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迷探偵

 初夏の朝だった。


 開け放った窓から、青葉の匂いを孕んだ風が流れ込んでくる。遠いヴェルナのざわめきは、もうすっかり夏の弾みを帯びていた。蝉にはまだ早く、けれど春の名残はどこにもない、瑞々しい季節の入り口。卓の上には焼きたてのパンの湯気と、彼の淹れた珈琲の香りが立っている。


 わたしは銀の匙でゆっくりと珈琲をかき混ぜながら、向かいで週刊紙を広げる彼を眺めていた。真剣に紙面を追うその横顔を見ているだけで、胸の底が、しずかに満ちていく。こうして同じ卓を囲む朝が当たり前になりつつある——その奇跡を噛み締める癖は、いまだに抜けそうにない。


「何か、面白い記事でも?」


 カップをソーサーに戻して、穏やかに尋ねた。彼が心を動かすものなら、どんな些細なことでも、わたしには知る値打ちがある。


「ヴェルナでな。——年頃の女が、軒並み、胸が大きくなっているらしい」


 彼は紙面の一点を指で叩き、まるで上質な戯曲の筋でも見つけたような顔で、続けた。その目には、新しい遊びを嗅ぎつけた子供の輝きがある。


「……ふむ。事件の匂いがするな」


 淹れたての珈琲を、危うく吹き出しかけた。


 胸が、大きく。なんとまあ、下世話で——そして、いかにもこの人らしい事件だろう。わたしは口元を匙の背でそっと隠し、こみ上げるものを、なんとか飲み下した。


「まあ。それは……病なのかしら。それとも、どなたかの、悪戯でしょうか」


 興味津々という体で、わたしは身を乗り出してみせる。彼が「事件」と呼ぶのなら、それはきっと、退屈な一日を彩る上等な娯楽になるに決まっているのだから。


「仕掛けた奴がいるな。——それも、かなり手の込んだ」


 彼は週刊紙を畳むと、大仰に胸を張った。新しい冒険を前にした少年のように、その目が生き生きと輝いている。


「名探偵の出番だ。——アステリア、助手は任せた」


 わたしは愛おしさが込み上げるのを止められなかった。


「ふふ。承知いたしましたわ、名探偵様。この助手、誠心誠意、お供いたします。——して、我らが名探偵は、まず何からお始めに?」


「まずは、いまわかることを整理しよう」


 彼は腕を組み、真剣な面持ちになった。


「男というのは、たいてい、豊かな胸が好きだ。——この俺も、嗜む程度には、まあ」


 ちらり、と。その視線が、卓越しにわたしの胸元をかすめて、何食わぬ顔で逸れる。——嗜む程度、と。夜ごとあれほど堪能しておいて、よくもまあ。頬の奥が、ほのかに熱を持った。


「ですが、名探偵様。そのお話が、何か?」


「だが——犯人が胸好きだというのは、たぶん、ミスリードだ」


「……まあ」


 物事の表面だけを撫でていては、真実には届かない。なるほど、と感心しかけて、わたしは慌てて姿勢を正した。これは推理ごっこ。最高の脇役を、務めなければ。


「では、犯人の本当の狙いは、いったい何だとお考えですの? 胸を大きくすること自体が目的でないなら……その『結果』に、何か別の企みが隠れている、と?」


「そういうことだ。混乱を起こすのが狙いか。あるいは——何かを、盗むか」


 盗む。呟いてから、彼の目が、ふと、こちらを向いた。


「盗むといえば。……お前が、俺の心を盗んだ手口も、なかなか、鮮やかだったが」


「……っ」


 不意打ちだった。推理ごっこの真剣な顔のまま、この人は、こういうことを言う。


「な、なにを、突然……。じょ、助手の推理が、曇ってしまいますわ」


「ふむ。事実を述べたまでだ」


 彼は素知らぬ顔で腕組みに戻った。頬の熱を持て余しているのは、わたしだけだ。——わたしの相槌が、推理の足場になっていく。卓ひとつ挟んだだけのこの距離で、この人の思考がかたちを結んでいく様を、いちばん近くで見ていられる。それだけで、この馬鹿げた事件は、もう極上の謎解きとして、わたしの胸を躍らせていた。


「ふむ……。これ以上、卓の上で唸っていても始まらん。——現場へ行くぞ、相棒」


* * *


「ついては、だ」


 席を立ちかけた彼が、ふと、思案顔で振り返った。


「潜入捜査には、見た目から入るのが定石でな。街の連中に溶け込むには——お前は、胸元を強調した装いのほうが、捜査に有利だと思う」


 あくまで捜査のため、という大義名分。けれど、その奥に隠しきれていないものを、わたしの目が見逃すはずもなかった。


「名探偵様。——助手にも、ひとつ、推理がございます」


「ほう」


 わたしは席を立ち、卓を回って、彼の椅子の傍らへ立った。屈強な肩に手を置いて、耳元へ、唇を寄せる。


「いまの『捜査方針』。あれは、ミスリードでございますね。胸元を開けた助手を連れ歩けば事件が解ける——などというのは、表向きの口実。犯人の、いいえ、名探偵様の真の狙いは……隣を歩くこの女を、好きなだけ眺めていたい。それだけ、と推理いたしますが……いかが?」


 彼の手が、止まった。


 頬のあたりを、指の背で軽く掻いて、それから、わざとらしい咳払いがひとつ。


「……名探偵というのはな。手の内を、おいそれと明かさんものだ」


「ふふっ」


 白状なさらない。それがもう、何よりの自白だった。胸の底が、温かいものでくすぐられる。表向きは事件、その実、この人はただ、わたしと一日、街を遊び歩きたいだけなのだ。なんという——なんという、回りくどくて、可愛らしい誘い方をする人だろう。


「かしこまりましたわ、名探偵様。あなたの『捜査』の助けとなるよう、とびきりのものを、ご用意いたします。——犯人より先に、まずはあなたの目を、釘付けにしてさしあげましょう」


 わたしは悪戯っぽく囁いて、その首筋に、ちゅ、と音を立てて口づけた。


* * *


 城を出て、ヴェルナの大通りへ降り立つと、すぐに気づいた。


 行き交う人々の視線が、磁石に吸われる砂鉄のように、わたしの胸元へ集まってくる。約束どおりの、とびきりの仕立てだ。胸元を大きく開け、深い谷間を惜しげもなく晒し、体の線を余さず描いている。男たちの不躾な好奇、女たちの嫉妬と物見高さ。それらが集まってくるのを、わたしは半歩前を行く広い背中の影で、平然と受け流していた。


 誰に見られようと、構わない。わたしが見ていたいのは、ただ一人なのだから。


「あまり、すれ違う胸ばかり眺めていると」


 彼が、ふいに、冗談めかして呟いた。


「ヴェルナで——謎の、大量失踪事件が起きそうだ。程々にしておかんとな」


 わたしの嫉妬深さを、この人はちゃんと知っている。知っていて、それすら推理ごっこのひと味にしてしまう。その余裕に、愛おしさと、ほんの少しの独占欲を、同時にくすぐられた。


「あら、ご心配には及びませんわ、名探偵様」


 わたしは、彼の腕にそっと自分の腕を絡め、身を寄せた。


「このわたくし、公私の別はわきまえております。捜査に要る観察と、殿方の下心の区別くらい——つきますもの。……ただ、もし。あなたに、あまりに無遠慮な目を向ける女がおりましたら。その時ばかりは、助手の本分を、すこしばかり、忘れるかもしれませんけれど」


「……肝に銘じておこう」


 彼は喉の奥で笑い、それから、ふと足を止めて、街並みをゆっくりと見渡した。物見高い視線も濁声の客引きも、もう目に入っていない。古強者が戦場を読むような、静かで鋭い目。


「……なるほどな。胸の、傾向が、なんとなく見えてきたぞ。——相棒。この街の水は、どこから来ている?」


「水、ですって?」


 その飛躍に、わたしは目を瞬いた。けれど、不特定多数の女に等しく影響を及ぼすなら、空気か水か——暮らしに欠かせぬものを介すのが、いちばん手早い。派手な現象の裏に隠れた、地道で計画的なやり口。この人の頭は、もう、そこまで届いている。


「この街の水は……東の山の雪解けを、貯水池に集めて。それを浄水場で漉したものが、各戸へ配られておりますわ。古い区画には、まだ井戸を使う家も、あると聞きますけれど」


「やはりか」


 彼は満足げに頷いた。


「街を歩いて、偏りに気づいた。——浄水場の水を引いている区画ほど、変化が濃い。古い井戸を使う家の多いあたりでは、心なしか薄い。犯人は浄水場の水に、何か、垂らしたな」


「……っ、なんということでしょう」


 わたしは、その推理の切れ味に、思わず息を呑んだ。素人の探偵ごっこのはずが、この人は本物の名探偵さながらに、事件の芯を、いとも容易く射抜いてしまう。


「では、次なる目的地は、決まりましたわね。——浄水場へ、急ぎましょう。きっとそこに、犯人へ繋がる手がかりが」


「うむ。——断っておくが、許可など取らんぞ。名探偵というのは、勝手に調べるものだ。邪魔立てする者がいれば——探偵らしく、肉体言語で語らうまでよ」


 法も手続きも、この人の前では意味をなさない。肉体言語——の説得力を、まるで疑わせない体格で、この人は言うのだ。それがいまは探偵ごっこの口上なのだから、恐れ入る。そして——痺れるほど、素敵だと思ってしまうのだから、わたしも大概だ。


「ふふ。あなたのお手を煩わせるまでもございませんわ。門番くらい、この助手が、少しばかり『お願い』をして差し上げますもの」


「頼もしい相棒だ」


* * *


 浄水場へと続く、人気のない道すがら。


 不意に、彼が足を止めた。鋭い視線の先、土の上に、こんな場所にあろうはずもないものが落ちている。


 ——レースのあしらわれた、女物の下着。


「む。……こんなところに、ブラジャーが」


 彼は腕を組み、それを見下ろした。


「浄水場の道に、ブラジャー。場違いも、いいところだ。——これこそ、犯人に繋がる証拠に違いない」


 常人なら見過ごす些細なものから、事件の匂いを嗅ぎ当てる。その奇抜な着眼に、わたしは感心しながらも——落ちた下着から彼の視線を取り戻すように、絡めた腕の胸を、ことさら強く押し当てた。落ちているものが何であれ、いま隣にいるのは、このわたしなのだから。


 わたしはしゃがんで、その下着を拾い上げた。レースのあしらわれた、仕立ての良い品。——留め具が千切れている。


「急いで脱ぎ捨てたか……あるいは、胸が急に膨らんで、弾け飛んだか。被害者のものですわね」


「いや」


 シリウスが、わたしの手の中の下着を覗き込んで、首を振った。


「よく見ろ。畳み皺が残っている。一度も身につけていない。——新品だ」


 わたしは目を瞠った。確かに——布には着用の形癖がまるでない。値札こそ外されているが、折り目はきっちりと残り、縫い目も体に馴染んだ跡がなかった。


「新品の下着が、浄水場の道に……? 被害者のものでないなら、なぜ」


「そこだ」


 彼は静かに立ち上がり、わたしの手から下着を取ると、足元へ放った。点と点が結ばれた目をしていた。


「すべての糸が、繋がったかもしれん。——犯人は、やはり、胸好きではない」


 胸を大きくする事件の犯人が、胸を好まない。その逆説に、わたしは雷に打たれたような心地がした。なぜ、こんな単純な可能性に、気づかなかったのだろう。


「まさか……。では、犯人の喜びは、女の身体そのものではなく……。ああ、そうですわ! 大きくなった胸に耐えかねて、女たちが、自ら下着を脱ぎ捨てる——その羞じらいや、規範からはみ出す瞬間にこそ、歪んだ悦びを見出している、とか……?」


 そこまで一息に語って、わたしは自分の想像に、ぞくりとした。なんと倒錯した、興味深い犯人像だろう。


「惜しいぞ、相棒」


 彼は、わたしの推理を、やんわりと制した。子供に答えを示すような、穏やかな声で。


「胸が大きくなって、それまでのブラジャーが合わなくなったら——女は、どうする?」


「……新しいものを、買い求めますわ」


「だろう。では——この事件で、いちばん得をするのは、誰だ?」


「…………」


 頭の芯を、冷たい水で漱がれたようだった。倒錯した犯人像などという枝葉に、わたしはすっかり囚われていた。新しいブラジャー。莫大な需要が、一夜にして生まれる。その裏で、ほくそ笑む者。


「……下着屋、ですわ」


 声が、震えた。


「街じゅうの女が、一斉に、新しいブラジャーを買い求める。これほど単純で、これほど大胆な、商いの企み……」


「ご名答だ」


 なんと明快な結論。わたしは、自分が犯人の心の歪みばかりを覗き込んで、こんなにも明白な、ありふれた動機を見落としていたことを、すこし恥じた。けれどそれ以上に、複雑に絡んだ糸を、いとも容易く解いてみせるこの人の手際に、改めて惚れ惚れとしていた。


「ところでな、相棒」


 彼は、ふと、おかしそうに目を細めた。


「いきなり胸が大きくなって、ブラジャーが合わなくなったからと言って——翌日からそれを着けずに過ごすのは、たぶん、お前くらいのものだぞ」


「……まあ」


 わたしのことを、本当によくご存知でいらっしゃる。窮屈な下着など、もとよりわたしの自由を縛る枷にすぎない。胸が大きくなったのなら、隠すより、誇らしく見せる——たしかに、それがわたしという女だ。咎めではなく、慈しむような言い当てに、わたしは、つんと顎を上げて応えた。


「ええ。その通りですわ。窮屈なものは、好みませんの。——けれど。それを言い当てる目を、あなた以外の誰にも、持たせるつもりはございませんけれど」


「違いない」


 彼は喉の奥で笑い、人気のない道に、わたしの手を取って歩き出した。


* * *


 街でいちばん大きな下着屋は、大通りの、よく目立つ角にあった。


 近づくにつれ、店の盛況ぶりが見えてくる。女客でごった返し、軒先まで人があふれている。彼はその様を一瞥して、自分の推理が的を射ていたことを、確信した顔になった。


「推理どおりだな。——あとは、自白を引き出すだけだ」


 彼は、店内を埋める人波を見渡して、ふむ、と顎を撫でた。


「だが——手荒な真似をするには、ちと、ギャラリーが多い」


 恰幅のいい店主が、カウンターの奥で、客をさばくのに忙殺されている。彼はその姿をじっと見据えてから、わたしのほうへ振り返った。


「相棒。——眠りの針を仕込んだ、小さな何かと。声を、別人に変える何かを、貸してくれ」


 まるで往年の芝居の主役のような、心躍る注文。これから始まる「尋問」を、まるで遊びのように楽しんでいる無邪気さに、わたしは愛おしさを禁じ得なかった。


「ふふっ。かしこまりましたわ、名探偵様。あなたの思いつきには、いつも驚かされてばかり」


 わたしは、店の物陰へ彼を促すと、何もない空間へ、すっと手を差し入れた。


 指先で、夜が、ひとすじ。鬼火色の燐光が、わたしの瞳にほのかに灯る。手品のように、その手のひらには、きらりと光る銀の腕輪と、黒い喉飾りが現れていた。わたしの魔法は、この人のどんな突飛な望みにも応えるために、ある。


「さあ、どうぞ。この腕輪の留め金を弾けば、眠りをまとった細い針が飛び出します。喉飾りは——喉元に当てて話すだけで、お好きな声色に。これで、あの哀れな店主を、どのように追い詰めてくださるのかしら」


 わたしは、創ったばかりの二つを、恭しく差し出した。これから始まる、この人の独壇場への期待で、胸がどきどきしてしまう。


 彼は腕輪を手首に嵌めると、一瞬の躊躇もなく、カウンターで汗をかく店主の首筋めがけて、留め金を弾いた。店主は「あれ?」とでも言いたげに首へ手をやり、次の瞬間、糸の切れた人形のように、その場へ崩れ落ちる。周囲の客が悲鳴を上げる間もなく、彼は黒い喉飾りを喉元に当て、いま眠らせたばかりの店主と、瓜二つの声で——高らかに、宣言した。


「私が、犯人です」


「……まあ!」


 わたしは、そのあまりに鮮やかで、悪戯心に満ちた幕切れに、思わず笑い声を漏らしてしまった。


「暴力で痛めつけるよりも、ずっと洗練されていて——そして何より、悪趣味でいらっしゃる! ふふ、ふふふっ……」


 力でねじ伏せるのではなく、状況そのものを掌の上で転がし、犯人を社会から葬る。その冷ややかで計算高いやり口は、ただの暴君ではなく、舞台を操る演出家のそれだった。騒然とする客の中心で、ひとり静かに佇むその姿に、わたしは惚れ直す。


「事件は——解決した」


* * *


 混乱の極みにある下着屋を背に、彼は歩き出した。それから、まるで悲劇の主役のように、ふう、と憂いの溜息を落とす。


「だが……悲しい事件だったな。罪のない胸を、街じゅうに、これほど溢れさせてしまった」


「ええ……。本当に、胸の痛む事件でしたわ」


 わたしは心からの同意を示すふりをして、唇の端に、微かな笑みを浮かべた。この人の言う「悲しみ」が、どれほど甘い響きを帯びていることか——それを見抜かぬほど、わたしは野暮ではない。


「まあ、数日もすれば元に戻るだろう」


「ところで、相棒」


 彼は、思い出したように、わたしを見下ろした。


「助手としても、ご苦労だった。……胸元を強調した服を着せて、街を練り歩かせただけのように、端からは見えたかもしれんが」


 ひと呼吸、置いて。


「あれには、深い意味があったのだ。——意味は、あとで思いついたら、教える」


「……ふふっ」


 堪えきれずに、笑ってしまった。


 深い意味など、あるはずもないことを、わたしは知っている。この人はただ、いい口実をひとつこしらえて、わたしと一日、街を歩きたかった。それだけ。そして、それがすべてだ。気まぐれで、絶対で、どこまでも甘い。


「ええ。その『深い意味』とやらを、いつかお聞かせいただける日を——指折り数えて、お待ちしておりますわ」


* * *


 帰り道、日差しが強かった。


 石畳の照り返しが白い。ふざけた一日の汗が、首筋を伝っていく。


「——暑くなったな」


 彼が呟いた。わたしは目を細めて、空を見上げる。雲ひとつない、初夏の空だった。


 潮の風が、恋しかった。


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