一緒に泣くから(8)
出産には絶対に立ち会う、と箱入りと約束した。けれどその約束を破ってしまった。
病院に着いたときには、既に全て終わっていた。分娩室を覗き見ると、汚れた産褥が生々しかった。
廊下にはリドとエストアが待っていて、僕の名前を呼んでいる。小走りになって、箱入りに会いに行った。
箱入りの名前はセリといった。だから僕は、
「セリ、頑張ったね」
と声をかけた。
寝台に横たわる彼女はにこりと笑んで、
「あなたに名前を呼ばれたのは、初めてですね。嬉しいです……」
それからすうっと眠りに就いた。母親に抱かれていた赤ん坊は、リドが抱き上げて、その鳴き声が母親の眠りを妨げないよう、別室に移動させた。
「僕に抱かせてくれないか」
僕が言うと、リドはさんざん渋ったが――彼女は気性が荒いわりに、子供や乳幼児が好きなようだった――結局は、父親に譲り渡してくれた。
僕は赤ん坊の顔を覗き込んだ。けたたましい泣き声。うっすらと生えた頭髪に、力いっぱい伸ばした腕のか弱さ。奇妙な生き物だと思う一方で、たぶん今死ねたなら、人生がどれほど苦悩に満ちているのか、知らずに済むのに、と思った。
もちろん、僕はこの赤ん坊を殺さない。そんな死は許さない。
別室にて、果物を詰め合わせるときに使うような籠に寝具が敷き詰められていたので、赤ん坊はそこに寝かせた。しばらくすると、泣き疲れたのか、すやすやと眠り始めた。
その様子をリドやエストアと一緒に眺めていたが、やがて女性二人はセリの病室へと向かった。
僕は赤ん坊と二人きり。部屋の隅にあった椅子を籠の近くに引き寄せて、腰掛けた。赤ん坊を見下ろして、まだ名前のない彼(彼女かもしれない。まだ性別を聞いていない)を眺めた。
「僕は父親として、責任を果たす」
言葉なんて分かるはずのない赤ん坊に、僕は言う。
「もちろん、愛情があるものなら――僕にそんなものが備わっていたとしたら、きみに全部注ぎ込んであげる。きみの命は尊いものだし、全力で守ることを誓う。この命尽きようとも、僕はきみの幸福だけを願う。たぶん、父親ってそういうものだろ?」
赤ん坊は寝息を立てている。反応なんてない。だけど、僕は言葉を選んで、言った。
「この世界には絶望が詰まっているよ。それからは絶対に逃れられないよ。それでも、きみは望まれて生まれて来たんだよ。どうしてか、分かるかい? 大人が効力を信じる美徳って奴だよ。生命が生まれる、それはきっと素晴らしい、そう思ってないとやってられないんだよ。この世界に生きる意味がないってことを認めたくないんだよ。寂しくて、寂しくて、仕方がないんだよ。僕は戦場で寂しさを紛らわせることができた。好きなことをするってのは良いことだ。きっときみにも好きなこととか、好きな人とか、好きな場所とか、出来るんだろうね。それは結構なことだ……」
僕は赤ん坊を睨みつける。謝りたかった。この世界に引き摺り出してしまったこと。あの優しい女性の腹の中から、この冷たい世界へ招待してしまったこと。
でも言葉にはしなかった。頭を垂れるのはまだ早い……。そう思ったからだ。
「生まれてきたことは間違いだった。人間なんて生まれてこないほうが良かったんだ。でも、生まれてしまった以上は生きなきゃいけない。生まれてきたことが間違いなら、すぐに死ぬことが正しいのか? そうじゃない。裏表じゃないんだ、生と死っていうのは。地面から空に落っこちてる気分だ。皆、自分がどこから生まれたのかは知ってる、でも死んだらどこに行くんだか分からない、純粋に、空が綺麗だな、あそこに吸い込まれたらどんな気分かな、なんて思えるのは子供のときだけだよ。大人になったら、空がどんな色をしてようが、曇ってようが、雪が降ってようが、ただ死ぬのが怖いだけなんだ。本当だよ、だから、きみは、もしかしたら僕を恨むかもしれない。いつか、僕はきみに謝ると思う……、泣きながら、さ」
部屋の前の廊下を誰かが横切った。僕は言葉を切った。
「お母さんのお腹の中は温かかったかい? この世界にも温もりはあるよ。良かったね。きみはそうやってちょっとした喜びを掬い上げて、自分の中に他人に温かみを分けてあげられる人間になって欲しい。僕にはできなかったことだ、そして、きみにお母さんが得意としていたことだよ。ああ、そうだ、きみのお母さんが僕に惚れてくれなかったら、きっときみは生まれてこなかった、けど、不幸中の幸いと言うべきかな、きみのお母さんは優しい人だから、きみも優しい人間になれる。そうやって、世界に少しでも喜びが増えて、寂しさが紛れてくれればいいね。僕は、もう大人だから、きみにこんなことしか言えないんだ。本当なら、はっきり言わなくちゃいけない……、でも、抵抗がある、昔だったら、ちゃんと言えたんだろうけど」
僕は首を振る。
「駄目だな、言わなくてもいいなんて思ってる。きみにはどうせ聞こえてないって。でも、言わなくちゃいけないんだ。……僕はきみが生まれてきたことが嬉しくない。全く嬉しくない。罪悪感さえある。この世界には退屈と渇望しかない。きみを僕と同じ目に遭わせることに引け目を感じている。この世界は幸福に満ち溢れている、人生のほんの一瞬間だけは。自分を騙して生きればそれは違うかもしれない、僕以外の人間は皆幸せなのかもしれない、それでも僕は一人の人間として、感じ、考えたことを、きみに伝えるよ。僕はきみの幸せを願っている。だけど現実は、変わらないんだ。いつかどうしようもなく寂しくて、この世界から消え去りたいと思ったときは、僕を思って。一人じゃないから。孤独ではないから。一緒に涙を流すから。それが僕にできる、唯一の贖いです……」
そのとき、廊下からエストアが顔を出した。
「隊長、一人で何をぶつぶつ言ってるんですか」
「ああ、いや……。お父様って言わせようと思ってね」
僕は赤ん坊の頭を撫でた。
「そんな。生まれたばかりで喋るわけないじゃないですか。……あれ、泣いてるんですか、隊長」
「え?」
僕は頬に触れた。指先が濡れた。エストアが心配そうな顔になる。
「どうしたんです? 感極まったんですか?」
「ああ、いや、練習かな……」
「何のですか?」
「もちろん、涙を流す練習」
僕は立ち上がり涙を拭った。無理矢理笑顔を作る。エストアは困惑して瞬きが多くなった。
「じゃないと、寂しいだろ? 僕は、父親だからさ」




