第14話 薬師エリシカ
俺は彼女の存在を確認すると、落ち着くために一度だけ深く息を吸い込んだ。
(ここからが本番だ)
ゆっくりと立ち上がる。
慎重にそして不自然にならないように、あえて乾いた枝を一本踏みしめながら一歩を踏み出した。
ぱきり、と小さな音が鳴る。
「誰!?」
鋭い声と共に、彼女の青い瞳が真っ直ぐに俺を射抜いた。
エルフの長い耳は伊達ではない。
人間なら聞き逃す程度の微かな音でさえ、彼女たちにとっては居場所を特定するに十分な音量となる。
俺は肩をわざと大きく揺らし、限界を装った荒い息を吐きながら姿を現した。
「……こんな森の奥に、家……? 貴方は、一体……」
驚愕と安堵が入り混じった表情を作ってみせると、彼女は困惑したように眉を下げた。
「……もしかして、森で迷われたのですか?」
「はぁ、はぁ、……一体、ここはどこなんだ……。もう何日も、出口を探して……」
息絶え絶えに掠れた声を出し、膝に手をついて力なくうなだれる。
完璧だ。
俺の徹底した演技に、彼女の警戒心よりも良心が勝ったのが分かった。
「……私はこの森に住まう者です。森を抜ける方法を教えますから、そこで少し待っていてください」
彼女は一度家の中へ戻り、小さな枝を手にして戻ってきた。
近くで見るその顔は、記憶の中にあるものよりもどこか若々しく、瑞々しい。
彼女の名はエリシカ。
正体を明かせば、未来の勇者パーティーの一員、大狩人シトの姉だ。
そして何より、前世で俺に薬学の知識を教えてくれた師でもある。
「この枝の導きに従って進めば、迷わずに森の外へ出られます」
エリシカは糸で吊るした不思議な小枝を、まだ少しの警戒を瞳に宿しながら手渡してきた。
エルフと人間は太古より交流があり、稀に街で見かけることもある。
だがこの迷いの森の深部にまで入り込む、無謀な人間はそういない。
「これで…… 本当にこれで帰れるんですか?」
「はい、この枝が指す方向に進めば森からでれます」
「助かった~。本当にありがとうございます」
俺は歓喜に震え涙を拭う仕草をする。
「えっと俺は…… 商人のレオと言います。……あの、すみませんが、極限状態で歩き通したせいか、安心した途端に足が笑ってしまって」
「ここで少しだけ、休憩させていただいてもよろしいでしょうか?」
彼女は一瞬迷う仕草を見せたが、泥に汚れ、疲れ切った俺の姿を見て、最後には優しく頷いてくれた。
「……そのくらいなら構いません。喉が渇いているでしょ? 今からお水を持ってきますから、そこで休んでいてください」
エリシカが再び家に戻り、すぐに冷えた水の入ったコップを運んできてくれた。
俺はそれを、砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、美味しそうに一気に飲み干した。
「……ぷっはぁ! 生き返りました、本当に……ありがとうございます」
俺は深々と頭を下げた後、わざとらしくその場にドサリと尻餅をついた。
「いや、情けない。実は珍しい薬草を探しに森へ入ったんですが、夢中になりすぎて気がついたら出口が分からなくなっていて」
「そうだったのですね。何年かに一度、貴方のように迷ってここに辿り着く方がいらっしゃいます」
「実際、素晴らしい薬草を見つけたんですよ。ほら、見てください」
俺は小袋から、道中で採取したあのレンゲ草を取り出して見せた。
エリシカの視線が鋭くその草に固定される。
「……これは、見事なレンゲ草ですね。薬効が最も高まる時期に、根も葉も傷つけない完璧な採取。保存状態も素晴らしいわ。貴方、かなりの腕前ですね?」
(……そりゃそうだ)
俺は心の中で苦笑する。
(俺の採取技術は、すべて貴方に叩き込まれたものなんだからな)
薬師としての本能が刺激されたのだろう。
彼女の瞳が、好奇心でキラキラと輝いている。
同じ薬学を嗜む者という共通項が、彼女の警戒心を決定的に崩した。
唇に浮かぶ柔らかな微笑み。
俺はその隙を逃さず、空腹を訴えるようにお腹を鳴らしてみせる。
「……安心したら、猛烈にお腹が空いてきました。少しだけ、ここで食事を作ってもいいですか? 食材は自分で持ってきていますので!」
「えっ、調理? ……ここで、ですか?」
唖然とするエリシカを放置したまま、リュックからハイドに特注した野外用コンロを取り出し、淀みない動作で素早く設置を完了させた。
コンロの中の炭に火を熾し、特製の鉄板を敷く。
火力が安定したところで油をなじませると、俺の手元にはどこから取り出したのかも分からぬような最高級の肉塊が、まな板の上にその姿を現した。
「に、肉!? え、嘘……どこから出したの、それを!?」
エリシカが驚愕の声を上げ、その端正な顔が信じられないものを見るように歪む。
俺はただ、不敵な笑みを返し、肉にナイフを入れた。
(勇者パーティーの舌を唸らせ、過酷な旅路を支え続けた俺の料理を舐めるなよ!)
俺は肉塊に等間隔の切り込みを入れ、調合済みの数種類の香辛料を贅沢に振りかけた。
十分に熱せられた鉄板の上へ、その肉を静かに、だが迷いなく載せる。
ジュワァァァッ!!
鼓膜を心地よく刺激する音と共に、溢れ出した肉汁が激しく弾けた。
脂の焦げる香ばしい匂いと、スパイスの刺激的な香りが霧の立ち込める森の空気を一変させる。
「あ、あわわわ……。こんがり、お肉が、こんがり焼けて……」
エリシカは信じられないものを見るように、両手で口を押さえてあたふたし始めた。
エルフは菜食中心だと思われがちだが、全員がそういうわけではない。
彼女は昔から食いしん坊だった。
特に油料理が大好きで美味い肉には目がないのだ。
俺は表面を完璧に焼き上げ、内部に肉汁を閉じ込めたところで、食べやすい厚さにナイフを入れる。
切り口から覗く絶妙な赤色の断面。
皿に移した肉の一切れをフォークで持ち上げると、琥珀色の肉汁が惜しげもなく滴り落ちた。
エリシカの視線は、もはやその肉に釘付けだ。
(釣れた……!)
俺がまずは一切れ、口に運ぶ。
噛み締めた瞬間、濃縮された脂の甘みと赤身の力強い旨味が脳を貫いた。
全てが調和した完璧な料理。
大都市ロイドの市場で金貨を積み、厳選して買い付けた最高級肉。
その品質は、今の俺の期待に完璧に応えてくれた。
「うん、美味い!!」
確信を込めた俺の呟きに、エリシカは自分のことのように十回くらい深く頷いている。
涎を飲み込む音がこちらまで聞こえてきそうだ。
「助けていただいたお礼です。貴方もいかがですか?」
俺は新しいフォークを添え、皿の半分を占める肉を彼女へと差し出した。
「いいのですか……!? 食べます、いただきますっ!」
皿をひったくるような勢いで受け取ったエリシカは、一切れを勢いよく口に放り込んだ。
刹那、彼女の表情が至福の色に染まり、長い耳がぴんと跳ね上がる。
美しいその顔が更に蕩ける。
「おいしぃぃぃぃい……っ! お肉が、口の中で溶けてなくなりましたよ!? こんなに美味しいもの、私、人生で一度も食べたことがありません!」
(知っているさ。前世でも、あんたは全く同じ反応をして、全く同じことを言っていたんだからな)
俺は懐かしい光景の再現を、静かな愉悦と共に眺めていた。
差し出した肉は、彼女の胃袋へ吸い込まれるように数秒で消えていった。




