「怯える者たち」
その夜、江戸川は隣室の様子が気になり、安藤とともにさりげなく様子を伺っていた。
薄暗い廊下で、たまたま出てきた星野由紀子、四十歳と鉢合わせになる。
「あ、すみません、隣の……」江戸川が慌てて挨拶する。
由紀子は一瞬身構えたが、すぐに柔らかい表情を作った。
「ああ、探偵さんですよね。噂は聞いてます」
「噂、ですか」
「この辺り、噂の回るのが早いから」由紀子は苦笑した。
安藤が思い切って尋ねる。
「失礼を承知でお聞きしますが……皆さん、東京から、何か事情があってこちらに?」
由紀子の表情が、わずかに翳った。
「……事情、と言えば事情ですね。ただ、私たちは、噂されてるような物騒な人間じゃありません。むしろ……」
由紀子は言葉を切り、遠くを見るような目をした。
「もう、そういう世界から、足を洗いたいだけなんです」
その言葉には、これまでの人生の重みが滲んでいるように、江戸川には感じられた。
「もし何か、力になれることがあれば」安藤が静かに言う。
由紀子は少し驚いたような顔をした後、小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます。でも、これは私たち自身で、けりをつけなきゃいけないことなので」
由紀子は一礼して、部屋の中に戻っていった。江戸川と安藤は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「安藤さん、あの人たち、本当に殺し屋なんですかね」
「分からん。だが……あの目は、堅気を捨てた人間の目じゃない気がする。むしろ、堅気に戻ろうとしてる人間の目だ」
窓の外、多治見の夜空に、静かに星が瞬いていた。江戸川たちの周りには、樋口家の恩義、大使館の思惑、そして今度は東京から来た訳あり三人組と、彼らを追う裏社会の影までもが、複雑に絡み合い始めていた。




