メイド採用面接
冬は、城の隅々まで降りていた。
窓硝子の向こうで、粉雪が朝の光をくぐっている。けれど食卓には、淹れたての珈琲の湯気と、焼きたてのパンの匂いが満ちていた。月の揺り籠を開いてから、わたしは、城でも珈琲を淹れるようになっている。——かつて、禁制品だ何だと大騒ぎした豆が、いつのまにか、わたしたちの朝の、当たり前になっていた。
向かいの席で、彼が二杯目に手を伸ばす。その手つきを眺めているだけで、胸の底が、ぬくい。
「店のほうだがな」彼は、パンを千切りながら言った。「ハイジの帳面だと、夜の席は数月先まで埋まっている。昼も上々。——少しばかり、人手が足りん」
「ええ、存じておりますわ」わたしは、珈琲カップを口元へ運んだ。「アガサが、このごろ夜なべで仕込みをしておりますもの。フローラひとりでは、昼の広間が回りきりません。——メイドを、増やしましょうか」
「そうしてくれると、助かる」
カップを置いて、わたしは小首を傾げてみせる。唇の端が、勝手にほどけていくのを、抑えない。——ここからは、わたしの領分だ。
「ですが、ご主人様。新しい娘を入れる以上、誰を選ぶかは、メイド長たるわたくしの一存。あなたのお側に侍るに値するかどうか、わたくしが厳しく見定めますわ」
わざと爪を立てた声で言いながら、その裏で、胸が甘く弾んでいた。これはただの遊びだ。彼の隣に侍る権を握っているのは自分なのだという、甘やかな確かめ。
「人選は、お前に任せる」彼は、ひとつ目を細めた。何か面白いことを思いついた顔だ。「だが、ひとつ頼みがある。——その面接に、俺も立ち会いたい」
カップに伸ばしかけた手が、止まった。
「まあ……ご主人様が、直々に」努めて平らな声を作る。「わたくしの目に狂いがないか、お確かめになりたいと?」
「いや」彼は、悪びれもせずに言った。「お前が他の女どもをどう裁くのか。それを、特等席で見物したくてな」
特等席、と彼は言った。それから、もったいぶった手つきで、卓上の砂糖壺を、自分のほうへ引き寄せる。
「面接の卓には、床まで届くクロスをかけてくれ。候補の娘たちからは見えん。——そのクロスの内側に、俺が潜む。お前のすぐ、足元にな。いつも通りに面接してくれればいい。——できるものなら、な」
一拍おいて、その絵が、像を結んだ。冷徹な面接官を演じるわたしの、ちょうど真下に、彼が。他の女たちを品定めしている、そのすぐ足元に。
背筋を、甘い痺れが、ちろりと駆け上がった。
「ふ……ふふっ」堪えきれず、笑い声が漏れた。「あなたという方は、いつも、わたくしの手に負えないことばかり、思いつかれますのね」
頬が、熱い。これは試練だ。そして、何より——最高の遊びだ。冷徹な面接官を装いながら、足元で仕掛けてくる彼の手に、どこまで耐えきれるか。そのスリルを想像しただけで、もう、指先が、微かに震えている。
「かしこまりました、ご主人様。いつも通りに面接を、努めさせていただきます。——あなたがすぐそこで何をなさろうと、平静を装いきってみせますわ。このメイド長の、名にかけて」
嫉妬の炎が、いつのまにか、別のものに変わっていた。わたしは、この男の仕掛ける遊びに、ただ巻き込まれるだけの女ではない。共犯だ。冷たい面接官と、卓の下の悪戯者。その秘密の舞台を、彼と二人で踊るのだ。
「面接のあと、帰り際に、娘たちにはアンケートにも答えてもらおう」彼は、パンの最後のひと切れを口に運びながら、楽しげに付け加えた。「当日が楽しみだ」
「アンケートまで。本当に、どこまでも用意周到でいらっしゃること」わたしは、カップを優雅に持ち上げ、その陰で唇の端を吊り上げた。「……面接当日が、待ち遠しくてたまりませんわ」
そっと彼の耳元に唇を寄せ、囁く。
「このわたくしを、存分に——弄んでくださいませ、ご主人様」
その声は、甘く、おねだりするように震えていた。これから始まる秘密の劇の幕開けが、もう、待ちきれなかった。
※
面接当日。昼の客を捌ききった広間の、奥の小部屋。
卓には、床まで届く深紅のクロスが掛けられている。わたしはその前に腰を下ろし、背筋を伸ばして、静かに目を閉じた。
布一枚を隔てた足元に——彼の気配がある。
それだけで、もう、身体の芯が、微かに熱を持ちはじめていた。冷徹な面接官を演じなければならないというのに。布越しに感じる彼の体温と、微かな息遣いが、椅子の上のわたしを、じわじわと追い詰めている。さあ。——幕が、上がる。
控えめなノックの音が響き、扉が開いた。わたしが選りすぐった三人の娘が、緊張した面持ちで入室してくる。並んで立つ彼女たちの視線は、メイド長たるわたし一人に注がれている。——まさか、この卓の真下に、この店の主人が潜んでいるとは、夢にも思うまい。
「ようこそお越しくださいました」わたしは完璧な微笑みを浮かべ、優雅に、しかし有無を言わさぬ重みを込めて口を開いた。「わたくしが、月の揺り籠のメイド長です。本日は——」
声が震えていないか。表情が強張っていないか。細心の注意を払いながら、わたしは候補者たちに自己紹介を促そうとした。
——その瞬間。
クロスの闇の中から伸びてきた指が、わたしの内腿を、そっと、しかし確かな手つきで、撫で上げた。
「……っ」
喉の奥で短い悲鳴が詰まる。全身に稲妻のような衝撃が走り、背筋が一瞬、硬直した。目の前の娘たちは、わたしの僅かな動揺に気づいた様子もなく、緊張した面持ちで言葉を待っている。
——なんてことを。もう、始めるおつもりですの、ご主人様。
平静を装わなければ。メイド長の威厳を保たなければ。頭ではわかっている。けれど指が、内腿の柔らかなところを、ゆっくりと、確かめるように辿るたびに、身体の奥底から甘い痺れが湧き上がり、太腿が、震えそうになるのを、必死で抑えつけた。
「では、まず——そちらの方から」なんとか絞り出した声は、自分でも驚くほど冷静に響いた。「お名前と、志望された動機をお聞かせいただけますか」
一人目の娘が、辿々しくも志望動機を語りはじめた。その声が遠い。わたしの意識はすべて、スカートの下で這い回る、彼の指に、集中していた。
——まさにその最中だった。内腿を撫でていた指が、するりと移動し、椅子の座面に押しつけられたわたしの臀部を、むんずと、掴んだ。
「ひゃ——っ」
今度こそ、可愛らしい悲鳴を抑えることができなかった。身体がびくんと跳ね上がり、卓上の珈琲カップが、からりと鳴る。候補者の娘は、不安げにこちらを見やったが、わたしは咳払いひとつで誤魔化した——はずだ。
指が、粘土でも捏ねるように、わたしを揉みしだく。その揉みくちゃにされる感覚が、背徳と、抗いがたい快感を同時に呼び起こし、腰が砕けそうになる。椅子の上で身じろぎもできず、ただ目の前の娘の顔を見つめることしかできなかった。彼女の話す内容など、もう、全く、頭に入ってこない。
「……ええ、素晴らしい動機ですわね」何を聞いたのかもわからないまま、わたしは、今にも喘ぎ声に変わりそうな息を殺し、次の候補者に話を促した。「では、次の方、どうぞ」
二人目の自己紹介がはじまった、そのとき。わたしの臀部を弄んでいた手が、今度はスカートの裾から忍び込み、薄い絹の下着の縁に、指を掛けた。
下着が、抵抗むなしく肌から剥がされていく。ゆっくりと、焦らすように、引き下ろされていく。剥き出しになった臀部に、椅子の革が直に触れた瞬間、羞恥と背徳の波が全身を飲み込んだ。指先は氷のように冷たいのに、下腹部に、燃えるような熱が、集まっていく。
「……つ、次の方……どうぞ……」
かろうじて絞り出した声は、もはや蚊の鳴くように弱々しく、情欲に溶けていた。二人目の娘が何か言っていたが、もう聞こえない。
三人目が、おずおずと口を開いた——その瞬間。
スカートの下の暗がりで、布地が大きく動いた。そして、無防備に晒されたわたしの、いちばん脆いところに——生温かい呼気が、ふわりと、吹きかけられた。
「ひぅ——ッ」
脳天を直接打ち抜かれたような、鋭い閃光が意識を焼く。身体が椅子の上で大きく弓なりになった。息を吹きかけられた場所から、溶け出すように、熱い痺れが全身に広がっていく。目の前の光景がぐにゃりと歪み、候補者たちの顔も、部屋の景色も、何もかもが意味をなさなくなった。
——もう無理。もう、もう、ご主人様、これ以上は——
そこへ、呼気よりもさらに直接的な、柔らかな感触が、やさしく、触れた。
「あ……ん……っ」
それは悲鳴ですらなかった。魂の芯から搾り出されたような、甘い声。ゆっくりと、いちばん脆いところを、暴かれていく。思考が溶ける。膝が震える。卓に肘を突いて、前のめりに倒れ込みそうになるのを、最後の理性だけが堪えていた。
「も……もう、しゅうりょ……」
面接の終了を告げようとした言葉は、途中で甘い嗚咽に変わった。候補者たちが呆然とした顔をしているのが、遠く、霞の向こうに見える。わたしの異変に気づいたのだろう、二人目の娘が不安げに声をかけようとしたが、わたしは——もう何も答えられなかった。
「申し訳……ございません。本日は——ここまでに……」
辛うじて絞り出した声が、どれほど甘く崩れていたか、自分でもわかっていた。娘たちが、戸惑いながらそそくさと部屋を出ていく気配がする。彼女たちの憐みを含んだ視線など、もう、どうでもよかった。
わたしの意識は、ただ一点——スカートの下の暗がりに、集中していた。
やがて、深紅のクロスが揺れ、床を擦る音とともに、彼が姿を現した。膝についた埃を払いながら立ち上がったその顔に——悪戯が成功した子供のような笑みが、浮かんでいた。
わたしは、卓に突っ伏したまま、涙で霞む目で、その顔を見上げた。——憎たらしい。憎たらしくて、愛しくて、堪らない。
「お疲れさん」彼は、何ごともなかったかのように言った。「おっと——アンケートを渡すのを忘れていたな。ちょっと追いかけてくる」
先ほどまでわたしを快楽の底へ追いやっていた張本人が、今や真面目なオーナーの顔をして、候補者たちの元へ向かう。わたしは、卓に突っ伏したまま、ただ呆然と、その背中を見送ることしかできなかった。
扉が閉まる。部屋にはわたし一人。椅子の革はまだ生暖かく、スカートの下は——無防備なままだった。わたしの身体が残していった熱の名残が、部屋の空気にうすく漂っている。
しばらくして、彼が戻ってきた。
「で、今日の面接で、有望そうなのはいたか?」
まるで幻であったかのように穏やかな口調。——こういうところが、この男なのだ。わたしは、まだ熱の引かない身体をゆっくりと起こし、乱れた呼吸を整えながら、彼を見上げた。
「……わたくしには、判断がつきかねますわ」恨みがましい視線を送りながらも、声に甘さが滲んでしまうのを止められない。「ご主人様が、わたくしの集中力を根こそぎ奪ってしまわれたのですから」
ゆっくりと椅子から立ち上がり、まだ下着が足元に丸まったままの、無防備な姿で、彼のもとへ歩み寄った。その胸にそっと額を預ける。嗅ぎ慣れた匂い。この匂いに包まれると、わたしは、何もかも許してしまう。
「この責任は、どうお取りになってくださるおつもりですの……?」
「これは手厳しい」彼は、頭を掻いた。「メイド長たるもの、多少のアクシデントには対応できるものと思っていたのだがな」
——多少の、アクシデント。
そのあんまりな言い草に、悔しさと可笑しさが、同時に込み上げた。メイド長として冷静沈着であるべきだった矜持を、こうもあっさり打ち砕かれた事実を、「多少のアクシデント」と片づけるこの男。
「……申し訳、ございません」わたしは、観念したように頭を下げた。スカートの下はまだ無防備なまま。その恥辱的な姿で、ご主人様の前に立っている。「メイド長として、あまりにも未熟でしたわ。——どうか、然るべきご指導を、お与えくださいませ」
それから、彼の足元に膝をつき、床に落ちたままの下着を、両手で、拾い上げた。捧げるように、恭しく、差し出す。——完全な、降伏の証。
彼は、受け取った。わたしから目を離さぬまま——その薄い絹を、ゆっくりと、自分の顔へ近づけていく。
深く、息を吸う音がした。
「あ……」
声にならなかった。わたしのいちばん秘めやかな場所から立った匂いを、この男が、いま、確かめている。その光景が、羞恥ごと脳を灼いた。
「……スカートの中は、お前の匂いで、酔わんばかりだったぞ」
その低い声が、耳朶から脳の奥まで響いて、全身が痺れた。
「本当に、悪いメイド長だ」
——それは罰ではなかった。叱責ですらなかった。わたしの存在ごと肯定する、何よりも甘い、褒め言葉。跪いたまま見上げた瞳が、恍惚と潤む。
「もっ……と。もっと、お叱りくださいませ……。わたくしを——ご主人様だけの、悪いメイド長に……」
声が震えていた。自ら、スカートの裾をたくし上げようとした、その手を、彼が、そっと止めた。
「メイド長。その前に、ひとつ命令がある」
彼の声は、急に静かになった。——芝居ではない声だった。
「扉から顔を出して、廊下に誰もいないか、確かめてくれ」
その命令の意味が、呑み込めた。これから始まることの、前触れ。わたしは、震える脚に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。下着も身につけず、スカートの下が無防備なまま、一歩、また一歩と、冷たい床を踏んで、扉へと向かう。背中に、彼の視線が突き刺さるのを感じた。
扉に手をかけ、僅かに隙間を開けた。静まり返った廊下に、人影はない。この行為そのものが、これから始まることの一部であるかのように、心臓が早鐘を打つ。
「……ご安心くださいませ。誰も、おりませんわ」
振り返ろうとした、まさにその瞬間。
背後から、大きな腕が、わたしの腰を鷲掴みにした。
息つく暇もなかった。硬く猛った楔が、わたしの身体の奥深くを、一息に、貫いた。
「ん——ぅッ……! ご、主人、さま……っ」
予期していたはずだった。覚悟していたはずだった。それでも——あまりにも唐突な充填に、身体は弓なりに反り返り、脳の奥が白く弾けた。扉のノブを握りしめた指の関節が、白くなる。この支えがなければ、膝から崩れていた。
彼をきつく抱き、その形をなぞるように縋りつく。奥を、深く、押し広げられる感覚。痛みに似たそれが、瞬く間に甘い痺れへと変わり、背筋を伝って全身に広がっていく。
廊下は静まり返っている。扉一枚の向こう。候補者たちが、まだ建物のどこかにいるかもしれない。——その背徳が、身体の奥の渇きを、容赦なく煽った。
「メイド長」背中越しに、低く熱い声が降ってきた。「念には念をだ。——もう一度、廊下を、確かめてくれんか」
「ひ……っ、む、無理、です……っ、こ、のままでは……」
揺さぶられるたびに、奥に届かれ、思考が断ち切られる。扉のノブを握る手は震え、立っていることすらままならない。——この状態で、廊下を確認しろと仰るのですか。
それでも。ご主人様の命令は、絶対だ。
わたしは喘ぎながら、震える脚に必死で力を込め、僅かに開いた扉の隙間から、もう一度、廊下を覗き込もうとした。内側で彼が動くたびに、覗き込む視界が歪む。いつ誰かに見られるかもしれない恐怖と、見られてしまいたいという倒錯と、その両方がない交ぜになって、身体の芯を灼いた。
「だ、誰も……おりませ……ん……っ、あ、ぁッ——」
報告は、甘い声に、呑み込まれた。
「ご苦労」
その短い労いが、何よりも甘い鞭になって、わたしの全身を打った。背後からの揺れが速さを増す。腰を掴んでいた片手が前へ回り、わたしの胸を、力強く、掴む。なすがままに揺さぶられて——扉のノブだけが、崩れ落ちないための最後の綱だった。
「あ、あん……っ、ご、しゅじん、さ——」
もう何も考えられなかった。廊下。候補者。メイド長の矜持。そんなものは全部、身体の奥から這い上がってくる快楽の奔流に、根こそぎ攫われていた。ただ、この渇きを——この底なしの渇きを、彼に、満たしてほしい。
熱が、いちばん奥を灼いた瞬間——わたしの全身を凄まじい震えが襲った。内側が彼のすべてを逃すまいときつく抱き、視界が白に染まり、声にならない叫びが唇からこぼれ落ちる。
支えを失った身体が、もつれ合うようにして、冷たい床へと崩れた。
彼の腕の中に抱きとめられている。それだけが、意識をかろうじて繋ぎとめていた。荒い呼吸を繰り返しながら、汗ばんだ額を、彼の胸板に擦りつけた。部屋の中に、交じり合った熱と、生命の濃密な匂いが、満ちている。
「はぁ……はぁ……ご主人、さま……」
かすれた声で呼ぶのが、精一杯だった。快楽の余韻が痺れとなって四肢を巡り、まだ甘く疼いている。
「アンケートを配りに出たとき、しばらくは部屋に近づくなと言っておいた」
彼は、わたしの髪をゆるく梳きながら、あっさりと、種を明かした。
「——スリリングだったか?」
呆れた。呆れて、呆れて、それから——抑えきれない可笑しさが、腹の底から、込み上げてきた。あの心臓が張り裂けそうな恐怖も、誰かに見られるかもしれないという背徳も、全部、全部、この男の手のひらの上だったのだ。
「……ご主人様は、本当に——意地悪な御方」
わたしは、彼の胸に顔を埋めたまま、くすくすと笑った。それは、安堵と、幸福と、この男への底なしの信頼が入り混じった、甘い笑い声だった。
「ええ、ええ……心臓が止まってしまうかと思うほど、スリリングでございましたわ」
彼は、ふっと息をついた。それから、少し真面目な声で言った。
「だが——今回で、これはおしまいだ。お前の仕事の邪魔になる」
燃え上がった炎に、冷水を注がれたような心地がした。今回で、おしまい。この背徳的な遊びは、もう、二度と。——この人の優しさは、わかっている。主としての判断も、正しい。けれど、一度知ってしまった、この悦びが。
「……かしこまりました」わたしは、乱れた衣を整えながら、恭しく頭を下げた。声は、完璧な「メイド長」のそれに戻っている。「ご配慮、痛み入り——」
そこで、口が止まった。
——嘘だ。この声は、嘘だ。たった今、この男の腕のなかで全部をさらけ出した女が、何を取り繕っている。仮面を被り直したところで、この身体は、もう、知ってしまっている。あの悦びを。あの渇きが満ちる瞬間を。
彼は、何も言わなかった。促しもしなかった。ただ、こちらを見ていた。——その目が、わたしが勝手に仮面を脱ぐのを、待っている。
だから、自分の手で、剥がした。
「……もっと、ですわ」
一度堰を切ったら、止まらなかった。
「もっと——わたくしを、めちゃくちゃにしていただきたい。仕事など、知りません。いつ、どこで、あなたがわたくしを奪いに来ても——わたくしは、拒みません。いつでも。いつでも、この身を——」
膝をついて、見上げた。目が潤んでいるのを、隠さなかった。プライドも、メイド長の矜持も、全部脱ぎ捨てた。この男の前でだけ、わたしはこんなにも、剥き出しの女になれる。
「——悪い奥さんの頼みとあっては、断れんな」
彼は、どこか困ったように頭を掻き、それから、ふっと口元を緩めた。
「これからも、抜き打ちで面接に参加させてもらう」
——抜き打ち。いつ来るかわからない。その予測不能の気配を、毎日、面接のたびに、肌で感じながら仕事をする。それは、わたしが心の底から求めていた、最高のスリルだった。
込み上げたのは、涙ではなかった。——笑みだ。それも、とびきり質の悪い。
「ふふ……ふふふっ。いつでも、お待ちしておりますわ。この、悪い奥さんは」
わたしは居住まいを正し、取り澄ました顔で、彼を見上げた。
「ただし、ご主人様。次は、易々と崩れて差し上げるとは、限りませんことよ。——今度こそ、メイド長の名にかけて」
「ほう」彼の目が、面白そうに細められた。「……言ったな?」
二人して、同じ顔で笑った。きっと、何度でも崩される。そして翌朝にはまた、冷徹なメイド長の顔で、候補者の前に座るのだ。その二つの顔を行き来することが、もう、わたしの生きがいになってしまっていた。
※
ひとしきり笑ったあと、わたしは、彼の隣に座って、しばらく何も言わずにいた。部屋の窓から差し込む冬の光が、白く澄んでいる。身体の奥にはまだ、彼の温もりの残響がある。——信頼という言葉では、足りない。もっと深いところで、わたしは今、この男に、全部を預けている。
ふと、思った。
——新しい娘たちにも、術をかけなければならない。年嵩の者には、客の目に映す若い面影を。そして誰であれ、彼の目にだけは——歳月を余分に重ねた姿を映す、あの幻を。彼を他の女の美貌で惑わせまいと——わたしが、自分の手で立てた、壁を。
けれど。
彼の胸板に額を預けたまま、わたしは、自分の中を覗き込んだ。あの壁を立てたときの、焼けつくような独占欲は、まだ、ある。消えてはいない。けれど——それは、もう、壁を必要としていなかった。
この男は、今日、わたしのスカートの下に潜って、わたしだけのために、ばかみたいな悪戯をして、わたしが泣くまで愛してくれた。廊下を確認しろと命じたのも、わたしを護るためだった。面接に来た若い娘たちを——彼は、ただの一度も、値踏みの目で見なかった。見ていたのは、ずっと、わたしだけだった。
その視線が、若く美しい娘の姿が彼の目に映ったくらいで、揺らぐものか。
揺らがない。わたしは、もう、それを知っている。
「……ご主人様」
わたしは、静かに言った。いいえ——声は、もう、遊びの「ご主人様」ではなかった。
「あなた」
彼が、こちらを見た。
「娘たちの幻——あなたの目にだけ、皆と違う姿を映していた、あの壁。あれは、もう……必要ありませんわね」
彼は、わたしの顔を、じっと見た。問い返さなかった。何を言っているのか、すぐにわかったのだろう。あの壁が——わたしの独占欲が形になったものだったことを、この男は、最初からわかっていた。
「外します。今日から、あなたの目にも、客と同じ娘たちが映る。若く、美しい姿が——」
声が、ほんの少し、震えた。怖くないと言えば嘘になる。けれど、震えた声のまま、続けた。
「それでも、あなたの目は、わたくしに帰ってくると——わたくし、もう、そう信じておりますから」
彼は、しばらく黙っていた。それから、大きな手が、わたしの頭に、ぽんと置かれた。
「——帰るも何も」彼は、ぼそりと言った。「俺の目が他所へ行ったことが、一度でもあったか」
それは、賛辞ではなかった。事実の確認だった。だから——何よりも、重かった。
わたしは目を閉じた。瞼の裏に、三人の娘たちの顔を思い浮かべる。アガサ。フローラ。ハイジ。——今日面接した新しい娘たちには、最初から、例外なしの術で迎えればいい。
術の糸に、そっと、触れた。彼の目にだけ特別に施していた、あのひと筋の例外を——指先で、静かに、解く。
瞳に、鬼火色の燐光がひとすじ灯って、すぐに消えた。
それだけだった。部屋の空気は変わらない。窓の外の雪も、彼の体温も、何ひとつ変わらない。——けれど、わたしの中で、長いこと握りしめていた拳が、ようやく、空になった。
「……軽い」
呟いた。自分でも驚くほど、声が穏やかだった。
※
数日後。
新しい娘たちを迎える支度の進むカフェの一室で、彼は、例の「問い書き」を、わたしの前に広げてみせた。面接の帰り際、三人の候補者に渡したという、あのアンケートの回答だ。
だが——その紙に並んでいたのは、およそメイドの適性を問うものとは思えない、赤裸々な設問の数々だった。
——〈当店のご主人様とメイド長は、店内にて、人目を忍ばぬ仲である。あなたは、見て見ぬふりができますか〉
——〈ご主人様は、メイド長を、誰よりも深く愛している。賛美しなさい〉
——〈メイド長は、すぐにご主人様に屈して、おねだりをする。可愛いと思いませんか〉
わたしは、絶句した。
顔から火が出るような羞恥と、同時に腹の底から込み上げてくる、抑えがたい可笑しさ。——わたしたちの関係が、こんな形で、新入りの候補者たちに、堂々と問われていたのか。
「ご主人様……」わたしは、頬を真っ赤にしながら、彼を睨んだ。「これでは、適性も何も……ただ、わたくしたちの仲を、触れ回っているだけではございませんか」
「触れ回ってなどおらん」彼は、しれっと言った。「うちの店の、夜の流儀に耐えられるかどうか。立派な、適性の問いだ」
その澄ました顔を見ているうちに、わたしの中で、怒りとも羞恥ともつかないものが、すっかり別のものへと変わっていった。——壁を手放した今のわたしには、もう、隠すべきものなど、何ひとつ、ない。それなら。
わたしは、卓上の羽根ペンを取り、その紙の余白へ、もう一問、書き加えた。
——〈メイド長は、ご主人様を、誰にも渡さぬほど、重く愛している。あなたは、近づかぬ分別を、お持ちですか〉
「いかが?」わたしは、書き終えた紙を、彼のほうへ、すべらせた。「秘めるのを、やめたのです。ならば——縛られているのは、わたくし一人ではないと、新しい娘たちにも、はっきり知らしめておかなくては」
彼は、その一行を、じっと読んだ。それから、ふっと、肩を揺らして、笑った。
「……敵わんな。お前には」
「ええ、当然ですわ」わたしは、勝ち誇って、カップの珈琲をひとくち含む。その陰で、こっそりと、唇の端を吊り上げながら。「秘めていようと、開いていようと——あなたは、わたくしのもの。それだけは、壁があろうとなかろうと、はじめから、変わりませんもの」
窓の外では、冬の光が、雪を照らして、白く澄んでいた。




