チャプター07 再びの塵界
鳥のさえずりが、ボクの意識を眠りの淵から引き上げた。
瞼を開けると、見慣れない天井が視界に飛び込んでくる。
太い木の梁が規則正しく並び、温もりのある木目が朝の光を柔らかく反射していた。視線を巡らせると、石とレンガを組み合わせた壁が、まるで時間の重みを感じさせるような風合いで佇んでいる。
ネットの画像でよく見かけた、ヨーロッパの田舎にありそうな古民家──そんな言葉が頭に浮かんだ。
でも、画像で見るのと実際に身を置くのとでは、空気の質感も、匂いも、全てが違っていた。
体を起こそうとして、自分がベッドに横たわっていることに気づく。
「あ、ボクは……」
思わず声が漏れた。そういえば塵界では、無謀にもモンスターに挑んで足を怪我していたのだった。
布団の中で恐る恐る足を動かしてみる。
筋肉が収縮し、関節が曲がる感覚はあるけれど、痛みは不思議なほど感じなかった。
傷が治ってしまうほどの長い期間、意識がなかったのかな──。
その瞬間、堰を切ったように記憶が押し寄せてきた。
突然姿を消した神崎くんの姿。殺意に満ちた彼の表情。
そして、ボクがいた世界全体を覆っていた、どこか作り物めいたざらついた質感──。
塵界が300年後、つまり今が2400年代の世界だとするなら、あの場所は……そう、VR2120とでも呼ぶべき仮想世界だったのだろうか。
確証もないのに、その事実はボクの中で真実として確定してしまった。
ボクは震える手で、シーツをぎゅっと握りしめた。
「あの世界が全て偽物だったなんて」
呟いた言葉は、静かな部屋の中に吸い込まれていった。窓から差し込む朝日が、まるでボクの動揺を見透かすように、床に複雑な影を落としている。
窓から差し込む朝の光が、部屋の中を舞う埃を照らし出していた。一粒一粒がきらきらと輝いて、まるで小さな星屑のようだ。
ボクは布団の上に座り込んだまま、その光景をぼんやりと眺めていた。
この世界は、美しく、どこまでも本物だった。
朝の冷たい空気も、木造の床の感触も、窓の外から聞こえてくる鳥の声も。全てが現実として、確かにそこに存在している。
でも、だからこそ疑問が次から次へと湧き上がってくる。
ボクは一体、何者なんだろう?
咲良さんはボクのことを「渡航者」と呼んでいた。三百年前から来た者、と。
でも、それならVR2120は何だったんだ? あの世界で過ごした日々は? あそこでの記憶は?
ボクがこの世界に来たのだとして、じゃあ、あの世界で一緒に暮らしていた人たちは──。
「修や希も……偽物なのか……?」
震える声で言葉を絞り出した。口に出してしまった瞬間、その言葉の重みが胸を押しつぶす。
言語化されることで、現実味を帯びた疑念が、鋭い刃となってボクの心を切り裂いていく。
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込むほど強く。
でも、その痛みすら今は確かめたかった。この感覚が、本物なのか偽物なのか、もう何も分からなくなっていた。
「起きたのかー。ならこっちこいや」
唐突にドアの向こうから聞こえてきた声に、ボクは布団の中で身を固くした。
少しつっけんどんな声は咲良さんのものだ。間違いない。
ベッドの上で上体を起こし、ボクは改めて自分の置かれた状況を確認する。
これは夢じゃない。ボクは本当にこの世界──塵界にいるんだ。
胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
ボクは咲良さんに対してなんてことを言ってしまったんだろう。
ゲームの世界で、NPCだなんて。
彼女は本物の人間で、ボクの失礼な態度にも関わらず、命を救ってくれたというのに。
謝らなければ。
その思いが頭の中を駆け巡る。
「は、はい! 起きました! 今からいきます!」
ボクは慌てて返事をすると、ベッドから飛び起きた。
裸足のまま床を踏みしめ、小走りでドアへと向かう。兎にも角にも顔を見て話をしないと。
深呼吸を一つして、ボクはドアを開けた。
「咲良さんっ、あの時はすみませんでしたって、どおおおおおっ!? なんで裸なんですか!?」
ドアを開けた瞬間、ボクの頭は真っ白になった。
そこには素っ裸に、首にタオルをかけた咲良さんがおっ広げでソファに座っていた。
片手にはビール、そしてもう一方の手にはタバコ。
煙がゆらゆらと天井に向かって立ち上り、部屋にはアルコールと煙草の匂いが充満している。テーブルの上には空き缶がいくつか転がっていて、灰皿には吸い殻が山になっていた。
ただひたすらに、くつろいでいる。
「おお、元気そうじゃねぇか。ったくいつまでも寝腐りやがって、やきもきしたじゃねぇか」
「いや、その節はお世話になりっぱなしで……って違うわ! 裸を見られてるんですよ!? 普通はきゃっ、とかそういう展開でしょうが! 大抵は恥ずかしさから頬にビンタ喰らうまでが様式美っていうか!」
ボクは慌てて両手で顔を覆いながら、指の隙間からチラチラと様子を窺う。
心臓がバクバクと早鐘を打ち、顔が熱くなっているのが自分でも分かった。
「ああ、パンツくらい履くべきだったか? でもまあいいじゃねぇか。減るもんでもないし」
「減るわぁっ! ボクは男で咲良さんは女性でしょう? せっかくの美人が台無しっていうか!」
必死に抗議するボクとは対照的に、咲良さんは涼しい顔でビールをぐびりと飲み干す。
その仕草があまりにも堂々としていて、逆にこちらが恥ずかしくなってくる。
「ああ? 別に男でも女でも関係ない……いや、今は男はいねぇな」
咲良さんが面白そうに凪のことを指差す。
口元がニヤリと歪み、まるで獲物を見つけた猫のような表情を浮かべている。
その視線に嫌な予感がして、ボクは反射的に身構えた。
なんだそのからかうような顔は?
恐る恐る自分の体を見下ろす。
有り体にいえば、服を着てなかった。
視線の先には、あられも無くおっぴろげされた控えめな胸の膨らみと、平らになってしまった股間が──。
「きゃああああああああッ」
ボクは反射的に両手で体を隠しながら、その場にしゃがみ込んでしまった。
顔が耳まで真っ赤に染まり、恥ずかしさで消えてしまいたくなる。
「がははは! お前の方がよっぽど乙女だな!」
「この人でなし! 無神経! 非常識!」
咲良さんの豪快な笑い声とボクの怒声が部屋に響いた。
***
「こ、こここ、こんな服着れるわけないじゃないですか!」
ボクは咲良から渡された服を見て戦慄く。
今はバスタオルを体に巻いた状態だ。
「仕方ねぇだろ。私の装備はレベル制限で着れねぇし、芙美のクソ野郎が用意した服がこれなんだからよ。これ以外着るのは認めねぇって言ってたぞ」
装備のレベル制限。それはボクも知っている概念だった。ゲームやシステムにおいて、特定の装備品を使用するために必要なキャラクターレベルを設定する仕組み。つまり、咲良さんはそれなりの実力者で、彼女のレベルに見合った装備は当然ボクには着れない──いや、装備できないということだ。
ボクは手に持った服を改めて見つめる。
超ミニのキュロットスカートに、白のニーハイソックス、ノースリーブのシャツにサスペンダー。どう考えても女の子の格好だ。
手に持った布地の感触が、妙に生々しい。キュロットスカートの裾を指でつまんでみると、思っていたよりもずっと短い。これ、本当に着るものなのか? ニーハイソックスの純白さが、なぜか目に眩しく感じられる。
ノースリーブのシャツを広げてみれば、肩から腕にかけてが完全に露出する作りになっている。サスペンダーの金具が小さく光って、まるでボクを嘲笑っているかのようだ。
頬に熱が集まってきて、耳まで赤くなっているのが自分でも分かった。
これをボクが着るの!?
「ふ、芙美さんて?」
と、とりあえずは現実逃避だ。
ボクは苦し紛れに咲良さんの言葉に出てきた人物に話を向ける。
どんな人なんだろう。
咲良さんはクソ野郎って言ってるけど、女の人だよね?
この服を用意したということは、ボクのサイズを知っているということだろうか。
「お前を治療してくれた奴だ。あたしは治癒スキルは使えねぇからな。後で会いに行くから礼を言っとけよ。あと、貞操は守り切れ」
「最後がめっちゃ気になるんですけど!? むしろ怖すぎるんですけど!」
だ、ダメだ! どこにも逃げ場はないぞ!
ボクは思わず後ずさりした。
名前からして女性のはずなのに、なぜ貞操を守る必要があるんだ。
「まあ会えば分かる。それよりもどうすんだ? 着るのか着ないのか? 裸で街引きずって行ってもいいんだぜ?」
「え、いやそれは……」
ボクは慌てて首を横に振る。咲良さんならやりかねない気がした。
「あ? さっさと決めろや! 女は度胸だ!」
「ボクは男ですよ! ……す、少なくとも気持ちは! あいたぁー!!」
遂に咲良の拳骨が落ちる。
ゴツン、と鈍い音が頭蓋骨に響いた。目から火花が散って、激痛が脳天から背骨まで貫いていく。
視界が一瞬ぐらりと歪み、涙が滲んだ。
現実の痛みは、刺激的だ。
目ん玉飛び出るかと思ったわ!
「さっさと着ろ! 素っ裸で運ばれたいか!」
「横暴だ! 虐待だ! ボクのアイデンティティがー! あー!」
「うるせぇ!」
いや塵界に来て、いきなり難易度高すぎませんか?
結局ボクは着ることになった。
***
「エルフの隠れ里、なのか……」
「おー、やっぱ知ってたか。さすが渡航者だな。そうだここはエルフの隠れ里が元になったタウンエリア。茂原外環って呼ばれているがな」
ボクは思わず息を呑んだ。外の景色を見上げた瞬間、全身に鳥肌が立った。
咲良さんの家を出た直後、ボクの目に飛び込んできたのは、この世のものとは思えない光景だった。
数百メートルはあろうかという巨大な樹木が、見渡す限りそびえ立っている。
それぞれの樹木は天を衝くように伸び、その樹冠を大きく広げて互いに絡み合うように茂っていた。
空は完全に覆い隠されている。
だが辺りは薄暗くなかった。
樹冠そのものが淡い光を放ち、まるで天然のシャンデリアのように柔らかな光を地上に降り注いでいる。
あれは間違いなく聖樹だ。
ボクの記憶が正しければ、ロストアビスのフレーバーテキストにこう書か
れていた。
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──聖樹の放つ神聖な光は、あらゆる邪悪なモンスターを寄せ付けない。
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だからこそエルフたちは、モンスターが溢れる危険な森の奥深くにも安全に里を築くことができたのだと。
「茂原……?」
ボクは呆然としたまま、その地名を口にした。
「千葉県のど真ん中の都市にできたから、その名前が残ってるんだと」
咲良さんが肩をすくめながら説明してくれる。
「ここは日本、なんですもんね」
ボクは苦笑いを浮かべながらつぶやいた。頭では理解している。
ここは確かに日本で、ボクたちが住んでいた世界の延長線上にある場所なのだ。
目の前に広がる幻想的な光景と、「茂原」という現実的すぎる地名のギャップに、わかってはいても混乱する。
「ああ、東京を中心とした半径100キロ圏内。それが塵界だ。人間がモンスターに怯えずに過ごせるタウンエリアはたった3つ。岩槻外環である星王都レディメガリア、横須賀外環は無法都市ガイレスト、そしてこの茂原外環だ」
ボクは咲良さんの後ろを歩きながら、周囲を見回した。
木々が生い茂る森の中。足元には落ち葉が積もっている。
人の気配はまったくない。時折聞こえる鳥の鳴き声と、ボクたちの足音だけが森に響いていた。
咲良さんの家は、人里離れた場所にあるらしい。
「その外はどうなっているんですか?」
100キロ圏内が塵界だというなら。その外はどうなっているのだろう。
300年後の普通の世界が広がっているのだろうか。
「何もない」
「え……?」
ボクは思わず足を止めそうになった。咲良さんは振り返らずに歩き続ける。
「言葉の通りだ。すべてが滅んだ赤茶けた大地が永遠と広がってやがる。情報災害によってARナノウイルスが散布されて、かろうじて定着したのはこの100キロ圏内だけなんだと。一歩でも外にでれば、それこそ暴走したARナノウイルスがすべてを分解しちまう」
「…………」
ボクは言葉を失う。
足元の落ち葉を踏みしめる音が、やけに大きく響いた。
それって人類どころか、世界そのものが滅亡しかかっているということじゃないか?
そのあとは会話はなかった。
暗い気持ちが胸の奥に重くのしかかっていたが、そのうち考えることもできなくなった。
意外と山道が険しいのだ。
足元には木の根が地面から飛び出している。
気をぬくと捻挫しそうになる獣道を、ボクは必死で前を行く咲良さんの背中を追う。
しかも咲良さんの動きがはやい。
まるで山育ちのように軽やかな足取りで、険しい斜面をすいすいと登っていく。
ボクは息を切らしながら、彼女のポニーテールの金髪が風になびく姿を見失わないよう必死だった。
額から流れる汗が目に入り、何度も袖で拭った。
ついていくのにやっとだ。
だが逆にありがたかった。肺が酸素を求めて激しく上下し、足の筋肉が悲鳴を上げている。
こんな状態では、余計なことを考える余裕なんてない。
考えられなければ、落ち込むこともない。
30分ほどは歩いただろうか。小高い丘の中腹を超えた時、遂に街が見える。
視界が一気に開けた。眼下に広がる光景に、ボクは思わず足を止めた。
「う、わぁ……!」
二度目の感動が凪の気持ちを昂らせた。疲労も、さっきまでの暗い気持ちも、全部吹き飛んでしまうほどの絶景がそこにはあった。
聖樹の密度が最も高い場所。
そこには、想像を超えたエルフの街が広がっていた。
簡素に積み上げられた石の土台から、太い幹が天に向かって伸びている。
その幹は途中で枝分かれし、まるで設計図通りに成長したかのように壁や屋根を形作る。
葉の茂る枝々が絡み合い、自然の力だけで完成した建築物がそこにはあった。
これほど精巧に樹木を建物へと仕立て上げるのに、一体どれほどの年月が必要だったのだろう。
しかしそんなファンタジーな建物だけではない。
明らかに異質な建物が混じっている。
古びた鉄筋コンクリートの建造物だ。
壁面にはツタが這い、所々にひび割れも見えるが、その四角い無機質な形状は、周囲の有機的な建築物とは明らかに一線を画していた。
これはゲームによって作られたものではない。ボクは確信を持ってそう判断した。おそらく、この世界が形成される以前から存在していた、元の世界の遺物なのだろう。
「なんだ? エルフの隠れ里のことは知ってるんだろ? 渡航者はロストアビスをゲームとしてやったことがあるやつが多いからな」
ボクが立ち尽くしている姿を見て、咲良さんが小首を傾げた。
彼女の金髪が風に揺れて、陽光を反射してきらきらと輝いている。
確かに咲良さんの言う通りだ。
目の前に広がる光景は、ゲームで何度も訪れた場所のはずだった。
鉄筋コンクリートの建物が木造建築に混じっているのは違和感があるけれど、この街の基本的な構造は記憶にあるものと同じ。ロストアビス第47階層──エルフたちが暮らす隠れ里。
「なんていうか、リアル感が違うんですよ」
ボクは思わず呟いていた。
小高い丘の上を駆け抜けた風が頬を優しく撫でていく。
髪が額にかかって、慌てて手で押さえた。
風は草の匂いと、どこか懐かしい花の香りを運んでくる。
見下ろす景色は遥か遠くまで続いていて、地平線の彼方まで鮮明に見渡せる。
森の緑も、街の屋根瓦の赤茶色も、空の青も──すべてがみずみずしく、生き生きとしていた。
ゲームでは感じられなかった空気の湿度や、太陽の暖かさまでもが肌で感じられる。
「ここが塵界、なんですね」
「ああ。クソみたいな世界だな」
咲良さんの言葉に、ボクは小さく頷いた。
煙草の煙が風に流されて、灰色の空に溶けていく。
彼女の横顔は、いつもより険しく見えた。
100キロ圏内。それが今、あらゆる生物に許された生存圏の全てだという。
境界の向こうは、もはや生命が存在することすら許されない死の領域。
ゲームで見ればとても広い領域だけど、本当の人間が暮らすには狭すぎる。
そんな狭い檻の中に、ボクたちは放り込まれたのだ。
拳を握りしめる。爪が掌に食い込んで、じんわりと痛みが走った。
この痛みが、今ここにいる自分が現実だということを教えてくれる。
「この世界で、生きなきゃならない」
「ああ」
咲良さんは煙草を地面に落とし、ブーツの踵で念入りに踏み消した。
立ち上る紫煙が、最後の一筋となって消えていく。
でも、ボクは目を逸らさなかった。その美しさを、この瞬間を、しっかりと目に焼き付けておこうと思った。
これから先、どんなに辛いことがあっても忘れないように。
次回投稿は5月9日 21時ごろになります。




