黒き竜の顕現
それは突然現れた。
全身が、漆黒だ。鱗の一枚一枚が光を吸い込むように黒く、どこにも反射がない。翼は大きく広げられていたが、端の部分が所々ボロボロに裂けていた。長い首。重厚な四肢。
そして瞳が、深紅だった。
野生の竜の赤とは違う。もっと深く、もっと暗い。血よりも暗い色。その瞳が、静かに陽たちを見ていた。
さっきの野生の竜とは、比べ物にならない気配だった。威圧感ではない。もっと根本的な何か、存在そのものが――違う。
空気が重い。肺の奥へ吸い込むだけで、得体の知れない圧迫感が全身を締め付ける。
「……逃げるぞ」
ヒロが低く言った。その言葉に全て詰まっていた。覚醒したレオンでも勝ち目はない。
本能が告げていた。逃げろ、と。
「今すぐ……!」
ヒロが言った瞬間、二人は走り出した。
来た道を戻る。セレスティアからは遠ざかる、だがそんな事はどうでもいい。木の根を跨ぎ、枝を避け、森の中を全力で駆ける。セラとレオンも並走した。足音が森に響く。
だが。前方の木々が、揺れた。左も。右も。
黒い影が、木々の間を滑るように動いていた。速い。信じられないほど速い。あの巨体で、まるで影が地面を這うように移動している。
気づいたときには、前方に黒い竜が鎮座する。退路が、塞がれていた。
「……速すぎる。何なんだこいつは」
ヒロが低く言った。
陽は黒い竜を見た。動かない。ただそこに立っている。深紅の瞳が、静かにこちらを見ている。感情が読めない。怒りでも、敵意でも、好奇心でもない。
セラが陽の前に出た。リジェネレイト・コアが先程の戦いの傷を癒してはいるが、この相手には焼け石に水だろう。
「陽」とヒロが言った。
「セラを連れて逃げろ。俺とレオンが時間を稼ぐ」
「嫌だ」
即答だった。
「陽——」
「嫌だって言った」
陽はヒロを見た。ヒロの表情は硬い。でも、陽は首を振った。
「ヒロ一人に任せて逃げるくらいなら、一緒に戦う」
「覚醒したレオンでもあれには勝てない。直感でわかる。だったら一人だけでも」
「わかってる。でも——」
陽は黒い竜を見た。深紅の瞳と、目が合った気がした。
「ヒロだけ置いていけない」
ヒロは一瞬だけ黙った。それから小さく息を吐いた。
「……お前は本当に」
言葉が途切れた。続きは言わなかった。
ヒロがレオンの背に乗った。
「俺が前に出る。陽は後ろで機を待て。それと間に合わないだろうけど、達也に救援要請を」
「わかった」
レオンが地面を蹴った。ヒロとレオンが、黒い竜へ向かった。レオンのブレイクタスクが炸裂する。渾身の体当たりが、黒い竜の胸元へ叩き込まれた。
黒い竜は、動かなかった。一歩も。
レオンの体当たりを、まるで風を受けたように受け流した。衝撃が拡散される。レオンが跳ね返される。
「っ——!」
ヒロが体勢を立て直す。すかさず二撃目。レオンが翼を使って側面から叩く。今度も、黒い竜はわずかに体を傾けるだけで受け流した。
ダメージが、入っていない。
全く効いていない。
「……硬すぎる」
ヒロの声に、焦りがあった。
黒い竜が、初めて動いた。首を低くして、レオンを見る。まるで、子供を見るような目だった。脅威として認識していない。ただ、目の前にいる存在を確認しているだけだ。
「来るぞ、レオン!」
黒い竜の翼が、わずかに動いた。
それだけだった。攻撃でもない。翼を大きく広げたわけでも、咆哮したわけでも、突進したわけでもない。ただ、翼がわずかに動いた。その動きが生んだ風圧が——レオンを吹き飛ばした。
陽は目を疑った。
あの、野生の飛竜と全力で戦ったレオンが。覚醒したレオンが。翼一枚の風圧で、簡単に吹き飛ばされた。
「レオン!」
レオンが地面を転がった。立ち上がろうとする。足が震えている。それでも立とうとする。
ヒロが叫んだ。
「レオン、伏せろ——!」
間に合わなかった。黒い竜の尾が、静かに薙ぎ払われた。レオンに直撃した。
――ズドンッ!!
レオンが吹き飛び、岩に叩きつけられる。
視界の端に、通知が流れた。
――《レオンが戦闘不能になりました》
たった一撃。
「レオン……!」
ヒロがレオンの傍に駆け寄る。レオンは倒れたまま、動かない。
黒い竜が、ヒロを見た。
ヒロは立ち上がり、黒い竜を見返し、その目を逸らさなかった。
「ヒロ、逃げて!」
陽が叫んだ。ヒロは動かなかった。黒い竜の瞳が、ヒロを映している。しばらく——本当にしばらく、二者は見つめ合った。
それから黒い竜が、ほんのわずかに首を動かした。その動きが生んだ衝撃が、ヒロを吹き飛ばした。
叫ぶ間もなかった。
――《橘ヒロが戦闘不能になりました》
――《デスペナルティ発動:セレスティアへ強制帰還、LV1ダウン、ステータス一時大幅低下。所持ロドーの2割消失。持ち物一点消失》
視界からヒロとレオンが消えた。
強制帰還。
この場に残された、陽と、セラ。
そして——黒い竜。
森の中に、静寂が戻った。
黒い竜が、陽を見た。深紅の瞳が、静かに陽を見ている。さっきヒロを見たときと同じ目だ。品定めするような、それでいてどこか、興味を持っているような。
陽はセラの背の上で、体が震えているのを感じた。ゲームだとわかっていても、この感情は紛れもなく恐怖だ。隠しようがない。今までのどんな敵とも比べ物にならないほど強い存在が目の前にいる。
でも——陽は、セラを見た。
セラは震えていなかった。金色の瞳が、黒い竜をまっすぐ見ていた。恐れていない。ただ静かに、向き合っていた。
「……セラ」
陽は、セラの首に手を置いた。
とくとく、と。セラの鼓動が伝わってくる。落ち着いている。陽より、ずっと落ち着いている。
黒い竜が、一歩踏み出した。
その一歩だけで、空気が変わった。重力が増したような錯覚。周囲の木々が、その存在に押しつぶされるように静まり返っている。鳥の声が消えた。風も止んだ。森全体が、息を呑んでいるようだった。
陽はセラの首をしっかりと掴んだ。
「セラ、上へ——」
言い終わる前に、黒い竜が動いた。
速い。さっきの飛竜とは比べ物にならない。ヒロを吹き飛ばしたときの動きよりも、さらに速い。一瞬で間合いを詰めた黒い竜の翼が、セラを横から薙ぎ払った。
衝撃が、全身を貫いた。
セラが大きく吹き飛ぶ。陽はセラの首にしがみついていたが、その衝撃で手が離れた。
体が、宙に浮いた。
「——っ!」
地面が近づいてくる。陽は反射的に体を丸めた。落ちる。
どさり、と。草の上に落ちた。衝撃が体を走る。痛い。視界が揺れる。
「……っ、ぐ」
起き上がろうとした。足が動かない。一瞬、強打した腰が言うことを聞かなかった。
「セラ——、セラ!」
呼んだが、返事がない。
顔を上げて周囲を見渡した。森の木々。夕暮れの光。黒い竜の姿が……見えない。
「どこだ……」
立ち上がろうと腕を踏ん張った瞬間、後ろで木が倒れた。振り返る。何もいない。左側で枝が揺れた。振り返る。何もいない。右側で地面が揺れた。
「どこにいる——!」
陽は立ち上がった。腰の痛みを堪えて、四方を見渡す。でも、黒い竜の姿が見つからない。あの巨体が、まるで影のように森に溶け込んでいる。
一人だった。
ヒロはいない。レオンもいない。セラも見えない。あの黒い竜がどこにいるかもわからない。
恐怖が、じわじわと這い上がってくる。
「セラ……どこだ」
声が、震えていた。
そのとき。木々の向こうで、何かが光った。
黒い竜だった。
木々の間から姿を現した。その口が開いている。喉の奥が、暗い光を帯びていた。炎ではない。光でもない。全てを飲み込むような、黒い輝き。
黒い――ブレス。
陽は悟った。あれを食らったら終わりだ。だが、回避できるわけがない。距離が近すぎる。セラもいない。
足が、動かなかった。恐怖で、体が固まった。逃げなければ。でも、どこへ。どうやって。
黒い輝きが、膨らんでいく。
放たれる——
——その瞬間、声が響いた。




