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放課後。
先生の研究室で、私は脚立に乗り、扉の上の壁に魔法陣を描いていた。この部屋への侵入を防ぐための結界だ。完成すれば、登録した人間以外はこの扉を通れなくなる。
「貴様は気にしないのか」
机に向かっていた先生が、唐突に口を開いた。
「何をですか?」
「……幼稚な噂についてだ」
「ああ、私が先生のことを好きだとか。付き合っているんじゃないかとかですか?別に気にしてませんけど」
「少しは気にしろ。貴様は年頃の令嬢だろう」
「事実じゃないですし」
「事実でなければ何を言われてもいいという話ではない」
先生は呆れたようにため息をついた。
「それより先生」
「なんだ」
「この噂のせいで、先生の立場が危うくなったりしてます?」
「…………なぜ私の心配をする」
「だって先生、教師を辞めさせられたりしません?」
「今のところ、そのような話はない」
「ならよかったです」
ほっとして、魔法陣の続きを描く。先生が学園を追い出されたら困る。せっかく毎日こうして監視できているのに、どこか遠くへ行かれでもしたら面倒だ。私の知らないところで勝手に死なれて、またループしてみろ。
発狂する。私が。
だから先生には、私の目の届くところで大人しくしていてもらわなければならない。
「……エヴァンス」
「はい?」
「貴様、自分の評判より私の立場を気にしているのか」
「そうですけど」
「なぜだ」
「先生に学園からいなくなられると困るので」
「だから、なぜ貴様が困る」
「…………」
しまった。また面倒なところを突かれた。
「先生」
「なんだ」
「この魔法陣、もう少しで完成するので静かにしてもらえます?」
「誤魔化すな」
「集中できません」
「エヴァンス」
無視して、最後の線を繋ぐ。
よし。これで術式自体は完成した。あとは、この部屋への出入りを許可する人間を登録するだけだ。私は脚立から降りると、小さなナイフを取り出した。
「……何をする気だ」
「仕上げです。すみません先生、失礼します」
刃先を自分の人差し指に当てる。ほんの少しだけ。
「痛っ」
ぷつりと皮膚が切れ、赤い血が滲んだ。その瞬間。
「……っ」
先生が小さく息を呑んだ。見ると、先生も自分の人差し指を見つめている。私が切ったのとまったく同じ場所。そこにも細い傷ができ、赤い血が滲んでいた。
「おお、ちゃんと共有されてますね」
「おお、ではない」
奴隷契約によって、私と先生の身体は繋がっている。痛みだけではなく、受けた傷も共有される。私が傷つけば先生も傷つく。もちろん、先生が傷つけば私も傷つく。
私は先生の指先に滲んだ血を、指ですくった。
「触るな」
「先生の血も必要なんです」
「勝手に使うな」
「もう出ちゃってますし、もったいないじゃないですか」
「そういう問題ではない」
先生の指先から滲んだ血も、魔法陣へ。二人分の血が触れた瞬間、描かれた線が淡く光った。光は扉を囲むように広がり、やがて壁の中へ溶けるように消えていく。
「はい、完成です」
「……何をした」
「先生と私以外、この研究室に入れなくしました」
「…………」
先生の眉間に深い皺が寄る。
「なぜ貴様まで入れる」
「私が入れなくなったら困るじゃないですか」
「私は困らん」
「私は困ります」
「ここは私の研究室だぞ」
「知ってますよ」
「今すぐ解除しろ」
「嫌です」
これで誰かが研究室へ忍び込んで、毒を仕込んだり、待ち伏せしたりすることはできない。少なくとも、ここにいる間は安全だ。
「……エヴァンス」
「はい?」
「先ほどの話だが」
「なんでしたっけ?」
「噂だ」
「ああ」
先生は完成した結界を見上げ、それから私を見た。
「私と貴様しか入れない研究室を自ら作っておいて、まだ気にしないと言えるのか」
「…………」
言われてみれば。ここ最近、毎日のように二人きりで研究室に籠もっているうえ、今日からは本当に誰も入ってこられない。ふしだらな関係という噂を否定するには、少々よろしくない結界を作ってしまった気がする。
でも。
「先生の立場が危うくなったら教えてください」
「貴様はまず自分の立場を心配しろ」
「私は卒業できればそれでいいので」
「そういう問題ではない」
先生は深々とため息をついた。
私は完成した魔法陣を見上げる。
噂はともかく、これでまたひとつ対策できた。上出来だ。
「あ」
でも、待てよ。
「先生」
「今度はなんだ」
「先生のお家にも、この魔法陣を描きたいんですが」
「…………」
先生の顔が、露骨に嫌そうなものになった。
「先生のお家って、どの辺ですか?」
「必要ない」
「必要ありますよ。ここをどれだけ安全にしても、家に帰ったところを襲われたら意味ないじゃないですか」
「はぁ…………最近はここで寝泊まりしている」
「…………ここで?」
「そうだ」
私は研究室を見回した。
大量の本。積み上がった書類。薬瓶。私がいつも使っている古びたソファ。そういえば、奥には小さな給湯室とシャワーがある。そのさらに奥には、仮眠用らしい簡易ベッドもあった。
確かに。寝ようと思えば寝られる。
「……先生、家あるんですよね?」
「ある」
「なのに帰ってないんですか?」
「最近はな」
「教師って……そんなにブラックなんですか?」
「…………」
先生が黙った。否定してほしかった。
「……私、卒業したら教師になるのだけはやめておきますね」
「賢明だ」
「そこは否定してくださいよ」
大丈夫だろうか、この人。誰かに殺される以前に、普通に過労で死にそうなんだけど。
「先生、ちゃんと寝てます?ご飯は?」
「寝ているし食べている」
「何時間?昨日の夕飯は?」
「…………」
「先生?」
「必要なだけ」
「急に曖昧になりましたね」
「うるさい」
怪しい。頭が痛くなってきた。十六回も先生の死を見てきたけれど。もしかしてこの人、放っておいたら刺客がいなくても死ぬのでは?
「先生」
「なんだ」
「今日からちゃんとご飯食べて寝てください」
先生は心底うんざりしたように、深いため息をついた。
仕方ないじゃないか。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、普通に生活してくれるなら、私だってこんなことは言わない。ただでさえ何度も死ぬ人なのだ。せめて自分から死にそうな生活をするのはやめてほしい。私のためにも。




