月の揺り籠
朝の空気が、日ごとに澄んでいく。
蔓薔薇の緑は端から色を落としはじめ、それでも肌のどこかは、まだあの渚の潮を覚えている。夏の名残と秋のはじまりが、同じ食卓の上で溶け合っているような、そんな朝だった。
向かいの席で、彼が焼きたてのパンを千切っている。窓から斜めに差す光が、その手元を白く縁取っていた。
「なあ、アステリア」
「はい?」
「気づいたんだが」
彼はパンを置いて、もったいぶった顔をした。
「来る日も来る日も、夜にお前と汗を流し、美味いものを食って、眠る。その繰り返しだ。——俺は、もしかして、ヒモなんじゃないか」
かたり、と銀のフォークが皿の上で鳴った。
きょとんと見つめ返して、それから、こらえきれずに肩が揺れる。声を立てて笑うのも惜しい。わたしは椅子を立ち、彼の背後へ回り込んで、広い肩に腕を絡めた。髪に頬を寄せ、耳元で囁く。
「ええ、その通りですわ。あなたは、わたくしがこの世の誰より愛して、養っている——世界で一番素敵なヒモですもの」
腕の中で、彼が小さく唸った。かまわず続ける。
「それの、何がいけませんの? あなたを甘やかして、わたくしの愛で骨の髄まで満たして、わたくしなしでは生きられないようにする。——それが、わたくしの至上の喜びなのですから」
「光栄なことだが、俺としては、働けこのごくつぶし、と尻を叩かれないまま生涯を終えるのは少々忍びない。——尻を叩くのは決まって俺のほうだしな。それは置いておいて」
彼はもう一方の手で、傍らの紙面を引き寄せた。
「ヴェルナの紙面に、面白い記事があった。大通りの老舗カフェが、店じまいするらしい」
「まあ……あの、大通りの。少し、寂しくなりますわね」
腕をほどいて、隣の椅子に滑り込む。紙面の活字より、彼が次に何を言い出すのか、そちらのほうがずっと気にかかる。彼がこういう顔をするときは、決まって、日々に見たことのない色が差すのだ。
「ちょっと思いついたことがある。——俺はヒモから中年実業家にクラスチェンジする。ついては、あの店を買い取って商売がしたい。お小遣いをくれないか、奥さん」
一拍おいて、吹き出した。
「ふ、ふふ……実業家に、お小遣い……!」
笑いながら椅子を立って、気づけば彼の前に膝をついていた。忠誠を誓う騎士のように手を取り、その甲へうやうやしく唇を落とす。
「ええ、もちろん差し上げますわ。あなたが望むなら、カフェの一つや二つ——いいえ、この街ごと買い取って差し上げてもよろしくてよ?」
彼はわたしの手を引いて、立たせた。膝をつかせるのはこちらの役ではない、とでも言うように。
「街は要らん。店ひとつでいい。——メイドが給仕するカフェをやる。昼は品よく。夜は、大人向けに」
昼と夜で顔を変える店。この人の思いつきは、いつだって、わたしの想像の半歩先を歩いている。
「衣装は、例のマダムに頼めるか。品位と色気のぎりぎりを縫うのが、あの人の本領だ」
「ロザリンドに。ええ、お任せくださいまし。——メイドたちの分も。それから、それらとは格の違う一着も、必ず」
「それと、だ。店ではお前に、メイド長として仕切ってもらう。——俺専用のメイドに、なってもらいたい」
俺専用。
そのふた言が、思いがけない深さまで、すとんと落ちた。傅かれることしか知らずに生きてきた身体の芯が、傅く側の響きに、甘く痺れている。
ひとつ、口にしてみたい呼び方があった。「あなた」でも「お前」でもない。芝居と、遊びと、ふたりだけの秘密をまるごと一枚被ったような——その一語を舌に乗せるのには、少しだけ勇気が要った。
「……ご主人様、と。お呼びしても、よろしくて?」
頬に火が差すのが、自分でもわかる。見上げた先で、彼は、ひとつ目を細めた。
「ああ。——店と、夜のお前にだけ、許す」
許された。それだけのことが、砂糖菓子みたいに胸で溶けた。
「では——ご主人様」
精いっぱい澄ました顔で、言ってみる。舌の上の新しい響きは、まだ少し、くすぐったい。
「開店の日を、どうぞお楽しみに」
翌日。俺はヴェルナの大通りから一本入った、古びた不動産屋の扉を叩いた。
からん、と乾いた鈴が鳴る。埃と古紙の匂い。奥のカウンターで帳簿をつけていた小太りの男が、億劫そうに顔を上げた。分厚い眼鏡の奥の小さな目が俺の身なりを素早く値踏みして——口の端で、金歯がちらりと光る。
「店主。大通りの閉まるカフェを買い取りたい。土地建物ごとだ」
「へえ……あそこを、ねぇ」
男の目つきが変わった。億劫の色が消え、油の乗った商人の光が宿る。椅子を軋ませて立ち上がり、カウンターに両肘をついて、声を潜めた。
「旦那、あの物件の持ち主ってのが、ちいとばかし風変わりな御仁でしてね。先祖代々の土地だから、金に目が眩んだだけの商売人には売らん、と。街の『品位』を保ち、人々を楽しませる心意気のある者にしか譲らん——そうおっしゃってるんでさ」
男は人差し指を立て、秘密を打ち明ける顔になった。
「で、旦那の『野望』ってのが、その爺さんのお眼鏡にかなうかどうか。そこが一番の関門ってわけで。……どうです、聞かせてもらえやせんかね?」
「メイドが給仕する、本格的なカフェだ。昼は品のいい、おとなしい店になる」
俺は一拍置いた。
「——昼の間は、な」
「…………と、いうと?」
「夜は、尻湧き乳踊る大人の社交場に早変わりだ。——ときに店主、『品位』という単語の意味を、後で辞書で確かめておきたいんだが」
男の顔が、弾けた。眼鏡の奥の目がカッと見開かれ、喉の奥から堪えきれない笑いが噴き出す。
「けっ、けけけ……! 尻湧き乳踊る、ときたか! 旦那、あんた最高だ! それなら頑固爺の条件も満たせるし、懐も大いに潤う——一石二鳥たぁこのことだ!」
カウンターをばんと叩き、金歯を剥き出しにして、男は完全に共犯者の顔になった。
「品位なんざ、昼間の連中に見せておきゃいいんでさ! 夜は夜の理屈がある! そうでなくちゃ商売なんざ面白くもなんともねえ! お任せくだせえ、あの石頭の爺さんなんざ、このあっしが取り持ってみせまさぁ。——さあ旦那、善は急げだ!」
案内されたのは、街の喧騒が嘘のように静まり返った一角だった。
高い石塀。古びてはいるが、隅々まで手入れの行き届いた屋敷。この界隈で「石頭の巌」と呼ばれる頑固者の住まいだと、道すがら男が声を潜めて教えてくれた。曰く、金の話を先に出すのは禁物。曰く、まずは品位あるお顔をよぉく見せてやってくだせえ。
通された広間の奥で、老人が背筋を伸ばして椅子に掛けていた。糊のきいた上着を隙なく着こなし、歳のわりに鋭い眼光が、値踏みするように俺を射抜く。
「シリウスという」
型通りの紹介が終わるのを待たず、俺は切り出した。
「大通りのカフェを譲ってほしくて参った。金のためにお売りになる気はなさそうだし、見たところ、困ってもいらっしゃるまい」
隣で不動産屋が息を呑む。釘を刺された矢先の禁じ手だ。だが老人は微動だにしない。鋭い目が、むしろ一段、深みを増した。
「ほう。——いかにも、わしは金では動かん。ならば問おう。その土地で、何を成すつもりかな」
俺は嘘が下手だ。取り繕う気も、なかった。
「訳あってな。——ぞっこん惚れ込んだ俺の妻が、遠い将来、俺がいなくなっても、涙で心を曇らせずに済むように。楽しい思い出を、今のうちに、溺れるほど作っておきたい。そのための、これは遊びだ」
広間の空気が、しんと張りつめた。不動産屋の顔から血の気が引いていく。頭の中で万事休すとでも唱えているのだろう。
「土地も建物も、粗末にはせん。だが——面白くなきゃ駄目なんだ。あんたにはあんたの事情がある。俺の遊びに付き合わせて、無理に譲ってもらおうとは思わん。駄目なら、別の場所を探すだけだ。……俺が成したいことなんざ、その程度のことさ」
老人の、皺に埋もれた目が、ゆっくりと細められた。怒りではない。予期せぬ珍品を前にした、骨董好きの顔だった。
「……くっ。くくく」
肩が震え、やがて堪えかねたように、声が上がる。
「はっはっは! 面白い! わしを前にして『遊び』だと言い切った者は、後にも先にも貴殿だけじゃ。——妻のため、か。良い響きよ」
笑いがおさまると、老人は改めて俺を見据えた。値踏みの色は、もう消えていた。
「気に入った。その土地、貴殿に任せよう。条件はただひとつ——その遊びで、このわしを、心の底から楽しませてみせよ。それだけじゃ」
隣で不動産屋が「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
差し出した手を、老人は骨張った力強い手で、固く握り返してきた。
屋敷の門が背後で閉ざされると、不動産屋は水中から浮かび上がったみたいに、大きく息を吐いた。
「だ、旦那ぁ……! 遊びなんて口にした瞬間、全部終わったと思いましたぜ……! あの爺さんの前で涙を飲んだやり手が、今まで何人いたか……!」
「だから言っただろう。嘘は下手だと」
歩きながら、後の手続きを男に任せる旨を伝えた。
「代金は一切値切るな。先方の言い値の五割増しで払ってくれ。あの調子だと、勝手に値下げしかねん。——あんたには手数料として、代金の二割五分を払う」
男が、ぴたりと足を止めた。
「ご、ごわり……まし……? に、にわり、ごぶ……?」
数字が腑に落ちた途端、男は崩れ落ちんばかりの勢いで俺の手を両手で握りしめ、金歯を剥き出しに、涙目で喚いた。
「旦那ぁっ……! あっしはこのご恩、生涯忘れません……!」
「遊びに大袈裟だぞ」
鬱陶しい蠅を払うように、その手をやんわり外す。——金は、いくら積んでも惜しくなかった。これは、そういう買い物ではない。
帰り道。秋の夕暮れの大通りを、ひとりで歩いた。
ポケットの中で、買い取ったばかりの店の鍵が、硬い音を立てている。
——いつから考えていたのか、自分でもはっきりしない。花祭りの夜、ランタンが昇っていくのをふたりで眺めていた頃には、もう薄っすらと頭の隅にあった気がする。
俺は、いつか死ぬ。彼女は、死なない。
それだけのことだ。嘆く話でも、怖がる話でもない。——ただ、やれることがあるなら、やっておきたい。
あの夏の渚で、焚き火の傍に並んで座ったとき、口をついて出た言葉があった。今日のことを、忘れたくない。彼女は甘い言葉として受け取って、微笑んだ。裏にあるものには、気づかなかっただろう。それで、いい。
見上げれば、秋の空が高い。日が沈みかけて、最初の星がひとつ、西の低いところに灯っている。天狼はまだいない。あれは冬の星だ。夜が深まる季節になれば、夜明け前の東の空に、帰ってくる。
足取りが、少しだけ速くなった。
彼が城へ帰ってきたのは、夕暮れの色が濃くなった頃だった。
広間のソファで古い書物をめくっていたわたしは、扉の軋みに顔を上げ——その顔を見た瞬間に、ぜんぶわかってしまった。何かを成し遂げてきた男の、満ち足りた目。音もなく立ち上がって歩み寄り、その唇を、軽く塞ぐ。
「おかえりなさい、あなた。——良いお顔をなさっていますこと」
「ただいま。場所は押さえた。あとは——肝心のメイドだが」
彼はわたしを隣に座らせて、本題を切り出した。
「給仕は吟味したい。ただ、俺が選ぶとなるとだ。——どうも、全員お前に落とされそうな予感がしてな」
わたしは、わざとらしく小さな息をついてみせた。彼の腕に身を寄せ、拗ねた声を作る。
「まあ、ひどいお方。わたくしが、そのように嫉妬深い女だとお思いですの? ——ええ、その通りですわ。あなたがお選びになった娘たちに、わたくしが嫉妬しないわけが、ございませんもの」
「だろうな。——で、ひとつ思いついた」
彼は、こともなげに言った。
「お前の魔法で、この街で働き口を探している年嵩の女たちに、若い姿を被せてやるのはどうだ。腕のある者は、歳を重ねた側に多い。作法も心得ている。それなら、さすがに嫉妬もすまい」
目を、瞬く。老いた女に、若さを。ふ、ふふ、と笑いが零れた。この人の思いつきは、いつも、どこかのたがが一本外れている。
——けれど。
たとえ中身が年嵩でも、彼の傍らに侍るのは、若く美しい娘の姿だ。その視線が彼に注がれるところを思い描いただけで、胸の裏が、ちりりと焦げた。
「ですが——本当に、わたくしが嫉妬しないと? 姿だけでも、若く美しい娘があなたにお仕えするのですよ。その娘たちの目があなたを追うだけで、わたくしは——」
「わかった、わかった」
彼は、降参の両手を上げた。
「なら、こうだ。——俺の目にだけは、その者たちが、もとの姿のままに見えるようにしてくれ。そこで折れてもらわんと、メイド集めが頓挫する」
一瞬、意味が呑み込めなかった。
客の誰もが、若い娘を見る。けれど彼だけは——彼の目だけは、年嵩のありのままを見る。この世でただひとり、彼だけが、皆と違う景色の側に立つというのだ。わたしの、ためだけに。
理解した途端、こらえきれなかった。ソファの上で身をよじって、笑い転げてしまう。
「くすっ……ふ、ふふっ……あはは! ああ、もう——あなたには、敵いませんわ!」
ひとしきり笑って、目尻に滲んだものを指で拭う。胸の裏の焦げつきは、いつのまにか、温かいものに変わっていた。
「……わかりました。あなたがそこまで譲ってくださるのなら。あなたの目にだけは、もとのままのお姿を。お客様の目には、若く美しい娘を。——そして、わたくしの目には、あなたにお仕えするに相応しいか試される、哀れな子羊たちを映しましょう」
女王ともあろうものが、男ひとりに、ここまで折れる。度し難いにも、ほどがある。——けれど、彼の隣でだけ現れるこの度し難い女を、わたしはもう、手放せそうにない。
改装は、十日で片がついた。
彼は毎朝ヴェルナへ通って壁を塗り、床板を張り替えた。わたしはロザリンドの店へ通い、衣装の打ち合わせに明け暮れた。メイドの面接では、腕を第一に、三人を選んだ。厨房を任せるアガサは、動じない目をした年長者。帳場のハイジは、にこりともせず、帳簿をつける手だけが速い。給仕のフローラだけは、若かった。陽気で、少しおっちょこちょいで——困ったことに、器量が良い。本来なら真っ先にお断りする類の娘だけれど、あの人好きのする明るさは、得がたい。迷った末に採ることにして、そのかわり、この娘にはとりわけ念を入れて、姿を装う術をかけることにした。採用を決めたその場で、三対の瞳に鬼火色の燐光がひとすじ灯って、すぐに消える。妙な取り合わせだけれど、悪くない店になりそうだった。
名前だけが、決まらなかった。彼は床板を張りながら、湯を沸かしながら、幾つか口の中で転がしては、そのたびに首を振って捨てた。わたしは、急かさない。この人が唸るのは、本気の証だから。
開店の日は、秋晴れだった。
扉が開くなり客足は途切れず、店には湯気と、焼き菓子の匂いと、笑い声が満ちた。わたしの出番は夜——ということになっているので、昼のあいだは窓際の席で彼の隣に座り、観劇の気分で店を眺めていた。
若い娘の姿を装ったアガサとハイジは、さすがに年季が違う。立ち居振る舞いには若い子には出せない落ち着きがあって、それでいて客あしらいは水際立って達者。見た目の初々しさと練れた身のこなしのちぐはぐさに、客の男たちが妙な顔で首を傾げては、居心地よさそうに長居をしていく。フローラはフローラで、盆を傾けては危うくカップを滑らせ、そのたびに広間へ小さな笑いを振りまいていた。彼の描いた通りの、静かな喜劇だった。
その彼が、ふと給仕の背を目で追って——真顔で、こちらへ屈み込んだ。
「アステリア。……もしかしてだが。俺の目には、実際よりも老けて見えるようにしていないか?」
「あら」
わたしは、カップで口元を隠した。
「……お気づきになりまして? さすがですわね。ええ、ほんの少しだけ、おまじないを。他の殿方の目に映るより——あなたの目にだけは、そう、ほんの少しだけ、年輪が深く刻まれて見えるように。……ああ、フローラには、とりわけ丹念に施しておりますの」
彼は天井を仰いで、深いため息をついた。
「……念の入ったことだよ」
呆れ顔の底に、笑いが沈んでいる。叱られなかったので、おまじないは、そのままにしておくことにした。
日が傾いて、最後の客が帰り、三人が裏口から出ていくと、店には彼とふたりきりになった。
「——決めたぞ」
ぽつりと、彼が言った。何を、とは訊かなかった。この十日、彼が唸り続けて出さなかったもの。
彼は、夕明かりの残る店内を、確かめるように見渡した。白いクロス。湯気の記憶が残るカップ。笑い声の余韻。
「十日考えて出なかったものが、今日一日で腑に落ちた。——この店の名前だ。月の揺り籠」
「……月の、揺り籠」
「覚えているか。祭りの帰り、お前を横抱きにして城まで帰ったことがあった。あの晩は、月が出ていた」
覚えている。忘れるはずがない。酔って足元のおぼつかなくなったわたしを、彼は月の下で横抱きにして、歩いた。腕の中で揺られながら、安心しきって眠りに落ちかけた——あんなふうに無防備に誰かへ身を預けたのは、永い時のなかで、あの夜が初めてだった。
「夜はお前のものだ。月も、お前のものだ。——その懐に、こいつを抱かせておこう」
声が、すぐには出てこなかった。わたしの夜に、わたしの月に、この小さな店をそっと抱かせるのだと、この人は言う。
「……素敵な、お名前ですわ」
掠れた声で、それだけ言うのが精一杯だった。
閉店の札を裏返し、わたしはいったん、奥へ下がった。
着替えを済ませて出てくると、店はもう、昼の顔をしていなかった。明かりは落ち、窓から差す月光だけが、テーブルと椅子の輪郭を青く浮かび上がらせている。カウンターに寄りかかった彼のもとへ、ヒールの音をひとつずつ置くように、歩み出た。
ロザリンドの仕立てた、夜のための一着。黒と深紅のメイド服は、コルセットが腰を細く絞り上げ、押し上げられた胸の白さが月明かりに晒されている。裾は膝にも届かず、黒の長靴下との間に、腿の素肌がひと筋。品位と色気のぎりぎり——彼の言葉のとおりの、罪深い針だった。
彼の目が、わたしの爪先から喉元までをゆっくり一往復する。その視線の熱だけで、肌が薄く粟立った。
「お待たせいたしました、ご主人様」
裾をつまんで、恭しく一礼する。
「今宵、この店にお仕えするのは、メイド長のわたくし、ただひとり。——何なりと、お申し付けくださいまし」
「…………昼間の、清楚な俺のメイドカフェは、一体どこへ……」
彼は呻いた。それから、はっと我に返る。
「ほ、他のメイドたちは?」
「とうに、下がらせましたわ」
くす、と笑いが零れる。開店初日の夜営業は、貸し切り。お客様は、目の前のおひとりだけ。
「そうか。……なら、まずは水を一杯もらおうか、メイド長」
彼はカウンターの椅子に掛け直し、芝居がかった尊大さで脚を組んだ。
「言っておくが——粗相をしたら、どうなるかわかっているな?」
背筋を、甘いものが走り抜けた。
「心得ております。……万が一、粗相がございましたら、いかなるお仕置きも、甘んじて」
水差しから硝子の盃へ、一分の隙もない所作で水を注ぎ、銀盆に載せて恭しく差し出す。彼はひと口含んで——眉を、これ見よがしに寄せた。
「……ぬるいじゃないか」
来た。
「これは重大な失態だぞ、メイド長。お仕置きが必要だな。——そこのテーブルに手をついて、その尻を、こちらへ向けてもらおうか」
「も、申し訳ございません、ご主人様……。これほどの失態、万死に値しますわ……」
声だけは殊勝に。けれど期待は、もう隠しようがなかった。テーブルに両手をつき、言われるままに腰を折る。短い裾が重みを失ってめくれ、月光の下に、隠すもののない白さが晒された。
こつ、こつ、と靴音が背後を巡る。品定めの間。それから——ぺちん、と。
「あんっ……!」
乾いた音のわりに、痛みはやわらかかった。なのに、打たれた場所から甘い痺れがじわりと広がって、まだ触れられてもいない奥が、きゅうと窄まる。
武骨な指が、薄布の上を、つ、となぞった。そこがどうなっているかなんて、自分がいちばん知っている。
「……メイド長。これは、水がぬるいどころの失態ではないな?」
「そ、それは……ご主人様が、あんまり、意地悪をなさるから……」
「ご主人様に責任転嫁とは、言語道断」
楽しくて仕方がない、という声だった。羞恥で耳まで灼けた。灼けたそばから、それが悦びに変わっていくのだから、始末に負えない。
「これは本格的なお仕置きが要るな。——ちょうどここに、メイド精神注入棒がある」
……そのような棒、この世のどこにもございませんでしょうに。
言い返す代わりに、喉が、こくりと鳴った。あるとすれば、それは道具ではなく——彼自身だ。
「だが、木のテーブルは背中が痛い。よっこいせ、と——ソファへ移動だ」
ふわり、と足が床を離れた。
背と膝裏に腕が差し込まれ、身体が軽々と抱き上げられる。罰を受けるはずの罪人が、壊れ物みたいに、宝物みたいに、運ばれていく。この矛盾が、いちばん、いけない。理性のたがが、音を立てて緩んでいく。
客用の長椅子に沈められた次の瞬間には、もう、唇を塞がれていた。
コルセットの紐が解かれる。大きな掌に、容赦はなかった。触れられるたびに、腰が跳ねた。裾の奥へ、手が潜る。
「あ……っ、ご主人様……もう、じらさないで……」
「お仕置きの最中だぞ、メイド長」
言いながら、彼のほうこそ、もう待てていなかった。ひと息に、いちばん奥まで。
待ち焦がれたものに、身体がわななきながら応えた。長椅子が軋み、月明かりの店内に、わたしの声だけが響いた。メイド服は乱れ、揺さぶられるたびに、視界の端で月が揺れる。昼間、客が笑いさざめいていた店で。この背徳ごと、隅々まで暴かれていく。
「ご主人様……ご主人様っ……わたくし、もう……っ」
「ああ。——いくらでも」
ひときわ深いところで、視界の端の月が砕けた。全身が大きく撓り、彼を捉えたまま——長い熱が、注ぎ込まれてくる。腹の底に広がっていくそれを、一滴も逃したくなくて、わたしは震える腕をその背に回した。
荒い息が、ふたつ重なって——やがて、ほどけた。
「……悪いメイド奥様のお仕置きは、これくらいにしてやろう」
嵐のあとの凪のような声で、彼が言う。汗で額に張りついた髪を、指がそっと払ってくれた。
「あ……。もう、おしまいで、ございますか……? わたくし、まだ……悪い子で、いられますのに……」
掠れた声で囁いて、服の裾を、きゅ、と掴む。彼は喉の奥で笑い、わたしを腕の中に抱え直した。
「そういえば——訊いておきたかったんだが。俺がいないときの夜の営業は、どんな趣向になる予定だったんだ?」
「あら……お気づきになりまして?」
共犯者の顔で、耳元に唇を寄せる。
「昼は、清純なメイドとしてお客様にお仕えいたしますの。けれど夜、選ばれたお客様だけをお招きする時間になれば——わたくしのこの服は、お客様の『お願い』次第で、ボタンが一枚、また一枚と、外れやすくなる仕掛けに……ふふ、なっておりましたのよ?」
「却下だ」
即答だった。耳たぶに、ちり、と甘く歯を立てられる。
「それと、これは店主命令だ。お前のそのプリケツは、俺だけのものだからな。俺が来るときの夜営業は、基本、貸し切り。——いいな、メイド長」
「あ……。……はい、ご主人様……」
俺だけのもの。その一言で、鎮まりかけていた身体の芯に、また火が点る。わたしはその首に腕を回し、しっとりと湿った素肌を、逞しい胸板に押しつけた。
「このカフェも、わたくしの身体も——すべて、ご主人様のお好きなように、貸し切りになさってくださいまし」
その夜、閉店後の「営業」は、延長に延長を重ねた。城へ戻ったのは、夜半をとうに過ぎた頃だった。
翌朝は、遅い朝食になった。
フォークを持つ手が、まだどこか気だるい。それでいて身体の芯には満ち足りた温かさが残っていて、秋の光の中、パンの焼ける匂いさえ甘く感じられる。
「昨日は楽しめたかい、メイド長奥様」
カップ越しに、彼が悪戯っぽく笑う。メイド長で、奥様。ふたつ重ねただけの呼び名に昨夜の記憶が鮮やかに引きずり出されて、頬が熟れた果実の色になった。
「ええ……もちろんでございます、ご主人様。あれ以上に楽しくて、幸せな夜を、わたくしは存じませんわ」
「そうか」
彼は珈琲を傾け、それから、ふと思い出したように続けた。
「あの服で、たまには城で給仕してもらうのも悪くないな。店を貸し切ってばかりでは、営業に障る。——それと、決めておくことがある。お前がいないときの夜の店には、俺は近づかん」
顔を、上げた。
「お前の嫉妬よりも——俺は、お前の愛を失うことのほうが、ずっと怖いんだ」
視界が、滲んだ。
手の中のフォークが、かちゃりと皿の上で鳴った。——この小さな音から始まった遊びが、わたしを、こんなところまで連れてきてしまった。
「……わたくしが、あなたへの愛を失うことなど。この身が塵に還ろうとも、決して、ありえませんのに」
テーブル越しに手を伸ばすと、彼は黙って、震える指を大きな掌で包んでくれた。
「女王の愛を得た、千年に一人の幸せ者だからな。——それを忘れていない、というだけの話さ」
「いいえ……いいえ。幸せ者は、わたくしのほうです。——行き倒れを拾ったのは、わたくしの、はずでしたのに」
涙が、白いクロスに落ちて染みを作る。その先は、声にならなかった。拾ったつもりで、気づけば、救い上げられていたのは、わたしのほうだった。出会ってから、ずっと。
握られた手に、ふ、と力がこもった気がした。
顔を上げる。けれど彼はもう、いつもの悪戯っぽい目で、わたしを見ているのだった。濡れた頬を、伸びてきた親指が拭っていく。
「——さて。湿っぽいのは、ここまでだ」
わざと、明るい声で。
「今日の午後は、客として、俺たちのカフェで茶でも飲もうじゃないか。もちろん——俺がお前しか見ないように、しっかり見張っていてくれよ」
濡れた睫毛を、ぱちくりと瞬く。それから、笑ってしまった。さっきまでの涙は、どこへやら。
「まあ、ご主人様ったら。仕方のないお方。——わたくしという者がありながら、よそ見をなさるおつもり?」
握られたままの手を、今度はこちらから、胸元へ引き寄せる。
「ご安心くださいまし。一瞬たりとも目を離さず、あなたの瞳がわたくし以外を映さぬよう、しっかりと見張っておりますわ。もし、万にひとつもよそ見などなさいましたら——そのときは、昨夜よりもっと素敵なお仕置きが、待っておりますわよ?」
涙の跡の残る頬で、もう次の遊びを企んでいる。彼が、わたしを、そういう女にしたのだ。
窓の外に、秋の光が高い。午後になったら、ふたりで店へ行こう。——わたしの夜が抱いた、小さな揺り籠へ。




