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チャプター25 決着

『なぁ、なんかすごくないか……?』

『これレベル1の動きではないだろ……』

『なんで脅威度(きょういど)Sのモンスターと戦えてんだよ?』


 ライブ配信でざわめきが拡がっていく。

 近くにいたからだろう。雪もまた出演者として共魂玉の効果を受けていた。

 観客さん達(オーディエンス)の声が聞こてくる。

 雪の耳に届く視聴者たちの声は、彼女自身の動揺をそのまま映し出しているかのようだった。

 VR越しに見守る視聴者たちの驚愕は、雪の胸の内で渦巻く感情と完全に一致していた。


 目の前で繰り広げられる光景は、まさに常識を覆すものだった。

 小山ほどもある巨体が、漆黒の闇をまとって蠢(うごめ)いている。

 死針──ヘッジホッグの中でも特に凶悪な個体として知られるネームドモンスター。

 通常の個体ですら脅威度Bという危険な存在が、さらに進化を遂げた姿がそこにあった。

 巨大な体躯からは想像もつかない俊敏さで大地を駆け、その全身から放たれる無数の毒針は、まるで死の雨のように降り注ぐ。

 一本でも掠れば即座に麻痺し、数分で意識を失うという猛毒を持つ針の嵐。

 それは、熟練の潜行士(ダイバー)ですら恐怖する光景だった。

 しかし、その恐るべき化け物に対して、一人の新人潜行士(ダイバー)が果敢に立ち向かっている。

 凪はレベル1のはずだ。


「嘘……」


 雪の唇から掠れた声が零れ落ちた。

 凪から目が離せない。握りしめた拳が小刻みに震えていた。

 凪の動きが特別速いわけではない。

 純粋なステータス値で比較すれば、毒島は元より大吾よりも劣っているはずだ。

 それなのに、死針の猛攻が彼女に届かない。

 針の嵐が襲いかかる度、凪は紙一重の距離でそれを躱していく。

 右へ、左へ、時に身を低く沈め、時に軽やかに跳ねる。

 その動きは無駄がなく、まるで死と戯れる舞踏のようだった。

 一歩でも踏み外せば即死。

 一瞬でもタイミングがずれれば串刺し。

 そんな綱渡りを、凪は永遠と続けている。

 雪の背筋に冷たいものが走った。恐怖と、そして言いようのない美しさに心を奪われていた。

 さらに驚くべきことに、その動きは時間と共に研ぎ澄まされていく。

 最初は危うかった回避も、今では流れるように滑らかだ。

 まるで死針の攻撃パターンを体で覚えていくかのように、凪の身のこなしは洗練されていった。



『お、おい! ちょっと人を呼んでくる!』

『考察班を呼べ! 死針の出現もそうだが──あの無名の潜行士(ダイバー)について調べろ!』

『道化師(クラウン)なんてジョブ聞いたことあるか!?』


 次々と声が飛び交い、視聴者がVRの向こう側 で慌ただしく動き始める気配を感じる。

 雪の肌がぴりぴりと粟立った。

 まるで空間そのものが熱を帯び、うねりを上げているかのような錯覚に陥る。

 森の中が一つの巨大な生き物となって、鼓動を打っているような感覚だった。

 目の前で繰り広げられているのは、生きるか死ぬかの戦い。

 だがそれは同時に、観客たちにとっては最高の見世物でもあった。

 血と汗が飛び散る死闘が、まるで綿密に演出された公演(ショー)のように人々を熱狂の渦に巻き込んでいく。

 雪は拳を握りしめた。

 観客の歓声が大きくなるたびに、凪の剣筋はより鋭く、より正確になっていく。

 まるで観衆の熱気を糧にして、彼の動きが研ぎ澄まされていくかのようだった。

 その変化を、雪は戦いの当事者として、肌で感じ取っていた。


「負けないで……!」


 雪の唇から、祈るような言葉がこぼれ落ちた。

 浅い呼吸を繰り返す大吾を抱きしめて、雪はその戦いに釘付けになる。

 腕の中の大吾の体温が徐々に下がっていくのを感じながら、雪は唇を噛みしめた。

 逃げることはできない。

 意識を失った大吾を背負っていくことなど、雪の細い腕では不可能だ。

 祈ることしかできない自分に、雪は奥歯を強く噛み締めた。

 握りしめた拳が小刻みに震える。

 自分が弱いことなど百も承知していたが、それでも今この瞬間の無力さが、胸を締め付けるように悔しい。


 凪とて楽なわけがない。

 額から流れる汗が顎を伝って落ち、呼吸は始まった時からずっと荒いままだ。

 肩が大きく上下し、握るナイフはすでに何度も耐久値を超えて砕け散っている。

 圧倒的なステータス差を、磨き上げた技量と折れない意志だけで埋め続けて、かろうじてギリギリの均衡を保っている。

 それでも、そんな極限状態の中でも、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。

 まるで戦いそのものを心から楽しむように、瞳には強い光が宿っている。

 誰かのために命を賭けることこそが、彼女に与えられた使命だとでもいうように、その姿は凛として美しかった。

 ──勇者。

 塵界で伝説と呼ばれるジョブを、雪は自然と連想していた。

 道化師(クラウン)の少女の背中は、まさにその名にふさわしい輝きを放っている。

 その背中に憧れと畏敬の念を抱きながら、雪は瞬きすることも忘れて戦いを見つめ続ける。



***


 ライブ配信をまとめたページのトップページ。

 凪の配信が、ホット動画として急上昇し始めた。

 配信タイトルの横に炎のアイコンが灯り、視聴者数のカウンターが勢いよく回転する。

 更に大量の視聴者が、まるで堰を切ったように配信へと流れ込んでいく。


***



『俺、鳥肌が止まらないんだが……!』

『な、凪ちゃん可愛くね……? 俺ファンになるかも!』

『そんなこと言ってる場合か! このままだと保たねぇぞ!』

『救護班を組織しないのか!? 死針って言ったら有名なフィールドエリアの化け物だ! 今倒しておけば、潜行士(ダイバー)全体の利益になるだろ!』

『今茂原外環はグレイトボアの狩猟期に入ってるらしい! ランクC以上の潜行士(ダイバー)は全て出ちまってる!』

『タイミング最悪だな……』

『タヒんだな。元々が無謀な戦いだったんだよ』

『凪ちゃん、頑張れ……!』


 VRの向こうから届く声が、まるで波のように押し寄せてくる。

 熱い。

 まるで巨大なスタジアムの中心に立っているような、そんな錯覚さえ覚える。

 何千という視線がボクに注がれ、その重みが肌をじりじりと焼いていく。

 心臓が早鐘を打ち、血液が全身を駆け巡る音が耳の奥で響いている。

 ボクは唇の端をゆっくりと吊り上げた。

 指先が小刻みに震えているのは恐怖からじゃない。

 純粋な興奮が、抑えきれずに体の外へ溢れ出そうとしているんだ。

 この瞬間、確かにボクは世界の中心にいる。

 その実感が、背筋を這い上がる電流のように全身を貫いていく。


「こんなもんか! 死針! レベル1を倒せないなんて、どうしちゃったのかな!?」


 モンスターだろうと全力で煽る。

 

 ──SHAAAAAッ!!!


 言葉は通じずとも、想いは伝わるものだ。

 死針が怒りに満ちた咆哮(ほうこう)をあげた。

 その声には明確な憤怒が込められている。

 ボクの挑発が、確実に効いている証拠だった。

 ボクの戦いを見守る人々の視線を背中に感じる。

 その注目がボクの力となり、体の奥底から熱いものが湧き上がってくる。

 嘲笑の的(フール)の効果──観客さん達(オーディエンス)の期待が、ボクのステータスを押し上げていく。

 その力を振り絞って、死針に喰らいつく。

 正直、限界はとうに超えていた。

 ここまで持ち堪えているのは奇跡としか言いようがない。

 肺が焼き切れそうだ。

 喘ぐように空気を貪り、それでも足りない。

 全身はすでに汗でびしょ濡れだった。

 額から流れ落ちる汗が目に入り、視界が滲む。

 死針の放つ毒針を避けるため、通常よりも大きく体を捻らなければならない。

 必然的に無理のある動きになり、針こそ避けられているものの、その代償は大きかった。

 全身にわずかな裂傷と打撲が広がっている。転がった際に地面で擦った傷、無理な体勢で避けた時に引き攣った筋肉、そのすべてが悲鳴をあげていた。

 HPの少ないボクにとっては、こんな小さな傷の積み重ねすら致命的になり得る。

 ジリ貧だった。このままでは、あと数分と保たないだろう。

 それでいて、こちらの攻撃はまるで通らない。

 隙を見つけては斬撃を繰り出しているが、死針の全身を覆う無数の針の鎧が、すべての攻撃を弾いてしまう。

 金属同士がぶつかる甲高い音だけが虚しく響く。

 ナイフがばきりと嫌な音を立てた。


「くっ──!」


 耐久限界を超えたのだ。

 グリッジノイズと共にナイフが消えていく。

 ボクはすかさず、インベントリから替えの一本を取り出す。

 指先が震えているのを悟られないよう、素早く柄を握りしめた。

 残りの武器を確認する。

 あと二本。

 もう予備も僅か。

 この調子で消耗していけば、武器がなくなるのも時間の問題だ。そうなれば、それもまた詰みだ。

 死針との距離を測る。

 もう一歩。もう一歩踏み込めれば、ダメージを与えられる攻撃を繰り出せる。

 ボクのナイフが届く間合いまで、あと少し。

 だがそれは、捨て身になる。

 一撃を加えるために飛び込めば、カウンターで串刺しにされるのは目に見えている。

 額から流れる汗が頬を伝い、顎から滴り落ちた。

 アポカリプスプラネットの時とはまるで違う。

 あの時は失うものなど何もなかった。でも今は違う。死ねば、雪も大吾も失うことになる。

 無謀な特攻はできない。

 かといって、このまま持久戦を続けても、ジリ貧になるだけだ。

 勝ち筋が見えない。

 歯を食いしばり、次の一手を必死に探る。


『おいおい、これやばいんじゃないか……?』

『レベル1で死針とこれだけ渡りあえているだけで、驚嘆する事態だが……決定力不足だな』

『このままだと、削り切られるぞ!』


 観客さん達(オーディエンス)も気がついている。

 ボクの劣勢は、もはや誰の目にも明らかだった。

 その時、死針の巨大な身じろぎが、背後の巨木に突き刺さった。

 鋭利な針が樹皮を貫き、深々と幹に食い込む。

 天を突くような巨木が、まるで紙細工のように木片を散らし抉られる。

 樹齢何百年もの大木が、いとも簡単に破壊されていく光景に、ボクは息を呑んだ。

 更にメキメキと破断音を響かせて、巨木全体が傾き始める。

 地面が振動し、根元から不吉な軋み音が響いてきた。

 まずい……! 

 倒れる巨木によって、逃げる経路を更に削られる。

 狙われた……!

 超高速な軌道で、ボクの軌道を覆うように死針が出現する。

 逃げ場が……!

 

 ──SUROROROROッ!


 死針の歓喜に満ちた叫び声が森全体に響き渡った。

 獲物を確実に仕留める確信に満ちた、耳をつんざくような金属音。

 その音波だけで、ボクの鼓膜が痛みを訴える。

 もはや逃げ場はない。

 後方は倒れてくる巨木、そして前方から迫る死針の大顎。

 完全に退路を断たれた。

 ダメなのか……。

 覆い被さる死針の巨体が、ボクの視界を黒く塗りつぶしていく。

 無数の鋭利な漆黒の針が、処刑台の刃のように冷たく輝いた。

 足が震え、膝から力が抜けていく。

 結局、ボクには何もできないのか。

 誰かを守ることも、自分の身を守ることすらできない。

 ただの無力な人間。

 異世界に来ても、現実世界と何も変わらない臆病者のまま。

 死針の顎が振り下ろされる瞬間、これまでの記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。

 咲良さんとの出会い、公園で希と修と話した夜、雪や大吾との森での探索──。


「私たちは強くなる! 凪が教えてくれたの! レベルが高いか低いかじゃないわ! 強さ弱さは関係ない!」


 雪の叫びが聞こえた気がした。

 いつかボクが彼女に伝えた言葉が、今度は彼女の口から紡がれて、ボクの心に響いてくる。


「答えを出す必要はないわ。ただどこから来たかだけは、忘れないでね」


 希の凛とした声が、耳の奥で反響する。

 彼女はいつもボクのことを見透かしているかのように、核心を突いた言葉を投げるのだ。


「お前がやったことは、無駄だとは俺には思えない」


 修の信頼に満ちた声が響く。

 あいつはいつだってボクを信じてくれた。その信頼が、今のボクを支えている。


「──だから意地は通す。やりたいことはやる、やりたくないことはやらない。他人がどうとか、誰かのためとかそんな綺麗事じゃねぇ。自分のモノサシで決めて貫きゃいい。それが、しんどい道だとしても食いしばるだけだ。自分で決めたんだからな」


 咲良さんの笑みを讃えた声が、脳裏に蘇る。

 彼女の言葉はいつも単純明快で、だからこそボクの心に真っ直ぐ突き刺さる。


 覚悟しろ。戦え。足掻け。

 ボクが大事にする人たちの、背中を押す言葉が、萎えかけた心を奮い立たせる。

 全身の筋肉が震え、血が熱く脈打つ。

 拳を握りしめると、爪が掌に食い込んだ。

 死ねない。

 歯を食いしばり、顎に力を込める。

 気持ちで負けられない。

 背筋を伸ばし、両足でしっかりと大地を踏みしめる。

 勝ちを諦めない。

 目の前に迫る死針を睨(にら)む。

 鋭く研ぎ澄まされた切っ先が、ボクの眉間に向かって一直線に突き進んでくる。

 時間がスローモーションのように引き延ばされ、死の恐怖が全身を這い回る。

 それでも瞼を閉じることなく、理性を総動員して状況を分析し続ける。

 敵の動き、自分の位置、周囲の環境──すべての情報を脳内で高速処理しながら、一瞬のチャンスも見逃さないよう神経を研ぎ澄ませた。


 その時だった。


□□□□□□□□□□

 ──レベル差が100以上、HPが10以下の状態で500回以上攻撃を避けました。

 ──称号『不撓不屈(ふとうふくつ)』を手に入れました。

 ──規定条件を満たしました。

 ──エクストラスキル驚怒の煽箱《ジャック・イン・ザ・ボックス》を取得しました。


不撓不屈(ふとうふくつ)

──強者よ。舐めるな。我は首だけになろうとも、其方の喉笛に噛みつこう。意志ある限り腐り果てた不死者の如く何度でも立とう。

──レベル差が50以上離れている場合にのみ、HP全損ダメージを受けた際にHP1で生き残る。リキャストタイム1分。


驚怒の煽箱《ジャック・イン・ザ・ボックス》

──驚かせ嘲笑え。敵が怒れば怒るほど笑いが込み上げてくる。その怒りも全て笑いに変えて見せよう。

──スキル使用と同時に出現するエフェクトに強制的に対象のヘイトを切り替える。エフェクトの消失後は使用プレイヤーにヘイトはひき継がれる。このスキルを受けたモンスターは憤怒状態となり攻撃力が増大する。

□□□□□□□□□□


 無機質なシステム音声が頭の中に直接響いてくる。

 

 これだ──。

 

 胸の奥で何かが弾けるような感覚があった。

 直感が叫んでいる。 

 効果を確認している暇なんてない。

 ボクは全身の力を振り絞り、肺の空気を全て吐き出すように叫んだ。


「驚怒の煽箱《ジャック・イン・ザ・ボックス》!!!!」


 声が戦場に響き渡る。同時に、体を包む光が一気に膨れ上がった。

 目の前の空間が歪み、青白い光の粒子が集まっていく。

 やがてそれは巨大な箱の形を作り上げた。

 ホログラムだとすぐに分かる。半透明の箱は、ボクの身長の三倍はあろうかという大きさで、表面には派手な模様が描かれている。 

 クラッカーが弾けるような軽快な音が響き渡った。

 箱の上部が勢いよく開き、中から何かが飛び出してくる。

 バネ仕掛けの仕掛けが作動したかのような動きで、赤と黄色の衣装を着た道化師の人形が宙を舞った。

 キラキラと輝く紙吹雪が噴水のように舞い上がり、金色や銀色のリボンがくるくると回転しながら降り注ぐ。

 まるで誰かの誕生日パーティーか、サーカスのフィナーレのような光景だった。

 道化師の人形は空中で一回転すると、着地もせずにふわふわと浮遊したまま、両手を大げさに広げてお辞儀をした。

 そして死針の方を向くと、肩をすくめて首を傾げる仕草を見せる。

 まるで「これで驚いたかい?」とでも言いたげに、挑発的な動きを繰り返していた。

 

 その瞬間だった。


 死針の攻撃が切り替わる。

 ボクに向いていた頭が、びっくり箱の方へと向くとホログラムの方向に向かって攻撃を繰り出した。

 間一髪(かんいっぱつ)、ボクは攻撃を避ける。


『これは! タゲ取りスキルか!?』

『レベル差が100以上ある相手に、しかも攻撃直前にすら効果発動しなかったか!? だとしたら……!』

『ぶっ壊れ性能だな!』

『ギリギリでスキルと称号を取得しやがった!』

『凪ちゃん生き残ったぞ!』


 観客席から沸き起こる喝采がVR空間を震わせた。

 ボクは歓声を背に受けながら、目の前で大きな隙を晒している死針の姿を捉える。

 巨大な体躯がホログラムに向けて攻撃を繰り出した直後、その動きに一瞬の停滞が生まれていた。

 千載一遇のチャンス。

 ボクの右手がナイフの柄を握りしめ、全身の筋肉が瞬時に連動し始める。


 ──示現無双流:初伝【流転】


 すれ違い様に、仕掛ける。

 アポカリプスプラネットで幾度となく死線を潜り抜け、修行を重ねてきた古武術、示現無双流。

 それはレベルやスキルといったシステムに左右されない、純粋な技術の結晶だった。

 ボクの体が低く沈み込み、死針の巨体の下を潜り抜けるように滑り込む。

 その瞬間、ナイフが閃光のような軌跡を描いて死針の腹部に突き刺さった。


 ZUIOOOOOOOOOOOッ!!!

 

 死針の絶叫が森の中に響き渡った。

 刃が肉を裂く感触と同時に、ナイフそのものが耐久限界を超えてノイズとなって霧散する。

 武器が消失した手に、確かな手応えが残る。


 ──だが失敗だ。


 死針がもんどり打ちながら、ボクから距離を取るように後退していく。

 傷を負わせたが、致命傷ではない。

 ボクも不完全な流転の反動で全身が硬直し、次の動作への移行が一瞬遅れる。

 膝が震え、呼吸が乱れた。死針との間に、再び十メートル近い距離が開く。


『おい! 今の見たか!?』

『ああ!? なんだあのスキル!?』

『スキルじゃないぞ!? ステータス画面に何も載ってない!』

『驚怒の煽箱《ジャック・イン・ザ・ボックス》はステ画面に現れてるからな。不撓不屈の称号も』

『なら、あれはなんだ!?』

『単純にあの娘の技術とか……?』

『そんなわけあるか!!』


 観客席から沸き起こる喝采と驚愕の声が、VR空間を包み込んでいく。

 その熱狂的な空気の中で、ボクの膝がガクンと崩れ落ちた。

 地面の冷たさが膝頭に染み込んでくる。


「かはっ……!」


 喉の奥から血の味が込み上げてきた。

 肩に走る鋭い痛みに、反射的に手を当てる。

 指先に生温かい血がべっとりとついた。

 傷自体は浅い、ただの切り傷のはずだ。

 だが、そこから体の内側へと何かが侵入してくる感覚がある。

 血管を通じて、冷たい何かがじわじわと広がっていく。

 

 毒だ。死針の毒が、確実にボクの体を蝕み始めている。

 

 額から冷や汗が一筋、頬を伝って落ちた。

 レベル1のボクの肉体は、どこまでいっても一般人と変わらない脆弱なものでしかない。

 高レベルの冒険者なら耐えられる毒も、ボクにとっては即座に命を奪う猛毒となる。

 視界の端がぼやけ始め、手足の感覚が徐々に遠のいていく。

 

 もう後がない──その現実が、重く圧し掛かる。


『毒を喰らったぞ!』

『誰か回復術師を向かわせろ!』

『無理いうな! それにこのレベルとHPじゃあ……』

『凪ちゃん死ぬな!』

『くそっ、レベル1が脅威度Sに挑むこと自体が……』


 VR空間に集まった観客さん達(オーディエンス)たちの悲鳴が響き渡る。

 絶望的な状況に声を荒げていた。

 体内を巡る毒が、ボクの思考を鈍らせていく。

 何か、何でもいい、この状況を打開する方法はないのか。

 震える手でインベントリから出した最後のナイフを握り直しながら、必死に頭を回転させる。

 額から流れる冷や汗が目に入り、視界が滲んだ。

 全身から力が抜けていき、膝が笑い始める。

 このまま意識を手放してしまえば、きっと楽になれるだろう。

 そんな甘い誘惑が脳裏をよぎった。

 霞む視界で周囲を見渡す。

 雪が意識を失った大吾を必死に抱え、その表情は青ざめていた。

 毒島が右腕から血を流しながら、歯を食いしばって痛みに耐えている。

 誰一人として、まともに動ける状態じゃない。

 この絶望的な戦場で、立ってるのはボクだけだった。

 

 ボクがやらなきゃ、みんな死ぬ──。


 SUROROROR


 死針が再度声を上げた。

 変わらない圧倒的な殺意。思わず逃げ出したくなるほどの圧がボクを襲う。

 しかし、その殺意は若干変化を迎えているように見える。

 それは獲物を見る目から、明確な敵を見る目に。

 そしてボクが立つのを待っている。

 向こうもダメージを受けたが、動けない程じゃない。

 ボクよりも先に先制攻撃を仕掛けることも可能なはずだ。

 それでも奴は動かない。

 ボクが動き出すのを待っているのだ。

 死針の瞳が静かにボクを見据えている。

 その視線には、先ほどまでの一方的な狩人の眼差しはなかった。

 代わりに宿っているのは、対等な存在として認めた者への敬意にも似た何か。

 巨体は微動だにせず、ただじっとボクが立ち上がるのを待っている。

 まるで決闘の作法を重んじる古の武人のように。

 ボクは震える膝に力を込めた。

 全身の筋肉が悲鳴を上げているが、それでも立たなければならない。

 この戦いから逃げることは、もうできない。


 ──負けられない。


 そう思った。

 神崎くんを怖がる自分も。

 自分の無力に、目を背ける自分も。

 雪と大吾を助ける。

 そして修と希を救うために、塵界の謎を追う。

 そのために死針に勝つ。

 壁を乗り越える。


 もう一度だ。


 流転をもう一度決める。

 あと一歩だ。あと一歩踏み込むことができれば。

 ボクの指先が微かに震えた。

 何かが、すぐそこまで来ている。

 長い修行の果てに、ようやく辿り着けそうな境地が、手を伸ばせば届く距離にあった。

 だが、その一歩を踏み出せば、奴のキルゾーンに完璧に踏み込むことになる。

 回避不能な領域。

 ボクが入った瞬間、確実に一撃を喰らう。致命の一撃を。

 不撓不屈の称号効果を見れば、もしかしたら一撃は耐えられるのかもしれない。

 しかし即死は免れたとしても、致命傷を受けて回復をしなければ、待つのは死だ。

 それではダメだった。

 死んでしまったら壁を乗り越えることにならない。

 誰も助けられない。


 歯を食いしばった。

 どうやったら自分の刃を届かせることができるか。

 必死に思考を巡らせる。


「あれは……!」


 視界の隅に映ったものに、思わず息を呑んだ。瞳孔が大きく開く。心臓が大きく跳ねた。

 勝ち筋が見えた気がした。

 もう迷っている暇はなかった。

 多少の犠牲はやむなしだ。

 覚悟を決める。


 何もかもをここから始めよう。

 拳を握りしめる。

 指先から肩まで、全身の力を一点に集中させていく。

 体の奥底から湧き上がってくる何かを感じる。

 それは恐怖でも絶望でもない。

 ただ純粋に、前に進もうとする意志だった。

 死針が低く唸る。

 それは威嚇ではなく、まるで挑戦者を認めた歓喜の声のようにも聞こえた。

 ボクは深く息を吸い込み、ゆっくりと構えを取る。

 震えていた体が、不思議と静まっていく。


『立ったぞ! 立ちやがった!』

『わ、笑ってる……?』

『笑ってるぞ! こんな状況で笑ってやがる!』


 観客さん達(オーディエンス)ざわめきに包まれる。

 その喧騒を全身で浴びながら、ボクは両手を大きく広げた。

 まるで舞台役者が観客に挨拶をするように、優雅に、そして堂々と。


「さあさあさあ、ご覧あれ! いよいよ盛り上がって参りました! これぞ最後の激突、運命の分かれ道! 勝負の結末や如何(いか)に? さあさあ、皆々様(みなみなさま)、とくとご覧(ろう)じろ! それでは参りましょう、ゲームの大団円へと!」


 魅せろ。

 魅せれば、魅せるほどにボクは強くなる。

 血で濡れた唇を舌でなぞり、ボクは口角を吊り上げた。

 全身の傷が悲鳴をあげているが、それすらも今は心地いい。

 観客さん達(オーディエンス)の視線が肌を刺す。期待と恐怖が入り混じった彼らの感情が、空気を震わせている。

 

 このひりつくような状況を楽しめ。

 

 呼吸が浅くなり、心臓が早鐘を打つ。

 指先が小刻みに震えているのは興奮のせいか、それとも恐怖のせいか。

 どちらでもいい。

 この震えさえも、ボクという道化師を彩る演出の一部だ。

 

 一歩間違えば死ぬ。

 これは死を代償にしたゲーム。死針との一騎打ち。

 

 ボクは膝を深く曲げ、重心を落とした。筋肉に力を込め、バネのように全身を圧縮する。

 そして──地面を蹴った。

 砂埃が舞い上がり、ボクの体は弾丸のように前へと撃ち出される。

 筋肉が軋みをあげ、風が頬を切り裂いていく。

 視界の端で、死針のカメラアイがこちらを捉えたのが見えた。

 金属の体躯が低く唸りを上げて、同じように地面を蹴る。

 行き先は毒島の元だ。


「まっ! 俺を囮に……! た、助け……!」


 近づいてきたボクを見て毒島がみっともない悲鳴をあげる。

 顔面蒼白(がんめんそうはく)で、針が刺さったままの腕を押さえながら、腰が抜けたように地面にへたり込んでいる。

 その声に反応している時間はない。

 ボクは毒島が散乱させたアイテムたちを蹴り上げながら、大きくカーブを描いて毒島をすり抜ける。

 ポーションの瓶が宙を舞い、武器が太陽の光を反射してきらめいた。

 離れたところで囮にされると勘違いした毒島が、惚けているのが見える。

 股間が濡れているように見えるのは見間違いじゃないだろう。

 だが、おかげで目的地に到着した。

 あとはタイミングだ。

 振り返るとすでに目の前に死針が迫っていた。

 金属の巨体が、ボクとの距離を一瞬で詰めている。

 無機質なカメラアイの全てが、ボクにフォーカスしている。

 極限まで高められた集中力が、時間を間延びさせる。

 本来なら一歩引く場面。

 それをわかって踏み込む。

 死針が身震いする。

 金属の体表面から、無数の針が射出される音が聞こえた。

 ゼロ距離から針の射出。それを避ける術は、ボクにはない。

 空気を切り裂く鋭い音と共に、ボクの脇腹を針が貫通し、引き裂いた。熱い痛みが走り、血飛沫が舞う。

 左目は破裂し、視界の半分が真っ赤に染まる。半身をズタズタに引き裂かれ、肉片が飛び散った。

 近距離からの射出に体には針は一つも残らない。

 全てが貫通し、後方へと抜けていった。


『や、やられた! 致命傷だ!』

『やっぱりダメか……』

『くそっ! 一瞬食いしばっても、これじゃ!』


 観客さん達(オーディエンス)の声が聞こえた気がしたが、激痛が脳を焼き、何も考えることができない。


 SURORORORORO!


 死針が勝鬨(かちどき)を上げるように吠える。その機械的な咆哮が、ボクの敗北を告げる凱歌のように響き渡った。


□□□□□□□□□□

 ──HP全損を確認。不撓不屈が発動します。

□□□□□□□□□□


 システムメッセージが視界の端で明滅した瞬間、身体に不思議な感覚が走る。

 不撓不屈の効果が発動したのだ。

 HP全損時にHP1で踏みとどまる、一瞬だけ死を先延ばしにする最後の命綱。

 普通なら絶望的な状況だが、ボクの口元が自然と吊り上がった。

 視界の端で何かが弧を描いて飛んでくる。

 さっき蹴り上げたポーションだ。

 計算通りの軌道で、まるで吸い寄せられるように落下してくる。

 塵界では、ポーションはエラー侵食率(しんしょくりつ)を上げてしまう劇薬。

 だが回復薬としての効果自体は健在。

 そして何より、HPの上限が少ないレベル1のボクなら少量でも──。


「──全快だ!」


 空中で蓋が開いたポーションの中身を全身に浴びる。

 まるで巻き戻しのように傷口が塞がっていく。

 肉が再生し、骨が繋がり、一瞬前まで致命傷だった傷が嘘のように消えていった。

 同時に襲ってきたのは、胃の奥から込み上げてくる強烈な吐き気。

 頭の中で警告音が鳴り響いているような不快感が全身を駆け巡る。

 エラー侵食率が確実に上昇している証拠だ。でも今はそんなことを気にしている場合じゃない。

 重要なのは、死針との距離。

 今までにないほど奴に接近している。この千載一遇のチャンスを逃すはずがない。

 すれ違いざまに、一瞬だけ死針のカメラアイと目が合った。

 その無機質なレンズに映っているのは、明らかな驚嘆の色と──。


「──示現無双流:初伝【流転】」


 相手の運動エネルギー全てを利用して、相手にダメージを与えるのが流転の極意だ。

 力を振るう必要はなく、完璧に返すことができれば反動すらない。

 全ての筋肉の動き、関節の可動域、そして動きのベクトルの全ての結節点。

 その針の穴を通すような1箇所にナイフが突き込まれた。


 死針の持つ運動エネルギーが全て、反転して奴自身に襲いかかる。


 お互いに後ろを向いて、一瞬立ち尽くす。

 崩れたのは死針だ。

 ずずん、と地響きをたてて崩れ落ちた。


『まさか! 勝ったのか!』

『さっきから見てたけど何なんだあのスキル! レベル1のスキルが何で脅威度Sモンスターにあんなダメージを!』

『いやスキルじゃないって! 凪ちゃんのスキル項目には該当するスキルが何も載ってないもの!』

『じゃああれは何だ!?』

『知らんがとにかく勝ったからよし! 凪ちゃん俺ファンになっちゃった!』

『ファンクラブ立ち上げろ! このチャンネル布教活動をせねば!』

『すでに立ち上がってます』

『動きはやっ』


 VR空間から興奮した観客さん達(オーディエンス)たちの声が次々と飛び込んでくる。

 歓喜と驚愕の声に埋め尽くされ、一つ一つを聞き取ることが困難なほどの量が押し寄せる。

 ボクは肩で息をしながら、耐久度を超えて砕けノイズになって消えていくナイフを手放した。

 全身から力が抜けそうになるのを、かろうじて踏みとどまる。

 死針の巨体が完全に地面に沈んだのを確認してから、ようやく膝に手をついた。

 額から流れる汗が、ぽたぽたと地面に落ちていく。


「みんなありがとう!」


 流れる汗を拭いながら、ボクはVR空間の観客さん達(オーディエンス)に向かって笑顔を向けた。

 息は上がっているけれど、心は不思議なほど晴れやかだった。

 観客さん達(オーディエンス)がいなかったら、死針に喰らいつくことすらできなかった。

 彼らの声援が、ボクの背中を押し続けてくれた。

 勝てたのは間違いなく観客さん達(オーディエンス)のおかげだ。


『俺にウインクしたぞぉぉぉ!』

『いや俺だ!』

『ねぇねぇ俺と付き合わない!? 個別に連絡取ろうよ──』

『ファンクラブ会員規定第9条──凪様の一挙手一投足は全てファンクラブの共有財産で、個人が独占してはならない。また凪様個人の自由を侵害することは親衛隊が許しません。特定して排除しますよ?』

『ふぁ!? 親衛隊ができたのか!? この一瞬で?』

『ガチ勢こわっ』

『お疲れ様! 痺れたからチャンネル登録するよー!』


 観客さん達(オーディエンス)の会話に苦笑いしながら、ボクは手を振る。

 右手を大きく左右に動かすと、VR空間からまた歓声が上がった。

 頬が少し熱くなるのを感じながら、それでも笑顔を崩さないようにする。

 恐怖感が消えたわけではない。

 胸の奥にはまだ、神崎くんとのトラブルの時の震えが残っている。

 でもこれからも、ボクはこうやって人前に立ち続けるのだろう。

 それが怖くても、逃げ出したくても、この瞬間の充実感を思い出してしまったから。


「うん、またよろしくね! 今日はここ……まで……」


『お、おい意識を失うぞ!』

『今、救護班が向かってる! 死ぬんじゃないぞ!』


 観客さん達(オーディエンス)の声を聞きながらボクは意識を失った。

 視界がゆっくりと暗転していく中、最後に感じたのは、誰かがボクの名前を呼ぶ温かい声だった。

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