今日は私の番
消された名前を、俺は書き直さなかった。
書き直すのは簡単だ。けれど消したのはロッテ本人で、消したことには理由がある。理由が分からないうちに書き直せば、それは俺が勝手に開けるのと同じことになる。
「オルトさん、書き直さないんすか」
ノノが板の前で耳を傾げた。
「書き直さない」
「なんでっすか」
「本人が書くまで待つ」
「狙撃の一番さんの時みたいにっすか」
丘の上の整備台の脇で、セラフィナが聞こえないふりをしていた。
それから十日ほど、当番表は四人で回った。
ロッテは相変わらず、朝は鍋をかき混ぜ、昼は丘の人形たちに油を差して回った。ただ、油差しの小瓶を持つ手が、右から左に変わっていた。右の手首は、ほとんど曲がらなくなっている。一度、油を注ぎ損ねて、エプロンに大きな染みを作っていた。
「ねえロッテ。手、痛いの?」
グレタが真っすぐ聞いた。こういう時、遠慮というものを知らない人形は役に立つ。
「あらあら。人形は痛くなりませんよ」
「じゃあ、固いの?」
「……少しだけね」
ロッテはそれ以上言わず、次の人形の肘へ向かった。
その週の公報を、グスタフ爺さんが番所の壁に貼り出した。先週は載らなかった騎士団の欄が、今週は戻っていた。
稼働率、68%。
下に団長の談話がある。「新型への移行に伴う一時的な調整期間であり、問題はない」。
「膝を替えたら、今度は肘だとさ」
爺さんが煙を吐いた。
「交換した膝が重くなった分、肘に無理がかかるんだと。工房に頼んだら、肘の交換はまた別料金だそうだ」
98、91、79、68。整備庫を出た日から、ひと月で三十ポイント。もう「一時的」と言える幅ではない。
番所から戻ると、当番表の板の前で、グレタとノノがこそこそしていた。グレタの手に炭がある。
「何をしてる」
「あっ。えっと、ロッテの名前、あたしたちで書いちゃおうかなって」
「ノノが見張りっす。ロッテさん、今、丘の向こうっす」
「やめておけ」
グレタが口を尖らせた。
「なんで。ロッテ、手が固いんでしょ。オルトに見てもらえば治るんでしょ」
「治るかどうかは開けてみないと分からない。それに、開けるかどうかは本人が決める。お前が撃つ前に待つのと同じだ」
グレタは炭を見て、板を見て、それから炭を俺に渡した。
「……じゃあ待つ。むずむずするけど」
「ノノも待つっす。でも、ロッテさんが書いたら、一番に教えてほしいっす」
「約束はしない。代わりに、記録帳に書く」
「それ、オルトさんの口癖っす」
口癖にしたつもりはなかった。
その夜、当番表の最後はイリスだった。
盾の腕の留め具に油を差し、三十分が終わって、イリスが整備台を降りた。ランプの火を落とそうとした時、背後で籠を下ろす気配がした。
振り返ると、ロッテが立っていた。
背負い籠を、足もとに置いていた。この廃棄場に来てひと月、俺は彼女が籠を下ろしたところを、一度も見たことがなかった。
「坊や」
「ああ」
「今日は、私の番にしてください」
エプロンの前で重ねた両手のうち、右手だけが、指を伸ばしきれずに曲がっていた。
「板の名前を消したのは、私です。ごめんなさいね」
「理由を聞いてもいいか」
ロッテは少し考えてから、整備台の端に腰を下ろした。
「番を持ったら、誰かの番を減らすことになると思ったんです。この子たちの三十分を、私が一つ使ったら、その夜は誰かが待つことになるでしょう。百年、ずっとそうでした。油は足りなくて、手は二本しかなくて。誰かに差したら、誰かに差せなかった」
だから、自分に差す分は、いつも後回しにした。後回しにして、それが百年続いた。
「でもね」
ロッテは、壁の当番表を見た。
「イリスさんが、あの板の前で言ったでしょう。今夜の最後は、明日は一番へ。誰も、ずっと最後にはならない。それを聞いてから、ずっと考えていたんです。私は、ずっと最後でいたかったのかしらって」
答えは、聞かなくても分かった。
「開けていいか」
「ええ。お願いします」
手首の継ぎ目を覆う薄い外装を外すと、中は想像より悪かった。百年分の油と埃が、層になって石のように固まっている。歯車の歯と歯の間に、それが詰まっていた。
力で回せば、歯が折れる。
小鍋で白蝋油を人肌より少し熱いくらいに温め、筆で継ぎ目に染み込ませる。それから一刻待つ。待ってから、指で一度だけ、爪の幅ほど回してみる。回らなければ、また染み込ませて、また待つ。
「朝までかかる」
「あらあら。私、百年待ったんですよ。一晩くらい」
一度目は、動かなかった。
ノノが毛布を抱えてやってきて、何も言わずにランプを持つ役を始めた。グレタは小鍋の下の炭火に、ふうふうと息を吹きかけて番をした。
二度目も、動かなかった。
セラフィナが丘から降りてきて、整備台の横に片膝をついた。左目の望遠レンズが、ロッテの手首に向けられる。
「整備士。二つ目の歯車の、右下。そこだけ、層が薄いですわ。油はそこから入れたほうがよろしくてよ」
見えていなかった。彼女のレンズでなければ見えない距離だった。言われたところから筆を入れる。
三度目で、爪の幅の半分だけ動いた。
イリスは番小屋の戸口の外で、盾を立てて夜番をしていた。一度も中を振り返らなかった。振り返らないことが、彼女なりの付き添い方なのだと思った。
四度目。五度目。ロッテは、そのあいだずっと話していた。雨の多かった年のこと。冬に止まってしまった子たちのこと。止まった子の名前を、今でも全部言えること。
「数えるのを百でやめたのはね。百を過ぎたら、数えるより、次の子に油を差したほうがいいと思ったからなんです」
東の空が白みはじめた頃、六度目の油を染み込ませた。
一刻待って、指をかける。
手首が、回った。
爪の幅ではなかった。くるりと一周。歯車の歯が、百年ぶりに正しい相手と噛み合う、澄んだ手応えがした。
ロッテは自分の右手を目の前にかざし、指を一本ずつ開いて、閉じた。
「……あらあら」
もう一度、開いて、閉じる。それから、手のひらを返して、甲を見た。百年分の染みのついた、古い外装の甲を。
「自分の手が、こんなふうに動くのを、忘れていました。人の手首に油を差す時、いつも自分の手首がどう動くか、思い出そうとしていたんですよ。思い出せないまま、差していました」
「これからは、毎晩三十分見る」
「毎晩」
「当番表に名前があればな」
ロッテは、ふふ、と笑った。ノノがランプを持ったまま、毛布の中で鼻をすすっていた。人形は泣かない。泣かないはずの人形が、泣くような仕草をすることはある。
ロッテが立ち上がり、足もとの籠を背負う。枠が開き、古い銅色の補助腕が二本、するすると伸びた。軋みは、もうどこにもなかった。
補助腕が、番小屋の脇に倒れていた城門の鉄骨を持ち上げた。俺がここへ来た日、イリスの目の前に崩れてきたのと同じ鉄骨だ。ひと月、誰も片付けられずにいたそれを、ロッテは三本まとめて、丘の端にきれいに積み直した。
「すごっ! ロッテすごっ!」
グレタが炭火の番を放り出して跳ねた。
その時、俺は外装を戻そうとして、手首の継ぎ目の内側に目を留めた。
刻印があった。
工房の刻印は、どの人形にも必ずある。白磁のリュネなら月の紋。鋼鈴のグラウベルなら鈴と歯車。硝子のヴィトレアは六角のプリズム。樫と真鍮のオークモントは樫の葉。黒曜のノクティスは黒い菱。十年で、全部見てきた。
そのどれでもなかった。
細い線が幾重にも重なった、読めない模様。文字のようでもあり、ただの傷のようでもある。
「ロッテ。お前、どこの工房の生まれだ」
「さあ。覚えていないんです。ずいぶん昔のことですから」
嘘をついている顔ではなかった。俺は炭をこすりつけて模様を紙に写し取り、記録帳に挟んだ。分からないものは、分からないと書く。それも手順のうちだ。
ロッテは、エプロンの上の古銅のボタンを一つ外した。
「坊や……いえ」
少し言い直して、彼女は俺を見た。
「オルトさん。少しだけ、後ろを向いていてくださいな。恥ずかしいので」
俺は後ろを向いた。背中で、細い刻み針が磁器ではない何かを削る、柔らかな手応えの気配がした。長い時間ではなかった。
「もう、いいですよ」
振り向くと、ロッテはボタンを留め直して、当番表の板の前に立っていた。炭を取り、輪番のいちばん下に、自分で書き足していた。
ロッテ。
今度は、消さなかった。
その日の昼、門に早馬が着いた。
騎士団の伝令だった。馬から降りもせず、封書を一通、グスタフ爺さんの手に押しつけて、すぐに引き返していった。
白獅子の封蝋。宛名は、オルト・グレン。
開くと、一行目に太い字でこう書いてあった。
所有権確認の訴え。騎士団備品たる人形四体の返還を求む。
(第8話へ続く)




