味、兄弟のようなものだというのに。斬り合うことになるとはな」
「——は?」
「同じ女を慰めた者同士、と言っている」
「い、今それを言う必要が、ありますかっ」
叫んでから、気づいた。言い返した時点で、認めたも同然ではないか。彼は答えず、ただ剣を握り直した。——嵌められた。
シリウスが二合、三合と打ち込む。巨体は弾力のある動きで刃を逸らし、そのたびに周囲の小さな群体が四方から彼に纏わりつこうとする。足を絡め、腕に巻きつこうとする細長い影を、彼は蹴り払い、踏みつけ、剣の腹で弾いた。
「つ、強い……こいつは、あまりにも強い……。いったい、どれほど使い込めば、ここまでの魔力が——」
「あ、あなたっ」
「——蓄積するのか。純粋に、学術的な興味だ」
どこが学術ですか。抗議の声は、羞恥で掠れて、言葉にならなかった。
彼が膝をついた。息が上がっている。小さな群体に足を取られ、態勢を崩したのだ。巨体が嵩にかかって突進してくる。
「アステリア——こいつらの狙いは、お前だ。逃げるんだ」
「逃げません」
わたしは彼の前に立った。逃げも隠れも、するものか。この人が、わたしのために剣を振るってくれたのだ。それに——これは、わたし自身の過去が生んだ過ちだ。この身で、始末をつける。
——と。
シリウスが、倒れた。
がくりと膝から崩れ、石畳に片手をつき、剣を取り落とした。群体がざわめき、倒れた彼を囲むように這い寄る。
「シリウス……!」
巨体が、彼から視線を外した。わたしに向き直る。蔦の浮き彫りが、月光の下で鈍く光った。
——来る。
わたしは動かなかった。目を閉じ、来るべきものを待つ。巨体がまっすぐ、こちらへ向かってくる。禍々しい先端が——狩衣の、裾の奥へ、届こうとした、その瞬間。
「かかったな」
石畳に倒れていたはずの男が、剣を拾い上げて立っていた。口の端が、不敵に上がっている。
——芝居。最初から、芝居だった。
次の刹那、わたしの腰の奥——純白の狩衣の、ちょうど中心に、灼けるような光が灯った。彼の指定した箇所に、わたし自身が縫い込んだ、封印の呪符。——これが、仕掛けの正体だったのか。怪物を、わたしという餌でいちばん深くまで誘い込み、届く寸前に、至近で焼き払う設計。
わたしは、罠そのものだった。
光が走った。石畳から噴き上がった白い輝きが、群体を包み込む。巨体が悲鳴のような音を上げ——いや、悲鳴というよりは、空気の抜ける間抜けな音だった。黒い影が、端から塵になって崩れていく。蔦の浮き彫りの巨体が最後にひと震えして、粉微塵に砕けた。
白い粉塵が、夜風に散っていく。
路地に、静寂が戻った。
「——ふう」
シリウスが剣を鞘に収め、額の汗を拭った。それから、散り残った黒い塵を靴の先でつつき、呟いた。
「安らかに眠れ、妻の使用済みの呪具にして——俺の、兄よ。お前の役目は、もう終わりだ」
妻の、使用済み。
とうとう、はっきりと、言われてしまった。もう言い逃れの余地は、どこにもない。顔から火が出るとは、このことだった。
「……あなた、わたくしを囮に、使いましたわね」
「最も効率の良い方法だった。あいつらの狙いはお前だ。お前が立っていれば寄ってくる。寄ったところを、寸前で焼く。完璧だろう?」
「事前に言ってくださっても、よろしかったのでは」
「言ったら、お前は構える。構えれば、連中も警戒して寄ってこない。——それに」
彼は、こともなげに続けた。
「お前は、覚悟を決めて立つ女だ。知っていた。だから任せた」
——この人は、わたしの恥ずかしさも、わたしの魔力も、わたしの覚悟も、全部、使った。
「……呆れた方」
「褒め言葉として受け取っておく。——それにしても、無抵抗に身を任せようとしているようにも、見えたがな。……まあ、いい」
「よくありません。……見間違いですわ。お忘れくださいまし」
* * *
帰り道は、静かだった。
初夏の夜気が心地よく、虫の声が遠くに聞こえる。月は高く、わたしたちの影を石畳に落としていた。
しばらく並んで歩いてから、シリウスが口を開いた。
「ところで、アステリア」
「はい」
「あの木箱の他に——城のどこかに、同じような品が残っていたりは、しないか」
足が、止まった。
彼の顔を見た。穏やかな横顔。月明かりの下で、表情は読めない。
「……ございません」
「そうか」
歩き出す。三歩ほど進んで、彼がもう一度。
「本当に、ないな?」
「……ございません、ったら」
声が上ずったのは、夜気のせいだ。そういうことにした。
シリウスはそれ以上何も言わず、ただ小さく笑った。見上げた夜空の高いところに、天狼の星が光っている。——今夜ばかりは、あの星を、まともな顔で見上げられそうにない。
「……あなた」
「ん?」
「帰ったら、お茶を淹れますわ。労いに」
「そりゃありがたい。——先々代の茶器は、変な形をしていないだろうな」
「もう黙ってください」
彼が声を立てて笑った。わたしは唇を噛んで、それでも——口の端が、少し、緩んでいた。
* * *
翌朝の週刊紙には、小さな記事が載っていた。
——『漆黒の妖棒 消滅 原因不明ながら一夜にして沈静化 市は外出自粛を解除』
シリウスが記事を読み上げ、満足げにカップを傾けた。
「解決だな」
「……ええ」
わたしは珈琲に口をつけ、窓の外を見た。初夏の朝陽が、庭の緑を鮮やかに照らしている。
——城の奥の、宝物庫の隅の、もうひとつの小箱のことは。
言わなくていい。
あの五本が、すべて——では、なかったのだ。
だが、あの男の聖剣があれば、もう二度と必要のないものだ。今夜のうちに、こっそり、封印をかけ直しておこう。——今度は、魔力の残滓ひとつ漏れぬよう、厳重に。
「アステリア。顔が赤いぞ」
「朝陽のせいですわ」
「ふうん」
信じていない目だった。
——この男は、何もかも見透かしているのかもしれない。




