ログイン
世界は、音から始まった。
風が鳴く。鉄が軋む。遠くで、誰かの歓声が弾ける。
そして――咆哮。
腹の奥に響くそれは、現実ではありえないほど生々しく、雨宮陽の鼓膜を震わせた。
「……凄いな、これ」
思わず漏れた声すら、自分のものとは思えないほど自然だった。視界いっぱいに広がるのは、どこまでも続く草原。後方には湖畔の街。空は高く、雲がゆっくりと流れている。
この世界の名は"ミシェルラウド"。
世界初のフルダイヴ型VR空間。
現実としか思えない景色に、言葉を失う。
陽は空へと両手を広げた。指の先で、何かが風を切る音。それを追うと小さな影が空を舞っていた。翼を広げ、朝の光の中を自由に駆け回っている。まだ幼い、仔竜だった。その鳴き声が草原に響く。か細いが、どこか芯のある声だった。
「遅ぇよ、陽」
背後から、聞き慣れた声。
振り返ると、そこにいたのは――
「ヒロ!」
長身の少年。幼馴染みの友人、橘ヒロが腕を組んで立っていた。現実とほとんど変わらない姿。いや、少しだけ整いすぎている気もする。
その足元には朱色の鱗を持つ仔竜が座っている。翼が背にしっかりと折り畳まれていた。赤みがかった鋭い目が陽をじっと見てくる。
「だから言っただろ。すげぇって」
「いや、これは……凄いってレベルじゃないよ……」
陽は周囲を見渡しながら、呆然と呟く。
「Aegisだからな」とヒロが静かに言った。
「普通のVRとは仕組みが違う。脳をスキャンして、五感ごと仮想世界に繋ぐ。見るんじゃなくて、"いる"んだよ、俺たちは」
「……だから、こんなに」
「匂いも、風も、全部本物と同じに感じる。それがAegisだ」
陽は自分の手を見下ろした。革の手袋。その下に確かな感触がある。握れば抵抗があって、開けば風が指の間を通り抜ける。これが全部データだとは、とても思えなかった。
そのときだった。足元で、何かが“生まれた”。
「……え?」
陽は反射的に視線を落とした。
地面の上。そこに、光があった。淡い光じゃない。まるで、空気そのものが凝縮したみたいに、白く輝いている。
「なんだこれ……」
思わず一歩引く。
「生まれるぞ、お前の竜が」
その瞬間。光が、“脈打った”。
ドクン、と。心臓みたいに。
「――っ!?」
陽の呼吸が止まる。ヒロも、わずかに眉をひそめた。次の瞬間、光が弾けた。視界が白に染まる。反射的に目を閉じる。数秒。いや、もっと短い一瞬。
けれどやけに長く感じる時間のあと――
静寂が戻る。
「……今の、なに……」
恐る恐る、目を開ける。
そこにいたのは――
小さな、竜だった。
雪のように白い鱗。光を受けて、淡く輝いている。そして。金色の瞳。
ただ、それだけのはずなのに。
「……っ」
息を、呑む。目が、離せない。他のプレイヤーの竜とは、明らかに違う。サイズでも、形でもない。
“質”が違う。存在そのものが、静かに圧を放っている。
「……なんだよ、それ」
ヒロの声が、わずかに低くなる。
「初期個体じゃねぇぞ、どう見ても」
「え……?」
陽は言葉を失ったまま、ゆっくりとしゃがみ込む。竜は、動かない。ただ、こちらを見ている。
まっすぐに。じっと。まるで――
“見定める”みたいに。
「……俺の、竜なのか?」
自分でもおかしな聞き方だと思った。でも、そうとしか言えなかった。竜は、瞬きを一つ。その動きが、やけにゆっくりに見えた。ほんのわずかに、首を傾ける。その仕草が、あまりにも“自然”で。
あまりにも“意図的”で。
「……名前、どうするんだ?」
気を取り直すように、ヒロは言った。
「ヒロはもう自分の竜に名前つけたの?」
「レオンだ」
「ヒロが前に飼っていた犬の名前か。うーん。どうしようか……」
白い竜は、じっと見つめてくる。その金色の瞳が、わずかに揺れた気がした。
「……セラ」
ふと、口をついて出た。
「君の名前、セラってどう?」
一瞬の静寂。
次の瞬間——
小さな竜は、ほんのわずかに鳴いた。それは“声”というより、空気が震えたような、微かな音。だが確かに。
——応えた。
「……よろしくな、セラ」
陽は、そっと手を差し出した。セラはためらうことなく、その手に鼻先を寄せる。温もりが伝わる。
柔らかい。けれど芯がある。ただのポリゴンやプログラムじゃない――そう思わせるだけの“重み”があった。
「……すげぇな。お前もしかしたらレアな個体引き当てたんじゃないか?」
ヒロが、低く呟く。いつもの軽口じゃない。観察するような、どこか警戒を含んだ声だった。
「陽、その竜……ステータス見れるか?」
「え? あ、うん」
言われて、陽は意識を切り替える。視界の端に、半透明のウィンドウが開いた。思考と連動するインターフェース。指を動かす必要すらない。
竜の情報欄を開く。
そして――
「……え?」
思わず、声が漏れた。
「どうした?」
「いや……その……」
言葉が詰まる。そこに表示されていたのは、明らかに“異常”だった。
――《個体名:セラ(命名プレイヤー:雨宮陽)》
――《分類:飛竜》
――《タイプ:アルカナ》
――《GC:Out of Spec》
「……は?」
ヒロが素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと待て、“Out of Spec”ってなんだよ。そんな数値ねえぞ」
ヒロが眉をひそめる。
「俺も……説明にはなかった」
陽は視界のウィンドウを見つめたまま答えた。
「GCって、装備の許容量だよな」
ヒロが続ける。
「武具とか装甲とか、どれだけ積めるかの上限。普通は数値で決まってるはずだろ」
「うん……」
陽も頷く。
この世界では、竜に装備を施すことで戦力を底上げできる。
爪や牙を補強する武具、外殻を覆う装甲、能力を補助するアクセサリー、そのすべてに“重さ”のようなコストが設定されていて、GCはそれをどこまで受け入れられるかを示す数値だった。
高ければ多くを積める。低ければ、最低限しか扱えない。本来なら、その数値の範囲でしか装備はできない。超えれば、装備自体が制限される。
つまり、竜の“拡張性”そのものだ。
――なのに。
「規格外、って……」
言葉だけが浮いている。意味は分かるのに、仕組みが分からない。
「……けど低い」
「え?」
「ステータス。俺の竜と比べて……かなり弱い」
ヒロが息を吐く。
陽は、足元のセラを見る。白い鱗。金の瞳。存在感だけは、妙に強い。けれど数値は、それを裏切っていた。
「……試すか」
ヒロが前を指す。丘の向こう、灰色の影が動く。
「ウルフ。あれで分かる」
「……うん」
陽は頷いた。
「セラ、行こう」
小さく鳴いて、セラが隣に並ぶ。
丘を越えた瞬間、ウルフがこちらに気づき、飛びかかってきた。
「来る!」
セラが前に出る。軽い動きで、牙を避ける。だが次の一撃。
「――っ!」
弾かれた。小さな体が地面を転がる。
「セラ!」
すぐに起き上がるが、動きは鈍い。
「……やっぱりステータスが低い」
ヒロが呟く。ウルフが間合いを詰める。連続で振るわれる爪。避けきれない。
「陽、指示!」
「……逃げろ!」
反射的に叫ぶ。セラが後ろへ跳ぶ。距離を取る。ウルフが追う。
「ヒロ!」
「任せろ!」
ヒロの竜が横からぶつかった。重い衝撃でウルフがよろめく。
「今だ!セラ!」
呼ぶ。セラが横に回り込み、小さな牙で噛みつく。浅い一撃。それでも、敵の体勢が崩れる。とどめに、ヒロの竜が叩き伏せた。
――《討伐成功》
――《ウルフの毛皮獲得》
「……ギリギリだな」
ヒロが息を吐く。
「ソロじゃきついぞ。その竜」
「……うん」
陽はセラのもとへしゃがみ込む。セラはその場に座り、静かに息をしていた。
「大丈夫か」
手を伸ばす。逃げない。そのまま額を寄せてくる。弱い。でも、確かに応えている。
「……いきなり戦わせてごめんな」
小さく呟く。セラは何も言わない。ただ、そこにいる。
「でもさ」
ヒロが言う。
「動き、ちゃんとしてたな」
陽はセラを見る。小さく、息をしている。
「……うん」
「弱いのは確かだけど、ただのハズレって感じじゃねぇな」
ヒロは視線をセラに向けたまま続ける。
「一番気になるのは、そのGC」
「……Out of Spec」
「そこだよ。普通じゃねぇのは間違いない」
少しだけ、ヒロの口角が上がる。
「面白くなりそうだな」
陽は、何も言わなかった。ただ、セラの頭をそっと撫でる。白い鱗が、かすかに光を返す。
「……強くなろうな」
小さく呟く。セラは静かに目を細めた。




