日常
天井があった。
見慣れた、自分の部屋の天井。蛍光灯の白い光。どこかで車が走り過ぎる音。陽はゆっくりとAegisを頭から外し、ベッドの上に置いた。
重い。改めてそう思う。
Aegis——Artefact社が2039年に発売した、世界初のフルダイブ型VRゲーム機。盾を思わせる大型のデバイスが頭部をすっぽりと覆い、脳の前頭部を精密にスキャンする。身長、体重、心拍数、持病の有無に至るまで、あらゆる身体データを読み取り、仮想世界を構築する。従来のVRゴーグルが「視界を映像で覆う」だけの擬似体験だったのに対し、Aegisは五感の全てを再現する。風の感触も、草の匂いも、金属の重さも——全てが、本物と区別がつかないほどリアルだった。
発売当初、その価格は一般家庭には手の届かない水準だったが、Artefact社はすぐに自社開発の収益モデル『ROAR OF DRAGONS』を発売した。それによって機器本体を大幅に値下げした。このタイトルはかつて廃れた“NFTゲーム”という事で、注目度は他に類を見ない程だった。
従来のゲームとの違いはゲーム内のアイテムや装備に“現実の所有権”が与えられている点にある。
武器や素材、さらにはプレイヤーが生産した装備に至るまで、すべてのデータはブロックチェーン上に記録され、唯一無二の資産として扱われる。
そしてゲーム通貨、ロドーは現実の通貨と取引できる。
「陽ー、ご飯できたよー」
階下から母の声がした。
「今行くー!」
陽は体を起こし、Aegisをデスクに置いた。まだ指先に感覚が残っている気がした。
階段を下りると、リビングからいい匂いがした。テーブルには夕食が並んでいる。母が台所から顔を出した。
「長かったね。何時間やってたの?」
「……五時間くらい?」
「体感は?」
「一時間くらい」
母が苦笑した。
「やっぱりそうなんだ。ヒロくんのお母さんも同じこと言ってたよ。あの子、食事の時間になっても全然気づかないって」
陽は椅子を引いて座った。父はまだ帰っていないらしく、テーブルには二人分の食器が並んでいた。
「でも、あの機械、本当に大丈夫なの? 脳をスキャンするって聞いたけど……」
母が心配そうに言いながら、味噌汁を運んでくる。
「大丈夫だよ。ゲーム会社が何年もかけて安全性テストしてるから」
「でも世界初の技術でしょ? 何があるかわからないじゃない」
陽は箸を取りながら答えた。
「ヒロが全部調べてたから。問題ないよ」
「ヒロくんが言うなら……まあ、信じるけど」
母は少しだけ表情を緩めた。ヒロへの信頼は、陽への信頼より厚いかもしれない。昔からそうだ。
「で、どうだったの? そのゲーム」
「……すごかった」
陽は正直に答えた。言葉にするのが難しかった。すごい、という一言では全然足りない。あの風の感触も、セラの温もりも、アーマーボアが倒れたときの地面の揺れも——全部、現実だったと言われても信じてしまいそうなほどだった。
「何がすごかったの?」
「全部。匂いも、風も、触った感触も……本物と変わらないんだよ。ゲームだってわかってるのに、そこにいるって感じがする」
母はしばらく考えるような顔をしてから、「それって怖くない?」と言った。
「怖い?」
「現実とゲームの区別がつかなくなりそうで」
陽は一瞬、黙った。
確かに、そう思う瞬間はあった。ログアウトして天井を見上げたとき、一瞬だけ、どちらが本物かわからなくなる感覚。セラを抱いていた手が、今もまだ温かい気がすること。
「……大丈夫だよ」
でも、そう答えた。
母は「ならいいけど」と言って、自分の椅子に座った。
夕食の間、陽はあまり喋らなかった。頭の中では、まだリクレーンの景色が広がっていた。湖面に映る灯り。さざ波の音。セラの金色の瞳がまっすぐ前を向いていた、あの横顔。
また明日、あの世界に戻れる。それだけで、不思議と満たされた気持ちになった。
◆
翌朝。カーテンの隙間から差し込む光で、陽は目を覚ました。
「……朝か」
ぼんやりしたまま身体を起こす。夢を見ていた気がした。白い草原、湖畔の街、金色の瞳。だが、それは夢というには妙に鮮明だった。
「陽ー! 遅刻するわよー!」
階下から母親の声が飛ぶ。
「……やば」
一気に現実へ引き戻される。顔を洗い、制服へ着替え、急いで階段を下りた。
「おはよう」
「おはよう。ほら、パン」
母親が皿を差し出す。父親はすでに新聞を読んでいた。
「今日はちゃんと起きれたな」
「一応ね」
陽は苦笑しながら朝食を流し込む。窓の外では、初夏の風が静かに揺れていた。高校生活が始まって早一ヶ月。新しい環境にも、慣れてきた頃だった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関を開けると、朝の空気が少し冷たい。そのまま門を出た瞬間、隣の家の玄関もちょうど開いた。
「お、タイミングいいな」
ヒロが欠伸混じりに出てくる。制服は着ているが、どこかだらしない。寝癖も少し残っていた。
「ギリギリまで寝てたでしょ」
「バレた?」
悪びれもなく笑う。
「昨日やばかったからな。寝る前に掲示板ずっと見てた。我慢できなくて、よっぽどまたログインしようかと思ってた」
「あー……」
陽も分かる気がした。昨夜、ログアウトしてからもゲームのことが頭から離れなかった。
二人は並んで歩き出す。住宅街の朝は静かだった。遠くで車の走る音がして、通学中の学生たちが駅へ向かっていく。見慣れた現実の風景。なのに、どこか物足りなく感じてしまう。
「……なんか変な感じだなぁ」
陽がぽつりと言う。
「ん?」
「昨日まで普通だったのにさ」
陽は空を見上げた。青空。当然、竜なんて飛んでいない。
「現実の方が作り物っぽく感じる」
一瞬、ヒロが黙る。それから、小さく笑った。
「分かる」
短い返事だった。
「昨日あのゲームやった奴は、多分みんなそうなってる」
駅前へ近づくにつれ、人通りが増えていく。その中で、ちらほら聞こえてくる。
「昨日ロアドラやった?」「あのゲームやばくね?」「レイド行ったわ」
完全に話題の中心だった。
「社会現象だな、もう」
ヒロが呟く。
陽は苦笑しながら歩く。だが頭の片隅では、別のことを考えていた。
セラ。Out of Spec。AIで行動するただの竜。そう割り切るには、妙に存在感が強すぎた。
電車を降りると、同じ制服の生徒たちが一斉に改札へ流れていく。朝特有のざわめき、眠そうな声、友人同士の笑い声。その中でも、やはり聞こえてくるのはROAR OF DRAGONSの話題だった。
ヒロが思わず苦笑する。
「完全に学校侵食してんな」
「みんなやってるんだな……」
「世界初のフルダイヴVRゲームだしな」
二人は校門をくぐる。まだ新しい校舎は朝日を反射して明るかった。グラウンドでは運動部がすでに走り込みを始めている。
陽は少しだけ息を吐いた。現実へ戻ってきた感覚。だが同時に、どこか落ち着かない。
「おはよー」
後ろから女子生徒の声が飛ぶ。
二人が振り返ると、クラスメイトの数人がこちらへ歩いてきていた。
「二人もやった? 話題のゲーム」
「やったやった」
ヒロが軽く答える。
一気に会話が広がる。初期地の話、竜の話、おすすめの狩場。まだサービス初日なのに、全員妙に熱量が高い。
陽はその輪の中で、少しだけ周囲を見る。みんな楽しそうだった。昨日、自分が感じた衝撃を、同じように味わっている。
「陽君はどんな竜だった?」
「え?」
急に話を振られ、陽が少し固まる。
「あー……白いやつ」
「白? 珍しいね?」
「いや、でもそんな強くないよ」
陽は曖昧に笑って誤魔化した。Out of Specのことは、話す気になれなかった。なんとなく、あれは軽く口にしていいものじゃない気がした。
「ホームルーム始まるぞー」
教師の声が廊下から響く。生徒たちが慌てて教室へ入っていく。
陽も席へ向かいながら、窓の外を見る。青空。静かな日。なのに胸の奥では、もう次のログインを待っている自分がいた。
◆
屋上のドアを押し開けると、風が来た。
昼休みの空は高く、雲一つない青だった。陽は弁当を抱えてフェンス際に向かい、いつもの場所に腰を下ろした。コンクリートの縁に背をもたれ、足を伸ばす。眼下には校庭が広がり、サッカーをしている生徒たちの声が風に乗って上がってくる。
ヒロはすでにそこにいた。片膝を立て、スマホを見ながらパンをかじっている。
「遅い」
「ごめん、先生に捕まってた」
陽は弁当を開いた。母の手作りだ。卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー。ごく普通の、いつも通りの昼食。
「次ログインしたらどうする?」
陽が聞くと、ヒロはスマホから目を上げた。
「クエストを受けて稼ぐ。竜の強化が最優先だ」
「セラとレオンの?」
「ああ」
ヒロがスマホの画面を陽に向けた。ROAR OF DRAGONSの攻略サイトだ。竜の育成に関するページが開かれている。だが、情報量が妙に少ない。
「……なんか、載ってる情報少なくない?」
「このゲーム、ネット上の情報が規制されてるからな」
「規制?」
「ゲームのシステムを管理してるAIが、ネット上の攻略情報も一括で管理してる。過剰な情報拡散はゲームバランスを崩すって判断したら、自動で削除したり検索に引っかからないようにしたりするらしい」
陽は眉をひそめた。
「AIが勝手にそんなことするの?」
「開発が最初からそういう設計にしてる。外の情報環境含めてAIが管理する。プレイヤーに"攻略された状態"でゲームさせたくないんだろ」
「……なんか、怖いな」
「まあな」とヒロは言った。
「でもそのおかげで、自分で試行錯誤する楽しさは本物だ。誰も正解を知らない」
陽は少し考えてから「じゃあどうやって情報集めるの?」と聞いた。
「自分でやるしかない。あとは実際にプレイしてる人と話す。ネットじゃなく、ゲーム内で直接な。情報交換だ」
「なるほど」
「お前の竜は理論上どんな装備でも積める。だったら早めに強い装備を揃えた方がいい。他のプレイヤーより圧倒的に有利になれる」
「でも今のロドーじゃ、いい装備は買えないよね」
「だからクエストで稼ぐ。効率よく回せば、すぐ貯まる」
陽は卵焼きを口に運びながら頷いた。
「パーティ……そういえば昨日のボス、知らない人たちと一緒に倒したね」
「ああ。ああいうレイド系は人数いた方が断然楽だからな。慣れてきたらもっと積極的に参加していこう」
ヒロはパンの袋を畳みながらスマホを操作する。クエスト一覧のページに切り替わった。
「まずはこのあたりから片付ける。素材収集と討伐クエストを並行して回せば効率がいい」
「どのくらいで装備揃うかな」
「セラ次第だな」とヒロは言った。
「あの規格外のGC、どこまで活かせるか。それが分かれば計算できる」
陽はブロッコリーを食べながら、昨日のセラの動きを思い出した。アーマーボアの牙を踏み越え、左目へ一直線に飛び込んでいったあの瞬間。装備を付けたことで、動きが明らかに変わっていた。強化すればするほど、もっと変わるかもしれない。
「……楽しみだな」
「だな」
校庭から歓声が上がった。サッカーのゴールが決まったらしい。風が屋上を吹き抜けていく。
ヒロが静かに笑った。普段の無愛想な顔のまま、でも目だけが少し違う。子供の頃、新しいゲームを前にしたときの、あの目だ。最近ではなかった。
陽も思わず笑った。
弁当の蓋を閉める。青い空に、白い雲が一枚流れていく。仮想世界の空に、少し似ていた。
「放課後すぐログインしよう」
「当たり前だろ」
予鈴のチャイムが鳴った。
二人は立ち上がり、屋上のドアへ向かった。風が後ろから押すように吹いて、陽の髪を乱した。
午後の授業が始まる。




