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ROAR OF DRAGONS  作者: 紫鷹丸
5/31

日常

 天井があった。


 見慣れた、自分の部屋の天井。蛍光灯の白い光。どこかで車が走り過ぎる音。陽はゆっくりとAegisを頭から外し、ベッドの上に置いた。


 重い。改めてそう思う。


 Aegisエイジス——Artefactアーティファクト社が2039年に発売した、世界初のフルダイブ型VRゲーム機。盾を思わせる大型のデバイスが頭部をすっぽりと覆い、脳の前頭部を精密にスキャンする。身長、体重、心拍数、持病の有無に至るまで、あらゆる身体データを読み取り、仮想世界を構築する。従来のVRゴーグルが「視界を映像で覆う」だけの擬似体験だったのに対し、Aegisは五感の全てを再現する。風の感触も、草の匂いも、金属の重さも——全てが、本物と区別がつかないほどリアルだった。


 発売当初、その価格は一般家庭には手の届かない水準だったが、Artefact社はすぐに自社開発の収益モデル『ROAR OF DRAGONS』を発売した。それによって機器本体を大幅に値下げした。このタイトルはかつて廃れた“NFTゲーム”という事で、注目度は他に類を見ない程だった。

 

 従来のゲームとの違いはゲーム内のアイテムや装備に“現実の所有権”が与えられている点にある。

 武器や素材、さらにはプレイヤーが生産した装備に至るまで、すべてのデータはブロックチェーン上に記録され、唯一無二の資産として扱われる。

 そしてゲーム通貨、ロドーは現実の通貨と取引できる。

 

「陽ー、ご飯できたよー」


 階下から母の声がした。


「今行くー!」


 陽は体を起こし、Aegisをデスクに置いた。まだ指先に感覚が残っている気がした。


 階段を下りると、リビングからいい匂いがした。テーブルには夕食が並んでいる。母が台所から顔を出した。


「長かったね。何時間やってたの?」

「……五時間くらい?」

「体感は?」

「一時間くらい」


 母が苦笑した。


「やっぱりそうなんだ。ヒロくんのお母さんも同じこと言ってたよ。あの子、食事の時間になっても全然気づかないって」


 陽は椅子を引いて座った。父はまだ帰っていないらしく、テーブルには二人分の食器が並んでいた。


「でも、あの機械、本当に大丈夫なの? 脳をスキャンするって聞いたけど……」


 母が心配そうに言いながら、味噌汁を運んでくる。


「大丈夫だよ。ゲーム会社が何年もかけて安全性テストしてるから」

「でも世界初の技術でしょ? 何があるかわからないじゃない」


 陽は箸を取りながら答えた。


「ヒロが全部調べてたから。問題ないよ」

「ヒロくんが言うなら……まあ、信じるけど」


 母は少しだけ表情を緩めた。ヒロへの信頼は、陽への信頼より厚いかもしれない。昔からそうだ。


「で、どうだったの? そのゲーム」

「……すごかった」


 陽は正直に答えた。言葉にするのが難しかった。すごい、という一言では全然足りない。あの風の感触も、セラの温もりも、アーマーボアが倒れたときの地面の揺れも——全部、現実だったと言われても信じてしまいそうなほどだった。


「何がすごかったの?」


「全部。匂いも、風も、触った感触も……本物と変わらないんだよ。ゲームだってわかってるのに、そこにいるって感じがする」


 母はしばらく考えるような顔をしてから、「それって怖くない?」と言った。


「怖い?」

「現実とゲームの区別がつかなくなりそうで」


 陽は一瞬、黙った。


 確かに、そう思う瞬間はあった。ログアウトして天井を見上げたとき、一瞬だけ、どちらが本物かわからなくなる感覚。セラを抱いていた手が、今もまだ温かい気がすること。


「……大丈夫だよ」


 でも、そう答えた。

 母は「ならいいけど」と言って、自分の椅子に座った。


 夕食の間、陽はあまり喋らなかった。頭の中では、まだリクレーンの景色が広がっていた。湖面に映る灯り。さざ波の音。セラの金色の瞳がまっすぐ前を向いていた、あの横顔。


 また明日、あの世界に戻れる。それだけで、不思議と満たされた気持ちになった。

 


 ◆


 翌朝。カーテンの隙間から差し込む光で、陽は目を覚ました。


「……朝か」


 ぼんやりしたまま身体を起こす。夢を見ていた気がした。白い草原、湖畔の街、金色の瞳。だが、それは夢というには妙に鮮明だった。


「陽ー! 遅刻するわよー!」


 階下から母親の声が飛ぶ。


「……やば」


 一気に現実へ引き戻される。顔を洗い、制服へ着替え、急いで階段を下りた。


「おはよう」

「おはよう。ほら、パン」


 母親が皿を差し出す。父親はすでに新聞を読んでいた。


「今日はちゃんと起きれたな」

「一応ね」


 陽は苦笑しながら朝食を流し込む。窓の外では、初夏の風が静かに揺れていた。高校生活が始まって早一ヶ月。新しい環境にも、慣れてきた頃だった。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 玄関を開けると、朝の空気が少し冷たい。そのまま門を出た瞬間、隣の家の玄関もちょうど開いた。


「お、タイミングいいな」


 ヒロが欠伸混じりに出てくる。制服は着ているが、どこかだらしない。寝癖も少し残っていた。


「ギリギリまで寝てたでしょ」

「バレた?」


 悪びれもなく笑う。


「昨日やばかったからな。寝る前に掲示板ずっと見てた。我慢できなくて、よっぽどまたログインしようかと思ってた」

「あー……」


 陽も分かる気がした。昨夜、ログアウトしてからもゲームのことが頭から離れなかった。


 二人は並んで歩き出す。住宅街の朝は静かだった。遠くで車の走る音がして、通学中の学生たちが駅へ向かっていく。見慣れた現実の風景。なのに、どこか物足りなく感じてしまう。


「……なんか変な感じだなぁ」


 陽がぽつりと言う。


「ん?」

「昨日まで普通だったのにさ」


 陽は空を見上げた。青空。当然、竜なんて飛んでいない。


「現実の方が作り物っぽく感じる」


 一瞬、ヒロが黙る。それから、小さく笑った。


「分かる」


 短い返事だった。


「昨日あのゲームやった奴は、多分みんなそうなってる」


 駅前へ近づくにつれ、人通りが増えていく。その中で、ちらほら聞こえてくる。

「昨日ロアドラやった?」「あのゲームやばくね?」「レイド行ったわ」


 完全に話題の中心だった。


「社会現象だな、もう」


 ヒロが呟く。

 陽は苦笑しながら歩く。だが頭の片隅では、別のことを考えていた。


 セラ。Out of Spec。AIで行動するただの竜。そう割り切るには、妙に存在感が強すぎた。


 電車を降りると、同じ制服の生徒たちが一斉に改札へ流れていく。朝特有のざわめき、眠そうな声、友人同士の笑い声。その中でも、やはり聞こえてくるのはROAR OF DRAGONSの話題だった。


 ヒロが思わず苦笑する。


「完全に学校侵食してんな」

「みんなやってるんだな……」

「世界初のフルダイヴVRゲームだしな」


 二人は校門をくぐる。まだ新しい校舎は朝日を反射して明るかった。グラウンドでは運動部がすでに走り込みを始めている。


 陽は少しだけ息を吐いた。現実へ戻ってきた感覚。だが同時に、どこか落ち着かない。


「おはよー」


 後ろから女子生徒の声が飛ぶ。

 二人が振り返ると、クラスメイトの数人がこちらへ歩いてきていた。


「二人もやった? 話題のゲーム」

「やったやった」


 ヒロが軽く答える。

 一気に会話が広がる。初期地の話、竜の話、おすすめの狩場。まだサービス初日なのに、全員妙に熱量が高い。


 陽はその輪の中で、少しだけ周囲を見る。みんな楽しそうだった。昨日、自分が感じた衝撃を、同じように味わっている。


「陽君はどんな竜だった?」

「え?」


 急に話を振られ、陽が少し固まる。


「あー……白いやつ」

「白? 珍しいね?」

「いや、でもそんな強くないよ」


 陽は曖昧に笑って誤魔化した。Out of Specのことは、話す気になれなかった。なんとなく、あれは軽く口にしていいものじゃない気がした。


「ホームルーム始まるぞー」


 教師の声が廊下から響く。生徒たちが慌てて教室へ入っていく。

 陽も席へ向かいながら、窓の外を見る。青空。静かな日。なのに胸の奥では、もう次のログインを待っている自分がいた。


 ◆


 屋上のドアを押し開けると、風が来た。


 昼休みの空は高く、雲一つない青だった。陽は弁当を抱えてフェンス際に向かい、いつもの場所に腰を下ろした。コンクリートの縁に背をもたれ、足を伸ばす。眼下には校庭が広がり、サッカーをしている生徒たちの声が風に乗って上がってくる。


 ヒロはすでにそこにいた。片膝を立て、スマホを見ながらパンをかじっている。


「遅い」

「ごめん、先生に捕まってた」


 陽は弁当を開いた。母の手作りだ。卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー。ごく普通の、いつも通りの昼食。

 

「次ログインしたらどうする?」


 陽が聞くと、ヒロはスマホから目を上げた。


「クエストを受けて稼ぐ。竜の強化が最優先だ」

「セラとレオンの?」

「ああ」


 ヒロがスマホの画面を陽に向けた。ROAR OF DRAGONSの攻略サイトだ。竜の育成に関するページが開かれている。だが、情報量が妙に少ない。


「……なんか、載ってる情報少なくない?」

「このゲーム、ネット上の情報が規制されてるからな」

「規制?」

「ゲームのシステムを管理してるAIが、ネット上の攻略情報も一括で管理してる。過剰な情報拡散はゲームバランスを崩すって判断したら、自動で削除したり検索に引っかからないようにしたりするらしい」


 陽は眉をひそめた。


「AIが勝手にそんなことするの?」

「開発が最初からそういう設計にしてる。外の情報環境含めてAIが管理する。プレイヤーに"攻略された状態"でゲームさせたくないんだろ」

「……なんか、怖いな」


「まあな」とヒロは言った。


「でもそのおかげで、自分で試行錯誤する楽しさは本物だ。誰も正解を知らない」


 陽は少し考えてから「じゃあどうやって情報集めるの?」と聞いた。


「自分でやるしかない。あとは実際にプレイしてる人と話す。ネットじゃなく、ゲーム内で直接な。情報交換だ」

「なるほど」


「お前の竜は理論上どんな装備でも積める。だったら早めに強い装備を揃えた方がいい。他のプレイヤーより圧倒的に有利になれる」

「でも今のロドーじゃ、いい装備は買えないよね」

「だからクエストで稼ぐ。効率よく回せば、すぐ貯まる」


 陽は卵焼きを口に運びながら頷いた。


「パーティ……そういえば昨日のボス、知らない人たちと一緒に倒したね」

「ああ。ああいうレイド系は人数いた方が断然楽だからな。慣れてきたらもっと積極的に参加していこう」


 ヒロはパンの袋を畳みながらスマホを操作する。クエスト一覧のページに切り替わった。


「まずはこのあたりから片付ける。素材収集と討伐クエストを並行して回せば効率がいい」


「どのくらいで装備揃うかな」

「セラ次第だな」とヒロは言った。


「あの規格外のGC、どこまで活かせるか。それが分かれば計算できる」


 陽はブロッコリーを食べながら、昨日のセラの動きを思い出した。アーマーボアの牙を踏み越え、左目へ一直線に飛び込んでいったあの瞬間。装備を付けたことで、動きが明らかに変わっていた。強化すればするほど、もっと変わるかもしれない。


「……楽しみだな」

「だな」


 校庭から歓声が上がった。サッカーのゴールが決まったらしい。風が屋上を吹き抜けていく。


 ヒロが静かに笑った。普段の無愛想な顔のまま、でも目だけが少し違う。子供の頃、新しいゲームを前にしたときの、あの目だ。最近ではなかった。


 陽も思わず笑った。

 弁当の蓋を閉める。青い空に、白い雲が一枚流れていく。仮想世界の空に、少し似ていた。


「放課後すぐログインしよう」

「当たり前だろ」


 予鈴のチャイムが鳴った。


 二人は立ち上がり、屋上のドアへ向かった。風が後ろから押すように吹いて、陽の髪を乱した。

 午後の授業が始まる。

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