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チャプター16 帰ってきた世界は

 やかんの甲高い音が、意識の底からボクを引き上げた。

 ピーッという金属音に混じって、エアコンの送風音が耳に届く。

 瞼を開けると、見慣れたキッチンの天井が視界に飛び込んでくる。

 LED灯の白い光が、ぼんやりとした視界を徐々に鮮明にした。


「な……!」


 思わず声が漏れた。ボクは今、キッチンに立っている。

 コンロの上では、やかんが激しく湯気を吹き上げていた。沸騰した水が、蓋をカタカタと震わせている。

 右手に握られたスマートデバイスに視線を落とす。画面にはお湯を沸かしながら見ているらしい動画が再生されていた。お笑い芸人のコント動画。再生バーは、ちょうど半分を過ぎたところだ。

 窓の外からは、遠くを走る車のエンジン音が微かに聞こえてきた。

 夜特有の、街が寝静まった静寂の中で、その音だけが妙にはっきりと響いている。

 時計を見ると、9時30分を指していた。

 頭が混乱する。さっきまで確かに、ボクは茂原外環の路地裏にいたはずだ。

 薄暗い路地の壁に背中を押し付けられ、毒島の拳を何度も受けていた。

 肋骨が軋む音。口の中に広がる血の味。

 なのに今、ボクは自宅のキッチンに立って、何事もなかったかのようにやかんを眺めている。

 傷はない──。


「もどって、きたの……?」


 震える声が、かろうじて唇から零れ落ちた。

 目の前に広がるのは、見慣れたはずの自室の風景。

 机の上に無造作に置かれた教科書、壁に貼られたポスター、──すべてが懐かしく、そして恐ろしいほどに現実的だった。

 手が止まらずに震えている。

 二度と戻ってこれないと思っていた世界。刺されても巻き戻される、仮初の世界。


「神崎くん!? そ、そうだ! 修と希は!」


 突然、堰を切ったように記憶が溢れ出してきた。

 頭の中で時系列がぐちゃぐちゃに混ざり合い、ボクは思わず頭を抱えた。

 ついさっきまで──そう、確かについさっきまで、修と希と一緒にカフェで他愛もない会話を楽しんでいた。

 三人で笑い合って、家に帰ってきて夕食を食べて、お風呂に入って……

 いや、違う。その前に神崎くんに──アパートの前で、鋭い刃物が腹部に突き刺さる感触が生々しく蘇る。

 そして時間が巻き戻り、神崎くんはまるでゲームのアバターが消去されるように、この世界から消えてしまった。

 塵界で過ごした2ヶ月の記憶と、2120年で過ごした数時間の記憶。

 時間の流れは全く違うのに、ボクの中では確かに一本の線として繋がっていた。

 ここはボクが神崎くんに刺されなかった後の世界。

 頭の中で、あの時の神崎くんの言葉が反芻される。ボクの次は修と希を襲うと言っていた。

 もしボクを刺したという時間軸がなくなったのだとしたら、もしかしたら2人を先に襲うような時間軸になっているのかもしれない。

 血の気が引いていく感覚に襲われながら、ボクは震える手でスマートデバイスを掴んだ。

 画面をタップする指先が小刻みに震える。

 連絡先から修と希の名前を見つけ出すのに、普段の倍以上の時間がかかってしまった。

 グループ通話を選択して同時に2人に掛ける。コール音が鳴る。

 一回、二回、三回──永遠にも感じられる数秒間の後、通話が繋がった。


「おお、凪! どした?」


 修の声は、いつもと変わらない調子だった。


「あら、こんな夜になにか用?」


 少し遅れて繋がった希の声にも緊迫感はない。むしろ少し眠そうな響きさえ含んでいる。

 電話が思った以上にあっさりと繋がったことに、ボクは拍子抜けしそうになった。しかし、すぐに気を引き締め直す。まだ安心するには早い。もしかしたら神崎くんが、今まさに2人の元へ向かっている最中かもしれないのだ。

 ボクは大きく息を吸い込んでから、早口で切り出した。


「た、大変なんだ。か、神崎くんがそっちに向かってるかもしれない!」


 声が上ずってしまい、言葉が詰まる。それでも必死に状況を伝えようと、ボクは言葉を続けた。

 電話の向こうで、ふたりが沈黙する。

 反応がおかしい。

 やがて修が慎重に言葉を選ぶ様子で、口を開いた。


「あのさ凪。その神崎って誰だ?」


 全身に電流が走ったような衝撃が駆け抜けた。

 喉が急に渇いて、言葉が出てこない。口をぱくぱくと動かすだけで、音にならない。手に持つスマートフォンが、急に重く感じられる。


「同じクラスメイトで……1学期ずっと休んでいた……」


 やっとのことで絞り出した声は、自分でも情けないくらいに震えていた。

 想定外の事態に頭が真っ白になって、まともな説明なんてできやしない。

 言葉がバラバラに口から零れ落ちていく。

 だって、おかしいじゃないか。こちらの世界──VR2120で言えば、つい数時間前まで神崎くんのことを話していたんだ。

 それも修の方から話題に出したくらいだ。そんなことを忘れるはずがない。ボクの記憶は確かなはずだ。

 希の声が、冷たく響いた。


「何か勘違いしているんじゃないかしら? うちのクラスに神崎というクラスメイトはいないわよ」

「そんな……」


 膝から力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。

 壁に手をついて、なんとか体を支える。

 確信した。

 消されたのだ。

 神崎くんは、あの世界の声のような存在によって──それこそ存在した記憶ごと、この世界から消し去られてしまったのだ。

 まるで最初からいなかったかのように、きれいさっぱりと。

 二人が襲われることはない。なぜなら神崎くんはもういないから。

 その二つの事実が頭の中で繋がった瞬間、強い脱力感に襲われる。


「そ、そうかな? ごめん、何か勘違い、したみたい……ごめんね」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 頭の中が真っ白になって、思考が追いつかない。

 震える指で通話終了ボタンを押そうとする。でも、その前に──。


「凪、ちょっと待って! これから会いましょう。いいわね修」


 希の声が電話越しに響いた。

 その口調には、いつもの優しさとは違う、有無を言わさぬ強さが込められていた。

 ボクは反射的に首を横に振る。


「いや、いいよ。それに希は女の子だ。こんな時間に外を出歩くのは……」


 言い訳じみた言葉を並べるけれど、希はまったく動じない。むしろ呆れたような息遣いが聞こえてきた。


「霧院流柔術師範代を舐めないでくれる? 武術経験者がダースで襲ってくると言うのなら、念のため薙刀も装備していくけどどうする?」


 希の言葉に、ボクは返す言葉を失った。

 確かに希の実力は知っている。

 全国大会でも常に上位入賞を果たしているし、下手な男の人よりずっと強い。


「おい凪〜。お前希の性格知ってるだろ? お前と同じでこうなったらテコでも動かねぇぞ。でもまあ、今回は俺も希に賛成だな。通話のアバターじゃあ伝わらなないこともあるからな」


 修が苦笑いを含んだ声で希に同意した。

 確かにその通りだった。希は一度決めたことは絶対に曲げない。

 断るのは難しそうだった。

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