ログイン⑵
戦いの余韻が、まだ体に残っている。
荒い呼吸を整えながら、陽は振り返った。湖畔の街。ログイン直後、最初に立った場所。いくつか提示された初期拠点の中から、二人が選んだ場所だった。
「……こんな場所だったのか」
思わず呟く。初めに見たときは、ただ凄いとしか思えなかった。細かく見る余裕なんて、なかった。
青く透き通る水面が、どこまでも広がっている。その中央に、一本の巨大な樹がそびえていた。空を突き抜ける幹。枝は大きく広がり、湖全体を見下ろしている。
その湖の上に、街が築かれている。木造の家々が水面に浮かぶように並び、無数の桟橋がそれらを繋ぐ。人が歩くたび木が軋み、水が揺れ、光が反射する。すべてが、生きていた。
「……リクレーン、か」
ヒロがぼそりと呟く。
「初期の街にしては、気合い入った作りだな」
「……うん」
陽は小さく頷き、橋を渡る。足元で水音が響き、街に入った瞬間、ざわめきが一気に押し寄せた。プレイヤーたちの声、竜の鳴き声、金属がぶつかる音。視界の端では、すでに装備を調整している者もいる。
「……やっぱ、あれだな」
ヒロが顎で示す。桟橋沿いに並ぶ店のひとつ、剣と竜の爪を組み合わせた紋章。
「装備屋」
陽は呟き、視線を落とす。セラは静かに隣にいる。白い鱗が、湖の光を受けて淡く揺れていた。
GC——視界の端に、あの表示がよぎる。
*Out of Spec*
「本来あるはずの数値がない。だったら――どこまででも積めるってことじゃねぇのか」
ヒロの口角がほんのわずかに上がる。
陽は息を呑む。その発想は、自分もどこかで感じていた。だが、はっきりとは言えなかった。
「……分からないけど」
「ああ、確定じゃねぇ。けど、普通じゃないのは確実だな。試せば分かる。その"規格外"が、どこまで外れてるか」
装備屋の前に着く。金属音が響き、プレイヤーたちが自分の竜に装備を当てている。陽は小さく頷き、セラを見る。白い鱗が光を受けて揺れる。
「……行こう」
木の扉に手をかけ、押し開ける。二人は、装備屋の中へと足を踏み入れた。
扉を押した瞬間、空気が変わった。外の喧騒が、わずかに遠のく。代わりに、金属の擦れる音と低く響く打音が耳に入ってくる。店内は木と鉄の匂いが混じり合い、壁際には武具が整然と並べられていた。
「……思ったより、本格的だな」
「そりゃ戦闘ゲーだしな」
ヒロは迷いなく奥へ進む。すでに何人かのプレイヤーが装備を選んでいた。竜の前脚に金属製の爪を当てている者。外殻に薄い装甲を重ねている者。装備を手に取るたびに視界の端で数値が浮かび、変化していく。
「……あれが、装備反映」
「だな。試着みたいなもんだ」
ヒロは棚からひとつの装備を手に取る。鈍い光沢のある、簡素な爪の補強具だ。
「軽量クロー。初期用だな」と言いながら自分の竜に近づけると、装備が半透明になり、ぴたりと形が重なった。
――《GC使用量:2 / 10》
「ほらな。こうやって、積める分だけ装備できる」
「10……」
陽はその数値を見つめる。
「初期はだいたいこんなもんだと思う」とヒロが装備を確定させる。金属音とともに、竜の爪がわずかに強化される。
「で、問題は――」
ヒロの視線が、セラに向く。
陽はゆっくりと棚に手を伸ばした。同じような爪の補強具。軽い。けれど、さっきの戦いを思い出せば、それでも必要だと分かる。セラを小さく呼ぶと、静かに近づいてきて足元に座る。陽は、その前脚に装備を当てた。ぴたり、と重なる。視界の端に表示が浮かぶ。
だが――
「……表示が」
「どうした」
ヒロが覗き込む。そこにあるはずの数値。
――《GC使用量:—》
「……数値、出てねぇぞ」
ヒロの声が低くなる。装備自体は問題なく装着されている。セラの爪に金属の補強が重なっている。だが、負荷が表示されない。"どれだけ使っているか"が、分からない。
「外してみろ」
陽は頷き、装備を外す。問題なく外れる。もう一度、装着する。やはり、同じだ。
「他の部位、いけるか試せ」
「え?」
「普通は、積めばすぐ上限に当たる」
陽は頷き、別の装備に手を伸ばす。首元用の軽装甲を当てる。表示は出ない。背部用の補助具。装着。やはり、出ない。腕部、脚部、順に試していく。そのたびに装備は問題なく装着される。だが、どこまでいっても、数値は現れない。
「普通なら、とっくに止まってる」
「……だよね」
陽の喉が、わずかに乾く。視界の端。
――《GC使用量:—》
変わらない。まるで"上限そのものが存在しない"みたいに。
「……やっぱり」
「ああ」とヒロが答える。
「"枠がない"ってのは、そういうことだ」
店内のざわめきが、やけに遠く感じる。金属音だけが、妙に鮮明に響く。
「……とんでもねぇな」
ヒロが小さく笑う。
「最初はクソ弱ぇのに、積めば積むほど伸びるタイプかよ」
陽は何も言えなかった。ただセラを見つめる。静かに、こちらを見返してくる金の瞳。底がない。ヒロが言葉を続ける。
「……やること、決まったな。装備、集めまくるぞ」
陽は、ゆっくりと頷いた。弱いままじゃ終わらない。この"規格外"を、使い切るために。
だが同時に、別の問題も目の前にあった。陽が何気なく視線を値札へ向ける。
「高っ」
思わず声が漏れた。軽量クローですら、今の所持ロドーでは手が届かない。さらに装甲や補助具まで含めれば、完全に足りない。
「まあ、初期はこんなもんだ。最初から全部揃えられる奴なんていねぇよ」とヒロが苦笑する。
「……だよね」
陽は小さく息を吐く。視界の端に表示された所持金は、心許ない数字のままだ。
「なら稼ぐしかねぇな。外で素材集めて売る。序盤はそれが一番早いだろ」
陽は頷く。この世界では、モンスターの素材にももちろん価値がある。牙、毛皮、爪、骨片――用途に応じて買い取られ、生産素材として市場に流れていく。プレイヤーが狩り、集め、売る。それが、この世界の金の流れだった。
「……行くか」
「うん」
二人は装備屋を後にする。木の扉を開くと、再びリクレーンの喧騒が押し寄せてきた。湖面を渡る風。桟橋の軋み。行き交うプレイヤーたち。その中を抜け、二人は再び街の外へ向かった。
◆
どれくらい時間が経ったのか。草原を走り回り、何度もウルフを狩る。素材を回収し、ロドーを稼ぎ、また次を探す。単純な繰り返し。それでも、少しずつ戦い方は洗練されていった。ヒロが崩し、陽が合わせる。セラはまだ弱い。だが、動きだけなら確実に良くなっている。
「……こんなもんか」
ヒロがウィンドウを閉じる。陽も所持ロドーを確認した。最初とは違う。ようやく買い物ができる数字になっていた。
陽はセラを見る。多少汚れてはいるが、その金の瞳は変わらず澄んでいた。
「……装備、買おう」
セラが小さく鳴く。二人は、再びリクレーンの街へ戻っていった。
再び装備屋の扉を押し開ける。さっきと同じ金属音。武具の匂い。行き交うプレイヤーたち。だが今は、少しだけ気持ちが違った。
「……買える」
「全部じゃねぇけどな」とヒロが笑う。
二人は棚を見て回る。高価な装備には手が届かない。だが、最低限なら揃えられる。
「まずは軽さ優先だな。セラは防御より回避寄りだろ」
「……うん。正面から殴り合うのは厳しい」
さっきまでの戦闘を思い出す。耐えるより、動く。今のセラには、その方が合っていた。陽は棚から軽量クローを取り、続けて薄型の首部装甲を選ぶ。最低限の保護だけを目的にした、軽い装備だった。
「その辺なら悪くねぇ。初心者向けだけど、動きは殺さない」
陽はセラの前にしゃがみ込む。
「……付けるぞ」
セラは静かに近づき、じっとこちらを見る。軽量クローを装着。続けて首部装甲。金属音とともに装備が固定される。
視界の端。
――《GC使用量:—》
やはり、表示は変わらない。
「……どうだ?」
陽がセラを見ると、白い竜が一歩踏み出す。動きは軽い。だがさっきまでとは少し違う。爪が地面を掴む感覚が鋭くなり、踏み込みに無駄がない。セラが小さく跳ぶ。軽い。ほとんど重さを感じさせない。それでいて、さっきより明らかに安定していた。
「……速いな。数値以上に変わってる感じする」
「……これなら」
陽は小さく息を吐く。戦える。まだ弱い。それでも、ちゃんと前に進んでいる感覚があった。
「いいじゃねぇか。ようやくスタートラインだな」
陽も、小さく笑い返す。装備は最低限。ロドーもほとんど残っていない。けれど不思議と、不安はなかった。あるのは小さな達成感と高揚感。
セラが静かに隣へ並ぶ。その金の瞳が、まっすぐ前を見ていた。




