チャプター23 フロントライン
冷や汗が額から頬を伝い、顎先から地面へと落ちた。
やばいやばいやばいやばい。
ボクの本能が壊れたサイレンみたいに警告音を鳴らし続ける。
膝が震えて、今すぐその場にへたり込みそうになる。
全身の毛が逆立ち、呼吸すら忘れそうになるほどの、圧倒的な殺気がこの森を支配していた。
べちょり、と生々しい水音が響く。
巨木の幹に、赤黒い何かがへばりついていた。
それはグレイトボアと人間が原型を留めないほどに混ざり合った肉塊だった。
毒島の仲間だ。
──SURORORORO
金属を擦り合わせたような、耳障りな鳴き声が森に響き渡った。
まるで自分の力を誇示するかのように、勝利の雄叫びをあげるかのように。
視線を上げると、巨木に6本の肢でしがみつく、漆黒の巨体があった。
小山のように盛り上がった背中から無数の針が生えている。巨大なハリネズミ、いや、もはやそれは生物というより兵器だった。
頭部についた無機質なカメラアイが、ゆっくりとこちらを捉えた。
レンズが微かに動き、焦点を合わせる機械音が静寂の中に響く。
「……死針」
掠れた声が漏れた。
初めて見るが間違いない。ヘッジホッグのネームドモンスター。
ここまで。ここまで違うものなのか。
目の前にいる巨大な影は、アポカリプスプラネットで戦ったヘッジホッグとは明らかに別物だった。
通常のヘッジホッグが持つ銀色の針とは違い、この個体の全身を覆う針は光を吸い込むような漆黒。
大きさも倍近くあり、四肢の人工筋肉は異常なまでに発達している。
赤い光を放つカメラアイからは、知性すら感じられた。
ボクの握るナイフの柄が、汗で滑りそうになる。
「ぎゃあああああああ」
毒島が漆黒の針が深々と刺さった右腕を掲げて絶叫をあげた。
針の刺さった部分から、黒い筋が蜘蛛の巣のように腕全体に広がっていく。
彼の顔は見る見るうちに青白くなり、額には脂汗が浮かんでいた。
──毒だ。あの針には、毒がある。
「大吾!?」
背後から雪の悲鳴が突き刺さるように響いた。
振り返ると、崩れ落ちる大吾の体を必死に支える雪の姿があった。
震える彼女の手が、大吾の肩を掴んでいる。
大吾の右腕に、一本の細い針が深々と突き刺さっていた。
針の周囲から、じわじわと血が滲み出している。
「雪、……当たってないっスか」
大吾の声は掠れていた。
額には脂汗が浮かび、顔色は見る見るうちに青白くなっていく。
それでも彼は、震える唇で微笑もうとしていた。
「大吾が盾になってくれたんじゃない……!」
雪の声が震えている。
彼女の瞳には涙が溜まり、今にもこぼれ落ちそうだった。
「よかったっス……。前衛の仕事……できたっスね……」
大吾の膝が折れた。
体重を支えきれずに、ずるずると地面に倒れ込んでいく。
「ちょっと大吾! 起きなさい!」
雪が必死に肩を揺さぶるが、大吾の瞼はゆっくりと閉じられていった。
意識が遠のいていくのが、その表情から見て取れた。
ボクは息を呑んだ。大吾の腕から、毒島と同じ黒い筋が蜘蛛の巣のように広がっていく。
皮膚の下を這うように、その禍々しい線が肩に向かって伸びていた。
「話が違う……! 話が……! こんなはずじゃあ……! たす! 助けてくれ……!」
毒島は半狂乱になっていた。
震える指先で必死にUIを操作している。
インベントリの中を漁っているのだろう。
焦りのあまり、ぽろぽろとアイテムが地面に散らばっていく。ポーションが転がり、巻物が風に舞った。
逃げられるか──。
ボクの脳裏に真っ先に浮かんだのはその言葉だった。
心臓が早鐘のように打つ。喉がからからに乾いていく。
ボクは通常のヘッジホッグにすら、まともに勝ったことがない。
あの巨大な体躯と鋭い針の前では、いつも防戦一方だった。
それが死針となれば、もはや勝ち目などあるはずもない。
マスタリーシステムで鍛えた力では、絶対に敵わない。
後方拠点に逃げ込むのは──いや、無理だ。
通常のヘッジホッグの速力ですら、逃げきれない。
あるいは、誰かを囮にすれば。
「大吾! 大吾!」
雪の必死な叫び声が、静寂を破って響き渡った。
朦朧とする大吾を抱きしめ、何度も何度も名前を呼びかける彼女の姿が、ボクの視界に飛び込んでくる。
その細い腕は大吾の身体をしっかりと支えようとしているが、震えが止まらないのが遠目にも分かった。
ボクは拳を強く握りしめる。
誰かを囮にして逃げ切れるのは、ボクだけだ。
毒島はもとより、雪も大吾も見捨てることになる。
不意に雪と視線が合った。
彼女の顔には、隠しようのない恐怖がありありと浮かんでいる。
瞳孔が開き、顔面は蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいた。
雪も目の前のモンスターが、自分たちでは到底太刀打ちできない存在であることに気がついている。
「凪。……逃げなさい。あなたなら助けを呼んで来れるかも」
歯の根も合わないほどに震えながら、雪は言葉を搾り出した。
唇は青ざめ、声は掠れていたが、その瞳だけは真っ直ぐにボクを見つめていた。
彼女も分かっているのだ。
ボクが助けを呼びに行ったところで、助けが到着するまで自分たちが生き残ることなど不可能だということを。
死の恐怖に全身を震わせ、それでも必死に抗いながら、ボクに逃げろと言っていた。
そうだ逃げるのが正解だ。
全員助かることなど無理だ。
これだけ危機的な状況で、理想を語ってどうする。
誰かを犠牲にしてでも、1人を生き残らせる方法を考えた方が明らかに現実的だ。
それにこの世界は蘇生がある。
ペナルティは重いが、完全な死が確定したわけじゃない。
潜行士としては、終わるかもしれないが、生き残ることは──。
「──そんなわけ、ないだろ」
ボクは自分の口から漏れ出た言葉に、はっとした。
爪が掌に食い込んで、じわりと痛みが広がっていく。
潜行士として終わった雪と大吾は、またストリートチルドレンに戻るのか。
しかし、彼女はそれすらも受け入れて。
自分で決められない人生に戻ることも覚悟して、今決めたのか。
自分のことは自分で決めると言った通りに。
「…………もう逃げるのは嫌なんだ」
こんな時すら、遠ざけていた力。
無理かどうかなんて関係ない。
現実なんて糞食らえだ。
こんなとき、理想を語らないでどうする。
胸いっぱいに空気を吸い込む。
肺が膨らんで、全身に新鮮な酸素が巡っていく。
恐怖も、不安も、全部飲み込んで、ボクは前を向いた。
唇の端が自然と吊り上がる。
心臓が激しく脈打ち、全身の血が沸き立つような感覚。
「最高の舞台じゃないか──」
震える拳を握りしめる。
ボクは自分に言い聞かせる。
恐怖を、興奮で塗り替えろ。
今のボクでは死針に勝てない。
それは確実だった。
アポカリプスプラネットで必死に鍛え上げた技術も、培ってきた経験も、それだけでは足らない。
圧倒的な力の差が、ボクの全身を縛り付けようとしている。
ならばどうするか。
方法は一つだけある。
ボクには──奥の手がある。
震える手でインベントリを開く。
光の粒子が集まり、手のひらの上で一つの玉が形を成していく。
共魂玉。
その表面には複雑な紋様が刻まれ、内側から仄かな光を放っていた。
指が震える。
恐怖なのか、興奮なのか、もう自分でも分からない。
ただ、この一歩を踏み出さなければ、全てが終わってしまうことだけは理解していた。
乗り越えるんだ。今やらなくていつやるんだ。
ボクは唇を噛みしめ、覚悟を決めた。
「凪……?」
「雪、大丈夫だよ! 大吾を守ってて。絶対に2人を助けるからね」
雪に向かって微笑む。
話し出したボクに対して、死針のカメラアイがこちらに焦点を絞る。
レンズが小刻みに動き、ジジジ、と機械音を立てながらボクの姿を捉えた。
全身の毛が逆立つ。
強烈な殺意に逃げ出したい気持ちを抑えて、笑みを深める。
膝が震えそうになるのを必死に堪え、口角を更に吊り上げた。
恐怖を押し殺すように、あえて一歩前に踏み出す。
死針に向けてナイフを向ける。
刃先が陽光を反射し、鋭い光を放った。
「さあ、一緒に踊ろうか!」
ボクは共魂玉を砕くと同時に宣言する。
ガラスが割れるような澄んだ音が響き、光の粒子が舞い上がる。
その輝きがボクを中心とした空間に溶け消える。
また世界と繋がる。
ボクは宣言した。
「──ここが、ボクのフロントラインだ!」




