淑女のたしなみ
冬が城下へ降りてきて、月の揺り籠は、店を開いてからふた月めの賑わいのただ中にあった。
外は雪。窓硝子の向こうを、粉のような雪が街灯の光をくぐって舞っている。けれど扉の内側は、別の季節だ。暖炉が薪をはぜさせ、焼きたての菓子の甘い匂いと、淹れたての珈琲の香りが、磨き上げたマホガニーの卓のあいだを満たしている。給仕の娘たちが盆を捧げて行き交うたび、揃いの裾がふわりと弧を描いて、客たちの視線を攫っていった。
わたしは奥の柱のかげに立って、その光景を眺めていた。
——わたしの店だ。正しくは、彼の。けれど、この娘たちを束ねるのは、メイド長たるわたしの務めである。出会った頃のわたしに、おまえはいずれ城を出て、給仕の娘の差配をするのだと告げたなら、笑い飛ばしたことだろう。それも、こんなふうに——どこか面白がりながら。
調理場の奥では、アガサが菓子の天板を返している。年季の入った指が生地の縁を撫でて、火の通りを見極める手つきには、寸分の迷いもない。帳場のほうでは、ハイジが帳面に数字を刻んでいた。声を発するところを、わたしはこのふた月でほとんど見ていない。そして広間を一番よく歩いているのが、フローラだ。看板娘というには少々おっちょこちょいで、盆を傾けては危うく珈琲をこぼしかけ、そのたびに客から微笑ましい笑いを引き出している。
窓際の卓で、それは起きた。
昼から葡萄酒を重ねていたらしい身なりのよい男が、菓子を運んできたフローラの手首を、無造作に掴んだのだ。
「なあ、ねえちゃん。給仕のついでに、膝の上にも一皿どうだい」
フローラの肩が、びくりと跳ねた。盆の上で、銀の匙が小さく鳴る。逃げようと身を引くその腕を、男はなお放さない。娘の顔から、いつもの笑みがこぼれ落ちて、行き場をなくした目だけが、助けを求めて広間をさまよった。
その瞬間、わたしの指先が、冷えた。
怒りではない。もっと古い、もっと底のほうから来るものだ。——わたしの娘に、触れた。考えるより先に、わたしの足は柱のかげを離れていた。
「お客様」
声は、波ひとつ立てなかった。微笑みすら、たたえていたと思う。男のかたわらに立ち、わたしはフローラの手首を掴むその手へ、そっと自分の手を重ねた。あくまで穏やかに。けれど、重ねた指のあいだから、男の手の甲へ、しんと冷えたものを流し込みながら。
「当店の品書きに、その一皿はございません。——どうぞ、お放しを」
男の指が、勝手にほどけた。本人が一番、面食らった顔をしていた。自分の手が、なぜ言うことをきかなくなったのか、わからない様子で。わたしはその手を、ごく自然な所作で、卓の上の珈琲カップのほうへと導いてやる。傍目には、酔客に飲み物を勧める気の利いたメイド長に見えただろう。
「お足元の冷えに、温かいものを。本日はもう、葡萄酒はお控えになったほうが、よろしいかと存じます」
男は何か言いかけて、わたしの目を見て、口をつぐんだ。それきり、卓に向き直って、おとなしくカップを取った。
フローラを下がらせ、わたしは小さく息を吐いた。背後で、彼の気配がする。いつから見ていたのか。
「見事なお手並みだ、メイド長」
振り向くと、シリウスが腕を組んで柱に凭れていた。からかう響きはない。けれど、その目の奥には、別のものが灯っている。——案じる色だ。
「礼にはおよびませんわ、ご主人様。ですが」わたしは、まだ怯えの残るフローラの後ろ姿を見やった。「あの娘が、あの手を、ひとりで払えなかった。それが、わたくしは気に入りません」
彼は短く考えて、頷いた。
「夜の客は、昼より遠慮を知らん。給仕の娘ばかりに矢面を任せておくのは、店主として、寝覚めが悪い」
——そういう男だ。蓄えだの評判だのより先に、まず娘たちの寝覚めを案じる。出会った頃には、ずいぶん遠いところにいたはずの感覚を、わたしはいつのまにか、この男から分けてもらっている。
「ならば、お任せを」わたしは裾を払って、広間を振り返った。「店じまいのあと、皆を集めます。不埒な手を、淑やかに退ける作法を——わたくしが、仕込みます」
シリウスが、わずかに片眉を上げた。
「作法、ときたか」
「ええ。淑女のたしなみとして」
わたしの唇の端が、勝手にほどけていくのを、止められなかった。久方ぶりに、血の奥でなにかが立ち上がる感覚。——戦の支度だ。
* * *
その晩、最後の客を送り出し、扉に錠を下ろすと、月の揺り籠の広間は、昼の喧騒が嘘のように静まり返った。
暖炉の前に、店の娘たちが集められている。みな、何が始まるのかと、不安と好奇の入りまじった面持ちで、メイド長たるわたしを見上げていた。フローラは前のほうで、まだ少し肩を縮めている。アガサは腕を組み、ハイジは一番うしろで、いつもの読めない顔をしていた。
わたしは、その前に進み出た。
「皆。今宵あなたたちを留めたのは、ほかでもありません」声を、広間の隅まで届かせる。「昼間、フローラが不躾な手に掴まれました。あれは、あなたたちの誰の身にも起こりうること。この店が栄えれば栄えるほど、増えていくでしょう」
娘たちのあいだに、小さなさざめきが走った。
「嘆くことはありません。怯えることも。——あなたたちには、武器がないだけ。ならば、わたくしが授けましょう。不埒な手を、品位を欠かず、客を辱めもせず、それでいて二度とその気を起こさせぬほど鮮やかに退ける、淑女の作法を」
「メイド長」アガサが、年季の滲む声で口を挟んだ。「言葉にしてくださるのは、ありがたいことで。ですが、こういうものは、見ねば覚えられません。お手本を、頂戴できますので?」
もっともな申し出だ。わたしは頷いた。
「無論。これは、生きた教本でなくては意味がありません。わたくし自身が的となり、ひとつずつ、手本を示しましょう。——ですが、的があるなら、矢も要りますわね」
わたしは、ゆっくりと振り返った。広間のいちばん奥、暖炉とは反対側の壁に凭れて、腕を組み、なりゆきを面白そうに見物していた、その男のほうへ。
「ご主人様。お力添えを」
シリウスの眉が、はっきりと上がった。
「俺が、なんだって?」
「不埒な客の役を、お願いいたしますわ」わたしは、にっこりと微笑んだ。「この店で最も無作法な客人を、存分に演じてくださいませ。——遠慮は、無用です」
彼は、しばし黙ってわたしを見つめた。それから、ふっと息を吐くと、組んでいた腕をほどき、壁を押して立ち上がった。
「いいだろう」その口元に、覚悟とも悪戯ともつかない笑みが浮かぶ。「ただし、手加減はせんぞ。俺は今から、ヴェルナいちのろくでなしだ」
「望むところですわ」
* * *
シリウスが、しなを作るように肩を揺らして、わたしのほうへ歩み寄ってきた。真顔である。あくまで真顔で、その実、ひどい三文芝居だった。
「よお、別嬪さん」
据わりの悪い、けれど大真面目な声音。娘たちの何人かが、すでに口元を押さえている。
「ひとりで給仕とは、寂しかろう。なに、おれが相手をしてやる。まずは——その綺麗な手を、ちょいと貸してくれや」
言うなり、彼の手が、わたしの手首めがけて伸びてきた。
「——これが、一の手」
わたしは娘たちのほうを向いたまま、声を張った。男の指がわたしの手首に触れる、その寸前。わたしは掴まれかけた手を、ふわりと裏返した。逃げるのではない。迎えるのだ。ほどけた指のあいだを、わたしの手がするりと抜けて、逆に彼の手の甲を、軽く、けれど有無を言わせず押さえる。傍目には、差し出された手を恭しく取った給仕の所作に見えるよう。
「掴まれてから振りほどこうとするから、いけません。それでは醜く、こちらが取り乱したように見える。——触れられる前に、こちらから迎えにいくのです。優雅に、主導権ごと」
わたしは押さえた手を、そっと彼の胸元へ返してやった。
「掴むつもりが、いつのまにか手を返されて、引っ込めさせられている。客はそれを、無作法を咎められたとは気づかない。ただ、自分のほうが立てられたと思い込む。——これが、一の手。手で、捌く」
娘たちが、こくこくと頷いている。わたしは、視界の端でアガサが小さく感嘆の息を漏らすのを捉えた。
「ふん」シリウスが、芝居の声に戻る。「小賢しい給仕だな。だが、おれはあきらめが悪いぞ。——なあ、ねえちゃん。今夜の閉店後、おれの宿に来ねえか。たんまり礼ははずむ」
ひどい台詞である。あんまり大真面目に言うので、フローラがとうとう「ぷっ」と噴き出して、慌てて口を押さえた。わたしも、危うく頬が緩みかけた。——なんという人だろう。それでも、わたしは、にこやかに向き直る。
「——これが、二の手。言葉で、捌く」
わたしは、声に蜜を含ませた。淑やかに、限りなく丁重に。
「まあ、ご親切に。けれど、あいにくわたくし、夜は——もっと支払いのよろしいお方に、お仕えしておりますの。あなた様のような気前のいい殿方なら、きっと、わたくしごときに執心なさるより、もっとふさわしい相手をお見つけになれますわ。それだけのご器量と、ご分別が、おありでしょうから?」
言いきって、わたしは小首を傾げてみせた。
「お聞きなさい」娘たちへ向き直る。「ひとことも、断ってはいません。罵ってもいない。相手を持ち上げながら、退路を作って、そこへ押し出す。賢しい客ほど、自分から引きます」
二つの手本を、鮮やかに示してみせた。我ながら、完璧だった。娘たちが感嘆の目でこちらを見ている。フローラの目には、さっきまでの怯えの代わりに、きらきらした憧れが灯っていた。
——悪くない。
わたしは、つい、調子に乗った。
「覚えておきなさい。淑女とは、何ものにも動じぬ者のこと。わたくしはこれまで、差し出される手という手を、ただの一度も、己に届かせたことがありません。どのような甘い誘いであれ、乱されることなど——」
背後の気配が、変わった。
振り向くより先に、大きな手が、後ろからそっと胸に添えられた。三文芝居の不埒者の掴み方ではない。衣の上から、やわらかく包むように——幾たびもの夜、わたしに触れてきた、夫の手だった。
指が、布越しに、胸の先端をゆるりと擦り上げた。
「っ——」
声が、喉の奥で跳ねた。同時に、彼の膝が、後ろからわたしの足のあいだに差し入れられる。太腿の内側を、硬い膝頭が押し広げて、足の位置ごと、崩される。立っているのがやっとだった。何か言わなければ。止めなければ。娘たちが——
「ご主人、さ——」
そこまでだった。声は、途切れた。指が、もう一度、先端を擦る。腰の芯が甘く痺れて、抗議のかたちをした唇から、全く別のものがこぼれた。
「ん、ぁ……っ」
はしたない声だった。可愛らしいとすら言えない、喉の奥から搾り出されたような、甘い、生々しい喘ぎ。広間が静まり返っているから、隅まで届いた。——娘たちの目が、わたしに集まっている。恐ろしいメイド長が。何ものにも動じぬと言い切った女が。ご主人様に後ろから触れられただけで、あんな声を——。
見られている。その自覚が、恥ずかしさと一緒に、腹の底を、甘く、熱く、突き上げた。
彼の唇が、耳の縁を、軽く、噛んだ。
——それで、終わった。
ほんの小さな痙攣が、腰の奥から太腿を伝って、全身を、さらっていった。膝が抜け、視界がぼやけ、彼の胸板に背中から崩れ落ちる。声にならない声が、唇の隙間から細く漏れた。——皆の前で。何ものにも動じぬと宣言した直後に、耳をひとかじりされただけで、軽く達してしまった。
シリウスが、静かに腕をほどいた。ゆっくりと、壊れ物を置くように、わたしの身体を離す。
広間が、赤かった。フローラが頬を押さえ、アガサが目を逸らし、ハイジのペンが止まっている。
しばらく、声が出なかった。彼の胸板に預けられたまま、息を整えるだけで、いくつ数えただろう。ようやく、足に力が戻る。ようやく、唇が動く。
「今宵の講義は、以上です。見たものは——忘れなさい。解散」
忘れられるわけがない。わたし自身が、誰よりも、わかっていた。
がらんとした広間に、わたしと彼だけが残された。暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
「……落ちるのが早すぎる」
彼が、ぽつりと言った。呆れたような、惜しむような声だった。
わたしは、まだ火照りの残る頬のまま、かたわらの男を見上げた。上目遣いに。
「……それは、ご主人様が、わたくしをそう育てたのでしょう?」
声は甘く、けれど据わっていた。——わたしがこうも早く崩れるようになったのは、この男の手が、身体の鍵の在り処を、隅々まで覚えてしまったからだ。責めるなら、仕込んだほうを責めるがいい。
「……ですから。今夜——ちゃんと、続きをしてくださいますわね?」
彼の喉が、低く鳴った。
* * *
数日後——フローラが窓際の客の手を、皿の角度ひとつでかわした。アガサが焼き菓子の口上で男を笑わせて退けた。ハイジは帳面から顔も上げなかった。
わたしの隊は、上々だった。
フローラが、ふいにこちらへ振り向いて、小さく笑った。怯えの色は、ない。あの夜を経て、この娘は、わたしをほんの少しだけ、近くに感じているのかもしれなかった。
ふた月前、恋敵だと爪を立てた娘たちを、わたしはいま、自分の手で束ね、自分の翼の下に庇っている。——年嵩の者には若い面影を。フローラには、彼の目にだけ映る余分な年輪を。わたしの嫉妬がかけた幻は、まだ要るのだろうか。その問いを、わたしは、そっと脇へ置いた。今では、ない。
その晩、城へ帰る道すがら、シリウスがふと言った。
「なあ。一の手も二の手も結構だが——そもそも、おいたをした客が二度とこの店にたどり着けなくなれば、話は早くないか」
わたしは足を止めた。
「……呪いを、かけろと?」
「店の敷居に、ひとつ。おまえの得意だろう」
得意だった。得意も得意、そういうことなら、一の手も二の手も要らない。客あしらいの作法も、淑女のたしなみも、あの夜の講義も——何ひとつ、要らない。
……先に言ってほしかった。
翌朝、月の揺り籠の敷居に、ごく控えめな呪いがひとつ、刻まれた。不埒な手を出した者は、次に店を訪れようとすると、なぜか道に迷い、気がつけば街の反対側に立っている——という、それだけのものである。
淑女のたしなみ講座は、一夜かぎりで閉講となった。




