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チャプター06 世界が軋む音を聞いた

「すっかり夕方になっちゃった」


 ボクは手に提げたスーパーの袋を持ち直しながら、誰にともなくつぶやいた。

 腕時計に目をやると、針はもう午後七時近くを指している。

 西の空は茜色に染まり始め、建物の影が長く伸びていた。日は沈みかけているというのに、アスファルトからはまだ熱気が立ち上り、額にじんわりと汗が滲む。シャツが背中に張り付いて、不快感が増していく。

 修と希と遊ぶのは久しぶりで、つい話し込んでしまった。

 二人とも相変わらずで、一瞬で時間がすぎてしまった。

 あのざらざらとした感覚も、徐々に落ち着いてきていた。

 完全に無くなってはいないが、無視できる程度には。

 帰りがてらにスーパーで食材も買ってきた。一人暮らしのアパートに帰れば、これから夕食の支度が待っている。レトルトで済ませることもできるけれど、せっかく新鮮な野菜を買ったのだから、ちゃんと料理しようと思う。


「あれ……」


 アパートの入り口が見えてきたところで、ボクは足を止めた。

 エントランスの脇、街灯の光が届かない暗がりに人影がある。この蒸し暑い夏の夜に、その人物は黒いパーカーのフードを目深に被っていた。顔は見えないが、じっとこちらを見ているような気配がする。

 一瞬、不審者かと身構えたが、その佇まいに見覚えがあった。肩幅、背格好、そして微かに漂う独特の雰囲気──。

 全身に鳥肌が立った。心臓が早鐘のように打ち始める。

 ボクが気づいたのとほぼ同時に、向こうもこちらに気づいたようだった。フードの奥から視線を感じる。逃げるように身を翻そうとした人影が、一瞬躊躇したように動きを止めた。


「神崎くん。あの……」


 喉がからからに渇いていた。それでも、ボクは震える声を絞り出した。


「心配していたんだ」


 顛末はこうだ。

 神崎くんがロストアビスでのボクの配信に参加しはじめたとき、配信者がボクだと気がついていなかったようだった。

 ボクは、ロストアビスでのアバターを現実の世界と大きく変えていたし、特に自身の細かな情報をあげてなかったから当然かもしれない。

 でも配信者がボクだと気がづいた途端、神崎くんは豹変した。

 突然、ボクの情報をネット上に晒して叩き出したのだ。

 それが原因で、逆に神崎くんが激しく叩かれるようになった。

 どこからかリアルの世界にも伝わり、学校でも噂になり──。

 ボクも火消しに回ったけれど、炎上はなかなかおさまらなかった。

 そして、遂に神崎くんのロストアビスのアカウントがBANされた。

 あの日以来、神崎くんは学校に姿を見せなくなった。

 ボクのせいだ。ボクが余計なことをしたから、彼は──。


「おまえのせいで……」

「え?」


 神崎の唇が小刻みに震えながら動いた。

 声は喉の奥で詰まったように濁り、何を言っているのか聞き取れない。

 眉間に深い皺を刻み、充血した目がボクを睨みつけている。


「お前のせいで俺は学校に行けなくなった。お前のせいで俺はみんなからバカにされて、人生詰んだ。お前のせいで俺の配信は人が集まらない。全部お前のせいだ…………お前のせいだ!」


 神崎くんの顔が真っ赤に染まり、口角から白い泡が飛び散った。

 拳を振り上げ、全身を震わせながら絶叫する。

 その形相は人間のものとは思えないほど歪んでいて、ボクの背筋に冷たいものが走った。

 足がすくむ。


「ひ……!」


 喉の奥から絞り出すような悲鳴が漏れた。

 体が硬直し、その場から動けなくなる。

 神崎くんの狂気に満ちた眼差しが、ボクの全身を射抜いていた。

 突然、神崎くんが走り出した。

 何が起きたのか理解する間もなく、神崎くんがボクに体当たりをした。

 それはどちらかと言うと軽い衝撃だった。

 まるで友達同士のじゃれ合いのような。

 でも、一拍おいて、腹部に熱い感覚が広がった。

 視線を落とす。

 銀色の刃が、根本まで深々とボクの腹に突き刺さっていた。

 包丁だ。

 料理に使うような、ごく普通の包丁が、まるで最初からそこにあったかのように、ボクの体から生えていた。


「ひひっ」


 神崎くんの口から、上擦った笑い声が漏れる。

 その声は、いつもの彼とは別人のように聞こえた。

 膝から一気に力が抜けていく。

 糸が切れた操り人形のように、ボクはその場に崩れ落ちた。

 倒れる拍子に、包丁がずるりと腹から抜ける。

 生温かい液体が、シャツを濡らしていく感覚がやけに鮮明だった。

 手に持っていたスーパーの買い物袋が地面に落ちて、中身が散乱する。

 卵のパックがグシャリと音を立てて潰れ、黄身が路面に広がっていく。


「神崎くん……何……を……」


 かすれた声で問いかける。理解が追いつかない。

 どうして、こんなことを。


「良いざまだ! ロストアビスでは最強クラスのランカーでも現実は大したことないじゃないか! 俺の方が強い! というかお前なんか雑魚だろうが! 調子に乗りやがって!」


 血に染まった包丁をぶら下げて、神崎くんが倒れたボクに蹴りを入れる。

 脇腹に衝撃が走り、体が横に転がった。

 アスファルトの上に広がる血溜まりの中で、ボクは震えが止まらなくなっていた。

 悪寒が全身を包み込む。

 視界の端がぼやけ始め、意識が遠のいていくのを感じた。

 頭の上で神崎くん喚く声が聞こえる。耳を塞ぎたくなるような、甲高い叫び声だった。


「なんでお前みたいな奴がランカーなんだ! 俺の配信よりもファンを集めやがって! なんで俺が悪者になってるんだ。おかしいだろ! 間違ってる! この世の中間違っている!」


 ボクは地面に倒れたまま、ぼんやりと神崎くんを見上げる。

 彼の瞳は血走り、口元からは唾が飛んでいた。

 髪は乱れ、額には汗が浮かんでいる。

 もはや理性的な会話ができる状態じゃない。

 支離滅裂な言葉を吐き出し続ける彼の姿は、まるで壊れた機械のようだった。


「ファンの奴らもバカばかりだな。見る目がねぇ。こんなクソ雑魚を崇めやがって!」


 ──違う。

 ボクの動画をみてくれた人たちをバカにするな。

 あまりに酷い言葉に、怒りが湧くが言い返すことはできなかった。

 ダメだ──。


 体が重い。

 指先一本動かすのも億劫で、ボクはただ横たわったまま、荒い息を繰り返すことしかできなかった。

 でもこうやってボク一人が殺されて済むのならそれでも──。


「そうだ。いいこと思いついた。世直しだ。俺が世界を変える」


 数秒の沈黙の後、口角がゆっくりと吊り上がる。その笑みは、背筋が凍るほど不気味だった。


「これから白河修と霧院希を殺しにいく」

「な……!」


 思わず声が漏れた。

 なぜそうなるんだ。


「仕方がないだろう? あいつらもお前の味方をした。悪いのはお前なのにあいつらはお前の味方をしたんだ! だから罰を受けないとな! 俺を破滅させた罰を!!」


 神崎くんの叫び声が、夕暮れに響き渡る。

 全身が泡立つ。

 感じたのは驚き、そして次に怒り。

 修と希は関係ない。少なくともこれはボクと神崎くんの問題だ。

 二人の顔が思い浮かぶ。

 いつも隣にいてくれた修の笑顔。何があっても味方でいてくれた希の優しい眼差し。

 ボクの大事な、大事な親友たち。


「お前にも見せてやりたいよ! 二人が苦しんで、後悔する様を! はは、はははは!」


 神崎くんが哄笑をあげる。口の端が裂けんばかりに吊り上がり、瞳には狂気の光が宿っていた。

 その言葉を聞いた瞬間、ボクの中で何かが音を立てて切れた。


「…………かんけい、ない」


 絞り出すような声が、かすかに唇から漏れる。


「あ? 何か言ったか?」


 神崎くんが顔を近づけてくる。その顔に浮かぶ嘲笑に、ボクの意識が沸騰する。


「修と希は、関係ない……!」


 今度ははっきりと、震える声で叫んだ。拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。


「お前何様のつもりだ! 俺がやるっつったらやるんだよ!」


 神崎くんが怒りの表情で立ち上がると、再び蹴りをボクの腹に入れた。一撃、また一撃。

 蹴り込まれるたびに、血溜まりが広がっていく。

 激痛が脳を焼く。

 視界が赤く染まり、意識が遠のきそうになる。

 それでも、痛みよりも怒りの方が上回っていた。二人を巻き込もうとする神崎くんへの、純粋な憤怒。

 次の蹴りが来た瞬間、ボクは渾身の力を振り絞って、神崎くんの足を両腕で抱え込んだ。


「な、何しやがる! は、離せ!」


 神崎くんの声が上ずった声をあげた。

 ボクは薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めながら、渾身の力を振り絞って神崎くんの体にしがみついた。腕に力を込めるたびに、腹部の傷口から新たな血が溢れ出る。それでも、絶対に離すわけにはいかなかった。


「それだけは、だめだ……!」


 かすれた声で、それでもはっきりと宣言する。

 ボクの腕が神崎くんの動きを封じている。

 彼は必死にもがくが、ボクは最後の力を振り絞って食らいついた。


「…………ひひ、本当に無様だな」


 神崎くんの喉から侮蔑の言葉が漏れた。

 次の瞬間、背中に鋭い衝撃が走った。熱い何かが背中を貫く。一瞬遅れて、激痛が全身を駆け巡る。


「死ね、死ね、死ねっ!」


 神崎くんの叫び声と共に、再び背中に衝撃。

 包丁が何度も何度もボクの背中に突き立てられているのだと、朦朧とする意識の中で理解した。

 体から急速に力が抜けていく。もう腕に力を込めることもできない。

 視界が暗くなり、音も遠くなっていく。


 ボクはなんて、弱いんだ。


 死が間近に迫っていた。

 一番大事な二人を助ることすらできない。もう──。


「──致命的なエラーを検出しました。緊急措置を実行中。時間の進行を停止します。Critical Error Detected. Emergency Protocol Activated. Time Halted.」


 その時、どこからともなく声が響いた。

 機械的で、感情のない、それでいて絶対的な権威を持つような声。

 世界そのものが語りかけてくるような、不思議な感覚。

 そして劇的な変化が現れた。


「時間が止まっているの……!?」


 ボクは地面に伏したまま、その事実に気がつく。

 視界の端で、包丁を振り上げたままの神崎くんが止まっていた。

 その顔は鬼気迫る表情で固まっていて、まるで蝋人形のようだった。

 刃先から垂れようとしていた血の雫さえも、空中で静止している。

 不思議なことに、さっきまで全身を支配していた激痛が、潮が引くように遠のいていく。

 頭に霞がかかっていたような感覚が晴れて、思考がクリアになっていく。


 一体何が起きているんだ? 時間が止まる? そんなこと、物理的にありえない。でも目の前の光景は、その「ありえない」ことが起きていることを如実に物語っていた。

 混乱で頭がいっぱいになる中、あの機械的な声が再び響いた。


「修正開始。時間遡行プロセスを起動します。Correction initiated. Time reversal process starting.」


 次の瞬間、ボクは自分の目を疑った。

 腹部から溢れ出ていた血が、まるで逆再生の映像のように、傷口へと吸い込まれていく。赤く染まっていたシャツが、みるみるうちに元の白さを取り戻していく。そして──傷口そのものが、縫い合わされるように塞がっていった。

 それだけじゃない。視界の隅で、さっき落として割れたはずの卵が、破片を集めながら元の形を取り戻していく。殻のひび一つない完璧な楕円形になると、ふわりと宙に浮いて、スーパーの袋の中へと収まった。そして袋ごと、ボクの手元へと戻ってくる。

 ボクは呆然と、自分の手に戻ってきた買い物袋を見つめた。重みも、感触も、何もかもが「さっき」と同じだった。

 アパートの前についたタイミングまで時間が戻る。

 体を見下ろすと、さっきまで確かにあった傷がすっかり元通りになっていた。まるで何事もなかったかのように、服の破れも血の跡も綺麗さっぱり消えている。

 時間が巻き戻る光景を目の当たりにして、ボクの頭の中で何かがカチリと音を立ててはまった。

 パズルのピースが突然正しい場所に収まったような、そんな感覚だった。


「この世界が、偽物なのか……!」


 思わず口から漏れた言葉に、ボク自身が驚く。でも、それは確信に近い直感だった。

 巻き戻しができる世界。致命傷すらシステムによって回復する──それはゲームの蘇生(リスポーン)だ。リアルじゃないけど、恐ろしいほどリアルに構成された世界。

 それを人は仮想現実(VR)と呼ぶ。

 その考えは思った以上にボクの中にストンと腑に落ちた。今まで感じていた違和感の正体が、ようやく形を成したような気がした。


「エラー発生源を特定中。修正作業を開始します。Identifying the source of the error. Initiating repair procedures.」


 その間にも状況は進んでいた。


「神崎くんっ!?」


 ボクを襲う前の状態に戻った神崎くんの体が、不気味に明滅し始める。

 テレビの砂嵐のようなグリッチノイズが彼の輪郭を侵食していく。

 文字通り、消去される。

 神崎くんの存在が、この世界から削除されていく様子を、ボクはただ呆然と見つめる。

 ざらざらする感覚。

 視界の端々に感じていた違和感の正体にも気が付く。


「──解像度だったのか」


 ボクは呟きながら、自分の手のひらをじっと見つめた。皮膚の質感、指紋の一本一本、爪の表面の微細な凹凸。

 今まで当たり前だと思っていたものが、急に粗く見える。

 気持ちが落ち着かないのだと思っていた。

 胸の奥がざわついているのは、不安や恐怖のせいだと。

 しかし実際は違った。実際の視野の解像度が気になっていたから、心がざわついていたのだ。

 ボクは拳を握りしめ、また開く。その動作を繰り返しながら、なぜ急に解像度が気になるようになったのかを考える。

 答えはすぐに見つかった。

 それはより高精細な、むしろ解像度などという概念の無い世界を見てしまったからだ。あの圧倒的な現実感。毛穴の一つ一つまで感じられるような、生々しいまでの実在感。


「塵界──この世界から300年後の、本物の世界」


 ボクは震える声で、その名を口にした。

 全ては繋がった。点と点が線になり、線が面になり、面が立体となって真実の姿を現す。

 ボクが今まで住んでいた世界が仮想現実(VR)で、塵界が現実。その事実が、重い鉄球のようにボクの胸に落ちてきた。

 目の前で、神崎くんが完全に消える。グリッチノイズが砂嵐のように舞い、彼の輪郭を侵食していく。

 ノイズが消え去った後には、今この場に神崎くんがいたことすらも疑いたくなるほどに何も無い。

 そして視界がブラックアウトする。

 世界が闇に包まれていく中で、ボクは静かに、しかし確信を持って悟る。

 拒否権がないことも既に経験済みだ。


「ボクは塵界に行く」


 偽りの世界の中で、ボクの呟きが静かに響いた。

次回投稿は5月6日 21時頃になります

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