チャプター17 夜の公園
7月の夜の公園にはわずかに涼しい風が吹いていた。
昼間は茹だるような暑さだが、夜になると少しだけ涼しい風が吹く。
街灯の光が作る影の中で、ボクはブランコに腰掛けて軽く揺れながら2人を待っていた。
チェーンが軋む音が、静かな公園に響く。
どこかの家から漏れるテレビの音。
そんな日常の音に混じって、聞き慣れた声が近づいてきた。
コンビニの袋をぶら下げた2人の姿が、街灯の下に現れる。
「おーまたせな! ほらよ!」
「うわっとっと!」
修が投げてよこしたペットボトルが、思ったより勢いよく飛んできた。
ボクは慌てて両手を伸ばし、なんとか胸の前でキャッチする。
冷たい水滴が手のひらに触れて、ひんやりとした感触が伝わってきた。
「待たせたわね」
希が隣のブランコに腰を下ろす。
チェーンが揺れて、金属同士がぶつかる音が鳴った。
修は、ボクに対面するように、ブランコを囲むガードフェンスに腰掛ける。
2人ともTシャツにハーフパンツというラフな格好だ。
希の髪は無造作に結ばれていて、修のシャツは少しシワが寄っている。おそらく急いで来てくれたのだろう。
「ありがとうね。2人とも」
ボクは素直に頭を下げる。夜中に呼び出したことへの申し訳なさと、それでも来てくれた感謝の気持ちを込めて。
「なんだかしこまって。夜遊びは夏休みの醍醐味だろ?」
修はふざけてウインクをする。片目を閉じて、人差し指でボクの額を軽く叩く仕草。恐ろしくキザな行為だが、それが似合ってしまうのが修だ。
整った顔立ちと、どこか憎めない雰囲気が、その行動を自然なものにしてしまう。
クラスの女子がみたら、黄色い声が上がるだろう。
実際、学校ではそんな光景を何度も目にしている。
「で、この数時間で何があったか教えてもらおうかしら」
希の声が放たれた。その切先は鋭い。
彼女の瞳は冷たく光り輝いた。
その視線から逃れようと、ボクはわずかに俯いた。
VR2120の時間軸では、希と別れてからまだ数時間しか経っていない。
でも、ボクの体感時間は違う。
神崎くんに腹部を何度も刺され、冷たいナイフが内臓を抉る感触。血の味が口の中に広がり、視界が暗転していく恐怖。
その中でこの世界の正体に気づいてしまった。ここは現実ではない。精巧に作られた仮想現実──VR2120。
本当の世界は300年後の、文明が崩壊した塵界なのだ。そしてボクは2ヶ月間、塵界で過ごしてきた。
ボクの中で、世界の見え方は根底から覆された。
希にはボクの状況はわからないだろう。でも、彼女は確実に何かを感じ取っている。
長年の付き合いがそうさせるのか、それとも彼女特有の鋭い勘なのか。
「それは……」
ボクは言葉を濁した。喉の奥で声が引っかかり、上手く音にならない。
何から話せばいいのだろう。頭の中で言葉がぐるぐると回り、まとまりを失っていく。
この世界は仮想現実で、本当の世界は300年後の塵界だと伝えるべきか。
それとも神崎くんというクラスメイトがかつて存在し、ボクは彼に刺されて死ぬ寸前のところで世界が巻き戻されたのだと語るべきか。
ダメだ。どれも荒唐無稽すぎる。
実際に体験したボクですら、まだ完全には信じ切れていない。
ましてや、何も知らない希が信じるはずもない。下手をすれば、ボクの精神状態を心配されるだけだ。
それに、もう一つ大きな懸念があった。
神崎くんが消された件だ。この世界──VR2120は人間を、その存在ごと消し去る力がある。記録からも、まるで最初からいなかったかのように。
何を基準に人を消すのか分からない。
ボクが再生された理由も分からない。
何が引き金になるのかも。
ただその行為は、恣意的だったように感じる。
自分の意図に合わなくなった神崎くんを邪魔に感じて消したかのような。
もし世界の管理者のような存在がいて、全てを監視しているのだとしたら。
ボクがここで世界の秘密を安易に話すことを、快く思うはずはない。
話を聞いた二人も何をされるか分からない。記憶を消されるだけでなく……もっと恐ろしいことが起きるかもしれない。
「俺たちに言えないってことか?」
俯くボクに向けて、修の声が降ってきた。
視線を感じて恐る恐る顔を上げると、修がこちらを見ていた。
「ごめん……」
ボクの口から漏れた言葉は、公園の静寂に溶けていった。
話す訳にはいかなかった。二人を巻き込むことなんてできない。
「修、あなたまた……」
「分かってるっつーの。同じ轍は踏まねーよ」
希の指摘に、修は肩をすくめた。
空気が緩む。
彼は飲み終えたペットボトルを軽く手の中で回転させると、公園の隅に設置されたゴミ箱めがけて投げた。
ペットボトルは綺麗な放物線を描いて、まるで吸い込まれるようにゴミ箱の中へと消えていった。いつもながら見事なコントロールだ。
「凪は意味もなく隠すやつじゃねぇ。何か理由があるんだろ?」
修の言葉には、ボクへの信頼が込められていた。
「そうね。それを私たちに話せないってのが少し業腹だけど」
希は笑みを深めて、ボクにウインクをする。
そんな満面の笑みで言われたら、逆に怖いですって。
胸が締め付けられるような思いだった。
二人は本気でボクのことを心配してくれている。
「ごめんね。2人とも」
ボクは再度頭を下げた。
ままならないことばかりだ。
足が地面に根を張ったように動かない。息をするのさえ苦しくて、胸の奥が締め付けられる。
神崎くんが炎上したことも、塵界に連れ去られてモンスターと戦う生活を余儀なくされたことも、そしてVR2120が偽物だと気がついたことも。
全てボクの力ではどうにもならないことだ。
スケールが大きすぎる。
まるで巨大な波に飲み込まれるように、ボクは押し流されるばかりだ。
小さな石ころが激流に逆らえないように、ボクもまた無力だった。
ボクに何ができると言うのか。
逆に、ボクが動いたら状況が悪化するのではないか。
その思いが体をさらにすくませる。
「なあ凪。相馬悠人のこと、覚えているか?」
修が遠くを見つめながら、ぽつりとそう言った。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
ボクは思わず唇を引き結び、視線を落とす。
相馬悠人。小学生の頃、ゲーム配信をしていた男の子だ。
悠人は自分の部屋から、誰に頼まれるでもなく、ただ好きなゲームをプレイする様子を世界に向けて発信していた。
悠人はもともと人付き合いが得意な方ではなかったし、配信を見に来る視聴者もほとんどいなかった。
コメント欄はいつも静まり返っていて、たまに書き込まれるのは心ない野次ばかりだった。
それでも悠人は配信をやめなかった。
ボクはそんな彼の姿を画面越しに見て、素直に思ったのだ。
自分も手伝いたいと。
彼はゲームの世界で楽しそうだった。時々見に来てくれた視聴者と、一生懸命コミュニケーションを取ろうとしていた。
気がつけばボクは悠人に声をかけ、配信の裏方を手伝うようになっていた。
サムネイルを作ったり、配信の告知文を考えたり。
些細なことだったけれど一緒に作業をしている時、悠人は嬉しそうに笑ってくれた。
「貴方って、結構誰とでも仲良くなる才能があるわよね? 相馬くんと仲良くなり出した時、結構クラスでは話題になったのよ」
「訳のわからない突破力があんだよ。凪は。でも、傍観者だった俺らと違って凪は関わったんだ。自分の意思で」
修が苦笑しながら言う。
一年近く、悠人とのゲーム配信は続いた。
最初は再生数なんてほとんどゼロで、コメントもつかない日々が続いた。
それでも悠人は楽しそうだった。ボクも、画面越しに誰かと繋がれているような気がして、悪くないと思っていた。
登録者が十人に増えた時、悠人は大げさなくらい喜んでいた。
たった十人。でも、ゼロじゃない。
ボクたちの声を聞いてくれる人が、確かにそこにいた。
二人で画面を見ながら、馬鹿みたいにはしゃいだあの夜のことを、今でも覚えている。
だが、悠人が病気になって、唐突に配信は終わりを迎えた。
見舞いに行った時の光景が、不意に蘇る。
白い病室。消毒液の匂い。ベッドの上に座った悠人は、ボクの方を振り向かず、窓の外をじっと眺めていた。
その背中は、いつもより小さく見えた。肩甲骨の形がわかるくらい、痩せていた。
何か言わなきゃと思ったのに、言葉が出てこなかった。
ボクはただ、その背中を見つめることしかできなかった。
「楽しかったなぁ。続けてたら、どんな景色が見られたのかなぁ?」
最後に聞いた言葉が、今も耳元で囁かれる。
あの時、ボクは何と答えたんだっけ。
いや、何も答えられなかったんだ。
窓から差し込む午後の光が、悠人の輪郭をぼんやりと照らしていた。
その光景だけが、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「相馬くんが亡くなって、凪は本格的にロストアビスを始めたのよね?」
希が伏目がちにそう言った。その声は、古い傷跡に触れるような慎重さを帯びていた。
悠人の死は小学生だったボクたちに衝撃を与えた。
まだ11歳だった子供にとって、同級生の死というのは、あまりにも現実離れした出来事だった。
ロストアビスを始めた理由は、ボク自身にもよくわからない。ただ、何かをしなくちゃと思ったのだ。
じっとしていられなかった。
悠人と一緒に求めた楽しさを、悠人が見られなかった景色を見ようとしたのかもしれない。
あいつが夢中になって語っていたロストアビスの世界。
その先に何があるのか、この目で確かめたかった。それが、残されたボクにできる、せめてもの──。
ボクは小さく息を吐いた。言葉にならない感情が、胸の奥でわだかまっている。
「お前の配信は輝いてたよ。本当に」
ため息をつくように修が言った。
その声には、責めるような響きはない。ただ、事実を伝えようとする静かな熱があった。
「希ともあの後話してたんだ。お前が色々あって配信をやめちまって。チャンネルの規模が大きくなれば、嫌な思いをする。悪意のある奴が近づいてくる。そして凪自身ではコントロールできない事態も起こる」
修の言葉の中には神崎くんの名前は出てこなかった。やはり記憶は消えている。
でも状況としては、正しい。
ボクは、逃げ出したのだ。自分が害を加える側になってしまうことを恐れて。
誰かを傷つけるくらいなら、何もしない方がいい。そう思って、すべてを手放した。
「……」
言葉が出てこない。何を言えばいいのかわからなかった。
黙り込むボクをそのままに、修が言葉を続ける。
「昼間も言ったろ? あんな暴露から炎上なんて、予想できるもんじゃない。でも、それ以上にお前のチャンネルはそれだけじゃなかっただろ?」
「私たちは、誰も傷つかなかった、なんて言うつもりはないのよ」
希が静かに、でもはっきりとした声で言った。
「凪の配信に傷ついたり、苦しむ人もいるかもしれない。でも違う側面もあると思うの」
そう言って、希が紙の束を取り出した。何枚もの紙がクリップで留められている。
それをボクの手に押し付けるように渡してくる。
受け取った紙束に目を落とすと、そこには見覚えのある画面がプリントされていた。
今は活動していないボクのチャンネル。そのコメント欄が印刷されていた。
二人が用意してくれたのだ。
『早く帰ってきてください』
『はよ復帰よろ』
『曝生者の活躍をもう一度でいいから見たいです! 待ってます!!』
「これは……」
思わず声が漏れた。ページをめくると、様々な言葉が並んでいた。
中には煽るようなコメントもある。心無い言葉や、からかい半分の書き込みも目に入る。
でも、それよりもずっと多くの言葉が、応援や復帰を望むものだった。
一つ一つの文字が、ボクに向けられた誰かの想いなのだと思うと、紙を持つ手が小さく震えた。
「お前がやったことは、無駄だとは俺には思えない」
修の視線がボクを射抜いた。
「答えを出す必要はないわ。ただどこから来たかだけは、忘れないでね」
紙束を胸に抱えたまま、ボクはしばらく動けずにいた。
喉の奥が詰まったようで、息を吸うのも忘れていた。
怖さが、消えたわけじゃない。
人前に出ることを想像するだけで、胸の内側がひりつく。
また誰かがボクの行いによって傷付くだろう。
また、自分の知らないところで、取り返しのつかない何かが起きるかもしれない。
「それでも……」
不意に言葉が出ていた。
指先に残る紙の感触が、現実を繋ぎ止める。
何もなかったわけじゃない。
「人前に出るのは、正直、まだ怖いよ」
正直な気持ちを伝える。
修も希も、何も言わなかった。
否定も、肯定もない沈黙が、そこにあった。
ボクは、ゆっくりと息を吐く。
でも──。
逃げ出したい、とは思わなかった。
人前に出るのは無理でも、できることをやるんだ。
「……2人を助けるために」
ボクは小さく口の中で囁いた。
拳を握りしめ、その言葉に力を込める。
修と希がVR2120に存在している限り、管理者の影は消えない。
いつか気まぐれに、二人が切り捨てられる──そんな可能性が、常にそこにある。
その不安を抱えたまま、何もしないでいるのは嫌だった。
なら。
二人を塵界に救い出してしまえばいいのだ。ボクと同じように。
方法は分からない。
二人がそれを望むかどうかも、まだ分からない。
でも、それを考えるのは今じゃない。
まず知ることだ。
VR2120と塵界が、どう繋がっているのか。
そこに手を伸ばせる余地があるのか。
ボクは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
思考が、少しずつ一本にまとまっていく。
──そのためには。
「強く、ならなきゃ、だよね?」
その言葉を噛みしめるように呟いた。
ただ、塵界で生き残るためだけでは足りない。
VR2120のことは藤十郎さんも知らなかった。
つまり塵界の中でも既知の領域には情報はない。
誰も踏み入ったことのない未踏の領域に足を踏み入れ、自らの手で情報を掴み取る力。
どんな困難にも立ち向かい、状況を打開するための圧倒的な力が必要だ。
そしてその糸口にボクは気がついてしまった。
塵界で毒島にやられる寸前、死の淵で偶然開いたユーザーインターフェース。
あの時、ボクの目に飛び込んできた情報。
それは今まで見落としていた、重要な何かを示していた。
今すぐに帰って試す必要がある。
「大丈夫そうね?」
「ああ。こうなった凪は強いぞー」
ボクの顔を覗き込んだ希が安堵の表情を浮かべ、修も腕を組みながら愉快そうに笑った。
ブランコから立ち上がると、砂を踏む音が静かな公園に響いた。
ボクは二人の前に立つと、背筋を伸ばして深々と頭を下げた。
髪が顔にかかるのも構わず、しばらくその姿勢を保つ。
二人のおかげで、胸の奥でくすぶっていたもやもやが晴れていくのを感じていた。
本当に、二人は最高の親友だ。
「本当にありがとう」
「ああ、行ってこい。具体的な状況が話せるタイミングになったら、是非聞かせてくれ」
「まったく、気長に待つとするわよ」
苦笑を浮かべながら肩をすくめる二人に、ボクははにかむ。
「うん。必ず」
公園を後にする足取りは、来た時よりもずっと軽い。
夜の街を歩きながら、ボクは考えを巡らせた。
なぜかVR2120に戻ってこれた。それは間違いなく僥倖だった。
おそらくこの幸運は永続的なものじゃない。またどこかのタイミングで、塵界に引き戻されることになるだろう。
だからこそ、与えられた時間を一秒たりとも無駄にはできない。ボクは歩調を速めた。
アパートの扉を開けると、見慣れた部屋の中央に鎮座するアポカリプスプラネットの筐体が目に入った。
ボクは迷うことなくその中に身を横たえ、慣れた手つきで電源スイッチに手を伸ばした。
起動音とともに、意識が別の世界へと吸い込まれていく。




