この平穏な世界にようこそ(4)
アーリオに滞在して一〇日が経った。それにより六週間は七週間となり、依然街に留まり続ける箱入りは、家出娘とでも呼ぶべきなのかもしれなかった。
六週間が七週間となったことを意識できているのだから、彼女を六週間と変わらず呼ぶことも、また可能だった。もし、彼女が本当に六週間という名前だったなら、彼女の名前を憶えたということになるのではないか。そうなら、彼女は死神に魅入られたことになる。
くだらない、と僕は自分の思考を投げ棄てようと思ったけれど、寸前で思いとどまった。
僕が他人の名前を憶えられないのは、どういう理由なんだろう。くだらない夢を見たとき、すぐにその内容を忘れてしまうのと、感覚が似ていた。
もし、六週間が改名して、本当に六週間という名前になったら、僕は彼女の名前を忘れてしまうのだろうか? くだらないことだ、しかしどうしても気になった。
「もう七週間ですよ、隊長と知り合って」
昼間から酒を食らう戦士たちに囲まれて、僕と六週間は軽食を摂りながら雑談をしていた。六週間の皮肉っぽい台詞に対する僕の返答が「きみの名前は六週間だ」だったのは、ふざけていたからではない。むしろ大真面目だった。
六週間は笑い出し、それからむすっとした。
「やっぱり、隊長、ふざけてるんですか。それとも、特殊な魔導器を使ってるんじゃないでしょうね」
「どういう意味? 特殊な魔導器?」
「他人の寿命が分かる魔導器……、とか。それで死期が近い人の名前だけ呼ぶようにして、周りを怖がらせているんです」
「なるほど、その発想はなかったな。もしそんなのがあったら、賭けの勝率が跳ね上がるだろうね」
「あっ、だから隊長はお金持ちなんですね」
「僕は自分が勝つほうに賭けてるだけだよ」
「そっか。そうですよね。それでも十分稼げますよね」
僕はふと疑問に思ったことを口にした。
「六週間は、僕のことを本当に死神だと思ってるの?」
「ええ。もちろん」
「だったら、僕の傍にいるのは怖くない?」
「どうしてです?」
「だって、もし僕がふときみの本当の名前を呼んでしまったら……」
「人なんていつ死ぬか分からない。それが普通ですよ。でもそれが分かったら――どんな気持ちになるんでしょうね?」
「分からない」
「普通の人には味わえませんよ。それを死ぬ直前に味わえるんだから、まあ、悪くないと思います。三年後に死ぬよ、って言われたら色々考えるかもしれませんが」
「僕は死ぬのが怖いよ」
「へえ? 意外です。隊長は死をも恐れない勇敢な戦士だと思ってました」
「僕は平凡な人間だよ。当然、死への恐怖もある」
「隊長が平凡なら、私は何ですか」
「きみは、釣り合いの取れた、良い性格をしていると思う」
「ん? 釣り合い、ですか?」
「そう」
六週間は僕をじっと見つめて、
「そんなこと言われたの、初めてです。やっぱり、隊長って変わってますよ」
「ああ――ごめん。適当に言ったんだ。『他人から好感を得やすい人物』を言い換えただけ」
「それって言い換えられているんですか」
「たぶん。ほら、尖った部分があると、見ている人は不安になるだろう。きみにはそういうのがないからさ」
「平凡、の言い換えですね」
「かもしれない」
僕は否定しなかった。
「平凡でいることはそれなりに難しいと思うけどね。理性、努力、道徳等々……。様々な資質を問われて初めて人間は平凡になれる」
「でも確かに、平凡な人と話すのが、一番気を遣わないと思いますよ。平凡でいることも無意味じゃないんですね」
「そうだね。ひねくれ者は、こういう考えを『自分を慰めているだけだ』と唾棄するかもしれないけど」
「あはは、実は私、それちょっと思いました」
「僕もだ。お互い、ひねくれているのかも」
「少しひねくれているくらいが、平凡なんじゃないんですか。それに、やっぱり、それを踏まえた上でも、隊長は平凡じゃありませんよ」
「じゃ、僕はもう異常者でいいや。別にそれ自体は罪じゃない」
仮にそれが罪だったとしても、僕は僕でいることを辞められるわけじゃないし……。
言葉を飲み込んで、僕は平凡なんかでいたくないと思う自分のこの感情について考えてみた。そう、たぶんこの思考こそが平凡である証なのだろう。
「●●●とお見受けするが」
背後から声をかけられた。僕と六週間は振り返り、赤いローブを着た男を迎えた。
赤いローブは公営賭博の関係者であることを意味する。戦場に赴き、人体に魔導器を埋め込まれて全世界に映像を発信する子供たちもそうだ。しかし目の前の男は明らかにそういった末端の構成員ではあり得なかった。
「何か?」
「少し、よろしいか」
男は六週間を一瞥した。彼女は溜め息をつき、
「隊長、じゃあ。あ、ここの勘定ですけど」
「私が」
と、男が言った。あ、そ、と六週間は冷めた目で応じ、酒場の隅へと移動した。
男は六週間が座っていた席に腰掛け、蜂蜜酒を注文した。
無精髭と、全身を覆う筋肉の鎧が厳めしい偉丈夫だった。僕はまじまじと顔を見詰め、知り合いではないな、と思った。彼も戦士だろうか。それにしては年齢が行き過ぎている。戦士となることに年齢制限はないが、ほとんどの場合、一五歳のときに戦士志願をしなかった者は、その後戦士となることを希望しない。安寧の生活に慣れ切ってしまい、広場に設置された大鏡に映し出される戦場の一切合財が、異世界の出来事か何かのように感じられるのだろう。
「先日の戦、見事だった」
「それはどうも……。でも見苦しかったでしょ」
「戦略的には。しかし、あれは殺し合い。陣取り合戦ではない」
「きみ全身に魔導器埋め込んでるね。元戦士?」
「戦場に出たことはない。ただ、戦闘力を求められる立場であることは事実。●●●、私はあなたを戦士として非常に高く評価している。そこで折り入って話したいことがある」
「僕にはないけどな……。聞くだけならいいよ」
「あなたに殺してもらいたい男がいる」
「戦場で会えば誰であろうと殺すよ」
「●●●●●●という男だ」
僕は耳の穴に指を突っ込んだ。
「長めの名前だね」
「ご存じか」
「いや。全く」
名前が聞き取れなかったのだから、分かるはずがない。
男は深く息をした。
「魔導器解禁の戦場にのみ参戦する、三〇過ぎの男だ。言ってみれば、金持ちの道楽みたいなもので参戦しているのだが、用いている魔導器は常に最新の強力な代物で、七〇戦全勝と現役の戦士の中では最高の戦績を収めている」
「そうなんだ」
「次の戦場で、あなたと●●●●●●は対戦する。それぞれを隊長として」
「なるほど。分かった。殺せるものなら殺してみるよ」
「それでは困るのだ。絶対に殺してもらわなければ」
「あんまり、戦場に余計なものを持ち込みたくないんだけどな」
「見返りは用意する。金でも何でもいい。何か希望はあるか」
「何も……。僕は今、幸せな日々を送っている。これ以上望むものは何もないよ」
「しかし……」
「最初に言っただろう。聞くだけだって」
「……もし、要求を断れば、あなたは二度と戦場に戻れない」
「それは、どういう意味?」
「あなたへの処遇は我々の意向一つということだ。戦士としての登録を解除する」
僕は思わず笑った。
「最初から、そうすれば良かったのに」
「受けてくれるのか」
「そう言われたら、ね。で、その殺したい男の似顔絵か何かあるのかな」
「ああ……、これだ」
男は不気味なものを見る目で僕を観察してから、一枚の紙を差し出した。そこにはいかにも都の人間といった風な、洒落た木靴に天鵞絨の着衣を身に纏っている男の姿が描かれていた。緻密な筆致であり、顔の造形を隅々まで確認することができた。実際に目にするよりよほど仔細に人相を確認できると言っても過言ではない。
「天鵞絨か」
「うん?」
「彼の名前……。天鵞絨が彼の肉と骨を纏ってるって感じがする。主役は彼じゃなくて天鵞絨だな」
「何を言っているか分からないが――●●●●●●を殺してくれるか」
「ああ。でもしくじっても怒らないでよ。まあ、そのときには僕は死んでいるだろうけど」
「それで、見返りの件だが」
「そんなの、要らないよ。人を脅しといて、今更何を言ってるんだが」
僕は立ち上がり、ふと、気になった。
「きみの名前は?」
「私か? 私の名はオミドだ」
「オミドさん、ね」
僕は酒場を横切り、三階の自分の部屋に向かった。踊り場で六週間が追いつき、僕の服の裾を引っ張った。
「ねえ、隊長。オミドさんはもうすぐ死ぬんですかね?」
「さあ。もう死んでいるんじゃないか」
僕は半ば本気で言った。




