深淵の大穴
……。
──『終わらせよ!』
背中が痛い。
肌寒い。
僕は身体を起こして手をつくと、ざりっという音が鳴った。
かすれた視界には、灰色の空と白い小石の大地。
近くからさらさらと川の流れる音がした。
僕はその音のする方向に歩いた。
ざりっ、ざりっ、ざりっと小石は音を立てる。
この音を僕は知っている。
川辺には一隻の船。
対岸には子供たちと赤鬼。
──三途の川。
ここは死後の世界……ではない。
と、どこか直感だけがある。
船の前に一人の青年が立っていた。
その男は僕と目が合うなり近付いてきた。
「どうです?ここが何かわかりますか?」
記憶が霞んでいる。
だが身体だけは、その男を危険だと理解していた。
僕は、その青年に歩み寄り、両手で腰を掴むと空に向かって、ぐいと投げ上げた。
青年は彼方へと飛んでいく。
僕は川から離れるように一直線に走った。
そこでは赤鬼が子供たちを見張っている。
僕はぶつぶつの赤い背中越しに赤鬼に叫ぶ。
「邪魔をするなよ!」
僕の威圧に負けたのか赤鬼は一歩後退りした。
その瞬間、ドシャという衝撃音とともに青年が空から突き刺さった。
赤鬼は驚いた表情で青年の片足を掴むと、一気に彼を引き抜いた。
真っ青な顔の青年は、困惑した表情を浮かべた。
「どうしてです?」
その青年の顔を見た瞬間、後頭部が鈍く疼いた。
「お前が僕を、殴り殺したからだ」
赤鬼は青年の足を離し、ズシャと小石に打ち付けた。
「本当か?暴力は、感心しないな」
青年は何も言わなかった。
記憶の霞はすっかり消え去っていた。
僕は川下に向けて歩く。
そこに答えがある気がした。
川上の街にあったのは、安定という名の無限だ。
人間は安定を求め、そこに満足する。
けれどそれは問題を先送りにして、何も解決しないことと同じなのだ。
だから青年は僕を殴り殺した。
僕は解決しなければならない。
『この世界が何を求めているのか』を。
僕は川下に向けて歩いた。
この世界を知りたい。
その感情が僕の足を動かしている。
そこには、大きな黒い穴があいていた。
僕はその大穴に近づき、中を覗く。
冷たい風が僕の身体を引き込むように闇へと誘う。
直径10メートルはくだらない大穴。
それは、どこまでも続く深淵だった。
その深淵は、ぬめりとこちらを覗き返しているように見えた。
僕の他にもこの世界を解き明かしたい者がいるのだろう。
この世界の構造がボールの内側のようになっているなら、穴を掘れば外に出られる。
途方もない仮説。
だけどそこに、ひとつの答えがある。
僕は円盤状の小石を拾い、大穴へ投げ入れた。
──いつまで経っても音がしない。
飛び込んでみれば答えは見つかるだろうか。
いや、それでは確実にさっきのように振り出しに戻されるだろう。
こんな高さから落ちれば確実に死ぬ。
だが、この世界の命は安い。戻されるだけ。
と、僕は軽率に考え、ぴょんっと大穴に飛び込んだ。
どぷんっと音がするように、僕の身体は深淵に沈んだ。
それが大きな過ちだとは知らずに。
──凍てつく風が僕の肌を突き刺す。
視界は閉ざされ、耳は暴風で塞がれ、嗅覚を感じるほどの速度ではない。
僕は内臓が浮かぶような不快感を必死に耐えた。
長い長い時間。
凍えるような寒さ。
肌を貫かれるような風の痛み。
手足は痺れ、感覚は薄れていく。
無限にも思えるほどの時間を真っ暗闇の中で過ごす。
……無限。
その瞬間、僕の背中は熱を持った。
まずい。
この世界の構造理解が甘かった。
この世界では、意味のないものは存在できない。
今の僕は、ただただ落下するだけの木偶の坊だ。
意味を持たなければ、落下は終わらない。
しかし意味を持てば、その行為は無限になる。
──どちらにしても終わらない。
いや、考えろ。
思考を止めるな。
この無限地獄のような落下を終わらせる方法を編み出せ。
何か意味を見出だせることはないか。
けれど、意識が、薄れていく。
時間が、ない。
かすかに残る思考を燃焼させる。
頭の中に冷たい金属音が響く。
脳が割れるように痛い。
……金属。
「そうだ。今回は、まだ使っていない!」
右腕にかすかな重み。
古い硬貨が六枚。
袖口に入っている。
僕は左手を慎重に動かし、袖口の硬貨を確かめる。
ある。あるぞ。
誰なのか思い出せない。
けれど、これを持たせてくれた誰かに、心の底から感謝した。
人差し指と中指で硬貨を挟もうとする。
けれど、硬貨は袖口の密着を失い、袖の中で暴れ始めた。
慌てて袖口を閉める。
が、明らかに重みは減っていた。
冷や汗が吹き飛んでいく。
……まだある。
絞め上げた袖口に硬い感触がまだある。
たぶん、一枚だけ。
これを逃したら終わりだ。
僕は、ゆっくりと袖口に人差し指を入れていく。
集中しろ。集中しろ。
神経が徐々に澄んでいく。
音が消える。
空気抵抗が、少なくなった気がした。
脳が感じているのは左手の感覚だけ。
……そのほかの感覚は、消えた。
無重力のような空間が僕を包み込む。
人差し指が硬貨に触れる。
その瞬間、中指でそれを抑える。
──「やった」
視界が一瞬だけ、明るくなったように感じた。
僕は掴んだ硬貨を袖口からゆっくりと引き抜く。
そして、心の中で祈った。
「どうか、大穴の壁に当てることが意味のあることになりますように」
その瞬間、
耳元で声が聞こえた。
「おにいさん!」
……っ!
突然の声に全身に稲妻が走るように僕は飛び跳ねた。
その衝撃で、指から硬貨が滑り落ちた。
指を彷徨わせる。
が、指の間に固い感触が、ない。
……終わった。
完全に終わりだ。とそう思ったとき。
チャリン。
金属が跳ねる音。
「えっ!?」
「おにいさん。そこで何してるの?」
子供の声が正面から話しかけてきた。
僕は恐る恐る目を開けた。
どうやら閉じていたらしい。
そこには提灯を持った青鬼と三人の子供たちが僕をじっと見つめていた。
……落下死、していない。
あれだけの落下速度だ。
それはおかしい。
すると目の前に、一枚の古い硬貨が漂ってきた。
……そういう、ことか。
身体を揺する。とても軽い。
この世界の重力は一定じゃない。
今はほぼ無重力なのだ。
僕の身体からは一気に力が抜け、腰が砕けるように地面にへたり込んだ。
なぜ子供たちがこんな場所にいるのだろうか。
僕は薄明かりの中で子供たちの手が泥に汚れていることに気付いた。
「いつから穴を掘っているの?」
子供たちは互いに目を合わせる。
「ここに時間なんてありません。でもこれ以上、掘り進められないようです」
この子供たちは理解している。
けれどここも、終わりはないようだ。
外側に出ることはできないのだろうか。
子供たちは穴の遥か上を見上げ、
少しだけ嬉しそうに言った。
「でも、もう少しで届く……」
すると頭上から円盤状の小石と複数の硬貨が降ってきた。
重力が変化したのだろう。
僕はおもむろに硬貨を拾い、手の中の枚数を数える。
一、二、三、四、五。
一枚足りない。
すると一人の子供は近くの地面を指差していた。
この子供たちはとても賢い。
僕はそこに手をかざした。
地面の奥から微かに熱を感じる。
その瞬間、手の中の硬貨が眩く輝いた。
視界が白く染まる。
頭の中が、暖かい。
──「逃げろ!」
双子の兄は僕に向かって叫んだ。
がらがらと崩れ落ちる木材。
僕と兄の部屋は真っ赤に燃えている。
……そうだ。
僕は火事で死んだのだ。
現世の記憶の破片が急に頭の中に浮かぶ。
「あぶない!」
兄は僕をかばうために天井の板を支えようとしたが、その板はそのまま僕の頭にぶつかった。
その兄の顔には見覚えがあった。
現世の僕が気を失う刹那。
あの声が聞こえた。
『この世界を救って』
そして僕の意識は、光のような速さで大空に飛び立ち、宇宙を駆け抜け、彼方へと消えた。
──「熱っ!」
六枚の硬貨は手の中で赤く発光している。
まるで灼熱の炎で焼かれたかのように。
六文銭は、現世と彼岸の通行料と、どこかで聞いた気がする。
大穴の底。
この世界で一番現世に近い場所。
だから、通じることができたのだろうか。
僕は思い出した。
だから戻らなければならない。
でもどうやって?
僕は顔を上げ周囲を見渡す。
大穴と子供たち。
そして子供たちを見守る青鬼。
その手には提灯と
──金棒。
……もしかして。
僕は屈んだまま、子供たちに小声で聞いた。
「君たち、どうやって地上に戻るの?」
子供たちは答えなかった。
ただ掘る手を止め、僕の顔を一瞥すると、青鬼の持つ金棒を見つめた。
その顔は、とても怯えていた。
やはり、そうか。
嫌だけどしょうがない。
僕は立ち上がり、青鬼に向けて口を開く。
「これ以上掘っても無駄だ。ここが限界なんだ。
子供たちを解放しろ!
お前も進展がないことはわかっているのだろう?」
その瞬間、青鬼の顔が豹変し、ふぉんと風を切る音が鼓膜に響いた。
──まぶたを開けたときには、僕の背中は痛み、眩しい光で満たされていた。
身体に傷はない。
疲労も薄れている。
けれど、頭の奥にあったはずの思考が、ごっそり削り取られたような感覚だけが残っていた。
……たぶん鬼は、リセットボタンだ。
子供たちの労働には限度がある。
疲れや嫌気がさして、効率は極端に落ちる。
そこで鬼は、動くのだろう。
リセットされれば記憶が飛び、身体は元通りになる。
その恐ろしい仕組みを理解しようとした途端、全身の血液が粟立った。
満足できる天国も無限に続く地獄も、すでにここに、あるのかもしれない。
そう思った。いや、それはこじつけか。
僕は起き上がり、青年のもとに急いだ。
確かめなければならない。
しかし、青年は女性を連れて対岸に船を進めていた。
楽しそうに話している。
……もう、待てない。
胸の奥が、ぐしゃりと潰れる。
その瞬間には、もう目の前にいた。
その顔はやっぱり僕の兄だった。
「僕が会いたいと思えば、すぐに来れるのかよ」
青年の困ったような笑い方を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
その顔を、僕は知っている。
鼓動が、一拍ずれた。
「思い出したぞ、兄さん!」
兄は鼻を鳴らした。
「飛べるのは、お前のところだけだ」
僕は兄に抱きついた。
「こらこら。ほら、見てみろ。
対岸の女性の困った顔を」
僕と兄はいつの間にか笑っていた。




