目覚め
『この世界を終わらせよ!』
頭の中に言葉が響いた。
『さもなくば、みな、消える』
その声は、空から降ってくるかのようだった。
──「……っ」
背中の痛みによって、僕は目を覚ました。
まるで岩肌の上で眠っていたような、鈍い痛みだった。
僕は身体を起こし、地面に手をつく。
すると、ザリッという乾いた音が鳴った。
掌は、白い小石に埋もれていた。
視界がひどくぼやけている。
目を擦ると、身体のあちこちが軋むように痛んだ。
腕が、暖かい。
見ると、裂けたような傷口がゆっくりと閉じていた。
皮膚が、内側から縫い合わされていく。
けれど、なぜこんな傷を負っているのかは思い出せなかった。
視界が少しずつ晴れていく。
灰色の空。
白い小石の大地。
どこまでも、色が薄い。
ふと、遠くからザザザッという音が聞こえた。
波のような、何かを擦るような音。
僕は立ち上がり、小石を踏みしめる。
身体は不思議と軽かった。
白い大地の果てに、大きな川が流れていた。
対岸では、子供が石を積み上げている。
その後ろには、赤い皮膚の巨人が長い棒を持って子供たちを眺めていた。
その光景を見た瞬間、頭の奥に古い言葉が浮かぶ。
──三途の川。
子供が積む石。
赤い鬼。
どこかで聞いた死者の風景が、目の前にあった。
けれど──あまりにも、出来過ぎていた。
まるで誰かが人間の想像した死後の世界を、
そのまま再現したみたいに。
川辺には、一隻の船。
そこに、人がいる。
白い袖口に、硬い感触があった。
僕は手を差し入れる。
掌の上には、古びた硬貨が六枚並んでいた。
その人は、僕より先に硬貨を見ていた。
薄ら笑いを浮かべながら、静かに口を開く。
「どうです?川の向こうへ行きたいです?」
初対面のはずなのに。
なぜか昔から知っている相手のような気がした。
僕はしばらく口を開けたまま固まっていた。
そして、ようやく言葉を絞り出す。
「……夢、にしては趣味が悪いな」
するとその人は、小さく肩を揺らした。
「悪い夢の見過ぎですよ」
風が吹く。
手の中で、六枚の硬貨が小さく鳴った。
「ここは……死後の世界、なのか?」
その人は力なく手を上げただけだった。
答える気がないのか、本当に知らないのかは分からない。
「乗らないのです?」
僕は一歩前に出て、船に乗った。
そうすべきだ、という僅かな確信があった。
川上から風が吹く。肌寒い。
死後の世界は、もっと暖かい場所だと思っていた。
こんな薄着では風邪を引くかもしれない。
と、思いかけたがこの世界に風邪という病があるようには思えなかった。
そんな不思議な感覚が、体中を貫いていた。
川面を見た瞬間、視界が途切れた。
次に気づいた時には、船底が岸にぶつかっていた。
僕は六枚の硬貨をその人に渡した。
その人は、代金を受け取る店員のように笑った。
「どうです?早いでしょう。
それでは、また」
その人はそう言って、すっと視界から消えていく。
川の水は透き通り、さらさらと滞りなく流れている。
その近くには子供たちが等間隔に座り、白い小石を無心に積み上げていた。
時折、ガラガラと音を立てて崩れる積み石。
子供たちは嫌な顔を見せず、また小石を積み上げ始める。
その動作は、何度も再生される映像のようだった。
後ろに立つ赤い鬼は、それが積み上がるまで、ただただ見守り続けていた。
僕はその行為に、意味があるようには思えなかった。
僕の足は無意識に前方へ歩み始めた。
白い小石の地面をザリザリと。
この先に何があるのだろう。
極楽浄土。天国。
呼び方は違うのに、どちらもその反対として『地獄』がある。
それが、どこか引っかかった。
僕は歩き続けた。
その果てに、何かがあると期待していた。
けれど、そこには、笑顔のその人が船の前に立っていた。
「おかえりなさい」
その声を聞いた瞬間、背中が冷えた。
見覚えのある顔がそこにあった。
細い目で少し高い鼻。
灰色のつなぎを身にまとった中肉中背の青年。
これといった特徴はない容姿なのに、なぜか忘れられない。
数刻前に会っていることは間違いない。
「いったいこれは、どうなってる?」
青年は僕の背後を指差した。
「どうです?体感してみては。
ここでは考えることが何より大切なのです」
僕は小さく頷き、もと来た道を歩き出した。
もっとも道などはなく、あるのは川と小石だけ。
殺風景で気味が悪い。
肌寒い風が身体を締め付ける。
そこに見えてきたのは、
ぶつぶつとイボのようなものがたくさんある荒れた赤い背中。
いびつな一本の角は空に向かって生えている。
その赤鬼は石を積み上げる子供たちを見つめていた。
片方の手には、鈍角の突起が付いた長い金棒を持っている。
その金棒は、鈍く輝いていた。
僕は川の対岸に視線を送る。
すると先ほどの青年が、僕に手を振っていた。
なるほど。
僕は対岸の青年のもとに行くために、青年とは離れる方向に走った。
たぶんこういうことだろう。
「ここは、直径の小さい球体ってこと、か?」
ざりと小石が鳴る。
僕は青年の正面で息を荒げた。
「残念ながら、ハズレです」
「いやいや、そうとしか思えない」
青年は一歩、僕に歩み寄った。
「それでは、体感してみてはどうです?
ここでは現世の常識なんて通用しないのです」
すると青年は、僕の腰を両手で掴み、ぐいと力を込めた。
その瞬間、視界が反転し、身体がふわりと宙に投げ出された感覚が襲う。
地上はあっという間に離れていき、灰色の空に突っ込んだ。
明らかに加速している。
このままでは、宇宙に投げ出される。
とあり得ない想像が頭をよぎる。
空を見つめると白い何かが急速に近付いてきた。
次の瞬間、
ドシャ。
鈍い激痛とともに頭に何かが突き刺さった。
身体が腰を中心にして、項垂れるようにゆっくりと屈折する。
たぶん、僕は今、深々とお辞儀をしたような体勢になっている。
ざりと小石がズレる音がかすかに聞こえた。
僕は両手を突き立てると、頭をそこから引き抜いた。
打撲したはずの頭は、ポカポカと暖かい。
痛みはゆっくりと引いていく。
顔を上げると僕の正面には、目をパチパチとさせる子供がこちらを見つめていた。
おかっぱ頭の丸顔にまん丸の目。
水色の浴衣のような服を着た子供は驚いた様子で微動だにしていない。
「邪魔をするなよ!」
背後から声が落ちてきた。
振り返る前に、全身の毛穴が開く。
僕の頭は見るまでもなく、赤鬼の存在を認めていた。
僕は後退りするようにその場を離れた。
川と子供たちと赤鬼の場所を。
……上と下が、繋がっている。
頭では理解したが、今までの科学では、想定できない空間らしい。
いや、あり得る、のか。
しばらく歩くと、案の定、青年が笑っていた。
「どうです?この場所の構造、分かりましたか?」
僕は青年を睨みつけながら口を開く。
ぶつかった衝撃はとても痛かった。
「球体の内側のような構造になっているんだろう?」
青年の細い目尻は垂れ下がった。
「ご明察。もう少し詳しく見解をお聞きしても?」
青年の足はじりじりと歩み寄ってきた。
「現世では、球体の外側に立っているような構造だった。
ここも小さな球体なのだと疑わなかった。
けれど上空に投げ飛ばされてわかった。
上空にはここと繋がった大地がある。
つまりここは、外側ではなく内側だってことだ」
「概ね正解です。けれどそんなに単純なものではありません」
青年はもう一度、僕の背後を指差す。
「ためしに小石を拾いながら、歩いてみてはどうです?」
僕は首を傾げながらも振り返り、一歩歩くたびに小石を拾ってみた。
ざりっ、と小石は同じ音を奏でる。
ざりっ、ざりっ、ざりっ。
そのたびに僕は、小石を拾う。
次第に後ろに青年の姿は見えなくなった。
前にも、何も見当たらない。
あるのは白い小石の大地だけ。
ざりっ、ざりっ、ざりっ。
僕は小石を拾う。
見渡す限り何もない。
風が心を冷やした。
……もう対岸に辿り着いてもいいはず。
ざりっ、ざりっ、ざりっ。
指先の感覚が薄れていく。
小石を掴む手が痺れる。
背中に冷たいものが伝った。
ざりっ、ざりっ、ざりっ。
僕は抱えた小石をすべて落とし、もと来た道を全速力で走った。
──終わりがない。
それだけで、こんなにも恐ろしい。
何もない空間に僕は耐えられなかった。
すると、数分もしないうちに笑顔の青年がそこにいた。
僕はハァハァと喘ぎながら、乾いた口を開く。
「追ってきて、いたのか?」
青年はあっけらかんとしている。
「いえ、一歩も動かず立っていました。
どうです?わかりましたか?」
僕はただ呼吸を整えることしかできなかった。
ふと、川の向こうに子供たちの姿が見えた。
無心に小石を積んでいる。
川上には、子供たちの姿は見えない。
けれどそこには、積まれた小石が列を成していた。
……まさか。
小石の移動が空間を。
僕の目には、小石が積まれた場所だけ、世界が続いているように見えた。
納得なんて、できない。
けれど少しだけ、理解はできた。
「川上には何がある?」
青年は嬉しそうに川上を指差した。
「どうです?行ってみては?
大丈夫ですよ。虚無ではないことだけは保証します」
すると、呆気にとられた顔の女性がどこからかやってきた。
袖口から硬貨を取り出して青年に歩み寄っている。
僕以外にも彷徨う人間がいるようだ。
川上に向けて僕は歩き出した。




