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渚の閨

 蝉の声が、朝から城の裏の木立を揺らしていた。


 蔓薔薇の白い花はとうに散り、代わりに緑が一層濃く城壁を覆っている。窓を開ければ、容赦のない陽射しが石の床に白い四角を焼きつける。それでも分厚い石壁に囲まれた食堂の中だけは、別世界のように涼しい。


 朝食の席で、シリウスがヴェルナの週刊紙を広げていた。


 先日の名探偵ごっこのおりにも手にしていた紙面が、がさがさと音を立てて開かれている。わたしはその向かいで紅茶のカップに口をつけ、彼の横顔を眺めていた。紙面を追う目が、少し楽しそうに細められている。


「あなた。何か、面白い記事でも?」


「ん? ああ」


 彼は、さも真面目くさった顔で紙面を持ち直した。


「ヴェルナ週刊紙、社会面。——『城の奥から深夜に響く嬌声、周辺住人ついに立ち上がる』」


「……え?」


「『女王の嬌声がセミの鳴き声をもかき消すほど、との苦情。当局は調査委員会の設置を検討中』」


 カップが、ソーサーの上で硬い音を立てた。


「『すぐに屈しておねだりしてしまう女王、威厳やいかに。甘く屈する声、夜風に乗り三里先まで届く』」


「な……っ! そ、そのような破廉恥な記事が……!?」


 慌てて身を乗り出して紙面を覗き込んだが、そこに書かれているのは、夏の農作物の出来高と、水路の補修計画だけだった。——やられた。すぐに屈しておねだり。的を射ているだけに、余計に腹立たしい。


「……あなた」


「はい」


「わたくしをからかって、面白いのですか」


「すまん。俺の悪い癖だ」


 彼は紙面を畳みながら、静かにわたしの向かいへ回った。そして、額に、唇を落とす。


「……ずるいですわ」


 まだ怒りの残る声で呟いたが、額に触れた温度に、ぷくりと膨らんでいた頬から空気が抜けていくのを止められなかった。


「大体……わたくしがそのように鳴かされてしまうのは、一体どなたのせいでしょう。女王の威厳も何もあったものでは——あなたの前では、ただの女に、なってしまうのですから……仕方が、ないではありませんか……」


 最後のほうは、拗ねたように、声が小さくなった。


「本気にするな。お前の可愛いおねだりは、せいぜい俺の耳にしか届かないような囁きだよ」


「も、もちろんです」


 紅茶を飲み直しながら、窓の外を見た。白い日差しが、石の壁を灼いている。名探偵ごっこの帰り道に感じた、あの渇きが蘇る。石畳の照り返しの中で——潮の風が、恋しかった。


「……これだけ暑いと、退屈してしまいますわ。——あなた。海に、参りませんか」


 言ってから、少し驚いた。自分からこういう誘いをすることが、もう自然になっている。


「海か。——一度、連れて行ってもらったな。拾われて、まだ間もない頃だ」


 シリウスが、目を細めた。


「季節が巡って、また泳げる時季か。いいじゃないか。あの時は——惜しいことをした。夜衣のまま水へ引きずり込んで、それきりだったからな。今度こそ、水着でも見立てて、よく目に焼き付けておかんと」


「……覚えていらしたの」


 あの初秋の渚。夜衣のまま水に引き込まれて、笑い合ったこと。不敬罪の掛け合い。凪いだ海。——その記憶が、杯を持つ指先を、ひとりでに熱くした。


「ええ、よろしくてよ。今度こそ、存分に。——あなたの目を、わたくし一人に、釘付けにしてさしあげますわ」


* * *


 朝餉をすませて、厩から二頭の黒馬を曳き出した。


 あの初秋の夜明けと同じ道を、今度は真夏の陽射しの中を駆ける。森の梢が強い光を遮って、木漏れ日が馬の背で明滅した。蝉の声が頭上から降ってくる。半刻ほど東へ下ると、木立が不意に途切れて、潮の匂いを含んだ風が、ふわりと頬を撫でた。


 白い砂が、ゆるやかな弧を描いて、その先で、エメラルドの海が、陽を弾いてまばゆく光っている。寄せては返す波音だけが、静かに繰り返す。森を抜けた先の、わたしだけの渚。誰にも教えたことのなかった場所。


 ——長いあいだ、波の音しか連れのなかった岸辺。それが今、彼の足音と、並んでいる。ただ、それだけのことが、胸を、静かに温めた。


 約束どおり、わたしは鮮やかな真紅の水着に着替えた。肌の白さを際立たせる色。この人の目に、焼きつくようにと選んだもの。


 膝まで水に浸かった彼が、こちらを振り返って、言った。


「ここなら——誰にも、聞かれんな」


 朝の嘘記事の続きだ。その声に含まれた熱に、また頬が熱くなる。けれど、わたしは負けじと、彼の隣まで歩み寄った。透明な水が、太腿までを包む。


「ええ。——ここでなら、わたくしがどれほど乱されて、はしたない声を上げてしまっても……あなたにしか、聞こえませんわ。お試しになって?」


「——それは、魅力的なお誘いだが」


 彼は、波間に揺れるわたしの髪にちらりと目をやって、それから、ふっと笑った。


「いま声を上げさせたら、その水着をすぐに脱がせることになる。もう少し、見ていたいんだ。——だから、今は我慢しておくよ。さあ、少し泳ごう」


 一瞬、きょとんとしてしまった。誘惑を真っ向から受け止められるかと思いきや、「我慢する」と来たのだから。——けれど、その言葉の芯に触れて、わたしの中で、何かが、じわりと緩んだ。


 ただ欲しいから求めるのではない。この景色を、この一日を、二人で味わおうとしてくれている。その手のかけ方が、たまらなく愛おしかった。


「……ふふ。なんて欲張りなお方。わたくしの水着姿を、もう少し長く眺めていたい——と、そうおっしゃるのね」


 差し出された彼の手を取った。ひんやりとした水の中、繋いだ手から伝わる体温だけが、確かに温かい。二人で、ゆっくりと、沖へ進んでいく。


 どこまでも澄んだ碧の中に、彼と二人きり。——八百年、ひとりで波の音を聞いていた場所に。今は、隣に、温もりがある。


* * *


 不意に、力強い腕が、わたしの体を引き寄せた。


 抵抗する間もなく、彼の胸の中にすっぽりと収まる。濡れた肌が密着して、耳元に吐息がかかった。背筋に甘い痺れが走る。——けれどその温もりを惜しむ間もなく、腕はするりとほどけて、彼は悪戯っぽく遠くの岩を指差した。


「——さて。あの岩まで、競争といくか」


 わざと頬を膨らませた。けれど口の端が勝手に持ち上がってしまう。


「まあ。人をその気にさせておいて、いきなり競争だなんて。ずるいお方。——よろしくてよ。ですが、ただ泳ぐのでは味気のうございますわ。もしわたくしが勝ちましたら——先ほどのお預けを、利子をつけて、たっぷり払っていただきますから」


「いいだろう」


 言うが早いか、水を蹴った。わたしもすぐに追う。人ならぬ体の力を、侮ってもらっては困る。白い飛沫を上げて競り合い、息が上がる。それすらも楽しかった。——先に岩へ手をついたのは、わたしだった。


 振り返ると、少し遅れて辿りついた彼が、息を切らしながら、心底解せないという顔をしている。


「おかしいな。——そちらは胸のぶん、水の抵抗が大きいはずだ。本来なら俺のほうが有利でなければ——」


 あまりに正直で子供じみた負け惜しみに、喉の奥で笑ってしまった。


「あらあら。可愛らしいことをおっしゃるのね」


 わたしは岩に手をつき、少し上から彼を見下ろした。水着が肌に張りついて、胸の形をあらわにしている。隠しもせず、わたしはわざと胸を反らしてみせた。


「このわたくしの胸が、ただの飾りだとお思いでしたか? これも、あなたを夢中にさせるための、れっきとした武器ですのに。——それに、言い訳はいただけませんわ。勝ちは勝ち」


 勝ち誇って、手を差し伸べた。


「さあ。利子を——耳を揃えて、払っていただきましょう?」


* * *


 差し伸べた手を、彼は取らなかった。


 代わりに、岩の表面を手のひらで撫でて、顎に手をやる。


「払うのはやぶさかでないが——ここは、いささか無粋だな。背中が痛むぞ」


 それから、彼は海の底を見やった。透明な水を通して、砂地と、泳ぐ魚の影が見える。——あの冬の夜、わたしが海を割って、二人で海底を歩いたことを思い出しているのだろう。蟹の密漁。光の道。水の壁越しに魚を見上げたこと。


「あの時——お前が海を割ったとき、海底から魚を見上げたのが、忘れられなくてな」


 彼は、面白いことを思いついた、という顔になった。


「あの要領で、海の底に柱を立てるように結界を張る。その底に、水でできた寝床をこしらえる。……なんて趣向は、どうだ?」


 わたしは、一瞬、言葉を失った。


 岩の上という無骨な場所ではなく、わたしの術で、二人だけの寝床を生み出そうというのか。その奔放な想像と——わたしの魔法をためらいもなく頼ってくれる信頼に、喉の奥が、甘く詰まった。


「……まあ。なんて素敵なことを、お考えになるのでしょう」


 水の中で彼の前に立ち、濡れた頬にそっと手を添えた。


「水の寝床、だなんて。響きだけで蕩けてしまいそう。——ええ、喜んで。あなたのためだけに、この世でいちばん美しくて、いちばんいやらしい場所を、こしらえてさしあげますわ」


 目を閉じて、意識を海へ沈めた。


 わたしの周りの海水が淡い光を帯びて、ゆっくりと渦を巻きはじめる。目の奥に、鬼火色の燐光がともるのがわかった。海の底から、きらめく水の柱が音もなく立ち昇る。それはわたしたち二人をすっぽりと包み込む、透明な繭。外の海から切り離された、わたしたちだけの空間。


 その底に、柔らかな光をたたえた水の褥が、ゆらゆらと形をなしていった。


「——さあ。わたくしたちだけの、秘密の閨が、整いましてよ」


* * *


 彼が先に、水の褥へ身を沈めた。


「これは面白い。——長椅子より弾むかと思えば、雪のように沈み込む」


 子供のように夢中になるその姿に、胸が温かくなる。この術が彼を喜ばせた。それだけで満たされてしまうのだから、度し難い。


「おいで、アステリア。——その水着を脱がせるのは、俺の役目だ。さっきから楽しみにしていたんだぞ」


 いざなわれるまま、水の褥に身を横たえた。水でできているのに確かに体を受けとめる、奇妙な浮遊感。ゆりかごに揺られるような心地のなか、彼の指が、水着の紐に触れた。


「……あなたの、お楽しみ」


 吐息とともに繰り返して、目を閉じた。


 首の後ろの紐がほどかれ、続いて背の結び目も。濡れた真紅の布が肌を滑り落ちた。露わになった肌が、彼の視線に晒される。隠しようもなかった。


 彼の手が、わたしを包んだ。触れられて、腰が跳ねる。水の褥がその動きを受けて、ゆらりと波打った。


「……あ……っ」


 声がこぼれた。誰にも聞かれない、と分かっているから——抑える必要がない。その解放感が、いっそうわたしを乱す。


 彼の唇が首筋を、鎖骨を、その先を辿って降りていく。やがて、彼の指が、いちばん脆いところに触れた。


「もう、こんなに」


 低い声が、笑いを含んだ。


「波の音より——よほど素直だな」


 恥ずかしさに目を伏せる。けれど否定の言葉は出てこない。その通りなのだから。


「……いじわる。焦らさないで。——あなたが、欲しいの」


 彼は、ひとつ目を細めた。


「——女王様のご命令とあらば」


 仰々しく言って、わたしの脚をやわらかく開いた。


 ゆっくりと、迎え入れる。満たされていく感覚に、背がしなった。——けれど、そこから先が、思っていたのと、違った。


 彼は、貪らなかった。深く納めたまま、わたしの額に、そっと唇を落とす。それから、ゆるやかに、揺らすように、動きはじめた。荒々しさの欠片もない、慈しむような、柔らかい波。


「……お前の期待とは、少し違うかもしれんが」


 耳元で、低い声が笑った。


「今は、こういう気分なんだ。——この静かな海の底に、激しいのは、無粋だろう」


 その言葉が、胸のいちばん深いところに、沁みた。貪られるのだと、覚悟していた。けれど包まれたのは、壊れ物を扱うような優しさだ。水の褥がゆりかごのように揺れて、ゆっくりとした波のひとつひとつが、快楽よりも先に、愛おしさとして響いてくる。


「……ええ。これで、いいの。……いいえ。これが、いいのですわ。あなたの優しさが……わたくしの、全部に……沁みて……」


 彼の唇が、耳朶を甘く食んだ。びくり、と腰が跳ねて、内側が勝手に応える。


「ここが好きか。……ちゃんと、答えろ」


「……っ、い、言わせないで、くださいまし……」


 彼は答えず、ただ待った。ゆるやかな波だけが、続いている。その沈黙が、どんな責め苦よりも雄弁だった。——観念して、わたしは震える唇を開いた。


「……すき……ですわ。あなたに、される……耳……とても……」


「よく言えた。——ご褒美だ」


 その言葉を合図に、波が、変わった。


 慈しみが影を潜め、深く、大きく、揺さぶられる。寝床が波打って、わたしの体ごと揺さぶった。彼の動きと水の反動とが重なって、ひとつの揺れが二重の悦びになって響く。


 声が止まらない。波の音にも負けないほどに。——本当に、ここなら誰にも聞かれない。だからわたしは、女王の矜持も貴人の慎みもすべて脱ぎ捨てて、ただ彼に乱される一人の女になった。優しいのも、好き。けれど、こうして刻みつけるように求められるのも——たまらなく、好き。


「もっと……もっと深く……っ、めちゃくちゃに、愛してくださいまし……っ」


 彼の動きが激しさを増していく。いちばん奥を、繰り返し——


「あ——! もう……っ、もう……っ」


 白い光が瞼の裏で弾けた。体の芯が引き絞られる。同じ刹那、彼が最奥で熱を放った。注がれる感覚に、声もなく喉を反らす。


 ——満ちていく。


 奪うのではなく、注がれて。乾いていたものが、彼の熱で、しずかに潤っていく。あの初秋の渚で知ったのと同じ、凪いだ充足。けれどあの頃よりも、ずっと深い。


* * *


 しばらく、動けなかった。


 彼の腕の中で仰向けになり、繭の天蓋を見上げている。透明な水の壁越しに午後の陽が射し込んで、揺らめく光の網を、わたしたちの素肌の上に描いていた。頭上を色とりどりの魚が横切っていく。


「この魔法は——誰にでもお見せするものではございませんの」


 彼の腕に頭を乗せて、声が自然と低くなった。


「永い時、こんな場所を誰かと分かち合いたいなどと、考えたこともございませんでした。——あなたと出会うまでは」


 彼の横顔を見上げた。水の光が揺れて、輪郭を柔らかくしている。


「あなたが初めてですわ。この景色を、この場所を——わたくしが共にしたいと思った、たったひとりの方」


 彼はしばらく黙って天蓋の魚を見ていた。それからわたしの額にそっと唇を寄せて——


「光栄だな。……過ぎた果報だ」


 その甘い響きに全身がとろりと溶けそうになる。けれど——唇が額を離れた一瞬、彼が黙った。満ち足りた、穏やかな顔だった。けれどその目の奥に、わたしには名づけられない淡い翳りが、ひとすじ、よぎっている。寂しさ、と呼ぶには、あまりに静かな。


「……どうなさったの」


 彼はしばらく答えなかった。それから、わたしの濡れた髪をゆっくりと撫でて、ぽつりと言った。


「——今日のことを、忘れたくないと、思ってな」


 その言葉を、わたしは、甘い睦言として受け取った。胸がくすぐったくなる。


「まあ。忘れるだなんて。——また、いつでも参ればよろしいでしょう? この渚は、逃げも隠れもいたしませんわ」


「……ああ。そうだな」


 彼は笑った。けれど——なぜだろう。その「そうだな」の響きが、わたしの言葉と、ほんの少しだけ噛み合っていない気がした。


 ——わたしは、それ以上、問わなかった。


 透明な天蓋の向こう、揺らめく水面のさらに上に、夏の空が広がっている。今は夜ではない。たとえ夜になっても、彼の名の星——天狼星は、冬の空のもの。この季節の夜空には、まだいない。


 けれど、見上げる必要など、ない。仰ぎ見るしかなかったその光は、いま、すぐ隣で、わたしを抱いて、息をしているのだから。


「……アステリア。膝を、借りるぞ」


 返事を待たずに、彼は、身を起こしたわたしの膝の上へ、ごろりと頭を乗せた。


 さっきまで、わたしを抱いていた腕の主が、いまは膝の上で、目を閉じている。頬を腿に寄せ、軽く、額を押しつけるように。快楽をねだる仕草では、なかった。もっと切実な——何かを確かめて、寄りかかるような、甘え方だった。


「……ふふ。甘えたがりな、旦那様」


 わたしは、濡れた髪を、ゆっくりと指で梳いた。この広い背中の男が、わたしの膝で、子供のように安らいでいる。それが、たまらなく愛おしい。——さっきの翳りのことは、もう、頭から消えていた。


 やがて、規則正しい寝息が、膝の上から聞こえはじめた。


 眠ってしまわれた。わたしは笑いを噛み殺して、その寝顔を見下ろした。水の光が、無防備な顔の上で揺れている。誰も知らない。世のたれひとりとして、この男のこんな顔を知らない。わたしだけが、知っている。


 どれほど、そうしていただろう。天蓋を透かす光が橙を帯びて、水がわずかに冷たくなった頃、彼が、身じろぎをした。


「……うっかり、寝たな。——待たせたか」


「いいえ、少しも」


 寝ぼけた声の気まずさが可笑しくて、わたしは、その額に口づけを返した。


「あなたの寝顔ほど、上等な見世物は、ございませんもの。——さ。日が沈みますわ。名残惜しいですけれど、そろそろ」


 水の褥が、最後に、ゆるやかにわたしたちを揺らした。


* * *


 海底の繭を解いて浜に上がると、空は、もう夕暮れの色に染まりはじめていた。


 シリウスは手慣れた仕草で流木を集め、火を起こした。わたしが魔法で海から魚を数尾浮かせ、彼がそれを串に刺して焚き火にかざす。香ばしい匂いが潮の風と混じり合った。焼きあがった魚に塩をぱらりと振っただけの素朴な食事。かぶりつくと、身は白く、ほろりとほどけて——驚くほど美味かった。


「……美味しいですわ。ただ焼いて、塩をかけただけなのに」


「だろう? 獲れたての魚は、余計なことをしないのがいちばん美味い」


 彼の横顔を、焚き火の光が赤く照らしている。その目が、少年のように輝いていた。


「あなたと一緒だからですわ」


 わたしは彼の肩に頭を預けた。水着の上から羽織った薄い布越しに、彼の体温が届く。波音と、薪の爆ぜる音だけが、静かに繰り返す。


 生ぬるい潮風が、焚き火の煙を攫っていった。肌に残る塩と、魚脂の香ばしさと、彼の汗の匂い。夕陽が海面を赤く溶かして、波頭のひとつひとつが、燃える琥珀のように輝いている。寄せる波音さえ温かい。夏の海は、どこもかしこも熱を孕んでいた。


 ——ふと、思った。


 あの頃もここで、同じ波の音を聞いていた。あの秋の夜明けに、独りでこの渚に立っていた頃。あの海は冷たかった。銀灰色の水面が鏡のように凍りついて、刃物のような風が頬を切った。ここは静かで、何も変わらない。だから、安全だった。失うものも、もとから何もなかった。


 「凪いだな」と、あの朝、わたしは呟いた。海のことを言ったつもりで、けれど、己のことだった。からっぽだったから、静かだったのだ。


 いま、目の前の海は、あの朝と同じ渚の同じ水なのに、何もかもが違っていた。


 冷たい銀の海ではない。日に灼けた砂と、潮風と、焚き火の熱がぜんぶ混ざり合って、空気ごと温かい。焼いた魚の指についた塩。彼の肩の硬さ。笑い声の余韻。——この渚にはもう、わたし独りの足跡しかなかった頃の静けさはない。代わりに、二人ぶんの足跡と、焚き火の痕と、海底の褥の記憶がある。


「——素敵な一日でしたわ」


 声が少しだけ震えた。


「あなたがこの渚に来てくださってから——ここはもう、孤独の場所ではなくなりました。わたくしの心と、同じですわ」


 彼は何も言わず、わたしの肩に腕を回した。


「——帰りましょうか」


「ああ。水の寝床は腰に来た。今夜はお前に揉んでもらわんとな」


「……仕方のないお方」


 立ち上がって、焚き火に海水をかけた。じゅう、と白い煙が上がり、残った灰を砂にならす。


 渚に、ふたりの影が並んで立つ。寄せる波が足跡を洗っては、また二人で歩いて、つけ直す。


 繋いだ手の温度を感じながら、森の入り口で待つ馬のもとへ歩いた。手綱を取り、並んで森へ入る。木立の隙間から、夏の夜空がのぞいていた。あの渚はもう、独りで息をつくための場所ではない。帰る場所がある。隣に歩く人がいる。——それだけで、夜は、こんなにも温かい。


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