川上の街
対岸の川沿いには積み上げられた小石が等間隔に置かれている。
その石の大きさはまちまちで、平べったい石もあれば尖った石もある。
その石たちは、まるで物理法則を無視しているかのように奇妙なバランスで立っていた。
僕は現世では芸術作品など無価値と決めつけて生きてきた。
高いお金を出して一つのオブジェを買うなんてあり得ないと思っていた。
けれどこの殺風景で肌寒い空間では、積まれた石たちにも価値があると少しは思えた。
視線を遠くに向けると、地平線から、ぬっと大きな四角がこちらを覗き込んでいた。
石造の家に窓が二つ。その見た目は四角い顔のようだった。
近づくにつれ、数十の家が立ち並ぶ光景が広がる。
明らかにここは街だ。
人が家々の狭間を往来している。
久しぶりの活気ある光景に感情が跳ねた。
街の入り口には、白い石でできた鳥居が建っている。
その鳥居をくぐると、彼方でキーンと金属音がなった気がした。
『終わらせよ』
謎の声が頭の中で反芻する。
「……どうやって?」
と、僕の声が小さく漏れると、街を歩いていた老人と目があった。
「こ、こんにちは」
老人は歩みを止めずに、小さく会釈した。
大地を滑るように通り過ぎて行く。
……足音がない。
この空間は歩けば必ず、ざりっと小石が擦れる音がする。
どれだけ慎重に足をおろしたとしても。
この街はとても静かだ。
でも耳を澄ませば、遠くではガヤガヤと話し声が聞こえる。
けれど、小石が擦れる音はまったくしなかった。
僕は街の中心へ向かった。
白い石の家々が、押し合うように並んでいる。
縦に細長い家。低く平たい家。
どれも窓だけが妙に黒かった。
話し合う人々。
石を削って仏像を作る人。
石板に文字を刻む人。
ここは様々な人で賑わっている。
開けた場所には演説台のようなものがあった。
きっと集会が開かれることもあるのだと僕は思った。
見渡す限り、誰もが落ち着きなく、何かをしている。
せわしない。
そんな感情が湧き上がっていた。
ざりざりと街を歩いていると、キッとした表情を作って、人々は僕を睨んだ。
老若男女。十人十色。
様々な顔が僕に向けられる。
僕は無意識に顔を伏せた。
無音で歩くコツがあるなら教えてほしい。
でも、人々は口を固く結び、僕を睨みつけながらも立ち止まる人はいない。
さっきの場所より人がいるのに、
──無音の街の中で、僕は一人だった。
「どうです?活気があるでしょう」
背後から聞き覚えがある声が聞こえた。
「おいおい、着いてきていたのか?」
そう言って振り向きながらも、僕は青年が次に発する答えがわかっているようだった。
「いえ、一歩も動かずに立っていました」
やっぱり。そのセリフだ。
しかし、前回とは状況が違う。
ここは、さっきの場所ではない。
……はず。
青年は笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。
その足音はしない。
「どうです?寂しいと思ったのでは、ないですか?私がいれば、と」
なぜだろう。
この青年と話していると、昔から知っている相手と話しているような気分になる。
でも、僕は即答できなかった。
首を横に小さく振った。
「そんなことより、どうやって無音で歩くのか教えてくれ」
青年は力なく両手を横に広げ、ざりと足を踏み鳴らした。
「どうです?この先にベロを出すことが好きな老人がいるのですが、その方に教えを乞うのは」
奇妙なものいいに違和感を覚えたが、この青年は僕にコツを教える気はないらしかった。
「ほら、そこの家です」
青年は指を指すと、ゆっくりと後退りしながら僕に手を振った。
──僕は青年に、会いたかったらしい。
「まだ行かないでくれ」と、脳は彼に告げていた。
僕は老人の家を叩いた。
その拳は痛かったが、同時に暖かくもあった。
すると、家の奥で何か柔らかいものを啜る音がした。
「なんじゃ?」
「この街のことを教えていただきたいのですが」
ふんっと鼻息が吹き出す音がした。
「帰れ!」
唐突に向けられた一喝。
僕は衝撃波を受けたかのように、石の扉から遠ざかった。
……当たり前のこと。
部外者が簡単に受け入れられるはずはなかった。
僕はその場で足を揃え、静かに頭を下げた。
「すいませんでした」
その瞬間、ぐぐぐっと石の扉は開いた。
「足音がうるさくてかなわん。
早よ入らんか」
僕は深くお辞儀をすると、できる限り慎重に足を動かし、老人の住む家に入った。
家の中を見て、僕はギョッとした。
外側から見た家の大きさは四畳半ほどのスペースだった。
けれど中のスペースはその想像のはるか上をいっていた。
狭い。でもただ広い。
家には所狭しと石板が敷き詰められ、それにはびっしりと数字と文字が刻まれている。
家としての空間は無限にも思えるほど広く。
脳の空間認識は、ぷすぷすと煙を吐いた。
外と内では、世界が違う。
そんな印象が僕の目を泳がせ続けた。
「今のお主の感覚と、今のわしの感覚に、相対性はまったくないのじゃ」
老人は石板に数式を刻む。
「それはどういう意味ですか?」
老人は人差し指をピンと立てた。
「お主はこの世界で何を知りたい」
僕は答えに詰まった。
『終わらせよ』
その言葉が頭の中に引っかかる。
疑問ばかりあるのに、言葉にしようとすると全部ぼやけた。
「この世界は何なのか、ですかね」
その刹那、老人の眼がピカッと光った。
「たわけ者が!」
僕の足は、電気が駆け抜けるように小刻みに震えた。
「地に足をつけて、浮足立つ気持ちを落ち着かせるのじゃ。
──理解できないものなんて、何もない」
僕は自然と、一歩前に出た。
その足はしっかりと地を踏みしめていた。
「ありがとうございます」
老人は目を大きく見開き、ベロを出した。
ボサボサの白髪と素朴な眼差し。
その顔はどこかで見たような気がした。
「さっさと出ていけ。
この世界には相対性がないのじゃ。寂しいものよ」
僕は老人に深々と頭を下げ、家を後にした。
まるで宇宙を彷徨っているような感覚だった。
外の街は、広くて、狭い。
僕は、やるべきことを見つけた気がした。
小石を拾い、真上に投げた。
頭の中では一直線に落下してくることを期待している。
でも、実際は違う。
その小石はふらふらと宙を漂い、やがて白に溶けた。
「ははは。何なんだ、この世界は」
僕の頬は自然と綻んでいた。
──僕は街の人々に丁寧に話しかけた。
今度は立ち止まってくれた。
なんとなく、この世界との距離が近づいた気がした。
しかし、この世界が何なのか答えてくれる人はいなかった。
考えてみれば当たり前のことだ。
人によって解釈は異なる。
でも、わかったこともある。
ここの人々は、現世の出来事は覚えていない。
けれど、法則や定理、一般常識などは覚えているらしい。
僕は街を何度も往復し、石板は高く積み上がった。
ある日は身体が羽のように軽く、小さく跳ねただけで空高く浮かび上がった。
ある日は逆に、足を持ち上げるだけで全身の骨が軋んだ。
この世界の重力は一定ではない。
空はいつまでも灰色だった。
夕暮れも夜も来ない。
街の人々は老いもしない。
季節の話をする者もいなかった。
そして僕は、ようやく理解し始める。
この世界では、
意味のないものは存在できない。
意味を与えられたものだけが、
ここに残り続ける。
無限に。
街は川に沿って果てしなく続いていて、終わりはないように思えた。
そこにも石を積む子供たちがいた。
子供たちは何かを囁いている。
「もうすこしで、ひがんが叶う……」
「もうすこしで……」
僕は三途の川の向こう岸を思い浮かべる。
彼岸へ行きたいのだろうか。
声は風に流されて、うまく聞き取れなかった。
けれど、その顔はどこか嬉しそうだった。
そして、この世界はボールの内側のようになっているという。
大地の上に中空があってその上に反対側の大地がある。
それはベロを出すことが好きな老人に教えてもらった。
この暮らしに僕は、満足感を覚えている。
何度この街を往復したかわからない
知識を増やしながら不自由なく生きる。
そんな日々が楽しくもあった。
物思いにふけりながら石板に文字を刻んでいると、風を切る音がして、急に視界が暗転した。
……?
世界が急に閉じた。
身体がまったく動かない。
ただ、後頭部が暖かいことだけはわかった。
それによって、なんとなく答えがわかったけれど、思考はすでに白に溶け始めていた。




