チャプター20 路地裏の決着
世界を移動する時間感覚が混ざるような感覚が、ボクを覚醒させた。
「おい、聞いてんのかテメェ。このくらいで呑気に気絶してんじゃねぇよ」
遠くからだみ声が響いてくる。
世界に意識が馴染む感覚が押し寄せる。
それはそれで結構気持ちの悪い感覚だが、それだけじゃない。
頭の内側がぐらりと揺れて、視界の端が白く滲む。耳の中で水が渦を巻くような気持ち悪さ。どうやら、三半規管がやられてる。
まず、痛みが来た。遅れて、胃の底から逆流してくる酸っぱさと、鉄の味。
舌の上がぬるつく。喉がひりついて、呼吸をするたびに胸の奥が嫌な音を立てる。
「やっぱり現実の痛みは違うなぁ」
自分でも驚くくらい、声がかすれていた。
体の隅々まで、五感が容赦なく突き刺さる。
皮膚にまとわりつく湿った空気、鼻を刺すすえた匂い、足元で砕けたガラス片が擦れる音。
その解像度の高さに、ボクはここが塵界だと理解する。夢やゲームじゃない。やり直しのきかない場所に、ちゃんと帰ってきていた。
約10日──アポカリプスプラネットの時間だと約1000日。それだけの時間、僕はVR2120にいたことになる。
路地裏は薄暗く、色のない世界みたいに冷たい。
壁には誰かの吐き捨てた落書きが歪んで伸び、天井代わりのパイプからは水が一定のリズムで滴っている。
ひとしずく落ちるたび、背筋が妙にざわつく。奥の方で猫が鳴いたが、それすら遠く聞こえた。
気づけば片腕を掴まれ、体がぶら下がっている。
肩の関節が悲鳴を上げ、指先が痺れて感覚が千切れそうだ。
靴の先がアスファルトをかすめ、足に力を入れようとしても、膝が笑ってまともに立てない。
久しぶりに感じる、最悪の気分だ。
「──でも致命傷じゃない」
「頭までおかしくなったのか? 何もしてねぇのに狂ってんじゃねぇよ」
ボクが空いた手のひらを何度も握ったり開いたりしているのを見て、毒島が呆れたような声を投げかけてきた。
指先の感覚を確かめるように、ゆっくりと拳を作っては解く。
視線を上げて毒島を見据える。
隙だらけだった。
いや隙だらけなんて生易しいものじゃない。
両手をだらりと下げて、まるで戦う気がないかのような無防備な立ち姿。ボクを完全に見下している証拠だ。
確かに、純粋なステータスでは毒島の方が圧倒的に上だった。
筋力も、反射速度も、耐久力も、全てにおいてボクを凌駕している。
3年間、文字通り死の淵をさまよいながら鍛錬を積み重ねてきたボクのステータスでも、全く追いついていない。
レベリングシステムの恩恵は想像以上に大きい。
レベルが上がるたびに爆発的に向上するステータス。
それに比べて、ボクが頼りにしているマスタリーシステムの成長曲線は実に緩やかだ。
地道な訓練と実戦を重ねても、わずかずつしか能力値は上昇しない。
今この瞬間、ボクと毒島の間に横たわるステータス差は、未だ天と地ほどの開きがある。
普通に考えれば、勝負になるはずがない。
でも、とボクは口の端を僅かに吊り上げた。戦いはステータスが全てじゃない。
「や、やめなさいよ!」
その時、毒島の更に後ろから声が放たれた。振り返ると、そこには白髪に赤い瞳を持つ美少女が立っていた。
確か名前は紅井雪。そう、彼女にはめられて、ボクはこの場所へ誘導されたのだ。
でも今の彼女の表情を見れば、事情は違うことがわかる。震える声、怯えた瞳。彼女もまた毒島の暴力的な支配下に置かれていたんだっけ。
塵界の時系列では数分前の出来事なのに懐かしい。
VR2120、ひいてはロストアビスの時間軸を行き来したボクにとってはかなり昔の話だ。
「ああ? だからなんで口答えしてんだよ? オイ、この渡航者のガキを剥いとけ。雪は俺が黙らせる」
毒島がボクの腕を乱暴に突き放した。解放された腕がじんじんと痛む。
彼は雪の言葉に眉間に太い血管を浮かせながら、苛立たしげに踵を返した。
その巨体が雪に向かって歩き出す。
反対にボクの前に現れたのは、毒島の部下の一人だった。痩せぎすの男で、その顔は下卑た笑みに彩られている。黄ばんだ歯を見せながら、舌なめずりをする仕草が嫌悪感を煽る。
「ひひひ。服の下はどうなってるのかなぁ……! ボスに殺されちまう前に少し楽しませてくれよぉ!」
ねばつくような視線がボクの全身を舐め回す。正直、鳥肌が立つほど気持ち悪い。
なるほど、女性が感じる不快感ってこういうものなんだなぁ、と場違いなことを考えてしまう。
別にボク一人だったら、そんなに急ぐ必要もなかった。
でも、あの子──紅井雪が毒島に傷つけられるのを見過ごすのは不愉快だ。
彼女の怯えた表情を見つめる。
きっと以前のボクならこんな状況でも、何もできなかったのかもしれない。
関わることを恐れて、自分が悪い影響を与えてしまうことに怯えて。
「でも、できることをやるって決めたんだ……」
小さくつぶやきながら、ボクは震える拳を軽く握りしめた。
無造作に伸ばしてきた手を、ボクはすかさず掴んだ。
「可愛がって…………ぐあっ!?」
部下の男が宙を飛んだ。そのまま勢いよく壁に叩きつけられ、鈍い音を立てて床に崩れ落ちる。
「あ……?」
紅井雪の方向へと歩を進めていた毒島の足が、ぴたりと止まった。
その顔には明らかな驚きが張り付いている。
瞬きを忘れたかのように、目を見開いてボクを見つめていた。
当然の反応だろう。つい今しがたまで一切の抵抗もできずに、サンドバッグのように殴られ続けていたボクが、突如として反撃に転じたのだから。
毒島の頭の中では、今まさに何が起きたのか理解が追いついていないはずだ。
ボクは倒れた部下から視線を外し、まっすぐに毒島を見据えた。
「その子に手を出すことは、許さない」
静かに、しかし確固たる意志を込めて宣言する。
その瞬間、紅井の大きな瞳がゆっくりとこちらを向いた。驚きと、かすかな期待が入り混じったような表情が入り混じる。
毒島の顔が見る見るうちに赤く染まっていく。
驚きは怒りへと変わり、こめかみに青筋が浮かび上がった。拳を握りしめる音が、静まり返った空間に響く。
「本当にどいつもこいつもムカつくな。クソ無能な渡航者にやられてんじゃねぇよ。お前も俺に対してなんで偉そうな口を聞いてるんだ?」
毒島の声は怒りで震えていた。
今にも爆発しそうな感情を、かろうじて言葉に変えているような、そんな危うさがあった。
毒島の実力はあの部下よりも明らかに上だ。
しかもあの部下のように、油断をしている訳じゃない。
金属が擦れる冷たい音を立てて、毒島が腰に刺したミドルソードを引き抜いた。
切っ先がボクを捉えたまま、じりじりと間合いを詰めてくる。その足運びには一切の隙がない。
慎重に距離を詰めてくる。
ボクは拳を握りしめ、腰を落として構える。
毒島は冒険者ランクD。
レベルで言うと21〜40だ。その証である銅色のギルドプレートがぎらりと光る。
対してボクはレベル1。どう考えても、まともに立ち向かえる相手ではない。
これが無謀な勝負であるのは理解している。
でも理解している以上に──。
「──ここを超えないとボクは先に進めない」
そのためには試さないといけない。
ボクの実力が、今どのくらいなのか確かめる必要がある。
当然リスクが伴う。
ボクは拳を握りしめた。手のひらにじっとりと汗が滲む。
そうだ、ここはアポカリプスプラネットではない。
あの世界のように蘇生は無制限ではない。
蘇生にはリスクが伴う。死という、取り返しのつかないリスクが。
シャツの背中が肌に張り付く。冷たい汗が背筋を伝い落ちていくのを感じた。
それでも、確かめずにはいられなかった。
「いい度胸だぜ。レベル1の雑魚がどうやって俺に叶うんだよ」
「こっちだ! 咲良くん!」
「ちっ、凪の奴いちいちトラブルに巻き込まれやがって!」
その時だった。路地の向こうから複数の足音と、誰かが叫ぶ声が響いてきた。
今まで余裕だった毒島の表情が、一瞬にして険しいものに変わる。
眉間に深い皺を刻み、舌打ちをしながら周囲を見回した。
毒島の視線が素早く路地の出入り口を確認し、次に屋根の上へと向けられる。
「ちっ、時間切れか。いくぞ!」
「親分! 周平の野郎は……」
部下の一人が、ボクに投げ飛ばされて地面に転がっている仲間を指差した。
周平と呼ばれた男は、まだ意識を取り戻していない。額から血を流し、ぴくりとも動かない。
「置いていけ! 負け犬に用はねぇ!」
毒島は剣を鞘に収めると、冷たく言い放った。
倒れている部下には一瞥もくれず、動ける部下に顎で合図を送る。
二人は一斉に身を翻し、隣の建物の屋根へと飛び移った。
毒島の気配が完全に消え去ったのを確認して、ボクはようやく構えを解いた。
張り詰めていた緊張の糸が切れ、全身から力が抜けていく。額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、大きく息を吐いた。
その瞬間、路地の角から二つの人影が勢いよく飛び出してきた。
咲良さんと賢人さんだった。
「逃げられたようだね」
賢人さんが、穏やかな口調で呟いた。
「凪っ!?」
咲良さんがボクの姿を認めると、目を見開いて驚きの声を上げた。
彼女は慌てた様子で駆け寄ってくる。明らかに動揺していた。
そういえば自分は今ひどい状態だ。
殴られて地面に転がされて、全身がボロボロになっている。
右頬は熱を持ってズキズキと脈打ち、腹部には鈍い痛みが残っている。
咲良さんが心配そうにボクを見つめているのも無理はない。
「咲良さん。ボクは大丈夫です。致命傷はありません。それよりもあの子を……」
ボクは痛みをこらえながら、ゆっくりと視線を向けた。
そこには紅井雪が立っていた。
彼女の細い肩が小刻みに震えている。
両手を胸の前で固く握りしめ、今にも泣き出しそうな表情でボクたちを見つめていた。
その瞳には恐怖と後悔の色が混じり合い、唇は真っ青になっている。
「──お前ちょっと変わったか?」
咲良さんが不思議そうにボクの顔を覗き込んできた。
やはり咲良さんはすごい。ほんの一瞬でボクの変化に気がついてしまった。
「少しだけ色々気が付きました。咲良さんのおかげです」
心からの本心をいう。咲良さんとここまでもがき続けたから、ここまで来れたのだ。咲良さんがいなかったら、そもそも生き残っていなかった。
「あの子はギルドに保護してもらおう。すでにギルド職員を呼んである。おそらく彼女は毒島に師事していた子だね」
「ああ。覚えてるぜ。今の状況は全部あのクソ野郎の仕業ってことだな」
咲良さんの眉間に深い皺が刻まれ、拳がぎゅっと握りしめられる。
今にも爆発しそうな怒りが全身から立ち上っていた。
やばい、このままだと収拾がつかなくなる。
咲良さんなら今にも殴り込みに行きかねない。
きっと芙美さんが、烈火のごとく怒るだろう。
そうなる前に、なんとか時間稼ぎをしなければ。
「咲良、やめた方が良い。毒島は一護と繋がっている可能性がある」
その時、咲良さんの手を置いたのは賢人さんだった。
一護静──たしか、グレイトボアの討伐のライブ配信を見た時にいた、潜行士筆頭と呼ばれていた偉い人だ。
まさか毒島とそんな偉い人がグルってことなのだろうか?
だが、賢人さんの言葉を聞いても咲良さんの怒りは収まらない様子だった。
「あ? その手どけろや? 自分の舎弟をやられて、はいそーですかって引き下がれるか。毒島はぶちのめす。一護が首突っ込んできたら一護もぶちのめす。そんだけだ」
咲良さんの顔は般若だ。
溢れ出る怒気に、怯みそうになる。
賢人さんはよく涼しい顔をしていられるな。
「君はそれでよいかもしれないけれど、君が暴れると弟子の凪くんの立場が悪くなるよ? それでもいいのかい?」
「うぐっ」
そこでついに咲良さんが鼻白む。
怒りを抑えるように、歯を食いしばる。
そして拳を固めると、勢いよくボクの頭に振り下ろした。
火花が散る。
「あいたぁぁぁっ!? 目玉飛び出るかとおもったわ! なんで殴るんですか!」
「腹いせに決まっているだろーが! ああむかつく」
咲良さんは顔はまだ怒っていたが、行動に移すことは諦めたようだ。
ボクは頭をさすりながら、内心で胸を撫で下ろしているうちにギルドの職員たちが現場に到着した。
数人の職員が、手際よく現場の処理を始める。ボクは周囲を見回したが、芙美さんの姿はどこにも見当たらなかった。
ボクは震えが止まらない紅井雪を、到着したギルド職員の一人に預けた。
彼女の小さな肩は小刻みに震え続けていて、顔色も真っ青だった。
「あ……」
職員に支えられながら立ち上がろうとした彼女と、一瞬だけ視線が絡んだ。
彼女の瞳には恐怖と、そして何か言いたそうな色が浮かんでいた。
しかし、ボクは視線をそらして踵を返した。これ以上、彼女と話すことは何もない。
その場を離れようとしたボクを、ギルド職員の一人が呼び止めた。
医療班のワッペンを付けた女性職員が、心配そうな表情でボクの血まみれの姿を見つめている。
彼女は治療を勧めてきたが、ボクは首を横に振って断った。
体のあちこちが痛むけれど、骨は折れていない。
足もちゃんと動く。この程度なら、治療を受ける必要はなかった。




