↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/16

商店街対抗スタンプラリー

 根雪がわずかに緩んで、石畳の溝を水が走った日だった。


 その日の月の揺り籠は、昼の客がはけて静まり返っていた。アガサが調理場の後片づけを終え、フローラが最後の卓を拭き、ハイジが帳面を閉じて三人とも帰った後——わたしは、カウンターの端に頬杖をついていた。


 向かいに、シリウスが座っている。閉店後の店に二人きりで残るのは、このところの習慣だった。暖炉の火が落ち、蝋燭の灯りだけが磨き上げたマホガニーの表面にぬるく揺れている。彼が珈琲を飲み干して、カップを置いた。


「商店街で、スタンプラリーをやるそうだ」


「……すたんぷらりー?」


「客が店で買い物をするたびに、判を押してもらう。集まった判の数を競って、景品が出る。——うちも参加する。当然、一番を取る」


 彼の目に、遊びを見つけた男の光が灯っている。その光を見ると、わたしの退屈な日々に、また見たこともない色が差すのだ。


「それに、裏の顔もあってな。押した判の数で、賭場が立つらしい。各店の判は独自のもので、後から集計する寸法だ」


「まあ……賭場。ふふ、やはり、ただの催しで終わるはずがございませんわね。——そういう匂いのする話を、目敏く拾っていらっしゃること。さすがは、わたくしのご主人様。遊びの嗅覚が、常人とは違いますわ」


 込み上げてくる笑いを、抑えられなかった。商店街の活気という大義名分の裏で、人の欲を煽り、賭けの的にしてしまう。その悪戯な壮大さに、魂が痺れる。


「景品はどうしますの。——メイド長たるわたくしが、一日おもてなしをする券、というのは?」


 試すように言った。シリウスが、カップを置いたまま、こちらを見た。


「却下だ。おまえは俺の専属メイドだ。他の客に差し出すものじゃない」


 短い言葉だった。飾りもない。けれど、その一語で、胸の底が、すとんと満たされた。——ああ、この男はいつもこうだ。こちらが試しにかけた言葉を、何の衒いもなく、真正面から断ち切ってくる。その断ち方が、たまらない。


「……では、メイドたちとの秘密のお茶会への招待状、といたしましょう。わたくしも同席いたします。——ただし、わたくしの席は、当てた客人の隣ではなく、必ずご主人様のお隣に」


「悪くない。それで行こう」


 彼が頷いた。それから、少しばかり眉を寄せる。


「ひとつ、気がかりがある。——うちはサービス重視で、客の回転が遅い。数の勝負では、少々不利だ」


 わたしは、頬杖を外した。彼の懸念は、正しい。ただ卓を回すだけの店に比べれば、この店の流儀は、たしかに手間がかかる。


 けれど、それだけではない。わたしには、もうひとつ、気になっていることがあった。


「ご主人様。——不利なのは、回転だけではございませんわ」


 彼が、こちらへ目を向ける。


「この店の客は、その大半が殿方。美しいメイドを一目見ようと、足を運んでくださいます。——ですが、それは裏を返せば、女のお客様を、まるごと取りこぼしているということ」


 言いながら、わたしは、自分の指先を見つめた。街を歩く女たちのことを考える。連れ立って茶を飲み、菓子を選び、噂話に花を咲かせる、あの人たち。この店は、あの人たちの足を、一度も止められていない。


「判の数で競うのなら、客は多いほどよい。殿方だけを相手にしていては、初めから、数で半分を捨てているようなもの。——女のお客様を取り込む手立てが、要りますわ」


「なるほど」


 彼が、顎に手をやった。わたしの言葉を、面白がっている目だった。


「で、腹案はあるのか」


「ございますとも」


 わたしは、背筋を伸ばした。胸に、新しい遊びの火が灯る。


「新しい品を、作りましょう。——ただ美味しいだけでは、どの店でも出せます。この店にしか出せない、女のお客様が、どうしても欲しくなるような、そんな一品を」


* * *


 三日後。月の揺り籠の奥に設えた小部屋に、わたしは三人のメイドを集めた。


 上座には、シリウス。商品開発には自分も加わる、と彼は言って聞かなかった。わたしの右にアガサ、左にフローラ。そして少し離れて、帳面を抱えたハイジが控えている。


「新しい品を作る。——メイド長、面子を紹介してくれ」


「はい、ご主人様。——右がアガサ。この店の菓子は、すべてこの者の手によるもの。ヴェルナ随一の腕でございます」


 アガサが、動じない目で、静かに頭を下げた。


「左がフローラ。給仕の看板娘ですけれど、少々、そそっかしいのが玉に瑕。——そして奥のハイジが、勘定と段取りのすべてを握っております」


 フローラが「そそっかしくなんて……」と口を尖らせかけて、手にした羽根ペンをぽろりと落とした。誰も、何も言わなかった。ハイジは、にこりともせずに帳面を開いている。


「よろしく頼む」シリウスが言った。「作りたいのは、ただの新作じゃない。——食べると、効き目のある品だ」


 アガサの眉が、わずかに動いた。フローラが、きょとんと首を傾げる。


「効き目、でございますか」


「そうだ。たとえば——意中の相手ができた娘が、その晩だけ肌を艶やかにしたい、とかな。悩みにぴたりと効く、そういう一品だ。メイドカフェらしく、効能を匂わせる、優雅な名前で」


 わたしは、思わず微笑んだ。なんという発想だろう。ただ腹を満たすだけの料理を、悩みへの処方箋に変えてしまう。そんなことを思いつくのは、この人だけだ。


「まあ……召し上がることで、効き目を。ふふ、それは、女のお客様の心を、まっすぐに掴みましょうね」


「魔法を使うことになるが、できるか」


「できますとも。この身の術は、こういう遊びのためにこそございますの」


 アガサとフローラの前だ。多くは語らない。けれど、この二人は、わたしがただの人でないことを、とうに承知している。この店の娘たちの装いは、そもそもわたしの術の産物なのだから。


「よし。では、最初の一品だ」シリウスが、身を乗り出した。「もう少し、踏み込んでみよう。——たとえば、砂鉄みたいに黒々とした脇毛が、生えてきそうな」


 場の空気が、一瞬、止まった。


 アガサが、手にしたメモ帳を取り落としそうになる。フローラは、好奇心で目をらんらんと輝かせて、前のめりになった。


 ……脇毛。


 わたしは、ティーカップに口をつけて、頬に上りかけた熱を隠した。淑やかなメイド長の仮面の下で、思考が、ひとつの方向へ走り出す。——砂鉄のような、黒々とした脇毛。それを、この人が、望んでいる。


(ご主人様は、毛深いお姿が……お好き、なのだわ。脇と仰ったのは、きっと、ご遠慮。——でしたら)


 そう思った瞬間には、もう、わたしの口は動いていた。


「……承知いたしましたわ。でしたら、名前は——そうですわね、『黒き女神の抱擁』、などはいかがでしょう」


「いいじゃないか。それで行こう」


 彼が、満足げに頷いた。その笑みを見て、わたしの確信は、ますます深まった。


「試作品が要りますわね。……ご安心くださいまし、ご主人様。最初の被験体は、このわたくしが務めます。ご主人様がお望みのお姿を、この身で、確かめていただきましょう」


 アガサとフローラが、その言葉の意味を測りかねて、顔を見合わせた。けれど、わたしの胸は、奇妙な高鳴りに満ちていた。この人の望みを、この身で叶える。それこそが、メイド長の、そして女としての、至上の悦びなのだから。


「試食会は、十日後だ」シリウスが言った。「頼んだぞ、メイド長」


* * *


 約束の十日後。調理場の隅に設えた卓の上に、銀の覆いをかぶせた皿が、恭しく置かれていた。


 アガサが選び抜いた最上のチョコレートに、幾種ものハーブを練り込み、そこへわたしが魔力を込めた。艶やかな黒の輝きを放つ、小さなドーム型の菓子。表面には金箔が星屑のように散り、傍らには深紅のソースが添えられている。妖しく、美しい一皿だった。


 アガサとフローラが、固唾を呑んで見守っている。ハイジは少し離れて、帳面を開いたまま、なぜかこちらを眺めていた。


「では、始めよう」シリウスが言った。「——その前に、アステリア。おまえの脇を見せてくれ」


 アガサとフローラが、困惑した顔を見合わせる。けれど、わたしには、その言葉の意味が痛いほどにわかった。効き目を正しく確かめるには、まず「前」の状態を、その目に焼き付けておく必要がある。


「かしこまりましたわ、ご主人様。どうぞ、ご検分くださいまし」


 わたしは、メイド服の肩口を、ゆっくりと引き下げた。白い肌が露わになり、滑らかに整えられた脇が、彼の視線に晒される。そこには、一本の無駄な毛もない。完璧に手入れされた、清らかな肌。


 彼の指が、そこにそっと触れた。確かめるように、輪郭を辿る。ただそれだけの、検分のための仕草。それなのに、指先の熱が、背筋を甘く駆け上がって、わたしは思わず息を詰めた。膝が、わずかに震える。アガサとフローラが、目の前の光景に、顔を真っ赤にして固まっていた。


「ん……っ」


「——なるほど。毛は、生えていないな」彼が、身を引いた。「では、食べさせてやろう。口を開けろ」


 わたしは、まだ熱の残る脇を隠すことも忘れ、されるがままに口を開いた。銀の匙に乗った『黒き女神の抱擁』が、ゆっくりと運ばれてくる。彼の指が唇に触れた瞬間、身体がまた、甘く痺れた。


 口の中に、濃厚な甘さと、幾種ものハーブの芳香が広がる。飲み下した途端、胃の腑から熱い塊がせり上がって、全身の血の巡りを、駆けめぐった。


「あ……ご主人様。なんだか、身体の芯が、熱くて……ご覧、くださいまし……」


 舌が痺れて、うまく回らない。わたしは、答える代わりに、検分を受けたばかりの脇を、もう一度、彼へ晒してみせた。


 先ほどまで滑らかだった白い肌の毛穴が、ぷつ、ぷつと粟立ち、そこから、黒く硬いものが——まるで芽が土を押しのけるように、ゆっくりと、けれど確実に、姿を現し始めていた。——脇だけでは、なかった。掲げた腕の内側にも、同じ芽吹きが、走っている。


 アガサが、悲鳴を上げそうになるのを、両手で口を覆って堪えている。フローラは、腰を抜かしかけて椅子にしがみついた。ハイジだけが、つかつかと歩み寄って、わたしの手首を取り、脈を測り始めた。相変わらずの無表情で。


「……見事に、生えたな」シリウスが、感心したように言った。「メイド長、副作用は大丈夫なのか」


 その言葉に、胸が締めつけられた。この異様な変化よりも先に、わたしの身を案じてくださる。脇だけでなく、腕にも、露わになった胸元にも、脚にも、黒く硬い毛が広がり始めているというのに。


「ご心配には、及びませんわ、ご主人様。むしろ、身体の奥から、力が湧いてくるよう……ああ、ご覧くださいまし。ご主人様の望まれた通りに、この身は変わってゆきます。——この姿、お気に召しまして?」


 わたしは、毛むくじゃらになった腕を、彼に向かって広げた。恍惚として、その返事を待つ。この剛毛のちくちくとした感触すら、彼の望みが形になった証だと思えば、愛おしい。


「……いや」彼が、きっぱりと言った。「元の、つるつるのおまえのほうが好きだ」


 時が、止まった。


 悦びの絶頂から、突き落とされる。実験の成功に酔っていたわたしの心が、一瞬にして、凍りついた。アガサとフローラが、どう反応してよいかわからず、わたしと彼の顔を、おろおろと見比べている。


「……っ、そ、そうでございましたか……! も、申し訳ございません、ご主人様……! わたくしとしたことが、ご主人様のお好みを、履き違えるなど……! すぐに、すぐに戻しますわ!」


 わたしは、我に返って、全身を覆う忌まわしい毛を掻きむしるようにしながら叫んだ。喜ばせるはずが、不快にさせてしまった。その事実が、何より耐えがたい。指を鳴らし、自らに解呪の術をかける。


 勢いよく生え揃っていた黒い毛が、まるで幻だったかのように萎れ、はらはらと床に抜け落ちていく。数秒の後には、元の白く滑らかな肌が、また姿を現していた。


「よかった」彼が、安堵の息をついた。「——しかし、どこで履き違えた? 俺が全身剛毛好きだ、なんて話じゃなかったと思うんだが。——なあ、アガサ、フローラ」


 突然話を振られた二人が、びくりと肩を震わせて、助けを求めるようにわたしを見た。その目が、「私たちは何も……」と語っている。


「……まことに、申し訳ございません。すべては、わたくしの、早とちりでございました」


 わたしは、床に散った毛を見つめながら、消え入りそうな声で言った。顔から火が出そうだった。


「ご主人様が『脇に、黒々とした毛が生える品を』と仰ったのを、てっきり、毛深いお姿がお好みなのかと……。ご主人様を、喜ばせたい一心で、先走ってしまいましたの」


 この人の奇抜な思いつきを、そのままこの人の好みだと、短絡に結びつけてしまった。もっと愛されたい、もっと悦んでほしい——その暴走した想いが、判断を曇らせたのだ。わたしは、その場に膝をつき、深く頭を垂れることしかできなかった。


「まあ——俺が案を出したのを、棚に上げて言うんだがな」


 彼が、ぽつりと付け足した。アガサとフローラの肩から、ふっと力が抜けて、小さな笑いの気配が漏れる。


 彼が、跪いたわたしの頭に、そっと手を置いた。出来の悪い子供をあやすように、優しく撫でる。


「アステリア。——ありのままのおまえが、いちばんいい」


 顔を、上げた。


「おまえは、俺の心を、わかっていないな」


 その言葉が、その手の温もりが、先ほどまでの羞恥と自己嫌悪を、春の雪のように、優しく溶かしていく。


 ……そうだった。この人が本当に望んでいるのは、奇抜な魔法でも、特別な奉仕でもない。ただ、わたしがわたしのまま、この人の傍にいること。その単純で、いちばん大切なことを、わたしはまた、見失いかけていた。


 視界が、じわりと滲む。千年のあいだ、呪われたものと思っていたこの身を、この人は、ありのままでいいと言う。膝をついたまま、わたしは、彼の手に、そっと頬を寄せた。


* * *


「しかし、惜しいな」


 しばらくして、彼が、床に散った毛を眺めながら、ふと呟いた。


「毛を生やすより——生えてこなくする品のほうが、よほど需要がありそうだ」


 わたしは、涙の滲んだ目を瞬いた。その一言が、頭の中で、ぱっと形になる。


 生やすのではなく、生えてこなくする。滑らかな肌を、労せず手に入れる。——それは、この街のすべての女が、喉から手が出るほど欲しいものではないか。


「……ご主人様」わたしは、思わず膝立ちのまま、身を乗り出した。「それですわ。女のお客様が、本当に欲しいのは、それ。——手入れの要らない、絹のような肌。今の失敗の、ちょうど裏返し。生やす術があるのなら、消す術も、必ず組める」


「作れるか」


「作れますとも。むしろ、こちらのほうが、ずっと易しゅうございますわ」


 剛毛化の術を、この身で通したばかりだ。その道筋を反転させればいい。生やす魔力の指向を、断つ方へ向け直す。方法は、もう頭の中にあった。


「アガサ、フローラ。調合を、逆に組み直しますわ」わたしは、二人を振り返った。「効き目は、毛を消す方へ。優雅な名前も、付け替えましょう」


 アガサが、しっかりと頷いた。フローラも、目を輝かせて、羽根ペンを走らせ始める。先ほどの失態から一転、小部屋に、新しい熱が満ちた。


「ときに」彼が、まだ何か考えている顔で、腕を組んだ。「逆に、生やすほうも、捨てるには惜しい。——頭の毛が薄いのを気に病む男は、この街に、掃いて捨てるほどいる。あれに効く品が出せたら、そっちはそっちで、化けるぞ」


「まあ……! たしかに」


 わたしは、笑った。この人の頭の中では、今しがたの失敗が、もう二つの宝の山に化けている。


「ですが、ご主人様。髪を生やすほうは、一朝一夕には参りませんわ。頭の皮の下でじっくり効かせるとなれば、幾度も試して、加減を見極めねば。……気の長い話に、なりましょう」


「だろうな。そっちは、じっくりやればいい」彼が頷いた。「まずは、消すほうだ。——スタンプラリーに、間に合わせられるか」


「間に合わせて、ご覧に入れますわ」


「よし。——これで、女の客は掴める」


 彼が、腕を組んで、満足げに頷いた。それから、ふと、悪戯を思いついた顔になる。


「となると、欲が出るな。——女の客を取り込んだうえで、殿方のほうも、根こそぎ頂きたい」


「まあ、欲張りですこと」


「せっかくだ。——回転を上げる策なら、別にある」


 彼が、身を乗り出した。蝋燭の灯りが、その目の奥を照らす。


「メイドの清楚さを損なう真似は、この店の美学に反する。脱いだ下着を売るような、あからさまな商売はしない。——だが、不可抗力なら、話は別だろう」


 不可抗力。


 わたしは、その言葉を、舌の上で転がした。まだ湿っていた目尻が、すっかり乾いていく。


「……つまり——偶然の、事故。たまたま、お給仕の拍子に、裾が翻ってしまう。たまたま、盆を持ち直す拍子に、襟元が緩む。すべては不可抗力。誰も、咎められない」


「それを目撃した客には、幸運の代償として、ただちにお勘定をお願いする。回転が上がる」


「——それを、意図して起こすのでしょう?」


「まさか。偶然だ」


 彼が、真顔で言った。この男は、真顔で嘘をつくのが、恐ろしく上手い。


 わたしは、堪えきれずに笑った。声を上げて、卓に額を押しつけて、肩を震わせる。ついさっきまで泣いていたのが、嘘のように。


「あははっ——最高ですわ、ご主人様。品よく鮮やかに、と仰る口で、その発想ですの?」


「品は保つ。あくまで事故だからな。——期間中の店内の事故率が、通常のざっと三倍になるだけだ」


「三倍!」


 気品と下品。この両極を、同じ顔で行き来してみせるこの男の底知れなさが、わたしはたまらなく好きだった。


「ええ、ええ、お任せくださいまし。娘たちには、わたくしから特別な所作を仕込みましょう。あくまで自然に、あくまで偶然に。——殿方の心も、懐も、根こそぎ奪い取って差し上げますわ」


 それから、わたしは、ハイジのほうを見た。ずっと帳面を抱えて、黙って聞いていた娘。


「聞いての通りですわ、ハイジ。仕込みと段取りは、あなたに任せます。目撃した客の精算も、あなたの帳面で」


「——承知しました」ハイジが、静かに言った。「ひとつ、案が。フローラには、何も教えないほうがいいと思います。あの子は、教えなくても、勝手に転びますから」


 いたずらな色が、口の端に、一瞬だけ浮かんで、また平板な顔に戻った。フローラが「ひどい……!」と声を上げたが、誰も取り合わなかった。


* * *


 スタンプラリーの当日は、冬の晴れ間だった。


 開店前から、月の揺り籠の前には、二筋の人だかりができていた。片方は、期待に目を輝かせた殿方たち。そしてもう片方は——連れ立った、若い女たちの列。この店の前に女の客が並ぶのは、開業以来、初めてのことだった。


 店の奥では、あの黒い菓子が、白い姉妹を得ていた。『白磁の抱擁』。一口食べれば、ほどなく肌の産毛が音もなく薄れ、絹のように滑らかになる一皿。あの試食会の失敗を裏返しただけの品が、女たちの、長年の悩みを溶かした。


 昼が近づくと、その評判は、口伝てに街を駆けめぐった。一皿食べた女が、その場で自分の腕を撫でて息を呑み、連れの袖を引いて列へ連れてくる。噂は、殿方の理性より、女たちの口のほうが、よほど速く広がった。ハイジの帳面に、判の数が、静かに、確実に積み上がっていく。


 そして、店内では。


 給仕の娘が盆を持ち替える拍子に、裾がわずかに翻る。屈んで皿を置くとき、襟元が、ほんの一瞬だけ緩む。——見えたか、見えなかったか。その際どさが、殿方の目を釘付けにした。


 しかも、だ。娘たちの脚は、その裾の奥まで、一分の隙もなく滑らかだった。『白磁の抱擁』の効き目を、真っ先に試したのは、他ならぬこの店のメイドたち。ちらりと覗く白い脚に、無駄なものが一切ないという、その完璧さが、殿方の視線を、より深く縫い止める。消す術は、女の客を掴んだだけではない。この店の娘たちの美しさそのものを、一段、磨き上げていた。二つの策が、思いがけず、手を取り合っている。


 見えた者は、即座に「不可抗力のお勘定」を告げられ、苦笑しながら財布を出す。けれど、外へ出た途端、また列に並ぶのだ。もう一度、あの一瞬を見たくて。


 午後、店内に、窓は閉まっているのに、なぜか一度だけ、微かな風が吹いた。フローラの裾が、ふわりと舞い上がり、広間の男たちの目が、一斉に吸い寄せられる。フローラ本人が、いちばん驚いていた。慌ててスカートを押さえ、頬を朱に染めて、半泣きでこちらを見る。


「め、メイド長——! 今のは——!」


「あら。風が吹いたのでしょう。——不可抗力ですわね」


 わたしは、涼しい顔で言った。フローラの背後で、ハイジが、目撃した客の卓を、税の取り立てのような無表情で回り始めている。


 夕方には、月の揺り籠の判は、商店街のどの店よりも、高く積み上がっていた。


* * *


 結果は、翌朝、賭場の集計とともに出た。圧勝だった。


 月の揺り籠の判の数は、二位の肉屋に、二倍近い差をつけての、文句のない一位だった。


「メイド長」ハイジが、帳面の数字を、指先で叩いた。「不可抗力の精算が、売上の三割。『白磁の抱擁』が、それと同じだけ。——買っていったのは、七割方、女のお客様です」


「では、女のお客様も、しっかり掴めたのですね」


「はい。それに」ハイジが、ちらりと自分の脚のあたりへ目を落とした。「あの品のおかげで、店の見栄えも、上がりました。——不可抗力の効き目まで、底上げされた勘定です」


 わたしは、思わず微笑んだ。消す術は、女の客を呼び、殿方の目を惹きつけ、二つの策が互いを高め合った。あの惨めな失敗が、ここまで化けるとは。


「上々ですわね。——お疲れさま、ハイジ。あなたの段取りが、勝因の半分ですわ」


 ハイジの口の端が、ほんの一寸だけ動いた。笑ったのか、ただ帳面を閉じたのか。判然としなかったが、どちらでもよかった。


「髪のほうは、気長にやりましょう」わたしは言った。「あちらが物になれば、悩める殿方が、また列をなしますわ」


「そっちは、焦らん」シリウスが、カウンターに寄りかかって、笑った。「宝の山は、二つあると分かっただけで、今日は十分だ」


「あら。——二つ、ですの?」


 わたしが小首を傾げると、彼は懐から、ずしりと重い革袋を取り出して、こともなげに帳場の台へ置いた。


「三つめだ。賭場じゃ、うちは大穴でな。——むろん、うちの勝ちに張っておいた」


 ハイジの目が、袋の口から覗く金貨を、もう数え始めている。わたしは、堪えきれずに笑った。表で判を集め、裏で配当を攫う。この男の遊びには、いつだって、裏にもう一枚、札が伏せてある。


* * *


 夜、城に戻った。


 寝室の窓から、冴えた冬の月が見えた。わたしはまだ、今日の高揚から、降りきれずにいた。


「今日は、ハイジのおかげですわね。あの娘の段取りがなければ、これほどの差は、つきませんでしたもの」


「おまえが見出した娘だ。おまえの手柄でもある」


 彼が、わたしの隣に腰を下ろした。


 わたしは、ふと、あの試食会のことを思い出した。全身を毛に覆われて、それでも喜ばせたくて、必死だった、あの惨めな自分を。


「……あなた」わたしは、小さく言った。「今日は、お恥ずかしいところを、お見せしましたわね」


 彼が、こちらを見た。それから、ふっと笑って、わたしの髪を、ひとすじ、指で梳いた。


「言っただろう。ありのままがいい、と」


 そう言って、けれど彼は、ふと真顔になって、付け足した。


「——まあ、たまには、あの剛毛も一興か、とは思うがな」


 わたしが目を見開くと、彼は、いたって真面目な顔のまま、軽く肩をすくめてみせる。


「いや。よほどの倦怠期でもない限りは、忘れてくれ」


 こらえきれず、わたしは噴き出した。笑いながら、それでも、胸は温かかった。奇抜な術も、特別な奉仕も、要らない。ただ、この人の隣で、ありのままでいる。——それだけのことが、千年の渇きを、静かに満たしていく。


 彼の手を取って、指を絡めた。窓の外で、緩んだ根雪の水が、静かに石畳を洗っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。