名を刻む
「廃棄したのは団だ」
俺は馬の鼻先に立ったまま言った。
「俺は番所で、一体銀貨二枚で引き取った。証文もある」
「廃棄しようが、備品は備品だ」
団長は白手袋の指で、俺の後ろのイリスを指した。
「欠陥品を拾って動くようにしたのなら、それは騎士団の備品が直ったということだ。功績は団のものだ。お前のものではない」
十年、同じ理屈を聞いてきた。俺が直せば団の功績で、壊れれば俺の怠慢だった。
「明朝、副団長を回収に寄越す。逃げるなよ、油臭いの」
狼を一頭撃ち落とした話は、団長の耳には入らなかったらしい。入っても同じだっただろう。三騎は来た時と同じように、松明を揺らして門へ戻っていった。
その夜、イリスの盾の縁をやすりで均した。狼の爪の傷は浅い。白磁の表面を三度に分けて削り、金の継ぎ目にかからないところで止める。
イリスは作業のあいだ、ひと言も喋らなかった。最後に一度だけ、口を開いた。
「オルト殿。明日、私たちはどうなりますか」
「どうするかは、お前たちが決める。俺は引き取り証を見せる。それだけだ」
「……了解」
ランプの火を落とす前に、彼女が自分の襟元に手をやるのが見えた。留め金に触れ、外さずに、離した。
番小屋の隅では、ノノが毛布をかぶって丸くなっていた。耳だけが外に出て、ときどき門のほうへ回る。
「眠れないのか」
「寝てるっす。寝てるふりしてるっす」
ロッテが、湯気の立つ鍋を持ってきて、ノノの横に座った。人形は湯を飲まない。けれど、鍋の縁で手のひらを温めることはできる。
「あらあら。明日のことは、明日の朝の自分に任せなさいな。ここの子たちは、みんなそうやって百年……いえ、ずいぶん長いこと過ごしてきたんですよ」
「ロッテさんは、誰かに回収されそうになったこと、あるっすか」
「ありませんねえ。私は、誰の台帳にも載っていませんから」
ロッテはそう言って笑った。その笑い方が、少しだけ寂しそうに見えたのは、ランプの加減だったのかもしれない。
翌朝、副団長ルドルフ・ケスラーが来た。
痩せた体に灰色の騎士服、丸眼鏡。胸に分厚い帳簿を抱えている。後ろには従騎士が四人と、鎖を積んだ荷車が一台。荷台の隅に、騎士団の封蝋を押した木の札が束になっていた。命令札だ。登録板が空欄の人形の首に掛けると、札に書かれた命令だけを聞くようになる。
「グレン殿。朝早くから失礼」
副団長は帳簿を開き、指で行をなぞった。
「盾の三番、斥候の二番、狙撃の一番。台帳上は、三体とも『修理のため外部預け』となっております。預かり期間は昨日で満了。本日回収いたします」
「廃棄の台帳だったはずだ」
「昨夜、訂正いたしました」
丸眼鏡の奥で、目が少しも動かなかった。
「数字は整えておきます。それが私の仕事ですので」
番所から、グスタフ爺さんが自分の控え帳を抱えてやってきた。
「わしの控えには、半年前から四十八体、騎士団の廃棄で受け取ったと書いてある。受け取りの印もある。昨夜の訂正なんぞ、こっちには届いとらんぞ」
「番所の控えは、騎士団の台帳に優先しません」
「わしの控えは王都の控えだ」
「では、それは法の場で」
副団長は帳簿を閉じた。
「回収を」
従騎士たちが命令札を手に、前へ出た。
一人がノノの腕をつかんだ。ノノの耳が、ぺたりと寝た。笑おうとして、笑えていなかった。足が、その場に縫いつけられたように動かない。
白い影が、その間に入った。
イリスの大盾が、従騎士の胸を平らに押した。叩いたのではない。押しただけだ。従騎士は三歩後ろへよろけ、ぬかるみに尻もちをついた。鎧に泥がついただけで、どこにも傷はない。
「備品が人に手を上げた」
副団長が帳簿に何か書きつけた。
「欠陥の証明が一つ増えましたな」
「本人に聞け」
俺は言った。
「行きたいかどうか、本人に聞け。聞いて、行くと言ったら俺は止めない」
「備品に聞く口はありません」
「口なら、あります」
イリスだった。
盾を地面に立てたまま、彼女は副団長をまっすぐ見た。金色の瞳の同心円が、一度だけ絞られた。
「登録板が空欄の人形は、備品として命令札で動かせる。騎士団ではそう習いました。では、空欄でなければ」
彼女は右手の白手袋を外し、襟元の留め金に指をかけた。昨夜、外しかけてやめた留め金だった。
「オルト殿。刻んでよろしいですか」
「お前が決めることだ」
「決めております。これは、確認です」
立て襟が開く。鎖骨の少し下に、手のひらほどの白磁の登録板がある。十年、何も刻まれていない板だ。
白い指先が、そこに触れた。人差し指の先から細い刻み針が出て、磁器の表面を削る。一画ずつ。ためらいはなかった。オルト・グレン。最後の点を打ってから、彼女は指を離し、襟を元どおりに留めた。
「本日より、主殿とお呼びします」
俺は何か言おうとして、言葉が出なかった。十年、油を差してきた板に、俺の名が刻まれている。
「主殿。返事を」
「……ああ。よろしく頼む」
「……了解」
従騎士の一人が、命令札を持ってイリスの首に掛けようとした。札の封蝋が、白く濁ったまま灯らない。もう一枚を、ノノの首に。こちらも灯らない。ノノの登録板には、八日前に彼女自身が刻んだ、少し曲がった名がある。
札が効かない、と従騎士が裏返った声で副団長に告げた。
残るのは一体。三人目の従騎士が、丘の上のセラフィナのほうへ一歩踏み出した。
「わたくしは、まだ刻みませんわ」
セラフィナは硝子の杖を抱えたまま、顎を上げた。
「でも、行きませんわ。わたくしが、そう決めましたの」
イリスが無言で、セラフィナの前に移って盾を立てた。ノノも、震える足でその横に並んだ。
俺は懐から、三枚の引き取り証を出して見せた。
「番所の証文は、ここにある。欲しければ、法の場に出してくれ。俺は逃げない」
副団長はしばらく俺たちを見比べ、それから、眼鏡を指で押し上げた。
「……数字は、整えておきます」
荷車は、命令札の束を積んだまま帰っていった。
門が見えなくなるまで、誰も動かなかった。
最初に座り込んだのはノノだった。膝から力が抜けて、ぬかるみにぺたんと尻をついた。
「……イリスさん」
「はい」
「ありがとうっす。ノノ、動けなかったっす。足、直してもらったのに、動けなかったっす」
「動けなくて当然です。あなたは斥候です。前に出るのは、盾の仕事です」
イリスは盾を下ろし、ノノの前に片膝をついて、泥のついた外套の裾を払ってやった。
丘の上から、セラフィナが降りてきた。硝子の杖を胸に抱えたまま、イリスの前で止まる。
「盾の三番。……いえ、イリス、でしたわね」
「はい」
「わたくしの前に立つよう、頼んだ覚えはありませんけれど」
「頼まれておりません」
「……そう。では、お礼は申し上げませんわ」
セラフィナはつんと顔を背け、それから、背けたまま小さく付け足した。
「今日のところは、ですけれど」
昼過ぎ、二人の若い男が廃棄場に来た。鎧を着ていなかった。一人は、今朝ぬかるみに尻もちをついた従騎士だった。
「グレンさん。俺たち、さっき離職届を出してきました」
「なんでだ」
「今朝のあれを見て、続けられませんでした。命令札が灯らなかった時の副団長の顔も。『数字を整える』って、ああいうことだったんだなって」
もう一人が、頭を掻いた。
「俺はもともと、新型の膝の交換ばかりやらされてて。洗えば済むって分かってるのに、洗うなって言われるんです。交換部品の数が減るからって」
二人は、城下の荷運びの口を探すと言って帰っていった。今朝の一件で、騎士団から二人減った。
夜、ランプの下でイリスの右肘に油を差した。
「主殿」
「なんだ」
「主殿、と呼ぶのに、まだ慣れません」
「俺もだ」
「では、慣れるまで呼びます」
冗談を言わない人形だった。だから今のも、たぶん冗談ではない。
油を拭って顔を上げた時、ノノの耳が二つとも西を向いた。
西の丘陵の稜線が、橙色に一度だけ光った。
少し遅れて、腹の底に響くものが地面を渡ってきた。雷ではない。雲がない。
イリスが盾を握り直した。
「大砲です。鋼鈴の、古い型の」
「騎士団は、西の丘から撤退したはずだ」
「はい。ですから」
イリスは、稜線から目を離さずに言った。
「あそこで撃っているのは、置いていかれた子です」
(第5話へ続く)




