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翌日、私は当たり前のように放課後になると先生の研究室へ通っている。というより、ほとんど居座っていた。研究室の隅にひとつだけ置かれている、古びたソファ。今ではそこが私の定位置だ。今日も靴を脱いで寝転がり、クッキーを齧りながら本を読んでいる。
「エヴァンス」
「はい?」
「寝転びながら食べるな。汚れる」
「元々汚いじゃないですか」
「汚していい理由にはならん」
確かに。でも起き上がるのも面倒なので、そのままもう一枚クッキーを取る。
「それより貴様、さっきから何を読んでいる」
「本です」
「それは見ればわかる」
先生が机から立ち上がり、こちらへやってきた。ソファの背後から、私の手元を覗き込む。そして固まった。
「……おい」
「なんです?」
「それをどこで手に入れた」
「これですか?」
先生の顔が険しくなる。
「禁術書だろう、それは」
「ああ、はい」
「はい、ではない! なぜ貴様がそんなものを――いや、その前に菓子を食べながら禁術書を読むな!」
「そこですか?」
「そもそも、なぜ古代文字が読める!」
先生はさっきから突っ込みっぱなしだ。
どうやら、聞きたいことが多すぎるらしい。
「勉強しました」
「授業で扱う範囲ではないだろう」
「自主学習です」
「何のために禁術を自主学習する必要がある」
「趣味?」
「疑問形で答えるな」
先生が頭を抱えた。
「とにかく、そんな危険なものを読むな」
「危険って言いますけど、これに書いてあること、美容系ばっかりですよ?」
「……美容?」
「ほら」
私は開いていたページを指差す。
「『肌を十歳若返らせる魔法』」
「…………」
「こっちは『相手に理想の自分の姿を見せる魔法』」
「…………」
「あと、『胸が一日だけ大きくなる魔法』」
「もういい」
先生が本を閉じようとしたので、慌てて押さえる。
「まだ読んでるんですけど」
「そんなもののどこが禁術だ」
「私もそう思ってたんですよ」
たぶんきっと、この本を書いた人は誰にも教えたくなかったのだ。美しさを他人に分け与えたくなかったのだろう、美しいのは自分だけでいいと。でも、自分が忘れないようにどこかには残しておきたい。そこで、他人には簡単に読めない古代文字で書いた。そのうえ、いかにも怪しげな装丁にした。結果、後世の人間が勘違いして禁術書として封印してしまった。ただの美容魔法なのに。
「自分だけの秘密にしたかったんでしょうね」
「馬鹿馬鹿しい」
「でも十歳若返るのはちょっと気になりません?」
「ならん」
即答された。私は肩をすくめて、またクッキーを齧る。
もぐもぐ。
「…………」
口の中が乾いた。お茶が欲しい。
「先生」
「今度はなんだ」
「何か飲み物ありません?」
「……貴様はいつからここを自宅だと思っている」
「昨日くらいからですかね」
「帰れ」
「飲み物」
「帰れ」
「喉が渇きました」
先生はしばらく私を睨んでいたけれど、やがて諦めたように息を吐いた。
「……奥にある」
「ありがとうございます」
研究室の奥には、小さな給湯室あり扉を開けて中を覗く。
「…………」
何もない。棚を開ける。何もない。別の棚。やっぱり何もない。
「先生ー」
「なんだ」
「何もないんですけど」
「あるだろう」
「何がです?」
「珈琲が」
探してみると、棚の隅に申し訳程度に珈琲のパックが置いてあった。なるほど。これしかないのか。私は勝手に棚からカップを取り出し、珈琲を淹れる。先生の分も淹れようかと思ったけれど――。
「…………」
ふと、手元の珈琲を見る。
毒。
過去に先生が死んだ原因のひとつが、頭をよぎった。私は珈琲のパックをひっくり返した。賞味期限を見る。匂いを嗅ぐ。念のため、魔法で異物がないかまで確認する。
特に毒は入ってなさそうだ。 珈琲を淹れ席に戻る。もちろん、先生の分も入れてあげた。優しいでしょ私。
珈琲からふわりと香ばしい匂いが立ちのぼった。おいしそう。ちょうどクッキーにも合いそうだ。私は何の疑いもなく、ひと口飲んだ。
「――にっっがあああああ!?」
思わずカップを離す。
「何これ!?」
苦い。尋常じゃないくらい苦い。舌がおかしくなりそうだ。慌ててクッキーを口に放り込む。
「先生! これなんですか!?」
「珈琲だが」
「知ってますよ! なんでこんなに苦いんですか!」
「眠気覚まし用だ」
「眠気覚まし?」
「ああ。絶対に眠れない珈琲だそうだ」
「絶対に飲めない珈琲の間違いでしょ!」
なんてものを置いているんだ。
「先生、いつもこんなの飲んでるんですか!?」
「たまにな」
「やめたほうがいいですよ! 舌が馬鹿になりますよ!」
「余計なお世話だ」
「砂糖は!?」
「ない」
「ミルク!」
「ない」
「なんで!?」
「必要ないからだ」
「必要ありますよ!」
私はもう一枚クッキーを口に放り込んだ。
甘い。助かった。それでもまだ舌の奥に苦味が残っている。
「うぅ……まだ苦い……」
「大袈裟な」
「先生の舌がおかしいんです!」
「人の珈琲を勝手に飲んでおいて、随分な言い草だな」
「こんな危険物だとは思わなかったんですよ!」
明日は砂糖を持ってこよう。あとミルクも。絶対に。いやそもそもこの珈琲をまた飲むつもりはない。紅茶とかココアも持ってこよう。
私がぶつぶつ文句を言いながら、残った珈琲をどう処理するか頭を悩ませている、その向こうで。
先生の口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。いつも不機嫌そうに引き結ばれている唇が、かすかに弧を描く。
けれど私は――。
「……これ、クッキーもう三枚くらい食べれば消えるかな」
目の前の苦すぎる珈琲に必死で、そんな先生の表情にはまったく気づかなかった。結局、その珈琲はクッキーを何枚食べても苦かった。




