夏の始まり
七月の終わり、終業式の日にヒロからメッセージが来た。
*「明日から全力でいくぞ」*
陽は布団の中でそれを読んで、思わず笑った。
*「了解」*
返信して、目を閉じた。夏休みが始まる。
◆
夏休みに入ると、二人の生活は一変した。
起きたらログイン。昼食のためにログアウトして、食べたらまたログイン。夕食前にログアウトして、風呂に入って、寝る前にもう一度ログイン。気づけば一日のほとんどをミシェルラウドで過ごしていた。
現実の時間が、やけに短く感じた。
朝の草原から始まり、クエストをこなし、装備を強化し、夜のグランヴェルに戻ってくる。それだけで充実した一日になる。現実の夏休みは、その合間にある休憩時間みたいだった。
学校がある頃は、放課後の数時間しかログインできなかった。それが今は朝から晩まで使える。積み上げてきたものが、一気に加速していく感覚があった。セラの動きはさらに洗練され、ヒロとの連携も言葉なしに通じるようになっていた。
悪いことだとは思わなかった。
「陽、ちょっといい?」
ある朝、ログインしようとしていた陽を母が呼んだ。
リビングに行くと、母がテレビの前に座っていた。ニュースが流れている。夏の朝らしく、カーテンから白い光が差し込んでいた。
「座って」
陽は母の隣に腰を下ろした。
画面には、スーツ姿の男性が街頭インタビューに答えている映像が映っていた。
*「Aegisの経済効果は想定以上です。関連市場の規模は発売から一ヶ月で既に数兆円規模に達しており、世界各国で普及が加速しています。VR-NFT市場は今後さらなる成長が——」*
「すごい反響だね」と陽が言うと、母は「そうね」と頷いた。「でも次を見て」
画面が切り替わった。今度は白衣の専門家らしき人物が映っている。
*「一部のユーザーに、VR酔いに似た症状が報告されています。現実とゲーム内の感覚のズレによるもので、めまいや軽度の離人感を訴えるケースが確認されています。特に長時間プレイ後のログアウト直後に——」*
「離人感って何?」と陽が聞くと、母が答えた。「現実感がなくなる感じ、みたい。ゲームの世界があまりにリアルすぎて、現実に戻ってきたときに違和感を覚える人が出てきているって」
「俺は大丈夫だよ」
「本当に?」
母が陽をじっと見た。心配しているのが伝わってくる。
陽は少し考えた。正直に言えば——ログアウトした直後、一瞬だけ天井が遠く感じることはある。セラの温もりが指に残っている気がすることもある。でもそれは、すぐに消える。
「本当に大丈夫。ちゃんと現実とゲームの区別はついてる」
「夏休みに入って、一日何時間やってるの?」
「……十二時間くらい」
母が眉をひそめた。
「夏休みだから」と陽は続けた。
「学校始まったら減る。約束する」
「約束ね。それと——朝ご飯食べてからにしなさい」
テーブルには、いつの間にかトーストと目玉焼きが置いてあった。スクランブルエッグでも目玉焼きでもなく、半熟の目玉焼き。陽の好みを覚えている。
「……ありがとう」
陽はトーストを齧りながら、もう一度ニュースを見た。
*「ただし、これは極めて一部のユーザーに限られており、Artefact社は安全性に問題はないとコメントしています。専門家も、適切な休憩を取ることで症状は出ないとしており、過度な心配は不要との見解です」*
極めて一部。適切な休憩。
陽は残りのトーストを口に押し込み、立ち上がった。
「ごちそうさま。ヒロんちに行ってくる」
「たまには、外の空気も吸いなさいよ」
陽は「わかった」と答えて、玄関を出た。
夏の朝の空気が、むっとするほど熱かった。
◆
隣の家のインターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
「遅い」
ヒロが開口一番に言った。すでにAegisを手に持っている。
「朝ご飯食べてたんだよ」
「俺はメシ食べながら待ってた」
「じゃあ準備は万端だね」
陽はヒロの部屋に上がった。机の上には空になったシリアルのボウルが置いてある。窓から夏の日差しが差し込んでいたが、カーテンが半分閉まっていた。
「ニュース見た?」と陽が聞く。
「VR酔いの話か」
「うん。さっき、母さんに心配された」
「俺の親は何も言わなかったな」とヒロは言った。
それからAegisを手の中で回しながら続ける。
「ただ、VR酔いのメカニズムは気になった」
「気になった?」
「Aegisは脳をスキャンして五感を再現する。それだけリアルなら、現実との乖離が生まれても不思議じゃない。俺たちが平気なのは、たぶん若くて適応力があるからだ」
「じゃあ大丈夫だよね?」
「大丈夫だろ。仮にも世界的に普及してる機器だし、だけど——」ヒロは少し間を置いた。「長く続けるほど、現実とゲームの境界線が薄くなる可能性はあると思う」
陽はその言葉を、しばらく頭の中で転がした。
境界線が薄くなる。ログアウトした直後の、あの一瞬の感覚を思い出した。天井が遠く感じる、あの感覚。
「……気をつけよう」
「ああ」とヒロが頷く。
「今日から首都を目指す」
陽は思わず笑った。
「切り替え早いね」
二人は並んでAegisを装着した。
脳がスキャンされる、あの一瞬の感覚。視界が暗くなって——
光が満ちた。
ミシェルラウドの空が、広がった。
セラが陽の隣に並ぶ。白い鱗が、夏の陽光を受けて輝いている。
「ただいま、セラ」
セラが短く鳴いた。




