決めるのはお前だ
樫の足跡は、城下の古道具屋の前で途切れていた。
間口の狭い店だった。軒先に錆びた鍋や、柄の折れた鍬や、秤の皿が吊るされている。ノノが耳を回し、店の奥を指さした。
「あそこっす。匂いが同じっす。樫と、真鍮と、油っす」
店先の棚の、使い古した工具の山の中に、小さな人形が座っていた。
麦わら色のおかっぱ頭に、額に跳ね上げた丸いゴーグル。半袖のシャツに吊りズボン、腰に工具帯を巻いて、前掛けをしている。頬に油の汚れ。膝の上に石板を抱え、その上に細かい字がびっしり書かれていた。
足首に、色あせた値札が下がっている。銀貨八枚。
人形は俺を見るなり、石板を抱えたまま棚から飛び降りた。
「あっ、あの、昨日の! 廃棄場の! 整備の人!」
「オルトだ」
「知ってます! オルト・グレン! ギルドの閲覧室の手順書、表紙に名前が書いてあります!」
石板を、ずいと突き出された。
白蝋油の温度。関節の受け口の拭き方。砲身の錆の落とし方。昨夜、柵の外から見ていた整備台の工程が、俺の手順書の頁番号つきで写されていた。
「手順書、全部写しました! 持ち出せないので、毎日閲覧室に通って、四百十二頁、一年と三か月かかりました。でも字だけだと、分からないところがあって。手の角度とか、待つ時間とか。だから、見に行きました。……勝手に、ごめんなさい」
「あれは、見られて困るものじゃない」
人形の顔が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ、それ、その鞄! 見せてください!」
店の奥から、腰の曲がった婆さんが出てきた。
「うるさいと思ったら。お客さんかい」
「いや。この子の話を聞きに来た」
「ああ、この子ね」
婆さんは値札をつまんで笑った。
「この子はね、店を継いだ時から、この棚に座ってた。先代の話じゃ、どこかの工房の整備見習いだったらしい。売り物にしたことは一度もないよ。値札はね、客よけさ。『ください』って言われたら、この子に聞いて、この子が嫌だって言うから、ずっとここにいる」
「嫌だって言ってたのか」
「ぼく、道具を磨くのが好きなんです。ここは道具がいっぱいあるから」
人形は石板を胸に抱えて、それから、俺の整備鞄を見た。
「でも、ここの道具は、磨くだけです。直す相手がいないんです」
言いたいことは、聞かなくても分かった。けれど、それを俺が先に言うわけにはいかない。
人形は、自分で言った。
「ぼくを、弟子にしてください」
「なんでだ」
「整備の人がいなくなったら、合わない油のまま動かされる子が出ます。騎士団から捨てられた四十八体みたいに。ぼくが覚えたら、その分だけ、差してもらえない子が減ります」
婆さんは黙って、腕を組んでいた。口を挟むつもりはないらしい。
俺は、騎士団の整備庫に入った日のことを思い出した。十四の俺に、先代の整備長は何も約束しなかった。ただ、一つだけ言った。
「決めるのはお前だ」
俺は、同じことを言った。
「嫌なら、辞めていい。いつでもだ。辞めても、手順書は閲覧室にある。お前が写した石板も、お前のものだ」
人形は、石板を抱いた手に力を込めた。ゴーグルの下の空色の目が、まっすぐ俺を見ていた。
「決めました」
婆さんが、足首の値札の紐を、ぷつりと切った。
「チコ、って呼んでやんな。先代がそう呼んでた。この子も、それがいいって言ってる」
「チコです!」
チコは、自分の胸をスパナの柄で叩いた。
「よろしくお願いします、師匠!」
廃棄場に戻ると、グレタの二連砲が、ちょうど定期の手入れの日だった。
「チコ。手順書のとおりにやってみろ。俺は口を出さない」
「は、はい!」
チコはまず、グレタの前に立って、深く頭を下げた。
「開けていいですか!」
「いいよ! ……ねえオルト、この子、ちゃんと聞くんだね」
「手順書の一頁目に書いてある」
チコは石板を横に立てかけ、頁番号を指でなぞりながら、一つずつ進めた。
砲身をフレームから外す留めピンが、固くて回らなかった。チコの腕は細い。両手でスパナを握って、顔を真っ赤にしても、ピンは動かない。
俺は、手を出さなかった。
チコは石板を見た。指が、頁の端の小さな注記の上で止まる。
「……『固い時は、柄の長いスパナに替える。力で回さない』」
工具箱から、柄の長いスパナを引っぱり出した。てこの長さが倍になれば、要る力は半分になる。ピンが、きゅっと鳴って回った。
「回りました!」
砂を混ぜた油で、砲身の内側を磨く。錆が赤い泥になって流れ出る。磨き終えたら白蝋油を薄く引く。照準の鈴の軸の座金を確かめる。
俺がやれば三十分の工程を、チコは一時間半かけてやり遂げた。途中で一度、白蝋油を多く引きすぎて、自分で気づいて拭き直した。
「セラフィナ。見てくれ」
セラフィナが望遠のレンズを砲口に近づけ、しばらく中を覗いた。
「……磨き残し、ありませんわ。むしろ、あなたより丁寧かもしれなくてよ、整備士」
「そうか」
グレタが二連砲を背負い直し、肩を回して、振り返った。
「オルト。ぶっ放していい?」
許可を待つようになってから、三週間になる。
「丘の向こうの、錆びた兜。三百歩だ」
「了解っ!」
砲声が一つ。三百歩先の兜が、宙に跳ね上がった。
「当たった! チコ、当たったよ! チコが磨いたやつで当たった!」
チコは口を開けたまま固まっていた。それから、石板を抱えて、その場にしゃがみこんだ。
「ぼく、師匠が触らなくても、できました」
「手順書どおりにやれば、誰でもできる。そう書いたつもりだ」
「……はい!」
手順を秘密にしないのは、俺ひとりが倒れたら終わる整備を、十年やってきたからだ。騎士団は、それを「誰でもできる仕事」と呼んで、俺を追い出した。誰でもできるように書いたのは、俺だ。
その夕方、ロッテがチコの頬の油を拭いてやりながら聞いた。
「あらあら。チコちゃんは、刻むの? 登録板に」
チコはぶんぶんと首を振った。
「まだです! 登録は、一人前になってから、自分で刻みます。今刻んだら、師匠に甘えちゃうので」
「それでいい」
俺が言うと、チコは胸を張った。イリスが、ほんの少しだけ口の端を動かした気がした。気のせいかもしれない。
それから六日、チコは毎晩、当番表の三十分に張りついた。
イリスの肘のときは盾の重さに驚き、ノノの足の裏のときは真鍮の厚みを自分の爪で測り、ロッテの手首のときは、六度待った夜の話を聞いて石板の端に書き足していた。セラフィナのレンズには、まだ触らせてもらえない。
「中期型は工程が多いのですわ。見習いが触るのは、百年早くてよ」
「百年……ロッテさんと同じくらいですか!」
「そ、そういう意味ではありませんわ!」
ロッテが鍋の前で、あらあら、と笑っていた。
審問の前の晩、廃棄場の門に客が来た。
あの日、ぬかるみに尻もちをついた元従騎士だった。フランツ、と名乗った。明日の審問で証言する前に、話を合わせに来たという。
「話を合わせる必要はない。見たことだけ話せばいい」
「……そう言われると思いました」
フランツは苦笑して、番小屋の戸口に腰を下ろした。
「副団長が台帳を書き換えた夜、俺は当直でした。燭台を持たされて、横に立ってた。それだけ話します」
「それでいい」
「あと、これは証言じゃないですけど」
フランツは声を落とした。
「今週、また二人やめました。これで七人。残った連中も、新型の関節の交換ばっかりで、剣を振る暇がないって。依頼は来ないし、来ても新型が途中で止まる。俺がやめた時より、ひどくなってます」
七人。整備庫の人間は俺一人だったが、騎士団の人間は七人減った。
フランツが帰ったあと、俺は四十八枚の写しと記録帳と、四枚の引き取り証を、一つの鞄にまとめた。
明日、審問院へ行くのは、俺と、四体だ。
イリスが、ランプの下で盾を磨いていた。当番表の順番ではない。自分で磨いていた。
「主殿」
「なんだ」
「審問では、私が最初に話します」
手を止めずに、イリスは言った。
口数の少ない人形だった。十年、俺は彼女が三言以上続けて話すのを、ほとんど聞いたことがない。
「……いいのか」
「はい。私が、決めました」
(第10話へ続く)




